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道元禅師の悟りの瞬間

 日本曹洞宗の開祖道元禅師(1200-1253)は〈正法眼蔵〉の著者としても有名ですね。

 道元は25歳から27歳まで南宋の天童如浄(1162‐1227)の元で修行しました。道元の資質と並々ならない求道の意欲を感じ、如浄は「聞きたいことがあれば、いつでも私の部屋を訪ねさい」と、特別待遇をされました。道元の豁然大悟はその途中で起きたと言います。

その事情は、200年後、永平寺十四世の建撕がまとめた道元の伝記〈建撕記〉(註1)に見えるものです。200年後と言うのが少々気になりますが、永平寺では代々有名な話だったのでしょう。

註1 詳しくは〈永平開山行状建撕記〉と言います。全1巻。文明4年(1472)までに成立したと言います。

 道元の豁然大悟

 如浄の下で修行していた道元は二十六歳のある日、隣で坐禅していた僧が睡魔に襲われた。すると如浄が「坐禅で惰眠をむさぼるとは何事か!」と大喝した。この一喝で道元は豁然大悟したと言います。夜明けを待って如浄を訪れ「身心脱落しました」と申し述べました。如浄はうなずきながら「坐禅の究極において、我々の身と心は、身と心を脱落する以外にはない」と示しました。如浄の下で修行を始めてわずか二ヵ月目でした。

 〈身心脱落〉は如浄が「坐禅とは身心脱落なり」と常に口にする言葉であり、如浄禅の根本をなすものです。

筆者のコメント:なぜ身心脱落できたことが豁然大悟したことになるのか。筆者には少し釈然としないところがあります。如浄ならではの判断かとも思われるからです。

 禅は唐代に大きく発展しましたが、宋代になると、勢いが衰えました。その時立ち上がったのが如浄で、「自分こそは釈尊以来の仏教の正統な後継者である」と公言しています。その後継者と目されるのが道元ですから、釈迦仏教の本道はわが国へ伝わったとも言えます。如浄は、いわゆる只管打座を旨とし、問答を重視する臨済禅とは大きく異なります。しかし、中国でもわが国でも、臨済禅は盛んに行われていますから、如浄の言うことは少し割り引いて考えるべきだと、筆者は思います。

 じつは、現代のわが国では、「身心脱落の意味は正しく解釈されていない」と筆者は考えます。たとえば東京大学人文社会系教授頼住光子さんは、〈正法眼蔵・現成公案〉の一節、

・・・・万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり・・・・を取り上げ、

「・・・・私たちが「自分」というものに固執しているかぎり、そういう身心脱落には至らない。自分というものを手放し、あらゆるものとの関係性の中にあって、今、ここにこうしている自分を見極める。それによって初めて、自分の身や心に対する執着がなくなって解脱できるということを、道元はここで言おうとしていると思われます」と言っています。日本の仏教研究家は、ほとんどこのように解釈しているのです。いかにももっともらしいのですが、筆者は「そうではない」と考えています。

 真意は、筆者のブログシリーズをお読みいただければお分かりになるはずです。

教外別伝・以心伝心は誤り

 よく、教外別伝・以心伝心・不立文字・直指人心と一まとめにして言われます。禅の重要な思想と言われています。たとえば、

 〈無門関〉第六則〈世尊拈花〉にある有名な公案では、 ・・・・釈迦が弟子たちを集めて説法したとき、釈迦は何も言わずに蓮華の花の一輪をひねった。弟子たちの多くはそれが何を意味しているのかわからなかったが、ただ一人、弟子の迦葉(かしょう)だけがその意味を理解し、微笑したという・・・・。
 その意味としてほとんどの解説者は「禅の思想は言葉で伝えるのではなく、以心伝心で伝えるものだ」と言っています。もちろん釈迦がこんな「臭い」芝居をするはずはありませんが、思想としてはよくわかりますね。このエピソードの根拠は〈大梵天王問仏決疑経〉にあるとされていますが、この経典そのものが偽経、つまり後代に中国で作られたものと言うのです。ただ、いかにも「禅の奥義とはそういうものだ」と説明するのに好適なのでしょう。筆者は、おそらくそのために禅宗の誰かが創作したものと考えています。
 しかし、禅の思想は言葉で表現されうるものです。なによりも思想は言葉なのですから。 たしかに、なにごとも言葉で説明するのは不十分です。私たちの日常でもよく経験することですね。しかし、言葉で説明できない思想などありません。考えても見てください。詩人はすばらしい洞察力で思想を言葉で表現します。次は筆者の好きな中原中也の〈汚れつちまつた悲しみ〉の詩です。
  汚れつちまつた悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる

 汚れつちまつた悲しみは
 たとへば狐の革裘
 汚れつちまつた悲しみは
 小雪のかかつてちぢこまる・・・・・(以下略)

   俳句の松尾芭蕉でも同じです。芭蕉は禅の修行をした人で、あるとき師の仏頂に「今の心境は」と聞かれ、「蛙飛び込む水の音」と答えたとか。つまりあの有名な俳句は、あとから「古池や」と付け加えて出来上ったのです。

それでも生きて行かねば

 能登大地震で奥さんと子供4人を亡くした人がいます。41歳の警察官で、最初の地震があったとき、子供が不安がるのを「仕事だから」と振り切って行ったのですから、たまりませんね。東日本大震災の時も奥さんと息子夫婦、子供さんをすべて亡くし、一人になった人がいました。作家の江藤淳さんは、奥さんを亡くした喪失感に耐えかねて自ら命を絶ちました・・・・。

 去年、古くからの友人から「家内を亡くした」と喪中ハガキが来ました。突然の発症で、わずか2ヵ月の入院だったとか。驚いて連絡を取り、待ち合わせて食事をしました。つい先日も、筆者の教え子からの年賀状に「一人暮らし9年目です」とありました。食事の準備、掃除、洗濯・・・・すべて自分でやらなくてはなりません。教え子は「亡くなって家内のありがたみが分かった」と・・・・。

 筆者はこのブログを、究極的には自分の死生観を定めるために書き続けています。禅を初めとする仏教、キリスト教、そして日本神道など、それぞれ何年かの実体験があります。

いつくしみ深き 友なるイエスは、

罪、咎、憂いを とり去りたもう。

こころの嘆きを 包まず述べて、

などかは下ろさぬ、負える重荷を 

               (讃美歌312番)

「この歌を聴くたびに涙が出る」と言う人もいます。

 明日のことを思いわずらうな。

 明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。

 一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

          <マタイによる福音書 第6章34節>

  神はあなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない。そればかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである。

       〈新約聖書のコリントの信徒への手紙10章13節〉

キリスト教には、すばらしい人間の知恵が集積されています。ただ、「神を信じろと言われても」と、距離を置く人も多いと思いますが・・・・。

 しかし、東日本大震災で「なんとか力になりたい」と現地入りした宗教家たちがすべて無力だったのも記憶に残ります。ある有名仏教寺院の、布教を専門とする僧侶が「自分の無力さを知った」と涙していました。仏教は人の悲しみや苦しみに寄り添う力にはならないのでしょうか。筆者はそうは思いません。「日本の僧侶や仏教家が仏教を正しく理解していないからだ」と言っては言い過ぎでしょうか。

 突然、災害で大切な家族を亡くした人たちは、「あのとき気づいてあげればよかった」。そして自分の不注意で事故を起こし、家族や他人を傷めてしまった人たちも・・・・。悔やんでも悔やみきれないでしょう。

 長年、ブログを書き続けてきた筆者が、上記のさまざまな人たちの悲しみを見るにつけ、分かってきたのは「人間、しかたがないこともある」という思いです。どんなに悲しくても苦しくても、残された人たちは生きて行かねばならないのですね。ベトナム戦争の時、待ち伏せ攻撃で戦友を殺された兵士が、報復として子供たちに毒入りのサンドイッチを食べさせて殺した事件がありました。その兵士はあまりの罪の重さに苦しみ、ベトナム出身の禅僧テイクナットハン師に救いを求めました。ハン師は、母国の子供を殺したその兵士を咎めることなく、「他人のために働きなさい」と言いました。そうですね。どんな罪深き人でも、悲しみ苦しむ人でも、生きていれば他人のために役立つこともできるのです。

そしてそれが自身を救うのですね。

永平寺での修行と在家修行

 その1)NHK特集「永平寺」を放映していました。1977放映されたものの再放送でした。取材班が厳冬期に訪れ、僧たちの修行生活を取材するものでした。150人の新人僧が頭を丸め、2年間厳しい修行に励む様子を紹介する番組です。

4:30 起床、洗面(厳寒期は-10℃にもなる)

5:00~5:40 暁天坐禅 妄想や睡魔に襲われたとき、仏に代わって警策を「バシッ」と。妄想にとらわれると体が前に傾くという。只管打座(ひたすら座禅する。道元禅の基本ですね)。

5:40~5:50  掃除

6:00~6:50  法堂(はっとう)での朝課調経(ふぎん):お経の読誦(観音経・般若心経。長老以下全員)

7:00~8:00  朝粥行鉢(朝食)

 準備のできるまで15分の間に「五観の偈」を唱える(以下現代語訳)

 1.この食べ物が自分の口に入るまでにどれほど多くの人々が苦労しているか。

 2.自分はこの食事をするだけの価値ある行いをしているか。

 3.食事も修行である。むさぼり、グチ、怒りなどの心の迷いがないように。

 4.この食事は身体や心の飢渇を防ぐ薬である。

 5.この食事は修行の成就のために頂くのである。

 道元は食べることを重視し、食事の作法を重要な修行と考えた。「典座教訓」は食事を作ることの大切さを説いた。

8:00~8:15 回廊の掃除。唯一バタバタしてもよい時。ここでエネルギーを発散し、再び静かな修行に入る。

午前中 雪作務(雪掻き)など

12:00~13:00  午斎(昼食)

18:00~19:00  薬石(夕食)


19:00~21:00   夜坐(坐禅)

21:00~    就寝(柏餅どころか、丸めた蒲団を縛ってもぐり込んでいました)

という、「永平道元禅師清規」に則った、朝起きて夜寝るまで一日すべての行動が修行の分刻みの厳しいものです。「威儀即仏法」(形を整えることが仏法だ)。

 この間に小参という導師への質問がある。たとえば、

雲水「仏とはどのよなものですか」。導師の答え「すべて仏でないものはない」。雲水「尊答を謝し奉る」

(同)「煩悩の根源はどこから来るのですか」。答え「自分の心をよく見なさい」。雲水「尊答を謝し奉る」

「この永平寺は雪で真っ白です。白くないときは何時でしょうか。答え「白い時は白く、白くない時は白くない」。雲水「尊答を謝し奉る」

 4と9の日は、法参日。お互いに頭を剃ったり、洗濯をしたり、繕い物をしたり、本を読んだりする。

食事は:

朝食は粥、たくあん漬け、ゴマ塩

昼食は麦飯、味噌汁、たくあん漬け、おから

夕食は麦飯、味噌汁、たくあん漬け、野菜の煮物

一人1500カロリー(日本人平均2188カロリー)で、費用は300円~350円。献立は年間変わらない。

(デイレクターの)質問「食い物はひどいですね」。(雲水の)答え「普通の人から見ればひどいと見えますけど、精進料理を食べていますとそれに慣れてきます」。「一見してこれでは栄養不足になると思いましたが、はたして全員が脚気になり、やがて治りました。(筆者:麦飯がよかったのでしょう。青物が絶対的に不足していると思いました)。

 新人僧の平均年齢は23歳6ヶ月。平均滞在年数2年、いつ修行を止めるかは雲水の自由。

(デイレクターの)「この山に入られた動機は」との問いに対し、「精神的な支えが欲しかった」。「本山であり、自分を試したかった」。「家がお寺だから」・・・・95%が大学卒。東北大学大学院を修了し、4年間高校で物理を教えていた人(31歳)や、精密機械会社で5年務めた人(34歳)も。

「辛いことは」の質問に対し、「そんなに辛いと感じたことはありません。冷たいとか、足が痛いとかくらい・・・・」。

「楽しいことは」の質問には、「・・・・・・昨日できなかったことが今日できたことでしょうか」

「自由になる時は」との質問には、「仕事を早くやってしまうと、勉強したり、洗濯したり、身の回りの整理をしたりする時間ができます」。

「自分が一番変わったと思うことは」との質問には、「(が)が少なくなったこと。シャバでは水をジャンジャン使っていましたが、ここでは水の使用も最小限に・・・・。すべてがありがたいと思えるようになりました」

(ナレーション)「道元の追い求めていた透明で平安な世界。それを体得するための厳しい修行の日々です」

筆者のコメント:心洗われる雲水たちの修行風景でしたね。皆さんよい顔をしていました。静かな座禅の間に時折響く警策の「バシッ」という音が印象的でした。2年間の修行は、大きな心の財産となったでしょう。その後どういう生活を送るかはさまざまでしょうが・・・・・。それにしても雲水たちとは別に、何十年も、いや一生そこで修行の日々を送っている老師たちの人生は想像するに余りありますね。

その2)

1これら永平寺での修行は、一般人には到底、真似のできることではありませんね。それなら私たちは、道元の言う境地には至れないことになります。しかし、私にはそうは思えません。

 わたしたちは恋もし、時には人と争い、思い通りにならないため悩み、苦しむこともあります。子供が出来たり、仕事に生きがいを感じれば喜びます。日常生活では本も読み、テレビを見たり、音楽や絵画を鑑賞したりします。ことほどさように、私たちの生活は、煩悩と裏腹でもありますが、逆に心の豊かさにもつながるのです。苦しみや悩みを乗り越えて行くのは立派な修行だと思います。一方、永平寺で修行生活を送る人々にはそれらがありません。その生活はきわめて特殊だとも言えるでしょう。

 前にも書きましたが、筆者は若い時に5年ほどキリスト教会へ通いましたし、神道系教団で10年にわたり〈霊能開発修行〉もしました。座禅・瞑想はそれ以来実践しています。そして14年前から禅を本格的に学び始めました。当時、とても苦しいことがあり、それから抜け出るためには禅の原点に戻って学ぶしかない、と決心したのです。道元の「正法眼蔵」は、わが国の古典の中で最も難解なものと言われるだけあってとても苦しみましたが、2年ほどで「(くう)とはこれだな」と合点が行くことができました。そのときふしぎなことが起こったのです。

 永平寺や岐阜県の正眼僧堂、兵庫県の安泰寺などの専門道場で長年修行した人たちがどのような境地に達したかのはよくわかりません。安泰寺では年間1800時間も坐禅・瞑想をするとか。しかし、正眼僧堂の山川宗玄さんや、元安泰寺堂頭(住職)のネルケ無方さん、比叡山や吉野山で1000日回峰行を達成した人たちのお話も聞きましたし、永平寺での貫主と雲水たちの問答も聞きましたが、どうもしっくり来ないのです。筆者の坐禅・瞑想は上記の専門道場での修業とは比べるべくもありません。つまり、もっぱら「学び」をしてきたのですが、それでも何らかの段階を乗り越えたのは確かだと思います。専門道場で坐禅・瞑想をした人たちでも、何らかの境地に達したかどうかは、ふしぎなことが起こったかどうかだと思います。いかがでしょうか。

 2)筆者の知人に、お父さんの突然の死によって、将来を約束されていた国家公務員上級職を投げ打って仕事を継いだ人がいます。中企業の経営者として以来50年、「この仕事が終わったら次はどうなるだろう」の連続だったとか。「地方の企業は潰してしまったらもうそこには居られない」とか。厳しいものですね。

 筆者には、その知人の人生は、禅僧たちの修行生活と違うとは思えないのです。なによりも禅僧たちは衣・食・住は保障されているのです。知人の話を聞いていますと、「経営者として余人には代えがたい」と思います。そのとおり、「生涯現役」で終わるようです。

筆者は会うたびに「これからは美味しいものを食べて、好きなところへ行ってください」と言っています。

養老孟司さんの思想

その1)NHKテレビ2024/1/3の「養老孟司 日常ヒトの生活 体と脳」が放映されました。一見養老さんの日常生活を紹介した番組のようにも見えますが、じつは養老さんの「大きな新しいモノの見かた」を示すのがNHKの意図でした。筆者は録画を取り、すべての言葉を文章に起こして精密に学びました。以下に、その内容を筆者のコメントとともにお話します。幾つかの言葉はアナウンサーによるインタヴューで、他のいくつかは養老さんの著作から引用されていました。

 養老さんの考え方の趣旨は、

 「人間を心と体に分けると、現代社会ではに中心が行き過ぎてしまっている。もっとブータン人のように体中心の生き方に戻るべきではないか」でしょう。ここで養老さんの言うとは、「合理性、経済性、効率性に捉われた現代人の生き方」です。これに対して、養老さんが重視しているのは、ブータンで出会った人たちの体に重きを置く暮らしです。

 養老さんは、東京大学医学部解剖学教室の教授でした。「体を重要視するようになったのはそのためだ」と言っています。養老さんが臨床医を辞めて解剖学に移ったのは、「医療ミスを何度もやりそうになったからだ」と言っています。じつは、養老さんは1995年、東大紛争のあおりを受け、東大教授を辞任した人です。52歳でした。その経緯については、後でお話しますが、大きなショックであったことは間違いないでしょう。その時、縁あって訪れたのがブータンでした。ちょうどその頃ブータンが鎖国を脱し、外国人を受け入れていたことも良いタイミングだったのです。養老さんは「ブータンの人々は祈りが生活の中心であり、人々は自らの体を仏に投げ出して生きているのを知った。ブータンに通い始めてすぐに、そこでは自分の常識やモノの見かたが通用しないと分かった」。養老さんはその後28年も通い続けたのです。それどころか、12年前、養老さんの寄進によってニエルン・デチャックリン尼僧院が、建立されました。

 養老さんは、解剖学者として身体を見てきただけでなく、「体にこそ個性が宿ることに気付かされた」と言います。(NHK記者の)「個性とは何ですか」の質問に対し、「身体でしょ。『オレは腹空いてるけど、お前は空いていない。当たり前でしょ」と答えています。前述のように、養老さんがブータンの人々に接して感じたのが「体に重きを置く暮らしをしていることだった」と言っています。体に重きを置く暮らしとは、たとえば「(仏に参拝するときの)五体投地の習慣や、(修行僧たちの)1日3回の食事も体を形作る修行だ。経典を何度も繰り返すことで、頭ではなく体にお経を沁み込ます。よく生きることは自らの体に生まれる欲望を見つめること。あらゆる欲望を否定した人生に幸せな世界がある。それがブータン仏教の教えだ。考え方どうこうは、おしゃべりでどうにもなる。体の動かしかた、あり方は意識で簡単にコントロールできない・・・・と言っています。

 しかし、筆者にはこの論理にはこじつけがあるように思えます。五体投地が体に重きを置く暮らしだと言えるでしょうか。さらに、1日3回の食事が体を形作るための修行とは、たとえ修行僧たちだとしても言いすぎでしょう。養老さんは「個性とは身体であり、体にこそ個性が宿ることに気付かされた」と言いますが、どう考えても個性とは心だとしか思えません。さらに「経典を何度も繰り返すことで、頭ではなく体にお経を沁み込ます」と言いますが、やはり沁み込むのは頭だと思います。また、「よく生きることは自らの体に生まれる欲望を見つめること。あらゆる欲望を否定した人生に幸せな世界がある」と言いますが、それは私たちでも同様でしょう。つまり、養老さんの考えは、解剖学者として長年、体を見つめてきたことの弊害、と言ったら言い過ぎでしょうか。

その2) 養老さんは「今の世の中で生きていると『心は個性的でなくちゃいけない』となんとなく教え込まれてしまう。『心の問題はお互いに了解できないけど、了解しなくちゃ意味がない』・・・・そう思って何十年もやってきたかど、僕みたいに『分かるわけがないよ』という結論に達するか、あくまでも『分かるはずだ』と思ってたくさん引き出しを作っていくかでしょう」と言います。

筆者の感想:それはそれでもっともだと思いますが、だからといって、体に重きを置く暮らしに戻れとはならないでしょう。じつは、この問題は、現代人のモノゴトの考え方と、昔の人のモノゴトの考え方との相違なのではないでしょうか。つまり、やはり心と体ではなく、心と心の問題なのです。とすれば、養老さんの考えはNHK記者の言うような「新しい大きな考え」にはならず、私たちもごく普通に考えていることになってしまうのです。

養老さんの思想の原点:

 筆者は、養老さんと同時代人で、東大教紛争のあおりを受けて養老さんが辞任したことも知っています。養老さんは辞めた理由として、「ヒトと逢うことは疲れる。若い頃からそうだった。人見知りであり、人前に出ない。ネコとならうまく付き合うことができる。ふつう子供はそうだが、私はそのまま大きくなっただけ」とか、「日本の大学制度は西洋から輸入されたもの。そこら辺の自分と周囲の摩擦がどんどん大きくなって大学を辞めちゃった。その気分でブータンへ来たらホッとした。そういう状況以前の国だったから」と言っています。しかし真実は、東大紛争で学生たちから「解剖学なんて古臭いものが学問と言えるか」との強い糾弾を受けたことが大学を辞める原因だったと聞いています。つまり、真相は別だったと思うのです。「人見知りだった」、「臨床医には向かないと思った」・・・・その最後の居場所が解剖学だったのです(学者は他人との付き合いを最小限にしても済みます。筆者にもよくわかります)。そを最後の砦を「そんなものは学問ではない」と否定されたのです・・・・。それが本当の理由だったと思います。

輪廻転生について:

 養老さんは「ブータンの人の生き方として印象深く思っているのは、輪廻転生をそのまま受け入れた人生観に沿って生きていることだ」と言います。つまり、

 ・・・・「ヒトは死んでも生まれ変わる」。そんなブータン仏教の教えを伝える寺がある。私は、初めて訪れた時からそこで生きるヒントを見出していた。ブータンの人々は死を恐れないと言う。ブータンの人々は、縁起によってモノができていると信じている。前世と現世に生きる者すべての人生がつながっている。もし自分の前世(の人)がいなかったら、すべての巡り合わせを願ったと言っても、お互いに離れ離れのままです。たとえば違う場所に生まれた人が巡り合うのも前世からの因縁による。ここの仏教ではそうだ・・・・この国は小さな畑や田んぼを作ってヒトは生きている。つまりこうやって先祖は生きてきたんだな。この国で見たのは、自分の体の声に耳を澄ませながら生きる暮らし、日常の生活、周りのヒトの言うこと・・・・お互いに矛盾する面があっても適当に折り合ってそれが一体化している。日常の重要性が歳を取ると、どんどん大きくなってくる・・・・「人生とはもっと立派なものだ」と思っているヒトは多いと思う。それは私にはかなりのストレスになっていた。そんなものはお釈迦様の眼から見たら何でもないんでしょう。ブータンだとそれがすんなり入って来る。よく昔のヒトは考えたよね。「どうやったて救われない。56億7千万年後に阿弥陀如来が再臨なさって救ってくださる」と。このブータンへ来るとどうせ輪廻転生を繰り返してその間待てばいいんだと・・・・・現代社会の人々はこういうことを決して思いつかないでしょう。そこまで行くと「嘘だろう」と必ず言うんだけど、それはモノゴトがどういうふうに動いて行くのかを考えないからでしょう。ブータンに来て面白いのは、そういうのが現に生きている。「輪廻転生を信じる人々にとって、生まれ変わるのならば、死は次の人生の出発点に過ぎません。ブータンでは、常住坐臥そういうこと全部が一緒になって、いわゆる伝統とか文化になっている。その全体の中で何かを感じるという・・・・・

筆者は、養老さんが輪廻転生説をそのまま受け入れているのには驚きます。もちろんそれは個人の自由です。しかし、それを根拠に「大きな考え」を提唱しても、ほとんどの現代人には受け入れ難いでしょう。しかも「それはあなたたちがモノゴトがどういうふうに動いて行くのかを考えないからだ」と言うのはいかがなものか。ちなみに筆者は輪廻転生説は面白いと思いますが、とてもそれを信じ、自分の考えの基盤にすることはできません。

幸せとは何か:

 養老さんは続けます「時折『幸せとは何か』と聞かれる。わたしはいつも「考えたことはありません」と答える。ケンカを売っているのではありません。何か起きた後に思いがけなく感じるものが幸せなのです。「あらかじめ分かっていること」「幸せとはどういうものだ」と定義できるようなものは幸せではないと思う。私の例で言えば、採れるはずがないと思っていた虫が思いがけず採れたというものが幸せです。「思いがけた幸せなんてないような気がします」(〈養老訓〉新潮社)。

筆者の感想:「幸せとは何かと聞かれて、そんなことは考えたことはありません」と言いながら答を出しています。筆者がいつも養老さんのお話を聞いて困惑するのはこういう「物言い」なのです。「考えたことはない」と言いながら答えているではないですか。

 NHKデイレクターの「先生が明らかにしたいと思っていらっしゃる大きなことってなんですか」質問に対し、養老さんは「結果が知りたいわけではない。だから、『アッ』とか『ここが違う』が面白い。分かるのが面白い』。なにかつい『どういう結論だったんですか』と聞きたくなってしまう。それは言葉の世界に住んでいる人の特徴で、言葉でモノを切るからね。切れないんですよ実際は。人生の意味なんか分からない方がいいので、わからないと気が済まないというのは気が済まないだけのことで、それなら気を散らせばいい。私は気を散らすために虫取りを初め、いろいろなことをする。今日も日向ぼっこをしていたら虫が一匹飛んできた。寒い日だったから何とも嬉しかった。『今日も元気だ。虫がいた』それが生きているということで、それ以上に何が必要だと言うのか。その土俵際が難しい」(〈モノがわかるということ〉祥伝社)

筆者の感想:今、能登大地震で大切な家族を亡くした人が大勢います。その人たちに対して「今日も元気だ。虫がいた。それが生きているということで、それ以上に何が必要だと言うのか」と言ってなんになるというのでしょうか・・・・・。

要するに養老さんの論法は韜晦術、と言って悪ければオトボケだと思います。筆者が最初に読んだ「バカの壁」がまさにそういう論調でした。「バカの壁を見るとバカになる」と言っていた人がいます。筆者も同感なのです。