瞑想の意義(1)

  (話の途中ですが)

これまでもっぱら禅の教えについて学び、お話してきました。禅に限らず仏教では「教行一如」と言い、学びと修行はいずれも不可欠です。学びなくして悟りはありません。「わかったことが正しいかどうか」は奇跡が起こることで確認できます。そこで今回は、もう一度瞑想についてお話します。

 もちろん筆者は瞑想を毎日実践しています。瞑想の意義の一つは、心を鎮めることにあります。現代の私たちには、「良い高校や大学に入り、一流の会社に就職し、豊かな(?)人生を歩まなければならない」という暗黙の至上命令に従って生きています。そのため、時には幼稚園や小学校から塾に通う人もあり、就職してからも神経をすり減らす毎日です。つまり、私たちは常に何かを考えています。その「何か」も私たちがこの世で生きる本来の意味である、魂の成長とはおよそ関係のない、俗事ですね。それによってどれだけ心が曇り、魂との疎通が滞ってしまうかわかりません。そのため瞑想によって心を鎮めるのです。

 瞑想の最も重要な意義は、正しい瞑想を積み重ねることによって「本当の我(魂)」に出会い、それを通して神(仏)と一体化することです。神と一つになって正しいメッセージを受け、神の御心に従って生きるのです。筆者はもっぱら禅について学んでいますが、じつは釈迦以前のインドのヴェーダ信仰や神智学に共感するところが大きいのです。自己(アートマン)と神(ブラフマン)との一体化を目指すのが、ヴェーダ信仰の目的です。人間の言葉や行為によってカルマが生じ、それが私たちの魂の記憶になって刻み付けられると言います。輪廻転生(生まれ変わり)のさまざまな状況でカルマが表に現れ、多くの場合「好ましからざること」となって具現化すると言われています。

 これに対し釈迦仏教では、真っ向から自己(アートマン)という固定的なものを否定し、輪廻転生については「無記(語らない)」としました。それは当然のことで、もともと釈迦仏教はヴェーダ信仰のアンチテーゼ(それを否定する理論)として生まれたからです。

一方、神智学とは、広い意味では、カルマの存在や、神との一体化を目指す、ヴェーダ信仰と共通するところが多い考えです。ヨガにも通じるところが大です。もちろんヨガでも瞑想は重要な修行です。

 筆者は、神道系教団にも属して修行をしましたし、神智学についても学びました。カントの観念論哲学や西田哲学も学びました。そして今日に至るのですが、もう何が現在の考えに結び付いたのかはわかりません。いずれにしましても、釈迦仏教とはかなり異質なものです。

 ここでとくにお話したいのは瞑想のやりかたについてです。「ひとお―つ、ふたあ―つ・・・」と声に出して数える方法、自分の心を見つめる方法など、さまざまなやりかたがありますが、そのほとんどに筆者は馴染めませんでした。筆者が「これなら」と思う方法にたどり着くまでに10年かかりました。どうか皆さんもさまざまな試行をしてみて納得するものをつかんでください。なによりも続けることが大切です。

 最後にとても大切なことを付け加えます。瞑想は正しい指導者の指示に従ってください。「正しい」とは、「途中で何か起こっても対処できる人。それだけの霊的能力を持った人」」という意味です。有名寺院で5年や10年瞑想体験をしただけの人でもとてもダメだと思います。くれぐれもご注意ください。

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