神仏の存在を信じない人は僧侶になるべきではない

岩村宗康さんとの対話-結語

 読者のお一人岩村宗康さんと筆者の2回にわたる対話をお読みいただいたと思います。岩村さんばかりを槍玉に挙げるのは本意ではありませんが、おそらく現代の僧侶の平均的考えでしょうから、取り上げさせて下さい。ちなみに、ここでは仏=神(宇宙の最高神)としてお話します。

 岩村さんは、筆者がブログで「生命は神(仏)によって造られた」言ったのに対し、

 ・・・確かに、自然現象は神秘的です。特に生命現象は本当に神秘的です。だからと言って、その神秘性を「神」で済まそうとするのは性急過ぎると思います。先生のお仲間の生命科学者達やその後継者達が必ず解明してくれると思っています。今は兎に角「神秘で不思議なコト」は「神秘で不思議なあるがまま」にして置きませんか・・・。

 結論からお話しします。仏(神)の存在を信じない人は僧侶などやるべきではありません。東日本大震災で、高台から津波に巻き込まれる人々を見て「神も仏もあるものか」と叫んだ浄土真宗の住職のことはすでにお話しました。異常な事態での発言でしょうが、本音だと思います。ちなみに、生命科学がいくら進歩しても神が生命を作られたことなど永遠にわかりません。ただ、直感で知るのみです。

 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教・・・どれをとっても「神」を信仰の根底にしています。いえ、いかなる宗教もその思想の根底に神を置くべきです。宗教とはそういうものなのです。どうして禅宗だけが例外であっていいでしょう。

 あの道元でさえ、

・・・(人の生き死にについては)ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行なはれて、これに従ひもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死をはなれ、仏となる(正法眼蔵・生死巻・・・

と言っています。「最後は仏様におまかせしよう」と言うのですね。

 一方、法然の浄土思想は、まさに仏(阿弥陀如来)に対する絶対的信頼の上で成り立っています。ただ、法然の言う阿弥陀如来は、最高神(仏)というより、もう少し下位の仏でしょう(神界にも階層があると言われています)。それにしても、法然の思想は、釈迦仏教の中でいかに革新的だったかおわかりいただけるでしょう。ブッダ以前のヴェーダ信仰と同じですね。岩村さんが「ヴェーダ信仰は虚論(けろん)である」と言ってるのは、あまりにもインド思想史を知らなさすぎます。岩村さんは仏教の古典をよく勉強していらっしゃますが・・・。なお、密教思想では大日如来を宇宙の最高神と考えていますが、いささか観念的的であるように思われます。

 多くの禅師は、「空」の正しい意味も知らずに法話をし、瞑想の危険性を知らずに座禅会をしているのではないかと思います。警策で「バシッ」と叩くのを単なる眠気覚ましと思っているのでは?あの役はかなり修行を積んだ禅僧にしかできないのです(いずれくわしくお話します)。

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