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禅と神仏-赤肉団上の一無位の真人(1-3)

 読者のお一人から、「あなた(筆者)の考えには共感するところが多いが、神や霊魂に関する部分については肯いかねません」とのメールをいただきました。筆者が体験した霊については、これまで何度も書きました。そこで今回は禅思想における神(仏)の意義についてお話します。

 典型的な自力本願の禅と、仏(神)に対して絶対の信頼を寄せる他力本願思想とは正反対だと思われています。しかしそれは誤解です。あの道元禅師は主著「正法眼蔵・生死巻き」で、

 ・・・(生死は)厭うことなかれ、願うことなかれ。この生死は、すなはち佛の御いのち(命)なり、これを厭い捨てんとすれば、すなはち 佛の御いのちを失なわんとするなり。これにとどまりて、生死に執著すれば、これも佛の命を失うなり。佛のありさまを留どむるなり。厭うことなく、慕うことなき、このときはじめて、佛の心にいる。ただし心をもて測ることなかれ、言葉をもて言うことなか れ。ただわが身をも心をも、放ち忘れて、佛の投げ入れて、佛のより行われて、これに従いもてゆくとき力をも入れず、心をも費やさずして、生死 を離れ佛となる。誰の人か、心に滞るべき(正法眼蔵 生死巻(別巻5)・・・

「生き死にのことは神仏におまかせしよう」と言っているのですね。考えるまでもありませんね。あらゆる宗教の根本は神(仏)です。

 ちなみに、有名な言葉「一切衆生、悉有仏性」を、ほとんどの人が「誰もが仏心(仏性)を持っている(だから誰でも悟ることができる)」と説いています。しかし、以前のブログでお話したように、道元の解釈は異なります。すなわち、「正法眼蔵・仏性巻」には、

・・・すなはち悉有は仏性なり・・・

とあります。つまり、この世のあらゆるもの、山も川も人間も植物も、すべての存在は(神)の真理の表われである、と言っているのです。それは他の箇所で、「山河大地、みな仏性海なり」とも説かれていることから明らかです。やはり神仏を思想の根底にしているのです。

 なお、「生死巻」は次のように続きます。

 ・・・仏となるに、いとやすき道あり、もろもろの悪を作らず、生死に著(執着:筆者)する心なく、一切衆生のために、哀れみ深くして、上を敬い下を哀れみ、よろずを厭う心なく、願う心なくて、心に思うことなく、憂うることなき、これを仏と名付く・・・

「正法眼蔵」は難解な書物として知られていますが、道元の思想は、じつはこんなにわかりやすいのです。

 禅と仏(神)(その2)  

 臨済宗の宗祖・臨済義玄(?-867)の「臨済録」には、有名な公案

 赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す

があります。「臨済宗・黄檗宗公式サイト(臨黄ネット)」では西村惠信「禅語に学ぶ生き方、死に方)を引用して、

 ・・・臨済禅師が弟子たちに向かって、「われわれのこの身体(赤肉団)の中に、一人の形の限定できない真実の〝人(にん)がいる。〝彼〟は、朝から晩まで五官を通して出たり入ったりしている。そいつをまだ見たことがない者は、見よ、見よ」と言われた。これこそ禅者が求めるべき、「真実の自己」なのだ・・・。

 臨黄ネットHPの担当者は・・・頬を抓(つね)ってみると、確かに他人ではない個体としての「自分」がある。しかしこれはもともと母の胎内から生まれ出たもので、やがて死ぬと棺桶に入れられる「肉の固まり」に過ぎない。しかし「私は」という自我意識が、その事実を見失わせる。
 木や石と違って人間には「意識」があり、その意識が他人ではない「自分」を自覚させている。こうしてわれわれは自我意識を「自分」だと勘違いしている。木や石と違って人間には「意識」があり、その意識が他人ではない「自分」を自覚させている。こうしてわれわれは自我意識を「自分」だと勘違いしている・・・意識は鳥の声とか、花の色というような外界のものが、感覚器官に入ってくる瞬間に起こるものであるから、もし何にも入ってこなかったら自我の自覚もないであろう。こうして「自己」というものの内容は、肉の固まりと感覚器官を通して入ってくる経験によって成り立っているのである。
 道元禅師はこのことを「本来の面目」(真実の自己)と題した歌で、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」と歌っているのである・・・ と言っています。

筆者のコメント:いかがでしょうか。じつは、これでは「意識」と「感覚」と「真実の自己」がごっちゃになっていますね。それぞれ意味がまったく異なります。それが重要なのです。

臨黄ネットではもう一つの解釈、

 山田無文の「無文全集 第五巻 臨済録」(禅文化研究所)引用して、

・・・赤肉団上に一無位の真人あり、肉団はお互いの肉体のことだ。無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。皆の体の中に一人一人、無位の真人という、生まれたまま、そのままで結構じゃという立派な主体性がある・・・常に汝等諸人の面門より出入す・・・

その主人公が、その主体性が皆の面門より、五感を通して出たり入ったりしておる。外へ飛び出して、きれいな花となって咲きもするし、美しい鳥となってさえずりもする。虫が鳴けば虫の中に真人がおる。山を見れば山が真人だ。川を見れば川が真人だ。全宇宙、お互いの感覚の届くところはどこへでも行く。主観も客観もぶち抜いて、そこに一人の真人がはたらくのである。こういう立派な真人が、仏が、皆の体の中にちゃんと一人ずつござるのじゃ。未だ証拠せざる者は、看よ、看よ・・・この無位の真人を見ていくのが禅というものじゃ。

これについて臨済宗黄檗宗公式HPの担当者は、

・・・無文老師が説かれたように、私達には生まれながらに「一無位の真人」という主体性が備わっています。その仏の心を自ら発見するのが臨済禅の根本です。それは、その時その場で精一杯生きる己の「こころに向き合う」ということです。

・・・と解説しています。

筆者のコメント:一体これはどういう意味でしょうか。「一無位の真人という主体性」という抽象概念でしょうか。「こころに向き合う」という行動でしょうか。いずれにしても臨済宗や黄檗宗は、まさに臨済の思想を継ぐ宗派でしょう。しかるに臨済の思想の要諦であるこの公案についての公式見解がこのようにバラバラで、しかしハッキリしないではどうしようもありませんね。それにしても坊主は歳を取るとどうして「・・・じゃ」などと言うのでしょうか。

 筆者はこれらとはまったく異なる解釈をしています。それを次回お話します。

禅と仏(神)(その3)
 まず、これから筆者がお話しする言葉の定義をします。「感覚」とは、眼や耳、鼻などのいわゆる感覚器官から入って来た情報の認識を指します。たとえば「リーンリーン」という音がする」という神経作用です。ただし、そこには「あっ鈴の音だ」という「判断」は入っていません。次に「心」です。心=人間の意識とします。一方「魂」は「その人の本体、その人そのもの」を指します。注意していただきたいのは、魂は死後の姿、すなわち霊魂とは、必ずしも一致しません。
「本当の我」は神に通じる
 筆者は、臨済禅師の言う一無位の真人とは、本当の我(本当の自己)のことだと思います。
 重要なことは「本当の我」は神に通じているということです。神の一部と言ってもいいと思います。この考えは基本的にはインドに古くからあるヴェーダ信仰(のちにヒンズー教となり、現在に続いています)。理論体系としてはウパニシャッド哲学と呼ばれます。この思想の要諦では、人間の本体を「個我(アートマン)と呼び、神をブラフマンと呼びます。そして信仰の究極の目標は、アートマンとブラフマンとの一体化にあります。「個我」は魂の事であり、筆者が言う「本当の我」です。「魂(本当の我)」は人間が生まれる前から持っており、この世にあるときはもちろん、死後も消えません。つまり肉体が生まれ変わり(輪廻転生)しても消えることはありません。「本当の我」を「本来の自己」と表現する人もいます。
 
 くりかえしお話しているように、釈迦仏教は、ヴェーダ信仰のアンチテーゼとして生まれたものですから、初めから固定的な「個我」とか、輪廻転生いうものは考えません。では「神」についてはどうでしょうか。これまでの仏教哲学では必然的に「神」というものは認めません。ただし、釈迦は「そんなよくわからないことについては考えるな」と言っただけです。しかし、釈迦など究極の悟りに達した人が仏(神)を体験しなかったはずがありません。
 臨済禅師も瞑想が進むうちに一無位の真人、つまり本当の我、そして神の存在を実感したのでしょう。


 何度もお話しているように、筆者は神の存在を実感しています。筆者の研究グループが明らかにしたあるタンパク質の遺伝子構造を眺めている時、パッと「生命は神が造られた」と直感したのです。

読者の質問に対するお答え

 gabaebさん(筆者が付けたお名前)から次のようなメールをいただきました。

タイトル:コメント返して下さい、つらいです

内容:瞑想を深めれば、自分はパッパッ、と移り変わってゆく思考の連続そのもので、世界も自分の考え、幻なのだと解る。また、一切の事柄は、自分も含め考えだから、あらゆる事柄に本当の根拠はない。神、無条件の愛、いま、ここ、など、『これ』が大切だ、というのは本当はない絶対的なものにたいする執着だ。これらを理屈抜きで理解し、あらゆる考えに対する囚われ(自分は在る、苦等)を手放すことが悟りだ。と、とあるサイトに書かれていて、自分が辛いのも、結局自分に対する執着なのかなあ、と思ってしまいました」。

筆者のコメント:一読させていただいて、あなたは「ただ意識だけがある」という、いわゆる唯識的思想に少々執着しているのだと思います。つまり、「世界も自分の考え、幻なのだ。一切の事柄は、自分も含め『考え』だから、あらゆる事柄に本当の根拠はない」という考えに囚われているのでしょう。筆者は「唯識思想には原理的欠陥がある」とすでにお話しました(ブログ「唯識と禅」)。以下、お答えを一つずつ述べます。

1)唯識思想の欠陥:「あらゆるものに本当の根拠はない」は、仏教の伝統的考えかたです。私は「それはまちがいだ」とこのブログシリーズで何度もお話してきました。仏教のこの根強い考えは、釈迦が唱えた「縁起と無常の法則(?)」についての誤解から始まりました。まずそこからお話します。

 誤解の原因は、仏教思想の中興の祖と言われるインドの龍樹(ナーガールジュナ、AD150-250頃の人)から始まります。もともと仏教思想の要諦は、「縁起と無常」であると言われてきました。「あらゆるものは原因があって生じる」と「あらゆるモノは変化する」という意味ですね。じつは釈迦が唱えた「縁起」とは、「あらゆる苦しみには原因があることに気づきなさい」という、素朴な、しかし大切な「生きる知恵」だったのですが、龍樹がそれを拡大解釈し、「あらゆるモノは縁(つまり原因)によって生じる。縁がなくなれば消える」としました。龍樹の空思想ですね。

 この考えは仏教のもう一つの根本理念である「無常」(あらゆるものは変化する)と結びつき、さらに「あらゆるモノゴトには実体はない」と拡大されました。それは「それゆえ苦しみや悲しみは実体のないモノゴトに囚われているから生じる」という「教え」の原理として都合がよかったからです。この考えの延長に唯識思想があります「モノはなく、それを見た(聞いた、さわった・・・)私の意識だけがある」という思想ですね。現代でも著名な仏教家のほとんどは、この「モノという実体はない」という考えに囚われています。しかし、「モノ」の実体はあるのです。何よりの証拠は、コツンと叩かれれば痛いのです。実体があるからこそ「色即是空・空即是色」という、有名な般若心経の理念が成り立つのです。まちがった思想にこだわることはありません。

 2)一方、gabaebさんがブログで慧〇さんは、「人間の思考や怒りや不安などの感情は、エゴの意識で見たモノゴトの認識に基づく。モノゴトを観照意識(六根、つまり、五感と意を通して起こってくるこの世界をただ観る、ただ感じる)で正しく観ることが真我への道だ」と言っているのですね。それをgabaebさんは「ただ観る、ただ感じる」が「意識だけがある」と飛躍したのではないでしょうか。たぶん観照意識の考え(非二元論)は、上記の仏教思想から来たものでしょう。元が誤りなら・・・。ちなみに筆者は慧〇さんはのように「私は悟りに達した」と公言する人を信じません。

3)「神、無条件の愛、いま、ここ、など、『これ』が大切だ、というのは本当はない絶対的なものにたいする執着だ」について、

 筆者は、神の存在を頭ではなく直感で信じています(その経緯はブログに書きました)。つまり、「実在する」と確信しており、こだわるかどうか以前の問題と考えています。また無条件の愛は、どんな未開の人たちにも、いや犬や猫にさえ、子供に対する愛として持っています。つまり、まぎれもなく「ある」のです。執着するかどうかの問題ではありません。一方、「いま、ここ」は、禅の要諦で、「正しいモノゴトの観かた」ですから、信じるかどうかは、各個人の問題です。筆者は正しいと信じています。

 以上、やはりgabaebさんは少々、「意識だけがある」という唯識的考えに囚われていらっしゃるようです。ちなみに筆者は生命科学の研究者として生きてきましたが、「あらゆる既存の知見や理論は『信じつつ、信じない』」を戒めとしてきました。筆者が「混線しているのではないか」と指摘した理由は、これで納得できましたか?もしまだ疑問が残るようでしたら、もう一度お便りください。

ヨガの聖者が書いた「般若心経」解説

 世界的に有名な日本人ヨガ指導者Aさんが書いた「般若心経」の解説があります。今回はその読後感をお話します。

 別記のように、そもそもヨガはインド古来のヒンズー教の修法です。何度もお話しましたように、釈迦の仏教はヒンズー教やそれ以前のヴェーダ信仰を乗り越える新しい宗教として生まれたものです。そのヨガの人が「般若心経」を解説するのは、筆者にとって、キリスト教の神父が禅を説くより奇異に感じます。

 Aさんは、

 ・・・釈迦はプラクリティという物質の源に還ること、消えること、つまり、「無我」を体験した。そのプラクリティと結合して、宇宙を創造したプルシャがある。それを生み出すのがブラフマン(究極の存在、神)である。そこからすべてが生まれる。それを般若心経では「空」と言った・・・と言っています。プラクリティもプルシャもブラフマンもすべてヒンズー教(その前身のバラモン教)の述語です。

 要するにAさんはヒンズー教の立場から釈迦の教えを解釈しているのです。驚くほかはありません。

 「般若心経」の要諦、色不異空 空不異色 色即是空 空即是色についてAさんは、、

 ・・・見えて形のあるものは、本当の姿は何もないのですよ。何もないところから、形のあるものが現れるのです。それ故に、見える形のあるものは、空なのです。つまり消えてなくなるものであり、何もない、空から、見えて形のあるものが現れるのです・・・

つまり、「空」を「なにもない」と解釈していますね。ところが問題は、この人の「空」の理解は多様なのですです。すなわち、

1)上記のように「何もない」との解釈

2)心の奥深くには、愛と静寂があり、その根源には「真理」があり、仏教では「空」があると言う。そこから生まれるのが「仏性(神性)」という「悟り」の意識である。

3)「空」の中にはすべてが含まれていて、創造する力がある。

4)本当の自分(筆者の言う「本当の我」)、魂、それを仏教では「空」という・・・その「空」は何もないということではなく、形はないのですが、永遠の存在である。

5)涅槃(悟り)の境地

6)「本当の自分」がつながる神

いかがでしょうか。なにやら取り止めがなく、筆者にはよくわかりません。

西田幾多郎博士の絶対無と禅の「空」(4) 禅の空思想

 西田博士の絶対無の思想は、筆者のこのブログシリーズで繰り返しお話している禅の「空思想」と共通しますね。西田博士の哲学が禅と深く関わっていることはすでにお話しました(前掲の拙著)。西田博士が、著名な禅の研究者である鈴木大拙博士と金沢の同郷、旧制高等学校も同じでしたし、「お互いに影響を受けた」のです。以下に、西田博士の絶対無と禅の空思想との関連について筆者の私見をお話します。 

色即是空

 「私がモノゴトを見る」という唯物的見方で見えたモノゴトが「色」で、「空(くう)」の観かたで観えたモノゴトが「真実の姿」です。これが色即是空です。

「空(くう)」で観たモノゴトの姿が神の世界

 「空(くう)」のモノゴトの観かたで観たモノゴトは、西田博士の言う純粋経験と同じように「見る私も見られるモノゴトも無い、ただ純粋な体験だけです(それゆえ「純粋」なのです)これこそ、禅で言う心身脱落(しんじんとつらく)の状態であり、神の世界(西田博士の言う絶対無の世界に合一するのです。これが「空(くう)」思想と絶対無との関係です。

 空即是色

私たちがふだん見ているモノゴトは、たとえ間違って見えるとしても実在しています。つまり、ふだん私たちが見ている「色(しき)」も、まぎれもなく一つのモノゴトの姿であり、それを無視することはできないのは当然です。ここが「空」を縁起の法則で解釈している人たちとの相違点です。大切なことは、モノ、つまり「色」も神(絶対無の世界)によって作られたということです。「色」すなわち宇宙も山も川も人間も絶対無の世界、つまり神によって造られました。それゆえ、その本質は「空(くう)」の観かたで観たものと同一ですが、私たちに知恵が付いてしまったのでモノゴトを観る眼が曇ったのです。これが空即是色の意味です。藤田一照さんのように「まあ細かいことは・・・」などと言ってはいけないことがおわかりでしょう。

 「即」の意味

 般若心経で、「色即是空」に続いて「空即是色」と書いてあることについて、筆者は「単なる語呂合わせなどではない」とお話しました。もちろん「即(すなわ)ち」ではありません。禅では、色と空、つまり、観たモノゴトと見たモノゴトは「同じではないが違ってもいない」と言います。不一不異です。ことほどさように、筆者が「即は『すなわち』ではなく即座の即だ」と言いますのは、「色は即座に空、そして空は即座に色だ」と言う意味です。

「空」の理解は悟りへの重要なステップ

 「空」の正しい理解なくしては悟りには至れません。悟りの第一段階です。筆者がこのブログシリーズで「空」の正しい意味を何度もお話しているにもかかわらず、なかなか読者の皆さんに浸透しません。わかっていただいた人は一部です。相変わらず、龍樹の「空」理論を根拠に「空」を縁起で理解している人が多いのです。「空」の理解は、筆者の言う「本当の我」に通じる道なのです。「本当の我」は神の一部です。

最短時間で悟りに至った人

 アルボムッレ・スマナサーラ著「パティパダー巻頭法話 No.35(1998年1月)」
より。スマナサーラさんはスリランカ上座部仏教(テーラワーダ仏教)の長老であり、日本テーラワーダ仏教教会会長でもあります。スマナサーラ師のお話を聞いたことがありますが、日本語がとてもお上手です。スリランカは日本仏教が大乗仏教であることと対照的に、初期の上座部仏教が伝わって現在に続いています。筆者もスリランカ中部のキャンデイの寺院で短期間瞑想修行をしたことがあり、共感するところが多いのです。エピソードの内容は、

 ・・・自分は「悟った人」と思っていた元インドの商人バーヒヤが友人に「君は聖者でもなく、聖者たる者はどのような人かということの一かけらさえ知りません」と友人は言われ、非常にショックを受け、我に返った。そこで彼は「どうか私に聖者になる道(悟りへの道)を教えてください」と友達に懇願しました。すると友達は言いました。「私はその道は知りません。人間の間に今、仏陀が現れています。彼が伝道して多くの人々を悟りへ導いています。その釈迦牟尼仏陀に会って指導を受けてください」バーヒヤは、その話を聞いてすぐすべてを捨てて立ち上がったのです。何カ月もの日々をかけて仏陀のおられる北の方へ旅をし、托鉢中の釈迦に会いました。

 仏陀は「食事の後教えますから、待ちなさい」とおっしゃいましたが、バーヒヤは引き下がりませんでした。「人は生きていれば、いつでも食べられます。ですが人間はいつ死ぬかわかりません。その前に清らかな心を作ることこそが最優先の目的ではないでしょうか」この言葉には、釈迦尊も何も言うことがありませんでした。そこで釈尊は立ったまま説法を始めました。


「バーヒヤ、見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない(対象にわれない)。内にもいない(心の中にも執着が生まれない)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない。それは一切の苦しみの終わりである」

 この言葉を聞いただけでバーヒヤは完全に悟りを開いて、阿羅漢になりました。瞬間のできごとでした。彼は後に釈迦の弟子の一人として認められました。

筆者のコメント:あらゆるモノゴトを認識(見た、聞いた、嗅いだ、味わった、触れた)したときに一切の判断を入れないという、「空の観かたで観たモノゴトの認識」こそ、悟りへの最短距離だと言っているのですね。ただし、頭で理解しただけではダメです。全身で体験しなければ。