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相川圭子さんの般若心経

 相川圭子さん(1945-)は、ヒマラヤで厳しい修行を重ね、女性として初めて究極の悟り「サマディ」に達した、ヒマラヤ大聖者と言われる人です。その相川さんが「般若心経」について解説しています(「愛の般若心経」さくら舎2016)。

 ・・・「色即是空・空即是色」とは、

見えて形のあるものは、本当の姿は、何もないのですよ。

何もないところから、形のあるものが現れるのです。

それ故に、見える形のあるものは、空なのです。

つまり消えてなくなるものであり、

何もない、空から、見えて形のあるものが現れるのです・・・。

 相川さんはこの考えをヒマラヤヨガの秘教に基いて得たようです。(以下、言い回しは「です調」から「である調」に替えました:筆者)。

 ・・・ヒマラヤ秘教では、物質の最小のもとは「プラクテイ」と言う。それと究極の純粋な存在、「プルシャ」のエネルギーが「プラクテイー」と感応して、宇宙の創造が展開してゆく。見えない世界から形の見える宇宙が現れてくる。そのことをデイセンデイング(descending下がって行く:筆者)と言う。それらの形あるものはやがて、また消えていく。それら形のあるものは、見えない存在になっていく。それをアセンデイング(ascending上がって行く)と言う。そのようにすべてのものは消滅を繰り返している。瞑想をして、この小宇宙の肉体をとおして、それを体験して行く。そして創造の源のところへ戻って行く。そうして次に生まれることを理解する。

 つまり物には形があり、それに「色」という言葉を当てている。そして、そうした形のあるものは変化するものであり、何もない、実体がないものだ。般若心経はこれを「空」と言った。さらにその「空」のなかから、また現象が生ずる。また「空」であっても、その中にはすべての現象を創り出す力がある。その形のないものになったそこには、永遠の存在があり、そこには生み出す力がある。すべての減少は、そこから生まれる。・・・創造の源をヒマラヤ秘教では、真理と言う。人はそれを「神」と呼ぶ。インド哲学ではブラフマンと言う。それを大乗仏教では「空」と言った・・・。

筆者のコメント:もちろん筆者はヒマラヤ秘教を否定するものではありません。「プルシャのエネルギーがプラクテイーと感応して、宇宙の創造が展開してゆく」かどうかについても「そういうものか」と思うだけです。しかし、ヒマラヤ秘教の考えに基づいて般若心経を解釈しようとする相川さんの考えには無理があります。たんに、ヒマラヤ秘教の考えが頭にあって、般若心経を表面的に解釈したに過ぎないでしょう。こういう人は多いのです。柳沢桂子さんの般若心経解釈もそうでした。

 さらに、「形のあるものは変化するものであり、実体がない」という考えは、従来のわが国の仏教研究者たちの考えとなんら変わるところがありません。相川さんの「ブラフマンは大乗仏教では空と言う」の言葉は、ヒンズー教の人々からも、仏教側の人々からも異議が出るはずです。釈迦の思想は、ブラフマン(神)とアートマン(個我)との一致を理想とするヴェーダ信仰(ヒンズー教)の対立命題として成立したのですから。そしてなによりも「空」は「神」ではありません。「神の眼で見たモノゴトの真実の姿」です。

臓器移植:家族が最後を決める

 臓器移植は、言うまでもなく人の生死に関わる重要な問題です。先頃NHKスペシャルでも「家族が最期を決めるとき〜脳死移植 命めぐる日々〜」が放映されました。

 本人に提供の意思がなくても家族の承諾で臓器提供できるよう「臓器移植法」が改正されて11年で662例、法改正前の8倍になったとか。たとえ脳死状態になったことがデータの上ではっきりしても、「まだ生きられるのではないか」と家族が思うのは当然でしょう。しかし、いつまでもそうしているわけにはいかず、結局は臓器移植に進みます。決断の理由は、「本人が、いろいろな人の一部になって生きているという思い」、そして「提供された人たちの助けになっていること」とのこと。しかし、家族の悩みはその後も続いているようです。最大の葛藤は「提供を決めた時本人に死亡宣告をしてしまったという申し訳ない気持ち。本当にこれでよかったのかのかと自問自答するばかり、答えは見つかりません」と言っていました。痛ましいことですね。

  当番組では、「臓器提供を決断した家族」と、「断った家族」の三つのケースが紹介されました。どれも胸を打たれるものでした。とくに筆者の印象に残ったのは、ある消防士のケースです。45歳で亡くなったその男性は、救急救命士として生きがいのある人生を送っていましたが、危険物取扱課へ配置換えになってしまいました。妻の米山(こめやま)順子さんの言葉:

 ・・・家へ帰ってもぐったりしていることが多くなった。可愛がっていた子供たちに対しても必要以上に厳しくなった。これではお互いに悪影響を与えるようになるので、一度距離を置いた方がいいんじゃないかと、男性とは別居した・・・。そして男性は自死してしまったのです。

 そして順子さんは臓器移植に踏み切りました。決断の理由を順子さんは、「彼が以前、何気なく語った『(僕が脳死状態になったら)臓器提供してくれ、たとえ親戚から鬼嫁と謗られようとも』」と。救命救急士としては自然な感情かもしれませんね。しかし順子さんはその後深く悩みます。「私が殺したんだなあと言う思いは一生抱えて生きて行くんだなー。あの時家を出なければという想いはあります」と。さらに順子さんは言います「臓器提供を決断したということは、彼と重ねた時間があったからこそ、彼の思いを聞いていたからこそ。聞くことができたのはたのは何気ない日常の中でたくさんの会話を交わしていたからでしょうね。おだやかな時間でしたね。今思えば何気なくありふれていて、その時はその時間が特別なものだなんてこれっぽちも思わなかった。今思えばそんな日常がものすごく大切なものだったんだなー・・・」。順子さんは以前から看護師として働いていましたが、その後通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、一般社団法人臓器移植ドナー家族「くすのきの会」を立ち上げました(註1)。

 筆者は、これらの順子さんの言葉を聞いていて、だんだん不安になっていきました。このように順子さんの考えは理路整然として「よどみ」がありませんね。臓器移植ドナーの会を設立したのも、論理的思考の結果でしょう。頭のいい人のようです。しかし、筆者は「それがいかんのです。それがご主人を死に追いやったのです」と叫びたくなりました。

 たしかに順子さんは「私が殺したんだなあ・・・」と言っています。そのとおりなのです。しかし、残念ながら順子さんは、まだよくわかっていません。ご主人を追い詰めたのは「(しばらく)別々に暮らそう」との論理的思考に基づく提案だったのです。

 NHKは、順子さんが「くすのきの会」を立ち上げていたことには少しも触れませんでした。筆者にはその理由がわかるような気がします。NHKも何か違和感を感じたのでしょう。

 つらい思いを持ち続けている順子さんを鞭打つような言葉は、筆者もつらいですが、順子さんが、人間のすべてを論理的に割り切ろうとする気持ちが強いことをはっきり認識し、深く反省しなければ「くすのきの会」もうまく行かないのでは?不条理なものが人間なのだと思います。

臓器移植は、言うまでもなく人の生死に関わる重要な問題です。先頃NHKスペシャルでも「家族が最期を決めるとき〜脳死移植 命めぐる日々〜」が放映されました。

 本人に提供の意思がなくても家族の承諾で臓器提供できるよう「臓器移植法」が改正されて11年で662例、法改正前の8倍になったとか。たとえ脳死状態になったことがデータの上ではっきりしても、「まだ生きられるのではないか」と家族が思うのは当然でしょう。しかし、いつまでもそうしているわけにはいかず、結局は臓器移植に進みます。決断の理由は、「本人が、いろいろな人の一部になって生きているという思い」、そして「提供された人たちの助けになっていること」とのこと。しかし、家族の悩みはその後も続いているようです。最大の葛藤は「提供を決めた時本人に死亡宣告をしてしまったという申し訳ない気持ち。本当にこれでよかったのかのかと自問自答するばかり、答えは見つかりません」と言っていました。痛ましいことですね。

  当番組では、「臓器提供を決断した家族」と、「断った家族」の三つのケースが紹介されました。どれも胸を打たれるものでした。とくに筆者の印象に残ったのは、ある消防士のケースです。45歳で亡くなったその男性は、救急救命士として生きがいのある人生を送っていましたが、危険物取扱課へ配置換えになってしまいました。妻の米山(こめやま)順子さんの言葉:

 ・・・家へ帰ってもぐったりしていることが多くなった。可愛がっていた子供たちに対しても必要以上に厳しくなった。これではお互いに悪影響を与えるようになるので、一度距離を置いた方がいいんじゃないかと、男性とは別居した・・・。そして男性は自死してしまったのです。

 そして順子さんは臓器移植に踏み切りました。決断の理由を順子さんは、「彼が以前、何気なく語った『(僕が脳死状態になったら)臓器提供してくれ、たとえ親戚から鬼嫁と謗られようとも』」と。救命救急士としては自然な感情かもしれませんね。しかし順子さんはその後深く悩みます。「私が殺したんだなあと言う思いは一生抱えて生きて行くんだなー。あの時家を出なければという想いはあります」と。さらに順子さんは言います「臓器提供を決断したということは、彼と重ねた時間があったからこそ、彼の思いを聞いていたからこそ。聞くことができたのはたのは何気ない日常の中でたくさんの会話を交わしていたからでしょうね。おだやかな時間でしたね。今思えば何気なくありふれていて、その時はその時間が特別なものだなんてこれっぽちも思わなかった。今思えばそんな日常がものすごく大切なものだったんだなー・・・」。順子さんは以前から看護師として働いていましたが、その後通信制大学に編入し、学びを深め、社会の変化による悲嘆の癒しにくい現状、日本の移植医療、ドナー家族の現状を知り、一般社団法人臓器移植ドナー家族「くすのきの会」を立ち上げました。

 筆者は、これらの順子さんの言葉を聞いていて、だんだん不安になっていきました。このように順子さんの考えは理路整然として「よどみ」がありませんね。臓器移植ドナーの会を設立したのも、論理的思考の結果でしょう。頭のいい人のようです。しかし、筆者は「それがいかんのです。それがご主人を死に追いやったのです」と叫びたくなりました。

 たしかに順子さんは「私が殺したんだなあ・・・」と言っています。そのとおりなのです。しかし、残念ながら順子さんは、まだよくわかっていません。ご主人を追い詰めたのは「(しばらく)別々に暮らそう」との論理的思考に基づく提案だったのです。

 NHKは、順子さんが「くすのきの会」を立ち上げていたことには少しも触れませんでした。筆者にはその理由がわかるような気がします。NHKも何か違和感を感じたのでしょう。

 つらい思いを持ち続けている順子さんを鞭打つような言葉は、筆者もつらいですが、順子さんが、人間のすべてを論理的に割り切ろうとする気持ちが強いことをはっきり認識し、深く反省しなければ「くすのきの会」もうまく行かないのでは?不条理なものが人間なのだと思います。

悉有仏性(4)

 いかがでしょうか。仏教における重要な言葉、悉有仏性(しつうぶっしょうについて、道元は、それまでの仏教家とは異なる独自の解釈を示しました。しかし、筆者紹介した、道元の後継者であるはずの現代曹洞宗の僧侶たちの考えは、すべて誤りなのです。その理由をお話します。

 まず、もう一度道元禅師自身の言葉に戻りましょう。

「正法眼蔵・仏性」第2節、

 ・・・世尊道の一切衆生、悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来(是れ什麼物《なにもの》か恁麼《いんも》に来る)の道転法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。 悉有の言は衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髓のみにあらず、汝得吾皮肉骨髓なるがゆゑに・・・

言葉の意味とヒントだけお話します。

世尊道:ブッダの言葉

宗旨いかん:内容は何か

什麼物恁麼来(是れ什麼物か恁麼)に来る):「空」思想ですね。

道転法輪:ブッダの教え

正当恁麼時:まさにその時

 ・・・ブッダがおっしゃっている一切衆生悉有仏性の意味は何か(註3)。「あらゆるモノゴトの真実の姿は空(くう)である」ということだ。一切衆生とは、あるいは人々のことと言い、すべての生きとし生きるもののことと言い、(山川草木など)すべての存在のことと言う。「空」の思想こそ、ブッダ以来優れた師匠たちが連綿と伝えて来た仏教の本質である・・・。

 いかがでしょうか。道元は、悉有仏性を「悉有は仏性、つまり、すべてのものは仏の真理に従う」と言っているのです。道元の解釈がそれまでの仏教家、そして現代曹洞宗の僧侶とはまったく違っていることはおわかりでしょう。しかも、道元師が「仏性」を「空」と解釈しているのは、むしろ当然だと思います。

註3 釈迦が悟りを開かれた時、「我と大地と有情と同時に現成す、山川草木悉皆成仏」と感動の心で叫ばれたと伝えられています。つまり、「悟りを開いた目で見たら、すべてが空思想に従っていることがわかった」という意味です。その出典はわかりませんが、釈迦自身の言葉か、後代の禅思想家の言葉なのか興味あるところです。

悉有仏性(1-3)

一切衆生悉有仏性(1)

 1)「仏性」は「空」とも深い関りのある仏教の重要な概念です。この言葉を、伝統的な仏教では訓読して「一切の衆生は、悉く仏性を有する」と解釈してきました。もともと大乗経典である「大般(だいほつ)涅槃経」に書かれている言葉です。すなわち、「釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易(お釈迦様が言われるには(註1)「一切衆生悉有仏性、それは常住で、変わることが無い)」とあります。ほとんどの宗派では「人には誰もが仏となる性質、つまり仏性が具わっている」と解釈されています(註2)。「だから心の在り方を正し(僧侶は修行によって)仏になりなさい」と言っているのですね。しかし道元は「この解釈は誤りだ」と言っているのです。とても重要な指摘です。すなわち、「正法眼蔵・仏性巻」第2段に、

 ・・・世尊道の一切衆生、悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来(是れ什麼物か恁麼に来る)の道転法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。 悉有の言は衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髓のみにあらず、汝得吾皮肉骨髓なるがゆゑに・・・とあります。

 にもかかわらず、曹洞宗の人たちですら、道元のこの言葉を誤解しているのです。たとえば、

曹洞宗の解釈1)「曹洞宗東海管区教化センター」HPでは、

・・・そして道元さまは一切衆生、悉有仏性を「一切衆生はことごとく仏性がある」とは捉えず、涅槃経にありますように「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読み、ことごとくあるその全存在が衆であり、その内も外も全て仏性であると言うのであります。お釈迦さまの全存在、全行動が仏性であります。諸仏、諸祖の皮肉骨髄、頂寧眼晴(ちんにんがんせい:頭と眼:筆者)全存在、全行動が仏性であるということになります。さらに申せば森羅万象全てが仏性ということになります。また「仏性は成仏以後の荘厳なり」と説いておられます。一切は衆生であり、全存在が仏性であるというのであります・・・

筆者のコメント:「お釈迦さまの全存在、全行動が仏性であります。諸仏、諸祖(過去の優れた禅師たち)の皮肉骨髄、頂寧眼晴全存在、全行動が仏性である」は空疎な言葉ですね。まあ、ここまではよかったのですが、問題はそれ以下の解釈なのです。

「曹洞宗東海管区教化センター」HP(続き)

 ・・・しかし、この仏性は「弁道(はんどう)話」のところでもお話いたしましたように「修せざるにはあらわれず、証せざるには得ることなし」であります。発心し、修行し、菩提し、涅槃してはじめて現成するのであります。つめて言えば、正しい発心、修行、菩提、涅槃がそのまま仏性ということになります。
 自己のあるべき姿とは「自己をわするるなり」であります。つまり無我になりきることであります。それは自己と他己との対立を捨て去ることであり、執着を離れることであります。そうすることにより「萬法がすすみて自己を修証する」境地が開けるのであります。道元さまの言葉に修証一如というのがありましたが、実践の中に悟りがある、あるがままの実践が本来の衆生であり、全存在であり、悟りであります・・・。

筆者のコメント:とどのつまり、「仏となるには、正しい発心、修行、菩提、涅槃が必要だ」と言うのです。そんなことは今さら改めて言うことではありませんね。この著者は「仏性」を解説するのに、知識の片隅にあった「弁道(はんどう)話」とか、「自己をわすれる(現成公案編)」を引っ張り出してきて辻褄を合わせているのです。一知半解の徒がよくやることです。

次回もう一つの例を挙げましょう。

註1)よく「お釈迦様の教えの一つ」と言われていますが、何度もお話していますように、涅槃経は大乗経典の一つですからブッダの思想とは別のものです。

註2)華厳宗、天台宗、浄土宗、法華宗では「すべての衆生(人間)には仏性がある」と説いています。これに対し 法相宗では「仏性を有しない衆生もある」と言っています。さらに、華厳宗では「草木や国土などは心的作用を持たないので仏性が無い」と言うのに対し、天台宗では「これらにもすべて仏性がある」と言っています(以上「浄土宗辞典」より)。 

一切衆生悉有仏性(2)

 曹洞宗の解釈2)

 佐藤隆定さん(岐阜県美濃市霊泉寺副住職)は不思議なことに、「仏性巻」について色々な解釈をしています(「禅の視点-Life-・正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文」)。言うまでもなく、道元の「仏性」についての考えは一つであり、「仏性巻」は首尾一貫しています。

 佐藤さんの解釈①総合的解釈(「正法眼蔵第三「仏性」巻の現代語訳と原文Part①」より)・・・道元禅師が「悉く仏性を有する」と読むことに強い懸念をあらわすのは、「有する」と言ってしまうと、あたかも仏性というものが物体・非物体を問わずとも実際に存在し、それを我々人間が実際に持っているような感覚を生じさせてしまうからだと思われる・・・(中略)・・・仏性と言ったとき、やはり私たちは仏性というものを心と同じようなイメージで捉え、自分のなかに仏性というものがあるのだと錯覚してしまいかねない。または、「仏になる性質」が自分には具わっているのだという認識を持つかもしれない。しかし道元禅師はそれを断じて許さないのである。仏というものが、今の自分とは別にある深淵な境地であるとか、高度に位置する精神状態であるといった理解を、道元禅師は一刀両断に切り捨てる。自己と仏とを別物に捉え、仏や真理といったものを得るというような理解は、この語の真意ではないと。つまり自己と仏が同一のものであり、あらゆるものを仏のあらわれとして捉えることが理解のベースになるわけだ・・・

筆者のコメント:佐藤さんは「あらゆるものが仏の命の表われである。仏性とはその仏の命のことだ」と解釈しているのです。しかし、道元はそんなことを言っているのではないのです。

佐藤さんの解釈②(「正法眼蔵第三仏性巻の現代語訳と原文Part②」)

 (「正法眼蔵・仏性」第2節について)お釈迦様が残した言葉「一切衆生、悉有仏性」の真意とは何だろうか。それは、中国における第6祖、大鑑慧能が弟子の南嶽懐譲に問いかけた言葉「是什麼物恁麼来」と趣旨を同じくする。慧能は「何者が何をしに来たのか」と南嶽に問いただすことで、自分という存在を問う大命題を南嶽に突きつけた。自分という、この存在が何者であるのか。自分とは何なのか。畢竟、存在とは何なのか。

筆者のコメント:大鑑慧能と南嶽懐譲のやり取りについては、数回前のブログでお話しました。

佐藤さんの解釈③(「正法眼蔵第三仏性巻の現代語訳と原文Part③」)

 ここ(「正法眼蔵・仏性」第10節)では、四祖大医道心禅師と五祖大満弘忍禅師の問答をとりあげ、仏性とは何であるかを示そうとしている。特に、道元禅師が強く伝えようとしているのは「無仏性」という言葉。仏性について学ぼうとするものに、仏性とは「無」であると道元禅師は言う。「無」が指し示すものとは一体何なのか。

この問答とは、(以下佐藤さんの現代語訳)、

大医道心「姓は何という?」

大満弘忍(当時は子供)は答えた。「姓は有です。けれど、これは世間でいうところの普通の姓ではありません」

大医道心「普通の姓ではないというと、それは一体何という姓なのだろうか?」
大満弘忍「仏性という姓です」
大医道心「仏性などというものは無いぞ」
大満弘忍「あらゆる存在は『空』ですから、仏性を『無』と言うこともできるでしょう」

を指しています。

筆者のコメント:佐藤さんのこの解釈も間違いです。

 佐藤さんの「仏性」の解釈がさまざまなのはどういうことでしょう。要するに基本がわかっていないのです。

一切衆生悉有仏性(3)

  曹洞宗の解釈3)

 伊藤秀憲さんの解釈:「道元禅師と仏性」(愛知学院大学禅研究所「禅のこぼれ話」2015)

・・・誰もが仏心(仏性)を持っていますから、皆、仏様です」と説く方がありますが、本当に誰もが仏様なのでしょうか・・・道元禅師は「仏性を持っている」とは説かれないし、また、我々は本来仏でもないのです・・・道元禅師は「仏性は本来具わっていたり、外からやって来るものではない」と言うのです・・・ すでに顕れているのであれば、「修行は不要」となります・・・しかし、(道元禅師が)「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり」と書いているように、仏性は成仏以前に具わっているのではなく、成仏と同時であるというのです。本証(仏性)を実証するには、「正法眼蔵・弁道話」で「修証これ一等、修のほかに証を待つ想いなかれ」と述べられているように、修す必要があります。修のほかに証はなく、修が即ち証であります。本証の上において実修すること、それが本証を実証することになるのです。修を離れて、換言すれば、自己を措いて別に仏性が顕在しているわけではありません。道元禅師が仏性の顕在を説いても、それは行じるところにおいて言っているのですから、修行が不要とはならないのです。では、その行とは何かですが、ここでは紙幅の関係から論じることは出来ませんが、それは、只管打坐(しかんたざ)の坐禅です。

筆者のコメント:筆者の責任によってかなり要約しましたが、要するに伊藤さんは道元の言葉を「仏性は本来具わっていたり、外からやって来るものではない。修行が必要である。修行とはひたすら座禅することだ」と解釈しています。この考えは全く見当はずれですし、「ひたすら座禅せよ」では、わざわざ道元禅師が「仏性巻」を書く必要もないでしょう。

次回は筆者の考えをお話します。ただし、解釈ではなく「ヒント」です。

為末大さんと禅

 スポーツ選手が心の鍛錬として禅に興味を持つことはよく知られています。王貞治選手は参禅しましたし、川上哲治さんは、とくに監督になってから選手の育成に禅を取り入れ、「球禅一致」という言葉を残しました。

 為末大さんは、ハードルの選手として過去オリンピックに3回出場し、世界陸上競技選手権では2度メダルを獲得した人です。400mハードルの日本記録保持者であり、今もその記録は破られていない。輝かしい実績の裏で、禅をひとつの手掛かりとして、記録の伸ばすのはどうしたらいいかを考えてきたと言う。

 為末さんは、NHK「心の時代・瞑想でたどる仏教・・・心と身体の観察」で東京大学教授箕輪顕量さんと、「アスリートと禅」に関して話していました。番組を視聴して、為末さんは謙虚な人だと感じました。運動競技に禅が役に立つのではないかと考えているいる人で、「禅とハードル」(KKサンガ)という著書もありますが。しかし、けっしてそれを大上段に振りかざすのではなく、「仲間と、記録を伸ばす方法の一つとして禅を学ぶのは有効ではないかと話し合っているが、よくわかりません」と言っていたからです。

 同番組でアナウンサーの「運動競技には極度の集中が必要ではないですか」との質問に対し、「集中がうまく行くとゾーンと呼んでいる心の状態に入る。スタンドの声が小さくなり、体が動いているのを心が追いかけているような気がする。ゾーンの状態になると成績が上がる。しかし、その状態を科学的に表現するのはむつかしい」と。つまり「この状態は瞑想と関係があるのではないか」と言っているのですね。興味ある指摘だと思います。

 しかし、筆者は為末さんのその考えには疑問があります。というのも、筆者は中学生の運動会でまったく同じような体験をしているからです。クラブ対抗リレーで、筆者もバレー部員として参加しました。走り始めてすぐ、ただ観衆の「ワーン」とい声だけが聞こえ、視野はボーっとして、周囲だけに夕焼けの明るさが見えたのです。自分がどの辺を走っているのか、前の走者との距離はどうかなど、まったくわかりません。もちろん完走したのですからコースも把握してちゃんと走ったのは間違いないのですが・・・。終わってから後輩が「もう少しで追い抜くところだった」と言っていたのを聞いて不思議な気がしたほどです。

 あの桜門外の変でも、警護に当たった彦根藩士が同じような体験を書き残しています。「戦い始めると周りがただボーっとしてわからなくなった」と。他の藩士も同様だったようで、事実、同士討ちもあったようです。

 お話したように、筆者がその体験をしたのは中学3年生の時で、もちろん禅など聞いたこともなく、瞑想を体験していたわけでもありません。恐らくこれらの精神状態は、人間が強い緊張状態になった時の共通のものなのでしょう。つまり、為末さんの「ゾーン」を瞑想と結び付けるのは無理があるようです。一流選手と言うものは、走っている時は文字通り無我夢中の「ゾーン状態」で、自分が走っていることを意識しているようでは、とてもオリンピック選手にはなれないでしょう。

 もちろん筆者はスポーツと禅について否定するものではありません。おそらく、スポーツで禅が生きるのは、山岡鉄舟が言っているように、日常的な心の状態が問題になる剣道や弓道などでしょう。為末さんの言うような「その時ゾーンに入れるかどうか」は禅とは関係ないと思います。