父母未生以前のこと(3)‐山岡鉄舟(その1)

父母未生以前のこと(2‐その2)山岡鉄舟と禅

 慶応4年(1868年)3月14日、西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁・勝海舟の会談が、芝・田町の薩摩藩邸で行われた結果、江戸総攻撃が回避されたとされています。しかし、じつはその5日前に 山岡鉄舟(鉄太郎1836‐1888 註1)が、駿府に居た西郷のもとを訪れ、勝から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願したことの方がはるかに重要だったのです。西郷・勝会談は絵にもなって有名なのですが。山岡は維新後、勝や大久保利通などに請われて明治天皇の侍従(最終位は宮内少輔)という目立たない職に就きましたので、それほど有名ではないのでしょう。
 一方、「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬという始末に困る人ですが、あんな始末に困るような人ならでは、お互いに腹を開いて、ともに天下の大事を誓うわけにはいかない」は、西郷の人間像を表わす有名な言葉として知られていますね。しかし、じつはこれは、西郷が勝に言った山岡鉄舟を評した言葉だったのです。歴史の「話」というものはそういったものなのでしょう。
 山岡(33歳)が西郷に会うために駿府へ乗り込んだときは、文字通り命懸けだったでしょう。心配する勝(44歳)に「殺されるかもしれない。しかし、静かに両刀を解いて差し出し、いかようにも先方に任せて快く処置を受けよう。いかに敵だとて、かりにも人一人を殺すのに一言も言わせず切り殺すようなことはしないだろう(筆者簡約)」と言い、勝は感服したと言っています(註2)。

 山岡鉄舟と禅(その1)
  山岡は十三歳のとき生死の問題に直面し、生死克服の道について父に尋ねたところ、「わが先祖は剣法を修め、禅の蘊奥をきわめて東照公(家康)に仕え、しばしば戦功をあらわす、今、汝心を練らんと欲せば、禅学を修むるにしくはなし」と言われ、生涯を通じて剣、禅共に修行を続けたと書いています。禅に対する誠心誠意は、一・六の休日ごとに、前日夕食を済ますと江戸から徒歩で三十余里先の伊豆・三島にあった竜沢寺の星定のもとへ12時間近くかけて赴き、3年間修行に励んだことから伺われます(註3)。山岡は明治十三年(46歳)に透過大悟したと言っていますが、すでに23歳のとき「宇宙と人間」(模式図:筆者)を書き、

 ・・・我の思わくは、人の心は宇宙と同じからざるべからず。心すでに宇宙と等しからば、天地万物、山川河海もまた我が身と等しかるべし・・・

の境地に至っています。つまり、禅の要諦父母未生以前のこととは、「人間を含む天地万物は宇宙(=神)と一体だ」と言っているのです。

註1父・小野朝右衛門は600石の旗本で飛騨(米で言えば10万石)支配の代官でした。
註2「鉄舟随想録」安倍正人編・勝海舟評論(国書刊行会)
註3 大変な健脚だったと弟子が記しています。