玄侑宗久さん 般若心経(1-3)

1)「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)より、

 まず、前回お話したように、般若心経のハイライトは色即是空・空即是色だと思いますから、この語句の解釈について玄侑さんの論説に関する筆者の感想を述べます。結論から言いますと、玄侑さんも、新井満さんや、村上一照さん、ひろさちやさんとまったく同様に、「空(くう)」を縁起と無常の原理(?)で解釈しています。つまり、これまでの仏教解説者とまったく同じなのです。

 まず、玄侑さんはのっけから・・・仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体性(自性)をもたず、無限の関係性の中で絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、ということだ・・・と言っています(p39)。玄侑さんはこの基本的考えに基づいて「空」を、つまり「色即是空 空即是色」を解釈しようとしているのです。つまり、・・・「色」というのは、(人間でいえば)六境(色、声、味、触、法などの外界:筆者)と六根(眼、鼻、耳、舌、身、意などの感覚器:筆者)が出逢い、感覚器と脳とで把握した現象のことです。人間に見えている物(ここで玄侑さんは花瓶を例としています)の姿だけが物体の実相なんて言えない。たとえば犬やハチや鳩は感覚器がまったく違うわけですから、花瓶はまったく別の姿を見せるはず。人間に見える「色」(花瓶)も犬やハチや鳩やモンシロチョウに感じられる「色」(花瓶)もいずれも「空」という実相に依存しています。すなわち「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ、それぞれの感覚と関係し合い、それぞれ別な「色」を作るのです(p45-50)・・・とも言っています。

 すなわち、筆者が言う「空」と全く違う解釈なのです。読者の皆さんの中には、「どちらが正しいのかわからない」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、玄侑さんや新井満さん、藤田一照さんたちの考えでは肝心なことが解釈できないのです。論点は三つあります。

 第一に、モノは間違いなく実在します。それは、筆者がよく言う「花瓶で玄侑さんや藤田さんの頭をコツンとたたいてみれば実感できるはず」。物事が「縁起」の産物やであろうとなかろうと、「無常」であろうとなかろうと、それらの理論では説明できない現実なのです。

第二は、空不異色の解釈です。それはけっして色不異空の単なる対語ではありません。重要な意味があるのです。藤田さんは「まあ、あまり細かいことは言わずに・・・」と逃げました。玄侑さんは、空不異色とは、

 ・・・(あらゆる現象には自性がないために、すべては感受する感覚器やその場の時空間に限定され、つねに特定の「色」として現れるしかない)だから「色」を実体視することは問題ですが、同時に虚無的に見ることもない・・・とか、・・・「色」は常に実相そのものではありませんが、とにかく実相はいつも「縁起」して特定の「色」として顕現する・・・とか・・・(それでも、本質が「空」であるからこそ、物事は変化して関係を持ちうる)だからこそ「縁起」の中で「色」として発現できる・・・とか、「空」であるが故に「縁起」し、あらゆることが現象してくるということです(p153)・・・それが空即是色です・・・と言っています。

 筆者のコメント:ここで玄侑さんの論調は急にトーンダウンしてしまいましたね。自信が無くなったのでしょう。・・・ 本質が「空」であるからこそ、物事は変化して関係を持ちうる)だからこそ「縁起」の中で「色」として発現できる・・・とはどういう意味でしょうか。

第三は、「即」です。「色是空」のですね。「色不異空」とは重みが違うのです。「即」は「すなわち」ではなく、即座の「即」です。そこには禅独特の重要な意味があるのです。玄侑さんも藤田さんもそこを理解していないので、ことさら取り上げなかったのでしょう。

2)前記のように玄侑さんは、・・・人間に見える「色」(ここでは花瓶)も、感覚器が異なる犬やハチや鳩やモンシロチョウに感じられる「色」(花瓶)も、いずれも「空」という実相に依存している(太字は筆者)。すなわち「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ、それぞれ(動物)の感覚と関係し合い、それぞれ別な「色」を作る・・・本質が「空」であるからこそ物事(モノゴト)は変化し関係を持ちうる。だからこそ「縁起」のなかで「色」として発現できる・・・と言っています。

筆者のコメント:つまり、玄侑さんの言う「実相」とか「本質」とは、属性(性質)のことでしょう。ではそういう属性を持った本体があるはずですね。たとえ人間や犬やハチや鳩やモンシロチョウが「色」として感じているモノ(花瓶)がそれぞれの動物の感覚器の違いにより、特有の「色」として感じられたとしても、当然、それらには共通する元の本体があるはず。花瓶は茶碗や水差しとは違いますから。つまり、「色」のさらに本体があるはずです。ではそれらも縁起の法則に従っているのでしょうか?・・・これでおわかりですね。どこまで行っても止まらないのです。つまり、玄侑さんの論説には原理的矛盾があるのです。筆者の「空」の解釈によればそういう矛盾は一切生じません。

筆者のコメント(続き): 玄侑さんの「色即是空・空即是色」についての解釈がよく出ている言葉があります。すなわち、・・・般若心経は「色即是空」で充分だ。我々の眼に見える現象というのは空だと思えばいい。わざわざ「空即是色」とつけたということは、(空が)わかっただけでは救われないという主張がはっきりあるからだ(註3)・・・と続きます(「般若心経で救われるか」里文出版p187)。とんでもないことです。上記のように、玄侑さんは・・・「空」とは現象、つまり「色」の属性と考え、その属性の内容は「縁起」と「無常」だ(それゆえ「モノゴトの実体はない)・・・と言っています。しかしそれでは、わざわざ「色即是空」と「空」と「色」とを対比する必要もないではありませんか。たとえ縁起の産物であり、無常であろうとも、「色」は間違いなく実体です。そもそも玄侑さんが・・・「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ(太線筆者)、それぞれ(動物)の感覚と関係し合い、それぞれ別な「色」を作る・・・と言っているのは間違いだと思います。正しくは「色」の属性が「空」だでしょう。「空」も実体、「色」も実体なのです。ただ、真の実体こそ「空」である。それが色即是空・空即是色の真の意味だと筆者は考えます。

註3 玄侑さんの言う「(空が)わかっただけでは救われない」とは、「(般若波羅蜜という)修行の実践だ」です。

超因果

 しかも玄侑さんはその一方で、「超因果(因果の法則に従わない)現象もある」と言っています。例として挙げているのは、・・・生物の発生のある時期に、特定の器官の発生を促す物質を分泌する器官(形成体)があることが確かめられた。アヒルにはアヒルの足を誘導する形成体があるため、たとえばそれをある時期に妙な場所に移植してやると、妙な場所から足が生えてくる・・・今度はニワトリにアヒルの形成体を埋め込んでみると、確かに足は生えたのですが、それはニワトリの足だった・・・少なくとも因果律的には、アヒルの足が生えてくる「原因」はまだ網羅されていない・・・「いのち」は常に超因果を含んだ現象だ(「現代語訳 般若心経」ちくま新書p119)・・・と言っています。それはないでしょう!玄侑さんは当書で一貫して「空=縁起(因果)」であるとした確固とした信念のもとに解説しているではないですか(註4)なのに超因果現象があるとは!

註4 じつは玄侑さんは発生学や遺伝学の基礎的知識がないままに、誤って借用してこの論理を展開しているのです。アヒルの形成体とニワトリの形成体は働きが共通していただけで、遺伝子は異なるのです。「瓜の蔓には茄子は成らぬ」のは当然なのです。

3)玄侑さんが「現代語訳 般若心経」で、なぜあんなに「空(くう)=縁起・無常」と繰り返し言っているのか、少し不思議な気がしましたが、「般若心経で救われるか」玄侑宗久、太田保世、荒 了寛(里文出版)を読んで「アッ」と疑問が氷解しました。玄侑さんはその中で・・・「空」についてはむしろ龍樹を読んだ方が読んだ方がよくわかるし、より緻密に論述されている(p109)・・・「般若心経」では「空」を説くことは主題ではありません。「空」というのは論理的な把握はできないし、言葉で表現することもできない。実践が肝要である(註3)・・・と言っているからす。

 龍樹の「空」理論と禅の「空」理論は違うのです。それについては以前、このブログシリーズでお話しました。たしかに龍樹は「空」思想を大成した人だと言われています。ということは、それまで「空」の解釈については、さまざまな解釈があったということですね。しかし、龍樹は、たんに一つの有力な考えを提唱したに過ぎないと思います。そのカギとしたのが「縁起」の法則だったのです。しかも、筆者がこのブログシリーズで何度もお話したように、「縁起」の解釈は、釈尊の元々の考えを拡大したものだと思います。

 さらに、龍樹は紀元3世紀頃の人(AD150-250頃)、鳩摩羅什が「般若心経」を漢訳したのはAD400年頃、つまり、龍樹の時代から200年も後のことで、漢語「色即是空・空即是色」が案出せられたのです。つまり、龍樹の解釈と違っても少しもおかしくありません。そして達磨大師が中国に来て禅思想を伝えたのが6世紀初頭、禅思想が発展し、隆盛を極めたのが7世紀から10世紀の唐の時代です(禅の大成者六祖慧能:えのうは、638 – 713)。つまり、龍樹の500年も後の人です。唐時代に優れた禅師たちが輩出し、禅の理論と実践が積み重ねられ、「空」思想の解釈が確立して行ったのだと筆者は考えています。

 いかがでしょうか、こういう歴史的な視点を持つことが仏教の解釈には不可欠のことだと、筆者が言うのはこのことです。玄侑さんや、藤田一照さん、松原泰道さんを初め、近・現代の禅師たちはこういう視点を持たずに解釈しているのではないかと思います。要するに玄侑さんたちは「空」の思想をよく理解できないのでしょう。

筆者のコメント:玄侑さんが・・・「空」についてはむしろ龍樹を読んだ方がよくわかる・・・と言っているのは、結局、自信が無いからでしょう。 しかし、なにか釈然としないので、

・・・「空」は主題ではない。「空」というのは論理的な把握はできないし、言葉で表現することもできない。実践(般若波羅蜜)が肝要である(註3)・・・とわざわざ理屈付けをしています。しかし、仏教では教えと実践は共に不可欠です。これを教行一如と言います。「空」の意味もわからず実践だけしていてどうするのでしょう。

 筆者は龍樹の解釈とはまったく異なる「空」の解釈を皆さんにお話しているのです。玄侑宗久さんは臨済宗、藤田一照さんは曹洞宗の僧侶です。おそらく宗派と言う閉鎖的社会にあるため、師から弟子へ、弟子から孫弟子へ・・・と、「空」=縁起の考えが伝わったのでしょう。これが出家してある宗派の僧侶になることの、大きな弊害だと思うのです。

註3 玄侑さんの言う「実践」とは、無意識のうちに経典を読誦すること(五蘊ごうんの「色受想行識」のうち、色(声)を「受」(耳という感覚器官で感じた)までで止め、「想(「アッお経を読んでいる声だ」の判断まで行かない状態)と、「ガーテイガーテイ・・・」の真言を翻訳せずに音読することとしています。なお、玄侑さんはこの真言部分を現代語訳したことについて中村 元先生を批判していますが、そんなことはわかりきったことです。

補注:筆者のこれらのブログを引用する場合は必ず出所を明示してください。

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