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霊との付き合い方(3‐1)

 読者の柴田さんとの対話(その1)

 以下は、霊に関する読者の柴田さんとのやり取りです。他の皆さんの参考になると思いますのでご紹介します。

柴田:私の霊的体験です。
 ・・・・わたしの知人で古民家カフェをやっておられる方がいらっしゃいまして、その方から頼まれて古民家(明治時代)の蔵から雛人形(江戸から明治)を飾るために取り出し、帰宅した後のことでした。まず違和感があったのが、部屋の軋む音が明確に増えたことでした。それが日を追うごとに増えてゆきました。
 そして、3日後の夜 不思議な夢をみました。なにかの眼が私をみつめているのです。その眼はだんだん増えてゆき20弱に増えたのち一つの巨大な眼になり私をただただみつめていました。そのとき、わたしは確信しました。これはあの雛人形に憑いている霊で、急にわたしが蔵に入り彼らの大事な雛人形を断りもなく持ち出したために、この人はどこの誰で何者?と思っているのだと。

 その後、知人にこの事を話して再び雛人形の前に立ち自己紹介をして、断りもなく大事な雛人形を運んだことを詫びました。それから不思議なことはぴたりとやみました。

後日譚 古民家の蔵にあった雛人形は実は委託で管理を頼まれているもので所有者は別におられました。所有者にお会いしてこの事を話したところ、所有者の方もその蔵で雛人形の手入れをするときには何かによく髪の毛を触られたり、肩に手を置かれたりすると話していらっしゃいました。 

 実はわたしもその古民家の蔵からはただならぬ気配を常に感じておりましたが、その時はまあ大丈夫だろうとたかをくくってこの始末でした。

差し支えなければ是非、中野さんのお考えになる霊という存在についてお聞きしたいです。 

中野:雛人形ばかりでなく、人形と言うものは安易に貰ったり触ったりするものではありません。以前の持ち主の並々ならね(愛情ですね)が籠っているからです。お話を伺うと、柴田さんは霊に対してネガテイブな印象をお持ちのようですね。

柴田:・・・・霊に対してネガティブな考えをもっているのはその通りです。
 それはお世話になっている日蓮宗のお上人が霊に対してネガティブな考えをおもちだからです。(その方はかつて厳しい修行を重ねてきて、今では寺を持たず最低限の布施にて慎ましく暮らしておられます。わたしの尊敬する方です)。その方は幼少期より霊に苦しめられ日常生活に支障をきたし霊と対峙できる方法を探し僧侶になられた方でした。常々、霊はみえない、感じない方がいい。とおっしゃられています。(霊と生半可な向き合い方をすると痛い目をみるからだそうです)なので私もその考えに影響されております。

正岡子規の悟り

  平気で生きていること

  俳人の正岡子規は、重い結核にかかり、最後には寝たきりになりました。著書「病床六尺」の中で、

 ・・・・「予は今迄、禅宗の所謂(いわゆる)悟りというものを誤解していた。悟りという事はいかなる場合でも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事はいかなる場合でも平気で生きている事であった」・・・・と言っています。それまで正岡子規は、脊椎カリエスのあまりの痛さに「病床六尺、これがわが世界である・・・・蒲団の外へまで足を延ばしてくつろぐこともできない。甚だしい時は、極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体を動けないときもある・・・・苦痛、煩悶、号泣・・・・麻痺剤にわずかに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢(はか)なさ・・・・

 このように子規にとっては生きていることが苦痛そのものだったのです。一時は自死も考えました。「以前は近所を歩くことができた。少し前は家の中で用を足すことができた」のですが、最後はこのように病床六尺だけの天地になってしまったのですね。

 しかし、その中にあって子規は「歌よみに与たふる書」など、俳句や短歌の革新活動をし、書き言葉と話し言葉を融合させた人です。つまり、現代日本語を創り出したのですね。「平気で生きていた」のです。 

くれなゐの 二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる

 瓶にさす 藤の花ぶさみじかければ たたみの上に とどかざりけり

 いちはつの花咲き出でて わが目には 今年ばかりの 春行かんとす

 人も来ず 春行く庭の水の上に こぼれてたまる 山吹の花

 いくたびも 雪の深さを 尋ねけり

 夏嵐 机上の白紙 飛びつくす 

へちま咲いて 痰のつまりし 仏かな (以下は絶筆三句)

痰一斗糸瓜の水も間に合はず

 をとゝひのへちまの水も取らざりき

どれも病床六尺で生まれた傑作ですね。「平気で生きていた」ことの表われでしょう。

憎しみの連鎖を断つ(3)

 最近、パラ五輪日本代表女性アスリートがライバルに中傷のメールを送ったとして一審、二審ともに有罪とされ、予想を超える多額の賠償命令が出されました。メールの内容を読んで、あまりにも低次元で、不快になりましたので、有罪判決は妥当だと思います。中傷メールを送られた方の不愉快さは想像に余りあります。有罪判決が出たことで、少しは癒されたでしょう。ただ、勝った原告も、これから周囲の厳しい目に会うだろうと気掛りです。俗にいう「人を呪わば・・・・」になりかねないのです。

前回、イラン出身の女優サヘル・ローズさんが、「母(フローラさん)から、あなたはイランの孤児ですが、イラクにもあなたと同じように戦争で両親を亡くした子供たちは大勢いるのです。恨んで報復することなど考えてはいけません。そこからは何も生まれないのです。戦争はどちらが勝つか、どちらが負けるかということはないのです。どちらも負けなのです」と言われたとお話しました。まさに母フローラさんの言うとおり、「争いはどちらが勝つか、どちらが負けるかということはないのです。どちらも負けなのです」ね。

 昔、大学紛争が盛んだったころ、筆者の所属する学科のある研究室の教授が研究室員に告発されたことがあります。筆者は助手会で「訴えは危ない」と異を唱えましたが、多数意見に押し切られました。結果はうやむやになりました。しかし、問題はここからです。教授が社会的に制裁を受けたのはもちろんでしたが、二人の助手も無傷ではありませんでした。一人は退職し、もう一人は窓際に追いやられてしまったのです。すなわち、助教授にはなりましたが、学科とは別の研究室でした(教授にはなれなかったと思います)。

 アーチェリーの選手も二人の助手も、ことを大きくしなくても良かったのではないでしょうか。周りの人に「こんなメールが来た」と言ってもいいし・・・・。とにかく大ごとになって「引っ搔き回された」と不快感を感じた関係者もいたのです。

憎しみの連鎖を断つ(2)

 いま世界各地で救いようのない民族間対立が続いています。イスラエルとパレスチナの人たち、ウクライナとロシア、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、ルワンダにおけるフツ族とツチ族の対立など、いずれにおいても凄惨な大量虐殺(ジェノサイド)が行われています。

 中でもいま大きな焦点になっているのがガザ地区におけるイスラエルによるパレスチナに対する無差別攻撃ですね。昨年10月、ハマスによるイスラエル人拉致に始まる攻撃が始まった時、筆者は「イスラエル側はこれを口実に、パレスチナへ徹底攻撃をする」と思いました。「ハマスよそんなことをしてはダメだ必ずそうなるから」と。ただ、ハマスにも積もり積もった恨みがあったからでしょう。それにしても、直近のテヘランで起こったハマス最高指導者ハニヤ氏の暗殺は衝撃的でした。イランが「わが国の客人の暗殺には報復する」と表明したのは当然でしょう。しかし、ただちにアメリカ政府がイスラエルに対し直ちに武器援助と戦闘への協力を表明したのには驚きました。というよりあきれました。

 しかし、このような民族間対立には解決の糸口さえつかめません。今日のニュースにも、「ハマスの見張り役が、命令に反してイスラエル人質を殺してしまった」とありました。犯人の2人の子供がイスラエルによる空爆で殺されたことへの報復だと言っています。何ともやりきれない話ですね。でもなんとかサヘルさんの母親のように「恨みを恨で返してはいけない」と言う人が、イスラエル、パレスチナ双方に出てくれないかと思います。そういえば思い出しました。以前テレビで、イスラエルの少年が「パレスチナ人と仲良くしなければいけない」と言うのを聞きました。そういう「草の根の運動」を続けているのですが、彼の友人の母親が彼の運動に対してとても腹を立てていたのです。

 これはなにも紛争当事国ばかりではありません。私たちの周りでもよくあることですね。

「あいつだけは許せない」・・・・。しかし、人間、死ぬまで人を恨み続けていてはいけないのです。「人間はこの世で解決しなければならない課題を持って生れて来た。それが現世を生きる意味だ」とは、スピリチュアリズムで言われる言葉です。とても説得力のある言葉ですね。しかるに、せっかくその課題を果たすために生まれて来たのに、果たさないままであの世へ帰ったら、それこそこの世で生きたことがムダになります。

憎しみの連鎖を断つ(1)

 サヘル・ローズさん

 サヘル・ローズさん(1985~)のことは以前にもお話しました。イラン・イラク戦争により、4歳で孤児になった人です。そのため自分の名前もわからなかったと言います。救護隊ボランテイア要員のテヘラン大学の学生フローラ・ジャスミンさんに救助され、7歳までテヘランの孤児院で暮しました。サヘル・ローズ(砂漠のバラ)という名はフローラさんの母親(だったと思います:筆者)によって付けられたのです。7歳ときフローラさんの養女になりましたが、イランでは養母になるには「子供を産めない者」という法律があるため、自ら望んで手術を受けたと言います。フローラさんはイランの国王につながる一族でしたが、両親がサヘルさんとの養子縁組を望まず、勘当されたのです。そのため2人で日本へと逃げてきたのです。飛行機がテヘラン空港を離陸するとき、親族はだれ一人送りに来なかったを見て、フローラさんは泣いたそうです。

 日本に来たのはフローラさんの婚約者がいたためですが、来てみるとサヘルさんへの婚約者の”躾”という名の虐待に耐え兼ねて家を飛び出し、母子で2週間ほど真冬の公園でホームレス同然の生活も経験しました。その際、小学校の給食調理員をしていた女性が毎日同じ服を着ているサヘルの様子に気づき、母子に手を差し伸べたのです。夕食の差し入れや、フローラさんの仕事口の世話、アパートの保証人にも名乗りを上げ、弁護士を雇って観光ビザから日本に住めるビザへ申請してくれたのも、その女性だったそうです。同じ日本人として救われる話ですね。また同時期に通っていた小学校の校長から日本語を学びました。しかしサヘルさんは中学校時代には自殺を考えるほどの壮絶ないじめや差別を経験したと言います。いじめの影響で成績が悪かったこと、また授業で育てた野菜を持ち帰えられるという理由から、東京都立園芸高校定時制課程に進学しました。その後、東海大学電子情報学部を卒業しました。

 高校1年生の時、学費を稼ぐため芸能事務所に登録し、外国人のアルバイトエキストラを始めました。ただ、最初は「死体の役」ばかりだったそうです。高校3年で正式に芸能界入りし、モデルやラジオ番組の出演を経てテレビ番組にレギュラー出演するようになりました。現在は映画や舞台、女優、そして映画の製作など、活動の幅を広げていらっしゃいます。主演した映画は国際映画祭にも出品され、ミラノ国際映画祭にて最優秀主演女優賞を受賞した。また、第9回若者力大賞を受賞しました。

 芸能活動以外にも2012年から児童養護施設の支援のほか、国際人権NGO「すべての子どもに家庭を」で親善大使を務めており、世界中を旅しながら難民キャンプや孤児、ストリートチルドレンなど子どもたちの支援活動も行っています。2020年にはアメリカで人権活動家賞を受賞しました。

 そのサヘルさんが最近、NHKの番組にゲストとして招かれました。イスラエルとパレスチナとの長年にわたる確執--恨みと報復のスパイラル--についての再放送でした。感想を求められたサヘルさんの言葉が尊いのです。「母(フローラさん)から、あなたはイランの孤児ですが、イラクにもあなたと同じように戦争で両親を亡くした子供たちは大勢いるのです。恨んで報復することなど考えてはいけません。そこからは何も生まれないのです。戦争はどちらが勝つか、どちらが負けるかということはないのです。どちらも負けなのです。とくり返し言われています」。感動的な言葉ですね。