「未分類」カテゴリーアーカイブ

死後の世界はあるか―立花隆さんへの反論(2)

結論から先にお話します。

 眼に見えない世界があるかどうかは、体験したことがあるかどうかに懸っています。さらに、体験したことがないのに体験者を批判する資格はありません

 立花さんが「個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするかどうかの問題ではない」と言っているのは誤りです。筆者は霊の存在を何度も体感しています。それらはたんなる情念の問題ではなく、明白な生理的変化を伴うものです。したがって現在では実測可能なものなのです。血圧や脳波、心電図の変化のように、です。それらのデータを詳細に集めて検討すれば、おのずと死後の世界について知る手掛かりが得られるはずでしょう。筆者は今からでもその研究をスタートできます。機会はいつでも作れます。協力者と測定器具が必要ですが。

 これらの現象を科学として研究するにはいくつかの課題があります。科学的に証明されるためには、条件さえ整えれば誰でも同じ結果を得られること、でしょう。その難しさが立花さんをして「情念の世界だ」と言わせたのだと思います。しかし、筆者の計画に従えばいつでも立証できるのです。

 ただ、筆者は心霊現象や神霊現象を体験したのであって、死後の世界があるかどうかとは別の問題です。それでも立花さんが熱心に求めたそれらの体験はしたのですから、一歩を踏み込んだことは間違いありません。死後の世界があることが多くの人に納得されれば、人間の死生観は根本的に変わるでしょう。ちょうど、宇宙に知的生命体がいることが確実となれば、私たち人類の人生観が180度変化するのと同じように。人が死を恐れるのは、死後の世界などなく、この自分という意識が無になってしまうことを恐れるからでしょう。

 立花さんは臨死体験を手掛かりにし、死後の世界の存在の有無についてアメリカやカナダ各地の大学研究所を精力的に取材しました。中でもカナダのパイケル・パージンガー教授らが「脳に弱い電流を流すと臨死体験ができる」と言う研究所を訪れて実際に被検者になったほどです。「何も感じなかった」そうですが・・・。しかしそれだけで「卒業した」と言うのは早計なのです。海の底を調べるのに山に登るようなものです。筆者はまったく偶然の機会から、別の道へ入りました。そこでは最初から神秘体験をし、その後、いやと言うほど多くの心霊体験をしました。ある神道系教団で霊感修行をしたことがきっかけです(別に霊能を開発したいと考えて入ったのではありません。そこではたまたまそういう修行をやっていたのです)そこでは霊の存在など日常会話でした。

死後の世界はあるか―立花隆さんへの反論(1)

 立花隆さんは「人間とは何か」について強い興味を持った人でした。その一つが「死後の世界はあるか」で、究極の疑問は「神は存在されるか」だったと思います。立花さんがそれらを解決する糸口として精力的に取材をしたのは「臨死体験」でした。関連した著作には「臨死体験」(文芸春秋)「脳死」(中公文庫)「死は怖くない」(文春文庫)「宇宙からの帰還」(同)などがあります。立花さんについてはすでに以前のブログでもお話しました。今回は死後の世界があるかどうかについて筆者の体験に基づく反論です。

 立花さんは「それは僕にとっては解決済みの議論だ」と言っています。その意味は、「死後の世界があるかどうかは、個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするかどうかの問題ではない」と言うのです。立花さんが哲学科で学んだことの中で一番大きな影響を受けた、ドイツの哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉「語りえぬものについては沈黙せねばならぬ」を引用しています。

 立花さんは、改めてお話する必要もないほど真摯な探求者ですから、納得できない人たちに対する批判は激烈です、たとえば、

・・・・最近日本で評判を集めている東大医学部付属病院救急部の矢作直樹氏(註1)のような例です。最近彼は週刊誌で(註1)、TVの怪しげな番組に出まくって霊の世界がどうしたこうしたと語りまくる江原啓之なる現代の霊媒師のごとき男と対談して「死後の世界は絶対にある」と意気投合していましたが、これが現代の東大教授かと口あんぐりでした。ああいう非理性的な怪しげな世界にのめりこめないと「死ぬのが怖くない」世界に入れないのかというと、決してそうではありません・・・」(以上「死はこわくない」文芸春秋)、「生、死、神秘体験 対話篇」(講談社学術文庫)。

筆者のコメント

 まず、筆者も矢作さんや江原さんのお名前は知っています。ただ、著作を読んだり、テレビ番組を視聴したことはほとんどありません。やはり「?」と感じるところが多いからです。それにしても、「立花さんそこまで言うか?」ですね。霊的世界を考えることが、非理性的で怪しげかどうか。それについても後ほどお話します。

註1 立花さんが強く批判した元東京大学病院救命救急センターの矢作教授と、江原啓之さんの対談は筆者も読みました(「週刊現代」 56 (32), 176-179, 2014-09-20講談社)。江原さんが多くの霊的体験を持つことはよく知られている通りでしょう。それに対し、矢作さんは、そのような体験は皆無のようです。ただ、命が旦夕に迫った患者の「お迎え現象(註2)をよく見た」に過ぎないようです。立花さんに痛烈に批判されても仕方がないと思います。

註2死が近づいたころ患者が見る「母がすぐそこに座っていた」というような幻影。

禅はむつかしくない(5)風化を恐れるのは誤りです

 禅の要諦を一言で言えば(ずいぶん乱暴ですが)、「こだわらない」ことでしょう。苦しかったこと、悲しかったこと、そして無念だったことが本当につらいのは、じつはそれらを繰り返し思い出すことにあると思います。繰り返して思い出すことによって思い出は増強されるのです。あの東日本大震災で大切な家族や家を失った人たちがよく、「風化していくのが怖い」と言います。テレビもそれを斟酌し、NHKなどは10年以上、あれやこれやと関連番組を放送しています。多くの友人が「わかったわかった。つらい話はこちらの心も重くするので、いい加減にしてほしい」と言っていました。

 そのとおり、筆者は「風化」こそ、人間が苦しみから逃れるための本能だという気がします。大切な家族を失った当初は、それこそ「寝ても覚めてもその人たちのことを思い出す。しかし1年もたつと一日に一度になり、3年も経過すると週に1回になり・・・と少しづつ忘れていくものではないでしょうか。それだからこそ、人間は現実に帰って、立ち直って行けるのだと思うのです。「風化するのが怖い」という考えはそれに逆行するのではないでしょうか。むしろ大切なことは、つい思い出しそうになったら、「アッ」と止めるのです。少しのトレーニングが必要ですが、くり返していると、だんだん上手になってきます。そして、忘れて行けるのです。とても大切な人間の知恵だと思います。

 誰でも一生のうちには、大変なことが立て続けに起こることがあるものです。筆者にもそういう時期がありました。父母の病気のこと、仕事のこと・・・。そういう時は、次から次へと良くない連想をするものです。そのとき筆者の心配を軽くしてくれた二つのアドバイスがありました。一つは筆者の大学の嘱託医の言葉「将来のことを悲観的に悲観的に考えるのではなく、起こることを一つずつ解決していくのです」と。もう一つはある宗教家の「今あれこれ心配していることが全部起こるわけではない」との教えです。キリスト教でも「明日のことを思い煩うな。 明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ6章34節)」と言います。とても勇気付けてくれる言葉ですね。

 そして筆者の問題もその通りになり、解決したのです。

 これらはいずれも禅の「空」の概念に当てはまるのです。「空」の思想は「今を生きる」です。これらの言葉や思想は、人間が長い間、さまざまな苦難に出会って獲得した叡智なのです。

立花隆さんの死生観(2)

  「知の巨人」と言われた立花隆さん(1940-2021)は、晩年にはガンになりました。検査の動画が残っていますが、膀胱に明らなガン組織がありました。しかし、「おもしろいなー。この映像はもらえるのかなー」とは立花さんらしいですね。それをきっかけに立花さんはガンについても世界中を飛び回って旺盛に取材をし、講演で「私はがんばるつもりのないガン患者です(なぜなら)いろいろ調べてみますと、いま、どんどんガンの本質がわかってきているのですが、ガンにはどうしても徹底的にコントルーすることがきわめて難しいということが十分わかって来ています」と結論し、最後は一切の検査も治療も拒否して亡くなられました。

 筆者は、「ガンにはどうしても徹底的にコントルーすることがきわめて難しい」という理由が気になりました。立花さんは「ガンは半分はエーリアンであるが、半分は自分である」と言うのです。「半分は自分」とは、「自分の免疫機構や、キズの修復機構がガンの増殖を促進する」という意味です。その点を調べてみますと、前者については、

・・・ガン細胞は死ぬとき、人間の免疫機構を妨害する物質を放出する・・・・それによって仲間のガン細胞に対する人間の免疫機構の攻撃を妨げるのです。後者については、ガン組織が壊れると人間の修復機構が働いて壊れるのを防ぐと言うのです。怖いことですが、それが人間なのですからどうしようもありません。

 いずれにしましても立花さんは、これらの「知識」に基づいて、一切の検査も治療も止め、亡くなられました。それはそれで筋の通った死生観ですね。ただ、それがすべての人に当てはまるかどうかはわかりません。第一、病気というものは患者によってじつに様々なのです。たとえば同じ糖尿病と言っても原因や病態は患者次第で、治療法も一人ひとり違うのです。つまり、糖尿病と一括りにできないほどなのです。立花さんの多くの映像でタバコを吸っています。おそらくそれが膀胱ガンの原因になったのでしょう。鏡検の様子も写っていましたが、明瞭なガン組織が見えました。しかし、たとえ検査結果が立花さんと同じように見える人でも、立花さんと同じ経過を辿ったかどうかわからないのです。ある人は手術をし、別の人は抗ガン剤の服用。抗ガン剤の種類もいろいろあります。筆者もガンの研究をしていましたが、「なぜガンになる人とならない人に分かれるのか」とか、「どうしてガンが治る人とそうでない人がいるのか」については大きな課題でした。それは今でも変わりません。「半分は自分」であることと関係があるかもしれません。

 以上、筆者は「知の巨人」立花さんは「知」に負けてしまったのではないかとも思います。いまお話したように、同じように見えるガンでも患者によって病態も抗ガン剤に対する反応もさまざまですし、最後まで「あるいは」とか、「ひょっとして」と一縷の望みを掛けながら生きようとする「あきらめの悪い」のが人間なのかもしれません。たしかに一切の検査も治療を止めた立花さんの死生観は筋が通っています。ことに立花さん自身が納得のいくまで調べた結果の結論ですから他人が口を挟む余地はないかもしてません。それでも筆者にはそれを心から受け入れることはできないのです。

 筆者が禅についてのお話をしたとき、会の参加者から「貴方の死生観は何ですか」との質問を受けました。筆者は「死生観など、〈その時〉になってみなければわからない」とお答えしました。天下の高僧が死に臨んだ時、弟子たちが期待を込めて「何かお言葉を」と。耳を澄ませていると「死にとうない」。「えっ」と驚くとやはり、「死にとうない」・・・・。筆者の60年にわたる文字通りの親友は、「ガンの治療は受ける。しかし延命治療だけは拒否する」と宣言しています。筆者も同感です。

ハイデッガーと禅(1-3)

 はじめに

ハイデッガー「存在と時間」(1)

マルチン・ハイデッガー(1889-1976)は当時ドイツ・フライブルグ大学教授。のち学長。主著「存在と時間」(1927)は、20世紀最高の哲学書と言われています。ナチスに協力したことは重大な汚点ですが、それでも彼の哲学は今に至るまで多くの人々に感銘を与えているのです。

 「存在と時間」は難解な書と言われていますが、翻訳書が中山元、細谷貞雄、熊野純彦らによって出版されています。入門書も仲正正樹によるもの(2015)、轟孝夫によるもの(2017)、竹田晴嗣によるもの(2017)池田喬によるもの(2021)などが次々に出版され、日本人の関心の高さが窺い知れます。難解であることも入門書の多さの理由でしょう。

 しかし、じつは本書はけっして難しくはないのです。ハイデッガーの「視点」さえ分かればいいのです。以下、用語の和訳については轟孝夫「存在と時間入門」を参考にしつつお話します。

 通例のように「存在と時間」にも、ハイデッガー独特の造語がいくつか使われています。「現存在」とか「世人」とか「本来性と非本来性」というふうな。とくに後者は、特に難解なので、使うのをことさら避けている研究家も少なくありません。哲学者は、いつもその理由として「そういう造語をしなければ私の思想を十分に表現できないからだ」と言います。よくわかりますが、むつかしい概念を平易な言葉で表現するのが啓蒙家の使命ではないでしょうか?

 「存在と時間」を理解するには、やはりそれが書かれた当時のドイツの状況を知らねばならないでしょう。当時ドイツは第一次世界大戦に破れ、国家予算20年分にも相当する多額の賠償金を求められていました。その結果、ドイツのハイパーインフレは気違いじみたものになり、「パン1個1兆マルク」といった状態でした。

 第一次世界大戦はドイツ・オーストリアとイギリス・フランスなどによる帝国主義戦争でした。一方、ドイツに過大な賠償金を課した元凶がアメリカの巨大財閥であったことも、多くの心ある人は知っていたでしょう。また、死者1600万人という悲惨さを目の当たりにして、神の存在に疑問を持った人も多いと思います。つまり人々は、帝国主義や資本主義、共産主義のようなイデオロギー、そして神の存在に至るすべてに、心の拠り所を失っていたのだと思います。さらに、西欧は15世紀のルネッサンス以来、「人間の尊重」をとても重視してきましたが、それが個人や国家のエゴに変貌してきてしまったのです。帝国主義や民主主義の自由競争は、まさにその弊害でしょう。それを目の当たりにしたハイデッガーが「人間の本来あるべき姿に戻ろう」と叫んだのです。いわば第二のルネッサンスですね。そこがハイデッガーの偉大さだったと筆者は思います。

 本論

 ハイデッガーは、「人間のあるべき本当の姿とは何なのか」を追求したのです。前述の「現存在」とは、「私」のことです。なぜ「人間」と言わなかったのか?それは一般人(世人)のことではなく、他でもない「(帝国主義などに協力しなかった)私自身のあるべき姿とは何だったのか」と問いかけるためだと思います。

 ハイデッガーは「私」を二つに分けて考えました。一つは「世俗の価値観についつい従ってしまう(非本来性の)私」で、もう一つが「本来あるべき(本来性)の私」です。しかし、「本来あるべき私」の規範を「神の御心に則った生き方をする私」としてしまったら、それはたんなる「神学」になってしまいます。それでは従来と変わりませんし、第一、哲学者としての誇りが許さないでしょう。そこでハイデッガーは「本来性の私」という概念を作ったのです。その「本来性」と言う言葉が、現代の研究者にはわからないのですからどうしようもありません。

ハイデッガー「存在と時間」(2)

 本来性と非本来性

 多くの研究者が「この言葉はよくわからない」と避けています。しかし、じつはこの思想こそハイデッガー哲学の核心なのです。ここを避けてどうするのでしょうか。ハイデガーの文章を読むと、

非本来性とは「世俗的な考えの(人)」と言っていいと思います。つまり、多くの人々が考えるような時代の価値観に(知らず知らずに)同調している人です。では、

本来性とは何か。ハイデッガーはまず、「自らのを先駆的に意識できる人」と言っています。

死への先駆

「死の問題は、何よりも自分自身の問題であり、他人のものではない」と言うのです。そして「死の問題を考えることを契機として本来性の自分を考えよう」と言っています。「死への先駆が本来性を取り戻すカギである」。「自分独自の責任を引き受ける生き方は死を通じてこそ見つけられる」とも。「先駆的に」とは、「重病になってからではなく、予めの知性として」という意味です。「自分独自の責任を引き受ける生き方は死を通じてこそ見つけられる」とも。

良心の呼び声

 本来性に戻るためのもう一つの方法としてハイデッガーは、「良心の呼び声」と言っています。「別の生き方もできるはずだと気づかせてくれるのが良心の呼び声だ」とも。そして、「良心の呼び声は常に心の中から響いてくる。それを自分のものにしよう。多くの場合、そうするには決意がいるが」と言っているのです。そしてもう一つ、「気遣い」を挙げています。「おのれの存在を気遣う」ことです。さらに言えば「おのれの(良きあり方)本来性を気遣う」のです。

 時間について 

 じつは「存在と時間」には「時間」についての考察がほとんど行われていません。「おそらく、本来上下2巻にするはずが、1巻とせざるを得なかったため」が多くの研究者の意見です。筆者も上巻だけでは「時間」についてのハイデッガーの思想はよくわからないのです。しいていえば、「死を先駆的に(予め)意識していること」や、「おのれの良きあり方を予め気遣う」ことが「時間」と言っているのです。そちろん、それだけでは中途半端です。

筆者の解釈:「死」と「良心」については筆者も同感です。しかし、「良心の呼び声がどこから来るのか」についてはハイデッガーは何も言っていません。じつは下記のように、筆者の考えでは「(神につながる)本当の我の声」なのですが・・・・。

 さらに、本来性とは、ただそれだけでしょうか。前述のように、本来性を「神の御心に則った人間性」と言えばよくわかるでしょうが、「それではこれまでの神学と同じことになってしまう」とハイデッガーは考えたのでしょう。しかし、「死の自覚」と「良心の呼び声」では、あまりにも狭くなってしまうと思います。

 筆者は、それ以外に「その人の感性、さらには創造性」も入ると思います。すぐれた芸術家や科学者のインスピレーションのことです。「すぐれた」を入れなくても、誰にでもすばらしい感性はあります。凡人の感性はよく間違えますが・・・。筆者は本来性を「(神につながる)本当の我」だと考えます。「本当の我」については、これまでこのブログシリーズで何度もお話してきました。本物の感性は、禅で言う「悟り」です。

ハイデッガー「存在と時間」(3)

 他のモノとの関係

 ところで、ハイデッガーは「存在」の意味をもう一つ提示しています。すなわち、「存在」とは人間であるだけでなく、世界の他の事物も含まれるのは当然ですね。そこでハイデッガーは、自己と他己(他の事物、モノ)との正しい関係を重視しているのです。つまり、「私」と他のモノとの「根源的な存在関係を正しいものにすることが大切だ」と言うのです。もちろんこの「私」は真の(本来性の)私(現存在)のことです。ハイデッガーは、

・・・・人間が世界の事物と関わるときにその事物の「存在」を真正な仕方で理解することと捉えなおされるようになる。本来性と非本来性の区別は、真の「存在」が了解されているかいないかの違いである・・・・と言っています。

 要するに「本来の正しい私が見た他の事物のことです。本来性の私とは「モノゴトの真の〈存在〉を正しく認識できる者」であり、非本来性の現存在とは「それができない者」と言うのです。

 色即是空・空即是色

 じつはこのことは、禅でいうところの「正しいモノゴトの観かた」と共通するところがあります。つまり、ハイデッガーの言葉は、筆者の言ってきた「モノゴトを〈空〉の観かたで見るか、〈色〉の見かたで見るかの差」と言い換えられると思うのです。これについては筆者のブログで繰り返しお話してきました。ハイデッガーの考えは、要するに色即是空なのです。

 しかし注意すべきは、禅では「色即是空」と言いつつ、「空即是色でもある」と言っていることです。そして両者は「一如だ」と言うのです。その通りで、禅の思想の方が、ハイデッガーに思想より一段とすぐれて深いと筆者は思うのです。

 いずれにしましても、ハイデッガーの思想は東洋の禅思想に共通するところが多いのです。これが当時の西洋哲学者にとって新鮮だったのでしょう。

ハイデッガーの自己矛盾

 しかし、ハイデッガーはヒトラー・ナチス党の政策を評価して自らも党員になりました。それどころかフライブルグ大学学長として学生たちに「革新である」との檄を飛ばしたのです。ヒトラー・ナチスに率いられたドイツがどのようなことをして、どのような終末を迎えたのか。それは結果論だったのか・・・・。ハイデッガーは明らかに、大勢に流された、非本来的現存在だったのです。言い逃れようのない自己矛盾ですね。

 ハイデッガーがなぜこのような錯誤をしたのかは興味を搔き立てられるところです。

 以上、ハイデッガーの思想はけっして難解ではありません。