華は愛惜に散り、草は棄嫌におふる(1-3)

読者huさんのコメントと筆者の感想(その1)

 読者のお一人(huさん)から次のようなコメントがありました。他の読者の皆さんにも重要な話題と思われますのでご紹介します。一緒にお考え下さい。筆者の感想はのちほどお話します。

 huさんのコメント:・・・道元禅師の現状公案で座右の銘としているのは「かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌におふるのみなり」です(註1)。湧き上がる想いに振り回されないありさまで、スッタニパータ874「想いを想うのでなく(vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādetha (註2)」はこれだと思います。そして「花は愛惜に・・」は愛別離苦に気づいて手放すということです。想うことを滅するのでなく気づいて手放すということです。

(両者を結びつけるのは少し飛躍があると思いますが」という筆者のコメントに対し)

huさんの返事・・・確かに874は涅槃の境地と考えられ飛躍ですが。行として考えるとベクトル方向(方向と強さを表す数学的述語:筆者)が同じです。正法眼蔵「祖師西来意」の「口樹枝、脚不蹈樹」の状態です。

註1「正法眼蔵・現成公案巻」のこの文章の前には、

 ・・・諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸佛あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり ・・・とあります。

註2スッタニパータ:スリランカに伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録されています。大乗経典類と異なり、ブッダの言葉を色濃く残しているとされています。日本語訳:「ブッダの言葉」 中村元訳(ワイド版岩波文庫)。 スッタニパータ874には、

修行僧の問い:どのように修行した者によって、形態(色しき:筆者)が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。-わたくしはこのように考えました。
ブッダの回答(註3):「ありのままに想う者(凡人、註4。カッコ内以下同じ)でもなく、誤って想う者(狂人)でもなく、想いなき者(滅尽定に入った人)でもなく、想いを消滅した者(四無色定を得ている者)でもない。-このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである」

註3スッタニパータ874は、ブッダが亡くなる直前の最後の言葉として知られています。日本語訳は「ブッダ最後の旅」 中村元訳(岩波文庫)にあります。HUさんが注目している874のパーリ語原文にある
vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethaは、中村博士の訳では、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい」となっていますが、HUさんは「今の瞬間に気づくことを怠らずに(サティを切らさずに)完成しなさい」というアルボムッレ・スマラサーラさんの解釈に依拠しています。以前にもご紹介したように、スマラサーラさんは「気づき」をブッダの重要な概念と考えていらっしゃいます。

註4「ブッダの言葉」中村元(上記)の注記によります。スッタニパータ874の文章も「現成公案」のこの文章も、難解ですね。後ほど筆者の解釈をお話しますが、ネットでも調べられます。

読者huさんのコメントと筆者の感想(その2)

huさんはよく勉強していらっしゃいます。要するにhuさんがおっしゃりたいのは、

・・・道元禅師が「正法眼蔵・現状公案編」で座右の銘としているのは「かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌に生(お)ふるのみなり」です。湧き上がる想いに振り回されないありさまで、スッタニパータ874「想いを想うのでなく・・・(vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādetha」はこれだと思います。そして「花は愛惜に・・」は愛別離苦に気づいて手放すということです。想うことを滅するのでなく気づいて手放すということです・・・

でしょう。

 huさんは、「ブッダの思想の要諦は、(悲しみや苦しみから逃れるために重要なことは)気づくことだ」と理解していらっしゃいます。人はいつまでも苦しかった時のモノゴトを思い出して苦しみを繰り返します。したがって苦しみから逃れるにはそのモノゴトを滅するのではなく、気付いて手放すことが重要だというのですね。

 スッタニパータ874の、

・・・ vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethaは、やはり中村元博士の「さあ、比丘たちよ、諸々の作られたもの(諸行)は衰え滅びる性質のものである。怠らずに励んで目的を果たせ」(「ブッダ最後の旅」岩波文庫)が正しく、huさんが依拠していらしゃているアルボムッレ・スマラサーラさんの解釈「今の瞬間に気づくことを怠らずに(サティを切らさずに)完成しなさい」は拡大解釈だと思います。たしかに「怠らずに励んで目的を果たせ」ではどう励んでいいのかわかりませんが、原文に忠実に訳せば中村博士の訳以外にはあり得ません。つまり、スッタニパータ873・874は「気づき」とは直接の関係はないのです。

読者huさんのコメントと筆者の感想(その3)

 前回お話した、huさんが引用した「正法眼蔵・現成公案」の一節・・・かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌に生(お)ふるのみなり・・・は、「愛別離苦に気づいて手放すということ、つまり想うことを滅するのでなく気づいて手放す」という解釈は誤りです、とお話しました。今回はそれについてお話します。

 まず「曹洞宗東海管区教化センタ-HP」から該当部分を引用させていただきますと、

 ・・・この巻は悟りとは何ぞやということについて説かれた巻であります・・・天地自然のありのままの姿こそ諸佛が説かれた仏法であると信じ、その説かれる修行法を行じ続けるとき、その眼前には迷悟、生死というようなこの世のありのままの姿が現成する。また、証(さと)りの世界は心に映っているからあるのではなく修行によって現れるのである。そこにはもはや諸佛と衆生、生と滅、修行と証りという対立がなく、それらを超越した世界が現成するのである。このとき豊かな違いに彩られた証の世界が、修行という倹なるものに脱落(とつらく)するのである。ここにいう豊とは証であり、倹とは修行である。もともと修行と証とは異なるものではないのである。このようなわけで証の華は惜しんでいつまでも眺めていてもそれは修行に脱落し、修行の草は世人が好むと好まざるとにかかわらず、そのものが証悟となるのであり、修証は一等なのである・・・

筆者のコメント:この解釈はまったくの見当違いです。これが日本曹洞宗の公式見解でしょう。次の筆者の解釈と比較してください。

 まず、「正法眼蔵」のこの文章の前には、「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり」・・・とありますからそこからお話します。「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに」とは、「悟りの境地、すなわち正しくモノゴトが見える境地では、豊かな人と貧しい人とか、能力の多寡、美醜というような対立はない」です。しかし、「ゆえに生滅あり、迷悟あり、生佛(大衆と悟りに至った人)あり」では日本語としておかしい。そういう境地に至った人にはそれらは「ない」のでは?そうでなければ、次の、・・・かくのごとくなりといえども花は愛惜に散り・・・に続かない」という疑問をお持ちの方が多いでしょう。そのとおりですが、まあお聞きください。

 じつはそれでいいのです。「現成公案」で道元は「色即是空・空即是色」を説明しているのです。

「かくのごとくなりといえども、花は愛惜に散り草は棄嫌に生(お)ふるのみなり(しかし、悟りに至った人でも花が散れば惜しいし、雑草が生えればいやだ)」とは、空即是色と言っているのです。

 これ以上の説明は止めます。

 禅は解説してはいけないというのが鉄則です。「直指人心」ですね。しかし、公案集だけでわかるのは、修行が進み「あと一歩」というところまで達しただけでしょう。道元は実に巧みに「公案集によらずに悟りに達する道」を示しているのです。

 以上、筆者の解釈が曹洞宗の公式見解とおよそ別であることはおわかりいただけたでしょう。ましてやhuさんの解釈では・・・

 禅は「わかったか、わからないか」の世界です。huさんは「気づく」という大切なことがわかりました。とても良いことです。頑張ってください。

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