禅の空は龍樹の空と異なる(3)アイドルトーク2さん

 アイドルトーク2さん(どうか今後はご本名にしてください)から、以下のようなコメントをいただきました。前々から筆者のブログを読んでいただき、誠実なコメントも頂いていている方と思っておりましたので、ここでお答えさせていただきます。アイドルトーク2さんのコメントは、

・・・玄侑宗久師のコメントに従い中村元著『龍樹』(講談社学術文庫)を読みました・・・塾長も先入観を捨て、熟読下さる事を切にお願い致します・・・

 これは、筆者が「玄侑宗久さんや藤田一輝さんは、松原泰道さんなど、多くの現代日本の仏教家と同じように「空(くう)」を龍樹の『縁起』に従って解釈しているからダメだ」と言ったのに対する反論(?)です。

 筆者は「龍樹の空と禅の空は異なる」と、繰り返しお話してきたにもかかわらず、アイドルトーク2さんは、「中村元博士の『龍樹』には〇〇〇と書いてあります・・・」と言っていらっしゃるのです。もっときちんと筆者のブログシリーズを読んでいただきたいのです。

 現代日本の大部分の仏教家はを龍樹の「縁起」で説明し、「だからモノという実体はない。それゆえ実体の無いモノゴトにこだわるから苦しみが生じる」という思考パターンです。

 よろしいですか。「禅の空を縁起で解釈してはいけない。龍樹の空とは異なる」というのが筆者の主張なのです。もちろん中村博士の「龍樹」を読んだ上でそう考えるのです。

  龍樹の「空理論」は、前期仏教の一宗派・説一切有部の「法(あらゆるものを成り立たせている原理)はそれ自体で成りたつ」との主張に対する反論として提出されたのです。龍樹は「縁起の法」に従って論駁しました。それを多くの当時の仏教学者が「よし」とし、後の大乗仏教の礎となったのです。しかし、当時も今も、縁起についての解釈すらさまざまなのです。おそらく釈迦は「あらゆる苦しみには原因がある」と言う意味で縁起(因縁果)を使ったのでしょう。それを龍樹が驚くべき拡大解釈したのです。彼の説はけっして絶対ではないのです。一歩下がっても、単なる一つの解釈に過ぎません。

 第一、龍樹の「空理論」自体にも自己矛盾があるのです。なぜなら、当然その理論も、別の思想と相互依存しているはずです。つまり、龍樹の空理論も恒久不変なものではないことになります。

 筆者は長年、さまざまな角度から禅を学んできました。道元の「正法眼蔵」「永平広録」「臨済録」「無門関」なども読みました。もちろん中村元博士の「龍樹」も。そしてある時、「禅の空は龍樹の空とはちがう」という、当たり前のことに気づいたのです。それは「龍樹の空は禅の空とは異なる(1),(2)」に書いてあります。どうか読みください。

「禅の空は龍樹の空と異なる(3)アイドルトーク2さん」への8件のフィードバック

  1.  初期仏教の空観と『般若心経』の「五蘊皆空」との架け橋と見做される経典としては、下記の『雑阿含経』の第一経があります。

     是の如く我聞けり。一時、佛は舎衛國祇樹給孤獨園に住したまう。爾の時、世尊は諸比丘に告ぐ、「當に色の無常なることを觀ずべし。是の如き觀は則ち正觀と爲す。正觀は則ち厭離を生ず。厭離は貪の盡きることを喜ぶ。貪の盡きることを喜ぶ者は心の解脱を悦しむ。是の如く受想行識の無常を觀ず。是の如き觀は則ち正觀と爲す。正觀は則ち厭離を生ず。厭離は貪の盡きることを喜ぶ。貪の盡きることを喜ぶ者は心の解脱を悦しむ。是の如く比丘よ、心解脱する者は、若し自ら證せんと欲すれば、則ち能く自ら證す。我が生は已に盡き、梵行は已に立ち、所作は已に作し、自ら後有を受けざることを知る。無常を觀ずる如く、苦・空・非我も亦復是の如し」と。時に諸比丘は佛の所説を聞き、歡喜し奉行す。

     般若経典が編纂される以前の「五蘊皆空」は、「諸行無常」「諸法無我」「一切行苦」と並列されていたと推測されます。
     私が説く「空」は、この『雑阿含経』の第一経に説く「空」と同じだと言えるでしょう。ただし、「五蘊」が念々に生滅している各自の「認知内容」であるならばですが。
     従って、塾長が説く「禅の空観」とは異なるという批判は受けねばならないと思っています。

    1. 岩村様
       よく勉強していらっしゃいますので感銘を受けております。もちろんこの投稿文も別に保存し、後ほど私の感想を公開させていただきます。

  2. 「見る」と「観る」とは異なる、という定言は、的を射ていると思います。しかし、塾長が説く「神」や「霊」は、「空」ではなく「実在」のようなので戸惑っています。蘊処界(陰入界)は念々に生滅していて常住不変な物事では無い故です。
     実在する筈の自然や実在する筈の生物が神秘的であることは認めますが、その神秘さを「神」や「霊」で代弁するのは性急過ぎると思います。
     『大智度論』に説かれる「三種世間説」で整理すると、「空」は蘊処界(陰入界)の本性であり、塾長が説く「神」や「霊」は國土世間や衆生世間の本性だと言い得ると思います。

    1. 岩村様
       私がお話している「神」や「霊」は、これまで仏教だけでなく、キリスト教や神道、スピリチュアリズムなどを幅広く学び、「修行」してきた結果得られた実体験に基づく認識です。
      私の「独自の視点」とお受け取りいただけると嬉しいのですが。この視点なくしては宗教というものはもちろん、仏教そのものも理解できないと考えております。
      これらの体験はこれまではごく控えめにお話してきましたが、これからも少しづつ触れていきます。今回の岩村様のコメントはとくに重要だと思いますので、あえて現時点で取り上げさせていただきました。

  3. 「実体験に基づく認識」なら、念々に生滅している「認知内容」ですから「空」に帰すべきです。釈尊が「無記」として棚上げにした論議を持ち出すことには賛同できません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です