前回お話したように、ほとんどの人が、空(くう)を解釈するために、縁起の法則と無常の法則を使っています。しかしそれは誤りだと思います。
なぜ空(くう)思想は誤解されてきたか
縁起の法則とは、もともと釈尊が、「すべての苦しみには原因があり、それを突き止め、取り除かなければ苦しみは消えない」という意味でおっしゃったのだと思います。実際に苦しんでいる人たちを救うための知恵ですね。釈尊は大衆に高邁な哲学を説いたのではなく、苦しみから逃れ、心の安寧に至るための生活の知恵を説かれたのだと思います。じつは、筆者の体験を通してもわかりますが、どんな苦しみでも、さまざまな要素が絡み合って、原因がよくわからないことが多いものなのです。それを釈尊は「落ち着いて、苦しみの真の原因を突き止めることが大切だ」とおっしゃったのでしょう。
それを後年、おそらくインドの仏教思想家たちがあれこれ考え、拡大解釈し、変質させていったのだと思われます。つまり、「すべての苦しみには原因がある」→「すべての現象(モノゴト)は原因があって生じる」→「あらゆるモノは、いろいろな他のモノと関係しあっている(華厳経の重々無尽の考えですね)」。それゆえ「(他のモノとの関係のない)モノはない」・・・そして結果的に「空(くう)」を「モノという実体はない」と解釈するようになった・・・。仏教思想はこんな風に変質していったのでしょう。
もう一つが無常の法則です。もともと無常とは、「あらゆるものは変化する。一瞬たりとも同じ状態にはない」という、いわば当たり前のことを言っているのです。実際に釈尊がおっしゃったのかどうかわかりませんが、現在では仏教の中心思想の一つとされています。それが人生のはかなさ(無常-本来別の意味です)と結び付いて広まったのでしょう。それを後世の仏教思想家たちが、「だからモノには固定的な実体はない」、それが大飛躍して「モノはない」になったのでしょう。しかし、この考えが誤りであることは、モノというものはいくら変化しても「ある」ことは間違いないのです。筆者がよく言う「『モノはない』という坊さんの頭をコツンとたたいてやればいい。『痛いじゃないか。何するんだ』と言うでしょう。そしたら「あなたというモノもないのでしょう?」と言ってやれ」というのはこのことです。たしかにあらゆるモノは変化し続けています。しかしモノという実体は厳然として存在するのです。
いかがでしょうか。「空(くう)思想」についての誤解は、こうして生まれたのだと思います。仏教を理解する上で大切なことは、それらの思想の歴史的変遷を読み解くことだと筆者は考えます。