仏教における「気づき」の大切さ

 読者のhuさんから仏教における「気づき」の大切さについてコメントがありました。たしかにその通りですが、「正法眼蔵・現成公案巻」や、「スッタニパータ874」との関連性についてのhuさんの理解には少し偏りがあるとお話しました。そこで今回は、改めて「仏」教における気づきの大切さ」についてお話します。

 「気づき」は、パーリ語でサテイ。英語でマインドフルネスと訳されているように世界的によく知られている概念です。これについてとくに重視していらっしゃるのは、前にもお話したように、日本テーラワーダ協会長老アルボムッレ・スマラサーナさんです。ためしにテーラワーダ協会HPによりますと、

・・・ 絶対に怒らないぞと決心しても、つい怒ってしまうという人は、無常を理解したほうがいいのです。無常を理解するための具体的な実践方法としては、今やっている行為に「気づく」ことです。手を上げているとき、今手を上げている、歩いているとき、今歩いている、立っているとき、今立っている、水を飲んでいるとき、今飲んでいる、と今の瞬間の行為に気づくことです。この気づきを瞬間瞬間つづけていくうちに、やがて無常を発見することができるのです。どういうことかといいますと、たとえば何か嫌なことがあって怒ったとしましょう。そのとき「今怒っている」と気づくと、怒りがスーッと消えるのです。嫉妬しているとき「今嫉妬している」と気づくと、嫉妬が消えるのです。妄想しているとき「今妄想している」と気づくと、妄想が消えるのです。これが無常ということなのです・・・

とあります。

 もともと「気づき」は「スッタニパータ」にあります。たとえば、

1034 アジタが言った「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか。 その流れを防ぎ守るものは何ですか。 その流れは何によって塞がれるのでしょうか。 それを説いてください。」
1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気を付けることである。〔気づき」をこのような意味だけでなく、瞑想中にさまざまな思いが出てくるときの対処法とを付けることが〕煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう」 とあります。

  さらにスマラサーナさんは瞑想をするときにも有効だと言っています。すなわち、瞑想をしているといろいろな思いが浮かぶものですが、なにかの思いが浮かぶたびに、それに気づいて「アッ○○だ」と気付けば消えるというのです。

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