(1) 馬祖(註1)、因(ちなみ)に大梅(註2)問う、「如何なるか是れ仏」
祖云く、「即心是仏」
訳:馬祖和尚はある時、大梅から「仏とはどのようなものですか」と質問された。
馬祖は、「心こそが仏そのものだ」と答えた。
同33則「非心非仏」
馬祖、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」
祖曰く、「非心非仏」
訳:馬祖和尚は、ある僧から「仏とはどのようなものですか」と質問された。
馬祖は、「心は仏ではない」と答えた。
筆者のコメント:「仏とはどのようなものですか」とは、「仏法の要諦とは何ですか」の重要な意味です。「心こそが仏そのものだ」とは、「お前の本性は仏なのだ」と言っているのです。まさに禅の要諦ですね。それを聞いて大梅は「ハッと」わかったのです。やはり大梅もただ者ではなかったのです。
ところが馬祖は後に「心は仏ではない」と言いました。そのため多くの仏教解説者が困惑しています。しかし、理由がわかれば簡単なことです。馬祖が「即心是仏」と言ったら弟子たちはそれを頭で考え、心から理解することなしに、そればかりを言っていたのです。そのため馬祖が「心は仏ではない」と逆のことを言って注意を促したのです。禅ではこのように、概念の固定化をとても嫌います。
その後大梅は、深い山の庵入って出ることなく修行を重ねていました。ある僧がなんとか訪ね入ってきて、「このごろ馬祖禅師は非心非仏といっています」と告げました。その時、大梅は「いま、馬祖禅師が何と言っていようと、私は即心即仏である」と答えた。大梅は馬祖の真意をよく理解していたのですね。そのため、そのことをその僧が馬祖に告げたところ「梅子(ばいす)熟せり(大梅の禅境は進んだな)」と称えました(註3)。
禅は頭でわかるのではなく、全身でわかることが大切なのです。とても大切なことです。禅を少しでも学んだ人なら「即心是仏」という言葉を知らない人はないでしょう。しかし、その多くは「わかったつもり」なのです。筆者も同様です。それについて次回お話します。
註1 馬祖道一(709-788)唐代の優れた禅師で、南岳懐譲の法嗣、百丈懐海など多数の優れた弟子を育てた。
註2 大梅法常(752-839)。
註3 大梅ですから、「梅の実が熟したな」と言ったのです。
わかるということ(その2)
仏教思想として、筆者が何年もかかって「わかった」ものには、「即心是仏」や、「一切放下」があります。それについては、いずれお話します。今回は日本人の心について体感できたことをお話します。
小林秀雄は筆者が尊敬する思想家です。小林によりますと、日本人の心を最もよく表しているのは「もののあはれ」の心だと言います。あの紫式部が「源氏物語」で表した心ですね(「小林秀雄講演5」新潮CD)。
最近、岩手県の中尊寺を50年ぶりに再訪しました。参道を下っている時、ふと目をやりますと、木々の間から眼下に暮れなずむ平泉の町が見えました。いくつかの家々と、広い田畑、そこからは収穫後の稲束かなにかを焼く煙でしょうか、風もなく一筋の白い煙が高く高く昇っていました。その風景を見て深く感動し、とつぜん西行の「こころなき、身にもあはれは知られけり、鴫(しぎ)たつ沢(註1)の秋の夕暮れ」の歌を思い出しました。この歌はずっと以前から知っていましたが、たんに知識として知っていただけだったのです。そして数十年たって、初めて「もののあはれ」を共感できたのです。金色堂のすばらしさ、前九年の役、後三年の役で死んだたくさんの人々を弔うためにこれを作った藤原清衡の思い、長年にわたってそれを維持してきて人々の心情に思いを馳せてきたばかりであったことも、「もののあはれ」を体感できたことの助けになったのかもしれません。
もちろんそのためには、多くの仏教の言葉や公案の題目などをできるだけ整理して頭の中に入れておかなければなりません。その蓄積が何時か、何かの場面で出てくるかもしれないからです。「アッ」と思ったとき身に付くのだと思います。
註1神奈川県中郡大磯町西部にあった場所。寛文4(1664)年、小田原の崇雪が、西行にちなんで草庵を結んだのが始まり(大磯町HPより)。