眼横鼻直(1-2)

(1)「永平元禅師語録(道元禅師語録)註1」にある有名な言葉です。

  1. 上堂。山僧叢林を歴(ふ、以下、カッコ内は筆者)ること多からず。ただ是れ等閑に天童先師に見(まみ)えて、当下(ただち)に眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。すなわち空手還郷す。ゆえに一毫も仏法無し。任運に且(しばら)く時を延ぶるのみなり。朝朝、日は東より出で、夜夜月は西に沈む。雲収(おさまっ)て山骨露(あらわ)れ、雨過ぎて四山低(ひく)し。畢竟如何。良久して云く、三年に一閏に逢い、鶏は五更に啼く(以下略;筆者)

 読み下し文:上堂して説法した。山僧(私:道元)は、(中国)諸方の叢林をあまり多く経歴したわけではない。ただ、はからずも先師天童如浄禅師にお目にかかり、その場で眼は横、鼻はまっすぐであることがわかって、もはや人にはだまされなくなった。そこで何も携えずに故郷に還ってきた。それゆえ私にはいささかも仏法はない。ただ天の導きに任せて時を過ごしているだけだ。毎朝日は東に昇るし、毎夜月は西に沈む。雲が晴れ上ると山肌が現れ、雨が通りすぎると周囲の山々は低い姿を現す。結局どうだというのだ。(しばらくして言うには)三年ごとに閏年が一回やってくるし、鶏は五更(午前四時)になると時を告げて鳴く(以下略)。

解説1)臨済・黄檗ネットより、

 眼横鼻直、読んで字の通り、あたり前の事実を、ありのままに見て、しかも、そのままである真実を頷(うなず)き取る。道元禅師でさえ四年の歳月がかかったのです。易しくて、難しい事実です。私達は果たしてすべてを、見るがまま、聞くがまま、あるがままに受け取っているでしょうか・・・他人の意見、自分の主義主張にとらわれて、本当の姿を見失っているのではないでしょうか ・・・

 2)愛知学院大学禅研究所「禅語に親しむ」より、

・・・当たり前のことを当たり前に認得して人に瞞(だま)されないというのです・・・「朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。」というのも、自然の法則にかなった当たり前の現象です。しかし、われわれの日常生活は、我見我執に執われた自我意識を中心にしてまわっています。その為、当たり前のことや当たり前の現象を、自分の立場を中心にして自分勝手に認識しようとします。そのことが、当たり前でありのままの事実から知らず知らずのうちに離れていってしまい、誤った認識をすることとなります。結局、自己中心的な我見我執に振り回され、心は、右に左に揺れ動き定まらないでいます。それ故、実体のない多くの悩みや苦しみを抱え込み、迷える凡夫(ぼんぷ)としての明け暮れをしているのが実情です・・・

 3)鏡島元隆「道元禅師語録」より

 ・・・眼横鼻直は、ごく当たり前のことであって、それはもののあるがままの相(すがた)であるといえよう。だが、このごく当たり前のことがわかるために、道元は如浄の下で身心脱落するまで生命がけの修行をしたのである。したがって、身心脱落して見られたもののあるがままの相と、それ以前のもののあるがままの相とは、天地の違いがある。それを一言でいえば、それ以前のものは「我」に執われて見られたものであるが、それ以後のものは「我」の執われを脱け出たものである・・・

じつは、これらの解釈はいずれも誤りなのです。以下は次回に。

眼横鼻直(2)

筆者のコメント:前回ご紹介したいずれの解釈もあたり前の事実を、ありのままに見るのが大切だとしていますね。じつはそれは誤りです。それぞれ言ってることはもっともですが、それらはすべて「仏法」になってしまいます。そのため道元の真意を伝えられません。なによりの証拠は、道元は「宋から学んできたのは特別な仏法などではない」言っていることです。筆者も道元の言う通りだと思います。筆者の解釈は、・・・いかなる高尚な理論も、じつは当たり前のことを言っているのだ・・・です。当然でしょう。言葉は似ていても意味は全然違います。上記三つの解釈は、まさにここがわかってないのです。

 あの物理学者ジョリオ・キュリーが「いかなる大発見も、ここにこうしてインク壜(ビン)が置いてあるのと同じように、当たり前のことだ」と言っているのと同じでしょう。

註1「永平元禅師語録(永平略録)」は、道元の孫弟子寒巌義尹(ぎいん。永平寺二世懐奘えじょうの弟子。1217-1300)が道元の「永平広録」10巻その他を携えて1264年に南宋へ渡り、道元の師天童如浄門下の同僚だった無外義遠などに校閲を依頼した結果です。義遠は、もとの全10巻から全1巻に抄出し、「序」と「跋」を加えました。さらに義尹は、同じく如浄門下である退耕徳寧や、虚堂智愚にも「跋」を求め、「永平元禅師語録」としました(この経緯から「永平略録」とも通称されます)。義尹は4年後帰朝し、本書を永平寺に招来し、更にそれは宝慶寺寂円禅師に伝わった。したがって、「略録」は「広録」そのものの縮刷ではありません。

筆者はすでに「永平元語録」の完訳しています。これから少しづつその内容についてご紹介します。

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