禅とは:能とバレー(1,2)

対照的な表現の仕方

 (1)バレー:筆者はバレーを鑑賞するのが大好きです。白鳥の湖、ジゼル、くるみ割り人形、眠れる森の美女・・・。オペラ座バレーのマリ・C・ピエトガラやボリショイバレー団のニーナ・アナシアシヴリの演技の完成度の高さには感嘆します。イギリスのロイヤルバレー団の演技も見ましたし、先年、パリオペラ座バレー団の名古屋公演も見ました。

 「オペラ座バレー団の階級の厳しさは世界一だ」と芸術監督が言う通り、カドリーユ、コリフェ、スジエ、プレミエールダンスール(ズ)から最高のエトワールまで、厳しい審査を経て上がっていくのです。オペラ座バレー団には付属の学校もあり、毎年各国から30人ほど、それも厳しい選抜を経て入学するのですが、途中で振り落とされて卒業するのは20人足らず、しかもそのうちオペラ座バレー団に入るのを許されるのはわずが2-3人とか・・・。

 今、ロシアやイギリスが厳しい経済状態にあることは、たぶん多くの人たちの想像を超えていると思います。にも拘わらず、イギリスやロシアでは経済状態に不釣り合いなほどの国費を使ってそれらのバレー団や交響楽団を維持しているのです。それを国民は当然のこととして納得しているのです。

 もちろんわが国にも新国立劇場バレー団はあります(年5回ほど公演)が、多くは、やりたい子が私立のバレー団に入り、そのうち上手な子たちが年に数回の公演をしているに過ぎないのが現状です。それも公演ごとにたくさんのチケットを親が買わねばなりません。

 最近、NHKテレビでロシアサンクトぺテルスブルグのワガノワバレー学校の授業風景を見ました。その厳しさは「聞きしに勝る」でした。世界中から生徒が集まってきており、もちろん入学時の厳しい審査もありますし、追いて行けなければ退校です。校長(ボリショイバレー団で18年間もプリンシパルを務めた人)が、バレーは1)技術だけはなく、2)体型と3)容姿が重要な基準になっていることを公言しています。当然でしょう(日本やイギリスでは2)と3)の基準が低いようです・・・)。

 ワガノワバレー学校生徒の一人、18歳のアロン君は監督が最初から「王子はやれない」と評価しています。背が低いからです。175センチあるのですが。ほかの生徒は全員180センチ以上、中には189センチの子も。そして女子には厳しい体重制限があり、現にそれに引っかかり退校させられた子もいました。筆者の眼ではとても太っているようには見えませんでしたが・・・。わが国の私立バレー団なら美しさのための過酷な訓練すら、世論が「パワハラ」と言って問題にし、経営が成り立たないでしょう。

 ことほどさようにヨーロッパのバレーの公演や、練習風景を見ていますと、バレー芸術は美の極致を目指しているのがよくわかります。筆者は、なにか心に憂さがあるとき、バレーのDVDを取り出して鑑賞します。すばらしいものに触れて心が晴れるからです。

 アガノワバレー学校のアロン君に先生は、「日本の踊りのようなものをやっていてはダメだ」と言っていました。ここに西欧のバレーとわが国の舞台芸術との根本的な思想の差があります。じつはアロン君は本名は有論と言い、カナダ生まれのロンドン育ちです。つまり日本人的なセンスはほとんどないと思われますが、日本人である母親から、なんらかの日本的なものを受け継いでいるのでしょうか。ちなみにアロン君はその後無事に国家試験に通り、ボリショイバレー団への入団を許されました。団長は「彼の役割もあるから」と言っていました。

(2):これに対し日本の能芸術はきわめて対照的です。演技や言葉をできるだけ省略し、深い精神性を追求するのです。能が室町時代のの隆盛に大きな影響を受けて、観阿弥や世阿弥によって大成されたと言われていますが、それがよくわかります。「隅田川」という演目は、わが子を人買いにさらわれてしまった都の母が、半狂乱になって東国へ子捜しの旅をし、墨田川まで来たところで、「一年前にここまで来て亡くなった子供の供養の日」に来合せるという悲しい物語です。出演者は、その母親と渡し守と乗り合わせた旅人、それに梅若丸の霊の4人だけ。みんなで「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱えている時、母親が「ちょっと待ってください。わが子の称名念仏の声がきこえます」と。すると塚の中から梅若丸の霊が出てきました。母が抱こうとするとすり抜けてしまいまい。やがて夜が白々と明けて行く・・・。という筋です。

 筆者は始めてこのシーンを見たとき、涙が止まりませんでした。舞台装置は供養の塚のみ、演者の言葉も動作もほとんどありませんし、古語ですからよく聞き取れません。余分なものをすべて剥ぎ取って主人公の心の表現だけにしたのでしょう。それなりの様式美はありますが、面(おもて)の後ろからは太った老人の顔さえ覗いているのです。それでも深い感動が伝わってきました。

 現代のわが国の演劇やオペラやバレーは、西洋の影響を受けてやたらに「斬新」で華やかなようです。感動はしますが心で味わう暇がありません。これに対し、日本古来の能は、最少の言葉と演技で観衆の心に強く訴えるのです。これこそまさに禅の心でしょう。あの良寛さん(筆者は道元以来の禅師だと思っています)が、「一間きりの草庵に住み、3升の米と一束の薪さえあればいい。静かな雨の音を聞きながら、囲炉裏のそばで長々と足を延ばしている。この生活で十分満足している」と言っているのとよく符合しますね。またあの松尾芭蕉が禅の師匠仏頂から今の禅境を聞かれた時「かわず飛び込む水の音」と答えたのとも一致します。

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