(1)「豁然として心境が開け・・・」。「世の中ががらりと変わった」・・・さまざまに語られる悟りの体験は、仏教を学ぶ者にとって大きな魅力ですね。これまでの事例を集めた大竹晋さん「『悟り体験』を読む」(新潮社)によると、悟り体験には次の5段階から構成されていると言います。すなわち、
1)自他亡失体験:自己と他者との隔てを亡失して、ただ心のみとなる体験(ただし、臨済宗ではそれは「悟り」とは認めていない。)
例(以下同じ)〇倉田百三:(裏山を歩いていて)私は宇宙と自己が一つになっているのを覚証した。
2)真如顕現体験:通常の心である「自我の殻」を破って、真如が顕現する体験。
〇朝比奈宗源:まるでわしの体が爆発して飛んでしまったように思え、がらりーとして。
〇白水敬山:豁然として心境が開けて、思わず「天真光明遍照 天真光明遍照」と絶叫して躍り上がって歓喜した。
3)自我解消体験:真如-法無我-が顕現したことによって、通常の心である「自我の殻が解消される体験。
〇今北洪川:ただ、自分の体内にあった一つの気が、全方向の世界に満ち溢れ、光り輝くこと無量であるのを、知覚するのみだった。
〇朝比奈宗源:見るもの聞くもの何もかもキラキラ輝いた感じ、そこの生も死もあったものではない。
4)基層転換体験:通常の心である「自我の殻」が解消されたことによって、存在の基層が従来の基層から転換する体験。
〇原青民:かって心外に実在していると思っていたものが、意外なことに、心の中にあったことを発見した(原文は古語。筆者訳)
〇菩提達磨(達磨大師ですね):悟ってからは心が景色を含んでいるが、迷っているうちは心が景色に包まれている。
5)叡智獲得体験:存在の基層が従来の基層から転換したことによって、かってない叡智を獲得する体験。
〇高峰原妙:あらゆる仏祖の、きわめて入り組んだ公案、古今の様々な因縁のうち、解決されないものはなかった。
〇井上秀:前にいだいたキリスト教の疑問も解け、儒教の浩然の気も、判然と理解されました。人生に対する疑問も、精神上の不安も、この刹那すっかり消え去りました。
筆者のコメント:いかがでしょうか。これらは大竹晋さんによる分類であって、ダブっている体験もあるようです。また、5つの段階があるのか、5つのケースがあるのかちょっとわかりません。第一、筆者の体験や知識では、これ以外の「悟りの体験」もあると思います。
筆者が日々禅を学び、座禅瞑想を欠かさないのはこのうち5)の叡智獲得体験を目指してきたためです。長年、生命科学者として生きてきた筆者にも「アッ」と予想もしなかった考えが浮かぶことがありました。以前にもお話しました、遺伝子の構造を見ていて突然「生命(いのち)は神が造られた!」という直感したのもその一つです。
(2) 一方、平田篤胤、安藤昌益などによる「悟り体験などない」という批判があります。大竹さんは「悟り体験を読む」(新潮選書)の中で次のような「悟り体験批判」した人たちのエピソードを紹介しています。
まず、近・現代の著名な師家である澤木興道師(1880-1965、曹洞宗 元駒沢大学教授)が「座禅の仕方と心得」(大法輪閣)で、
・・・悟ろうとも思わずに、ただ座るところに道は現れている、悟りは輝いているわけである。ただ座るところに悟りは裏付けになっているのである(原文は旧仮名遣い:筆者訳)・・・
つまり、「わざわざ悟りを求めなくても、座禅した瞬間にもはや悟りはある」と言っているのですね。
筆者のコメント:澤木興道師は元駒沢大学教授、生涯お寺を持つことも、妻帯することも、組織を作ることもなく、移動叢林と称して弟子と共に一所不住の禅人生を送った人です。当時大変人気のあった人です。弟子には、弟子丸泰仙師、内山興道師、松原泰道師などが。他に強く影響を受けた人に西島和夫師、村上光照師などがあります。
澤木師の言う「座禅した瞬間にもはや悟りはある」には抵抗があり、「この人は本当に悟りに達したのか」という疑問が残ります。澤木師の著作もいろいろ読みましたが、どうも心に響くところが無かったのです。以前のブログで、澤木師の考えに対する疑問を呈しました。ご参照ください。
元曹洞宗駒沢大学総長の岡田宣法(ぎほう)師(1882-1961)は、「日常の行に現れた禅」で、
・・・禅の目標は人間完成にある。悟りを強要するような禅は、見性流の禅であって、超人生活をあこがれる人々の迷妄である(下線筆者)・・・最近余が自坊に一雲水来って宿泊を求めた。余はこころよく一夜を過ごさせたが、泊中余に悟りの境界はどんなものですか、と問うたので一喝して「悟りなんかあるものではない」と即答した。更に語を次いで・・・大悟(した者が)却(って)迷(う)とは無上の真理である。悟ろうとするよりも、迷うまいとするよりも、人間らしい生活をすことが何よりも大切である・・・
筆者のコメント:岡田師のこの考えには筆者も同感です。筆者の恩師は国立大学学長も勤めた方で、文字通りの人格者でした。筆者は長年に亘って薫陶を受けました。それが筆者の人生の幸いです。しかし、先生は宗教に関することを口にされたことはありません。最愛の娘さんを早くに亡くされましたが、「これも人生だ」とおしゃっていたのが強く心に残っています。これが先生の悟りでしょう。やはり、人格の陶冶を第一にしなければ、禅の修行は本末転倒になるでしょう。
この2例のように「悟り体験などない」という考えは曹洞宗系の人から出ました。この主張については曹洞宗内部からも批判があり、澤木師や岡田師が第一線から退くと、自然に下火になっていきました。