現成公案-岩村宗康さんの解釈(2)

 岩村さんは「正法眼蔵」はもちろん、「永平和尚廣録」、「景徳傳燈録」などさまざまな禅の古典を読んでいらっしゃる人で、それから得た知見を総括して自説を展開していらっしゃいます。誠実で謙虚なお人柄も感じられ、好感が持てます。やはり臨済宗妙心寺派のしかるべき地位にあった方でしょう。

 しかし、筆者は岩村さんが参考にした同じ資料をもとにして、まったく別の解釈をしています。・・・お聞きください。

 つまり、「正法眼蔵」のキーワード現成公案の解釈が異なります(以前から岩村さんからご指摘を受けてきたことです)。岩村さんは「大漢和辞典」や「中日大辞典」を参考にして「現成公案とは、既成、つまり、仏法はすでに目の前に現れている」と結論されています。しかし、禅の言葉を国語辞典に基づいて解釈することから間違っていると思います。少なくとも禅語辞典を調べるべきでしょう。

 筆者は「現成公案とは、すべてのものはあるべきようにある(公案)。しかし、見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて)初めてモノゴトとして現れる」と解釈しています。つまり筆者の言う「空」ですね。この解釈が正しいことは、「正法眼蔵」のハイライトは、まさに「現成公案編」であることから明らかです。道元は現成公案編で最初から「空」を説いたのです。「空」こそ禅の要諦なのです。それに基づけば岩村さんが根拠とされている先師の言葉をすべて、まったく別の視点からすべて説明できます。

 たとえば、岩村さんは、道元の言葉(筆者の意訳)「私が如浄師から教えられたことは、ただ眼横鼻直なることだけだ。仏法というものなどない」の内容を「見成(現成)公案は、日常の行為に現成している」と解釈していますが、誤りだと思います。正しくは「(仏法は)日常の行為により現成する」です。すなわち、「見て(聞いて、嗅いで・・・、」つまり体験して)初めて現成する」のです。つまり、既成の事実なのではなく、「初めて現れる」なのです。わずかな語句の違いですが、意味はまったく異なります。これがわからなければ禅はわかりません。

 道元が「とくべつな仏法などというものはない。ただ眼横鼻直であることだけがわかった」と言っているのは、道元なればこそ言える言葉なのです。「眼は横並びで鼻は真っ直ぐ」とは「当たり前のこと」ですね。仏法とは「当たり前のこと」です。すべての教えも哲学も、よく考えてみれば「当たり前のこと」です。当然ですね。道元は「見て(聞いて、嗅いで・・・、つまり体験して)初めて現成する」それが「当たり前のこと」と言ったのです。

 この、岩村さんとはまったく異なる解釈に従えば、岩村さんが根拠にしている他の道元の言葉、・・・仏祖翻身す五万回、見成公案百千枚(寺田透訳註「永平和尚廣録」上420b 岩村さんの訳(以下同じ):ブッダは衆生済度のため五万回も身を投げ出して十方世界に全身を現わした。即今の全世界が仏祖の現身(うつしみ)だ・・・も、雪竇重顕禅師(980〜1052)の言葉(「明覚禅師語録」巻一(T47-676a)、・・・未だ母胎を出でざるに見(現)成公案す。周行七歩は過犯弥天なり。更に鹿野苑中に入るは枝蔓上に枝蔓を生ず・・・(訳:ブッダが未だ誕生しない前、既に仏法は成就し、仏道は円成している。出生するや七歩して「天上天下唯我独尊」とは空を覆うような罪過です。さらにその上鹿野苑での初転法輪はつるにつるを絡ませ、ますます人々を混乱させただけだ・・・

も説明できるのです。すなわち、筆者の解釈による「現成公案」の原理は、「未だ母胎を出ない時からも、ブッダが誕生しない前からも存在する」は当然です。つまり、岩村さんと全く同じ文献を引用して、別の解釈ができるのです。

補注:岩村様「圜悟克勤における現成公案について」を読ませていただきました

「現成公案-岩村宗康さんの解釈(2)」への6件のフィードバック

  1.  「すべてのものはあるべきようにある」と言うのですが、人類を何度も全滅することができると言われる「核兵器」も「あるべきようにある」のでしょうか。
     「核兵器」の存在も塾長が言う「神」の仕業なんでしょうか。
     若し、そうでは無いのであれば、「諸法実相」の「諸法」は念々に生滅している「各自の認知内容」だと認識すべきだとおもいます。

    1. アイドルトーク様
       アイドルトークさん=岩村宗康さんでしたか!ようやく余裕ができましたので、これまでいただいたコメントについて考察しているところです。
      今回のコメントについて私見を述べます。核兵器の存在は神の御業ではありません。もちろん、ウランもプルトニウムも神の御業で作られました。核爆発も神の真理に基づいて起きます。
      ただ、その性質を人間が悪用している・・・それが問題なのです。神は手を出されません。見守るだけです。ただ、人間の行為があまりに神の計画(御心)から外れて行けば、もっと根源的なところで神界(もちろん人間界も含めて)の構造が変わり、人間を正しい方向へ向かわせます。今、それが起こっています。

  2. 菩提を証し涅槃に入り成仏することが仏道を学ぶ者の窮極の目標でしょうが、『成唯識論』や『摂大乗論』には涅槃に入らず安住する処がない「無住処涅槃」が説かれています。住処がない理由は、真諦訳『摂大乗論釈』巻13(T31-247b)において次のように記されています。

     菩薩は生死と涅槃とを見ず。般若に由って生死に住せず、慈悲に由って涅槃に住せず。若し生死を分別すれば則ち生死に住し、若し涅槃を分別すれば則ち涅槃に住す。菩薩は無分別智を得て分別する所無きが故に住する所無し。…。

     一切皆空と見る般若空観に拠れば、全てが平等であり不生不滅である故に、既に止住する生死が無い。一切が我が有と見る慈悲心に拠れば、三界に苦悩している衆生がいる限り己れ一人涅槃に入ることはできず、従って涅槃にも安住しない。そもそも、菩薩は無分別智を得ている故に、生死(迷い)と涅槃(悟り)とを区別しない。従って、そのどちらにも安住することが無い、これを「無住処涅槃」と言うのです。
     このような菩薩の真情で「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみ」を読み直すと、「愛惜」は覚有情の衆生に対する慈悲心で、「棄嫌」は衆生(草)をして仏知見の開示悟入を目指す覚有情の誓願心だと言い得るでしょう。
     ※禅籍において「開花」は「開悟」を意味し、「落花」は「悟りを棚上げにして衆生済度の為に世間(遷流)に飛び込む様」を意味しています。だから「落花」と「流水」は何時も一対として説かれます。

  3.  「落花」と「流水」が一対であることは、『正法眼蔵:密語』の雪竇智鑑禅師示衆で世に知られました。

      世尊有密語、  世尊密語有り、
      迦葉不覆蔵。  迦葉不覆蔵。
      一夜落花雨、  一夜落花の雨、
      満城流水香。  満城流水香ばし。
              (岩波文庫本より引用)
     世尊が迦葉尊者に伝えたと言う「正法眼蔵涅槃妙心」の第一義によれば、迷悟なく諸仏なく衆生もなく、密語なく覆蔵するものもない、というべきです。
     しかし、魚が水を究めずとも、鳥が空を究めずとも、自ずから処と道を得て水を行き空を行くのに、人間は「処」を疑い「道」に迷うのも事実です。それ故に、成道した釋尊が数日の沈思黙考後、意を決して鹿野苑に出向いたのです。
     甘露の法雨が落花を誘い、お蔭で仏法が流布して世間が佳い香りで満たされたのは、世尊が迦葉に法を伝えるお芝居の遙か以前、鹿野苑への第一歩がもたらしたと言えます。

     良寛禅師『法華讚』には、
      無限落花与流水
      幾多啼鳥共春風
    という句があります。
     「落花(覚有情)」が「流水(世間)」の人々に加勢し、「啼鳥(覚有情)」と「春風(教風・禅風)」が共同して「開花(修行者の開悟)」を促している、という意味だと思います。

     

  4.  良寛禅師が讚じた『妙法蓮華経:法師功徳品』は、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・思う事(色声香味触法:認知内容)に無量の功徳があり、見て・聞いて・嗅いで・味わって・触れて・思って妙法の真実を経験する、と説いています。塾長が説いている通りです。
     これを逆に言えば、全ての無情も全ての有情も常に妙法を説いている、と言えます。良寛禅師が無限の落花・幾多の啼鳥と讚じた所以でしょう。
     この良寛禅師の讚の意を踏まえ、『正法眼蔵:諸法実相』の「杜鵑啼、山竹裂」という天童如浄禅師の入室話に参じてみましょう。

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