禅は難しくない(2-3)

 ただ、わかったかわからないかの世界です

 2)筆者のブログを熱心に読んでいただいている方から、「難しいので初級、中級、上級用と分けてください」とのメールがありました。恐縮しています。筆者はもともと「初級者の方にもわかりやすく」を目指して書いていますが・・・。

 「禅はむつかしい」。たしかに「正法眼蔵」は日本で最も難解な古典だと言われていますし、「無門関」、「従容録」などの、さまざまな禅の公案集は、まさに「禅問答」と言われる、一見わけのわからないものが多いです。しかし、これらの書物を懸命になって読み砕いて、最後に残ったエッセンスを味わってみますと、じつはそんなに難しいことではないことがわかります。「スッタニパータ」などの原始仏典には、お釈迦様の言葉が色濃く残されていると思われますが、それらは、どれもだれにでも理解できるやさしいものばかりです。当然でしょう。晦渋な理論にしたのは、すべて後世のインドの仏教学者たちなのです。そこで筆者が学んだエッセンスについてお話します。

 まず禅の要諦は、こだわらないことです。筆者は、さまざまな禅の語録を読みました。初めは難解ですが、だんだん読み解いていきますと、「こだわらないこと」の教えが禅の心の要諦として浮かび上がってくるのです。概念の固定の否定ですね。過去のつらかったこと、腹立たしかったこと、悲しかったことはよく思い出すものですが、思い出しそうになったら「アッいけない」と止めるのです。それを繰り返していますといつか忘れます。大切な知恵ですね。

 第二に、今日を生きることです。過去はもうない。未来はまだわからい。今日だけを真摯に生きる。これが禅の要諦「空」の実践なのです。

第三に、質素な生活。良寛さんはまことに質素な生活で一生を送りましたが、だれよりもこころ豊かな人生を送った人です。

 第四に、他人のことを自分のことのように。キリスト教では「汝を愛するように他人を愛せよ」と言う言葉があります。「他人のことを自分のことのように」考える人は筆者の同級生に何人もいます。彼らは社会的にはあまり目立たない人たちばかりです。一方、筆者の知人にも社長や上級の国家公務員になった人もいます。しかし、定年後すべての肩書が取れて、素の人間にもどってみると、むしろ目立たなかった人たちの方が人間的に立派でした。それは筆者が定年後彼らと再会して発見した大きな驚きでした。

 第四に、生かされていることの感謝でしょう。父母の愛は言うまでもありません。師の愛、衣食住すべてを得て生きて行けるのは、たくさんの人々のおかげであること常に自覚し、あらためて感謝の日々を送ることです。筆者は、命は神によって造られたと確信していますが、ピンと来ない人も多いでしょう。それはごく個人的な体験ですから、一先ず「そういうことか」と思っていただいて結構です。臨済宗の宗祖臨済は、はっきりと人間には肉体の他に神に通じる本当の我があると言っています。それについては、以前のブログ「禅と神(仏)」「赤肉団上一無位の真人あり」をお読みください。

 次は宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩です。賢治は熱心な法華信者でしたが、この詩は今お話した禅の心にぴったりですので、一部をご紹介します。

 〔雨ニモマケズ〕
・・・慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ(清貧ですね:筆者、以下同じ)
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
・・・・
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ(奉仕の精神ですね)

3) 平常心是道(びょうどうしんぜどう)

 以前のブログ「無門関・第十九則 平常是道」で紹介しましたが、今回のシリーズ「禅はむつかしくない」の良い例と思いますので、もう一度ご紹介します。

 「平常心」・・・誰にとっても大切な言葉ですね。じつはこれは禅の要諦を表す有名な言葉です。趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778 – 897)は、中国の唐代の禅僧。

如何是道(いかなるかこれどう)


 趙州和尚(註1)が師の南泉禅師に「如何是道」(道-人間のあるべき姿-とはどんなものでしょうか)とたずねた。
 南泉:平常心是道(ふだんの心こそが道である)。
 趙州:その心はどのようにしてつかむことができるのでしょうか
 南泉:つかもうとすれども、つかむことができない
 趙州:つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないでしょうか
 南泉:道は考えてわかるようなものではない、しかし、わからないといってしまうこともできない。考えてわかるというものであれば妄想になってしまう・・・(以下略)

筆者のコメント:趙州はその答えを聞いて悟ったということです。でも、まさに禅問答ですね。これでは何のことかわかりません。この話には続きがあります。

 この公案をわが国の義介禅師(註2)が説き示されると、弟子の瑩山禅師は「日常あるがままの心が仏道そのものである」。瑩山はたちまち心が開け、「我れ会せり(わかりました)」と思わず叫んだと言います。

筆者のコメント:日常あるがままの心・・・じつは簡単な「心」ではありません。深い意味があります。「論語」に「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。 」とありますし、前回お話した、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」

の心でしょう。

・・・慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
・・・・
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ・・・

でしょう。

義介と蛍山の対話は続きます。

 義介:さらにその意を述べよ。

 蛍山:茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては、飯を喫す

筆者のコメント:「こだわることなかれ」ですね。筆者も日常で「アッこだわっているな」と気が付きますと、この言葉を思い出します。

註1 この公案は「無門関第十九則 平常是道」にあります。

註2 鎌倉時代の曹洞宗禅僧。総持寺派の祖(1268-1325)。

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