禅と神(仏)筆者の基本的考え(1)

岩村宗康(アイドルトーク)さんのコメントに対る回答(1)

 最近、岩村さんことアイドルトークさんから毎日コメントが届きます。2週間で原稿用紙25枚にもなりました。きっかけは、道元の「正法眼蔵・現成公案」についての筆者の解釈との違いからです。岩村さんは臨済宗のしかるべき位置にいた人であり(現在は真言宗の寺の住職)、高校生時代から禅に親しんでいるとか。禅の古典にも通暁している人のようです。岩村さんは「現成公案」を「既成の事実」すなわち、仏の真理はすでに目の前に現れている(諸法実相)」と解釈しています。これに対し筆者は「現成公案編は色即是空・空即是色を説いている、すなわち、すべてのものはあるべきようにある(公案)、しかし、見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて、つまり体験して)初めてモノとして現れる(現成する)」と解釈しています。これこそが「現成公案編は正法眼蔵のハイライトである」と言われるゆえんでしょう。それがわからなければ「正法眼蔵」はわからず、禅はわからないのです。

 重要な問題ですから、改めてブログとして取り上げました。どうか読者の皆さんも参考にしてください。まず、直近のコメントから、

岩村:広島と長崎に落とされた原爆による死者は50万人を超えたと言われています。塾長が言う「禅の空」には原爆は含まれるのですか。原爆による死者も含まれるのですか。
 過去の出来事で済まさず、即今に置き換えてお答え下さい。塾長が言う「神」が造ったモノでは無い「原爆」と、それによる「神」に責任が無さそうな「死者」の問題です。

筆者:筆者の禅と神を結び付ける考えに対する岩村さんの反論です。つまり、「原爆も神の御業ですか(そんなはずはないでしょう)」と言っているのです。それに対する筆者の回答は、「もちろん、ウランもプルトニウム原子も神の御業で作られました。核爆発も神の真理に従って起きます。しかし、核兵器の製造は神の御業ではありません。ただ、その性質を人間が悪用している。神は手を出されません・・・」でした。岩村さんは「神とは」という根源的な問題がわかっていないようです。

岩村:塾長は、モノゴトの見かたを観かたに変わるのが「禅の空(くう)」だと説いているので、広島長崎に投下された原爆自体やそれによって亡くなった人々自体が「空」だと言う筈が有りません。空観は分別や戯論からの離脱を通過しないと如実知見という智慧(般若)にならないことも塾長は承知していると思います。
 しかし、私には「梵(ブラーフマン)我(アートマン)一如体験を悟りとみなす説」「神仏同体説」「宇宙第一原因としての神、物質や生命の創造者としての神、その御心の計画説」などは「戯論」としか思えないし、「如実知見」とも思えないのです。つまり、塾長の上記のような所説は、「般若空観」とは無縁な「戯論」に見え、塾長の言う「禅の空」が歪んで見えるのです。確かに、自然現象は神秘的です。特に生命現象は本当に神秘的です。だからと言って、その神秘性を「神」で済まそうとするのは性急過ぎると思います。先生のお仲間の生命科学者達やその後継者達が必ず解明してくれると思っています。今は兎に角「神秘で不思議なコト」は「神秘で不思議なあるがまま」にして置きませんか。

筆者:まず、岩村さんは「梵(ブラーフマン)我(アートマン)一如体験を悟りとみなす説」「神仏同体説」「宇宙第一原因としての神、物質や生命の創造者としての神、その御心の計画説」などは戯論としか思えない」と言っています。しかし筆者は、「ブッダの思想は、それ以前のインドのウパニシャッド哲学(ヴェーダ信仰)のアンチテーゼ(対立命題)として生まれた」と言いました。つまり、ブッダの考えも一つの思想に過ぎないなのです。つまり、「ウパニシャッド哲学は戯(け)論だ」と言うのは、逆に妄言でしょう。

 筆者はむしろ、「梵(ブラーフマン)我(アートマン)一如体験を悟りとみなす説」の方に与するものです。さらに、「神仏同体説」を戯論というのは仏教家ですら疑問に思うでしょう。なにしろ、「神は仏の仮の姿」というのが日本仏教の共通認識ですから(本地垂迹ほんじすいじゃく説ですね)。

岩村さんはまた、「 確かに、自然現象は神秘的です。特に生命現象は本当に神秘的です。だからと言って、その神秘性を「神」で済まそうとするのは性急過ぎると思います。先生のお仲間の生命科学者達やその後継者達が必ず解明してくれると思っています。今は兎に角「神秘で不思議なコト」は「神秘で不思議なあるがまま」にして置きませんか。

筆者:よろしいですか。筆者は40年以上、生命科学の研究者として生きて、長年「生命」に触れてきました。そこから得られた感性に基づいて考えを述べているのです。筆者がある日突然「生命は神によって造られた」と直感したことについて、読者の滝川哲さんが、「デフォルト・モード・ネットワーク現象でしょう。デフォルト・モード、すなわち、何もしていない状態の時、人間には知性・能力・思考等を超えた〈気づき〉が起こる」と言っています。つまり、筆者の「生命は神よって作られた」との直感が「それだ」とおっしゃっているのです。

 以上で、この問題については、岩村さんと筆者は対等ではないことがおわかりでしょう。「神秘で不思議なコトは神秘で不思議なあるがままにして置きませんか」とは! 

 筆者は、岩村さんを初め、何人かの臨済宗の師家、曹洞宗の西嶋和夫さんやその師・澤木興道さんの著書など、さまざま読みました。その結果、「日本の禅宗は滅びる」と思っています。彼らは旧来の禅にドップリ浸かり、師から弟子へ同じ誤りが伝えられ、マンネリ化した法話をしているのでしょう。これに対し筆者は、禅と神(仏)を結び付けることがそのブレイクスルーなると思うのです。じつはこのことは臨済も、道元も気付いているのです。いかなる宗教思想の根底に仏(神)があるのは当然です。注意深く読めばわかることなのです。第一、岩村さん自身が、(おそらく無意識に使っている)「諸法実相」の意味をわかっていません。

One thought on “禅と神(仏)筆者の基本的考え(1)”

  1. 岩村さん
     愚かではありません。ただ、Huさんのように謙虚であれば必ず正しい道へ戻ります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です