禅と神(仏)筆者の基本的考え(2)

 岩村宗康さんの考えに対する筆者の回答(2)
 前回から続きます。「岩村さんご自身が、
諸法実相
の意味をわかっていない」と筆者が言いました。諸法実相とは、「すべてのものが仏の姿の表れてである」という意味です。つまり、岩村さんはそれに気づかずに、この言葉を使っているのです。
 道元や臨済がそれぞれの思想の根底に仏(神)を置いていることの例証はすでに述べました。
岩村さんは次のようにも言っています。
・・・現成公案底が「既成の事実」だからこそ「水空を行く魚鳥は、水を究めず空を究めざれども、処を得て行履(あんり)自ずから現成公案し、道を得て行履自ずから現成公案である」と言い得ると思います。「体験して初めて現成する」と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう。その挙げ句が「眼横鼻直」だと思います。殆どの人は、魚や鳥と同じように処と道に迷ったことがないから「既成の事実」に気付かず「眼横鼻直」も知らないと思います・・・。
 すなわち岩村さんは、現成公案が「既成の事実」であることの根拠として、「魚、水をゆくに、行けども水のきはなく、鳥、空を飛ぶに、飛ぶと言へども空のきはなし。しかあれども、魚・鳥いまだ昔より水・空をはなれず。只(ただ)用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭(ずず)に邊際(へんざい)を尽くさずといふ事なく、處處(しょしょ)に踏翻(とうほん)せずと言ふことなしと言へども、鳥もし空を出づればたちまちに死す。魚もし水を出づればたちまちに死す」を挙げています。(これも正法眼蔵現成公案編にあります:筆者)。

 しかし、この一節もやはり「体験が重要である」と言っているのです。「鳥が空という体験の外へ出れば、魚が水という体験の世界を出てしまえば死ぬ」と。人間も体験の世界を出れば真に生きることにならないのです。「体験」とは「空(くう)」です。
 改めて道元のこの文章を読んでみますと新鮮な感動を憶えます。道元は、じつに巧みに答えそのものを書かず、ヒントを挙げているのです。わかる人にしかわからないように表現しているのです。岩村さんは、まさにそれに引っかかっています。「『体験して初めて現成する』と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう」と言うのには唖然とします。すべての人間にとって大切なことだからです。

 公安集を読めば、唐や宋師代の師と修行僧たちの未知のための真摯でひたむきな姿勢がよくわかります。「香厳撃竹」の故事を読んでください。
岩村さん、「神になってしまった塾長に逆らった愚かな人間の間違いがハッキリしました
」などと感情的になってどうするのですか。

追記:Huさんなら、筆者と岩村さんとのこの一連のやり取りの内容を理解して下さるでしょう。


One thought on “禅と神(仏)筆者の基本的考え(2)”

  1. 秀峰さん
     その通りですね。仏の道を人間が誤っているのです。岩村さんはとてもまじめで、よく勉強なさっている仏教家と思いますが。

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