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禅と神(仏)(3)

 筆者が「禅を正しく理解するには仏(神)の視点から見ることが大切だ」と言いましたら、読者のお一人から「納得できない」とのコメントがありました。筆者は「あらゆる宗教は根底に神(仏)を置いている」と思っています。そこで今回は、もう一つの例証を述べます。

  宮沢賢治が法華経に強く惹かれ、その作品にも法華経の精神が滲み出ていることはよく知られています。臨終(37歳)に当たって父親から「何か言い残すことはないか」とき聞かれると賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください。『私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますように』ということを書いておいてください」と遺言しました (「兄のトランク」宮沢清六 筑摩書房刊 1991)。

 「法華経・常不軽菩薩品第二十」に常不軽(じょうふきょう)菩薩の話が出ています。常不軽菩薩は、出会った誰に対しても、

・・・私はあなたを心から尊敬し、決して軽蔑しません。あなた方は菩薩道を行じさえすれば、やがて必ず仏となることのできる尊い御身であります」と言って礼拝しました。短気の者は馬鹿にされたと思って罵り、また中には杖で打ちかかる人、石や瓦を投げつける人もありました。しかし、この菩薩は決して腹を立てず、怒らず逆らわず、遠く離れて拝み続けたおかげで、遂に六根清浄を得て成仏し、広く法華経を説いて迫害した人々まで全て成仏せしめた・・・ 

「あらゆる人は仏になれる」と言っているのですね。言うまでもなく法華経の根底には仏(神)があるのです。当然でしょう。

 賢治は「雨ニモマケズ」の中で、

・・・ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノトキハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ ・・・

と歌っています。「デクノボー」こそ、賢治が理想とする常不軽菩薩なのです。

 筆者のブログを熱心に読んでいただいている読者のお一人は、「神や仏、霊魂の存在を信じろと言われても・・・」と。そのとおりでしょう。新宗教や新々宗教の中には、ずいぶん怪しげな「神」もありますから、それを信じろと言われたら躊躇するのが当然です。

 作家の志賀直哉は、とある山道に並んだ石仏を蹴倒したとか。その後、子供を次々に亡くし、自身も電車にはねられ大ケガをしました。心配した夫人が「石仏に謝り、供養したら」と言ったところ、志賀は「そんなことをして悪いことが止まったら、それを信じることになるから」と拒否したとか・・・。

 筆者は誰がどう思うと、どんなことをしようと関知しません。逆に、「生命は神によって造られた」と直感した筆者は幸せだと思っています。

デフォルトモードネットワーク(3)

 デフォルト・モード・ネットワーク(Default Mode Network 以下DMN)という概念が注目されています。NHKサイエンスZERO”ぼんやり”に潜む謎の脳活動(2014)でも取り上げられました。 DMNとは、ワシントン大学のマーカス・レイクル教授が命名した脳の働きのことで、ぼんやりした状態の脳が行なっている神経活動のことです。これまで、私たちの脳は、話をする、本を読む、といった意識的な仕事を行っているときだけ活動し、何もせずぼんやりしているときは脳もまた休んでいると考えられてきました。しかしレイクル博士は、この脳のアイドリング状態に費やされているエネルギーは、意識的な反応に使われる脳エネルギーの20倍にも達することを発見しました。活発な神経活動が行われているのですね。しかも、この脳の「基底状態」では、複数の離れた脳領域がネットワークでつながり、同期・協調して働き、過去の整理をしたり、未来の予測をすることができると言うのです。

 この考えはさらに発展し、DMNが活発になると創造力が高まり、いろいろなアイデアが浮かんで来やすくなると言われるようになりました。禅に興味がある人が、瞑想や悟りに達する道と考えたのは自然の成り行きでしょう。それが読者のAさんの言う「DMNは空です」となり、Huさんが反論した「DMNは色即是空です」に発展していきました。

 一方、これとは逆に、取り止めもなく過去の苦しかったこと、悲しかったこと、無念だったことを思いだしたり、未来のことを心配したりするのが過剰になると、不安に捉われてうつ状態になるという考えもあります。そこで、うつ状態から抜け出るため、DMN状態にある自分に気づき、瞑想によって治すという考えに至りました。これがマインドフルネス瞑想です。

 しかし、筆者は、これら一連の動きに「何かおかしい」と感じてきました。考えた結果の、その理由が以下の通りです。

 これらの考えには、多くの人の誤解と混乱があるのです。まず、DMNはたしかに瞑想状態に似ています。その時良いアイデアが浮かぶこともあると思います。筆者も研究結果にの意味を一心に考察している時には良い考えが浮かばず、集中を離れた時「パッ」と良いアイデアが生まれたことがあります(現在では、朝、目が覚める前、うつつの状態時に良い考えが浮かぶことが何度もあります。先日には、夜中の1時過ぎに一度目が開いた時、とても良い考えが浮かび、「このまま起きてブログ書きをしようか」と思いました。さすがにそれは止めましたが・・・。もちろん、翌朝になってもその考えは記憶していました。よく、「枕元に紙と鉛筆を置いておけ」と言われるのはこのことだと思います)。

 しかし、DMNは「空」でも「空即是色」でもありません。それはすでにブログに書きました。どうも「何かよくわからない状態」とか「瞑想状態」を「空」と結び付けたがるる人がいるようです。

 さらに、DMNをマインドフルネス瞑想と結び付けるのは誤りです。DMNで脳は「あれこれ考えてはいない」状態であり、脳の暴走とは対極にあるのです。つまり、両者はまったく違うのです。もちろん、マインドフル瞑想によって脳の暴走を治すことはまちがっていません。それとこれとは別のことなのです。

(1)多賀谷亮、最高の脳の休息法、ダイアモンド社(2017)

禅は難しくない(2-3)

 ただ、わかったかわからないかの世界です

 2)筆者のブログを熱心に読んでいただいている方から、「難しいので初級、中級、上級用と分けてください」とのメールがありました。恐縮しています。筆者はもともと「初級者の方にもわかりやすく」を目指して書いていますが・・・。

 「禅はむつかしい」。たしかに「正法眼蔵」は日本で最も難解な古典だと言われていますし、「無門関」、「従容録」などの、さまざまな禅の公案集は、まさに「禅問答」と言われる、一見わけのわからないものが多いです。しかし、これらの書物を懸命になって読み砕いて、最後に残ったエッセンスを味わってみますと、じつはそんなに難しいことではないことがわかります。「スッタニパータ」などの原始仏典には、お釈迦様の言葉が色濃く残されていると思われますが、それらは、どれもだれにでも理解できるやさしいものばかりです。当然でしょう。晦渋な理論にしたのは、すべて後世のインドの仏教学者たちなのです。そこで筆者が学んだエッセンスについてお話します。

 まず禅の要諦は、こだわらないことです。筆者は、さまざまな禅の語録を読みました。初めは難解ですが、だんだん読み解いていきますと、「こだわらないこと」の教えが禅の心の要諦として浮かび上がってくるのです。概念の固定の否定ですね。過去のつらかったこと、腹立たしかったこと、悲しかったことはよく思い出すものですが、思い出しそうになったら「アッいけない」と止めるのです。それを繰り返していますといつか忘れます。大切な知恵ですね。

 第二に、今日を生きることです。過去はもうない。未来はまだわからい。今日だけを真摯に生きる。これが禅の要諦「空」の実践なのです。

第三に、質素な生活。良寛さんはまことに質素な生活で一生を送りましたが、だれよりもこころ豊かな人生を送った人です。

 第四に、他人のことを自分のことのように。キリスト教では「汝を愛するように他人を愛せよ」と言う言葉があります。「他人のことを自分のことのように」考える人は筆者の同級生に何人もいます。彼らは社会的にはあまり目立たない人たちばかりです。一方、筆者の知人にも社長や上級の国家公務員になった人もいます。しかし、定年後すべての肩書が取れて、素の人間にもどってみると、むしろ目立たなかった人たちの方が人間的に立派でした。それは筆者が定年後彼らと再会して発見した大きな驚きでした。

 第四に、生かされていることの感謝でしょう。父母の愛は言うまでもありません。師の愛、衣食住すべてを得て生きて行けるのは、たくさんの人々のおかげであること常に自覚し、あらためて感謝の日々を送ることです。筆者は、命は神によって造られたと確信していますが、ピンと来ない人も多いでしょう。それはごく個人的な体験ですから、一先ず「そういうことか」と思っていただいて結構です。臨済宗の宗祖臨済は、はっきりと人間には肉体の他に神に通じる本当の我があると言っています。それについては、以前のブログ「禅と神(仏)」「赤肉団上一無位の真人あり」をお読みください。

 次は宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩です。賢治は熱心な法華信者でしたが、この詩は今お話した禅の心にぴったりですので、一部をご紹介します。

 〔雨ニモマケズ〕
・・・慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ(清貧ですね:筆者、以下同じ)
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
・・・・
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ(奉仕の精神ですね)

3) 平常心是道(びょうどうしんぜどう)

 以前のブログ「無門関・第十九則 平常是道」で紹介しましたが、今回のシリーズ「禅はむつかしくない」の良い例と思いますので、もう一度ご紹介します。

 「平常心」・・・誰にとっても大切な言葉ですね。じつはこれは禅の要諦を表す有名な言葉です。趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778 – 897)は、中国の唐代の禅僧。

如何是道(いかなるかこれどう)


 趙州和尚(註1)が師の南泉禅師に「如何是道」(道-人間のあるべき姿-とはどんなものでしょうか)とたずねた。
 南泉:平常心是道(ふだんの心こそが道である)。
 趙州:その心はどのようにしてつかむことができるのでしょうか
 南泉:つかもうとすれども、つかむことができない
 趙州:つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないでしょうか
 南泉:道は考えてわかるようなものではない、しかし、わからないといってしまうこともできない。考えてわかるというものであれば妄想になってしまう・・・(以下略)

筆者のコメント:趙州はその答えを聞いて悟ったということです。でも、まさに禅問答ですね。これでは何のことかわかりません。この話には続きがあります。

 この公案をわが国の義介禅師(註2)が説き示されると、弟子の瑩山禅師は「日常あるがままの心が仏道そのものである」。瑩山はたちまち心が開け、「我れ会せり(わかりました)」と思わず叫んだと言います。

筆者のコメント:日常あるがままの心・・・じつは簡単な「心」ではありません。深い意味があります。「論語」に「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。 」とありますし、前回お話した、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」

の心でしょう。

・・・慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
・・・・
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ・・・

でしょう。

義介と蛍山の対話は続きます。

 義介:さらにその意を述べよ。

 蛍山:茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては、飯を喫す

筆者のコメント:「こだわることなかれ」ですね。筆者も日常で「アッこだわっているな」と気が付きますと、この言葉を思い出します。

註1 この公案は「無門関第十九則 平常是道」にあります。

註2 鎌倉時代の曹洞宗禅僧。総持寺派の祖(1268-1325)。

禅の正しい修行-ルークルークさんへの回答


 (1)禅寺での修行

 読者のお一人ルークルークさんから「悟りへ至るまでの修行法を教えて下さい」とのご質問がありました。しかし、筆者は回答しませんでした。「答えを教えてください」と同じだからです。自分でさまざまな本を読み、いろいろ試して、判断しなければどうしようもないからです。ただ、お気持ちはわかりますので少し言い方を変えてお話します。

 まず、釈迦も道元も「僧侶になりなさい」と言っています。つまり、家庭を捨て、友人達とも別れ、仕事も辞め、修行だけの生活に入りなさいと言うのですね。その伝統は、現代にまで続き、永平寺(曹洞宗)、美濃加茂市正眼僧堂(臨済宗)、高野山金剛峰寺(真言宗)などで昔ながらの厳しい修行生活が行われています。また村上光照さんは、寺を持たず、「呼ばれた場所で(一所不在)」数人の弟子たちと共に修行三昧の日々を送っています(あの良寛さんが修行した、永平寺より厳しいと言われた岡山県倉敷市円通寺は、今は観光寺院になっています)。たとえば正眼僧堂では、朝3時起床から夜9時の就寝まで、日常生活のすべてが修行で、食べ物は托鉢と、近隣住民からの喜捨で賄われています。座禅や師家と弟子の問答はもちろん、作務(労働)、読経(声を出して唱える)、看経(黙読)から食事から托鉢に至るまで、事細かに作法が決められています。作家の中野孝次さんはそれらをトリビアリズム(瑣末主義)と呼びましたが、的を外れた表現で、別のちゃんとした理由があるのです。そういう生活を一生続けている禅師はたくさんいらっしゃいます。それほど厳しい修行生活が必要だと言うのでしょう。

 驚嘆すべきことですね。正眼僧堂の師家山川宗玄さんと弟子たちの修行の様子はNHKテレビでもくわしく紹介されました。しかし、筆者はもちろん、ルークルークさんがやりたくてもやれないことでしょう。

 ただ、筆者はそれらの修行にやや疑問を感じるところもあります。一生家庭を持たないで過ごす、映画は見ない、小説も読まず、趣味も持たない生活・・・テレビも見たことはないようです。筆者の疑問は、そういった一生を過ごせば、人間としての幅が極めて狭められると思うことです。それでは「自分とは何か」の、禅の最大の課題を究めるのに、あまりにもチャンネルが少なすぎるのではないでしょうか。・・・・・いかがでしょうか。さらに、筆者は、永平寺での禅問答をテレビで視聴したことがありますが、かなり形式に堕しているようでした。

 じつは筆者は、在家のままでも悟りに至ることはできると考えています(在家仏教-僧侶の資格を取り、自宅で修行-という言葉は好きではありませんが)・・・真摯に自分の義務を果たし、モノゴトにこだわらず、苦境に耐え、清貧を良しとし(ただ足るを知る:吾唯知足)、他人のことを自分のことのように考える一生を送った人はたくさんいます。すばらしい人たちでした。彼らは禅にも仏教にも興味を示しませんでしたが、そういう人たちと、厳しい修行で一生を送った人たちと、境地にどれだけの差があるのでしょうか。前述の、山川宗玄さんのお話を半年間にわてって聴きましたが、筆者にはどうもピンと来ませんでした。筆者が見聞きした知人たちの言動には感動するところが多かったのです。少なくとも、厳しい修行で一生を送った人より、周囲を明るくしたと思います。

 (次回に続きます) 

神仏の存在を信じない人は僧侶になるべきではない

岩村宗康さんとの対話-結語

 読者のお一人岩村宗康さんと筆者の2回にわたる対話をお読みいただいたと思います。岩村さんばかりを槍玉に挙げるのは本意ではありませんが、おそらく現代の僧侶の平均的考えでしょうから、取り上げさせて下さい。ちなみに、ここでは仏=神(宇宙の最高神)としてお話します。

 岩村さんは、筆者がブログで「生命は神(仏)によって造られた」言ったのに対し、

 ・・・確かに、自然現象は神秘的です。特に生命現象は本当に神秘的です。だからと言って、その神秘性を「神」で済まそうとするのは性急過ぎると思います。先生のお仲間の生命科学者達やその後継者達が必ず解明してくれると思っています。今は兎に角「神秘で不思議なコト」は「神秘で不思議なあるがまま」にして置きませんか・・・。

 結論からお話しします。仏(神)の存在を信じない人は僧侶などやるべきではありません。東日本大震災で、高台から津波に巻き込まれる人々を見て「神も仏もあるものか」と叫んだ浄土真宗の住職のことはすでにお話しました。異常な事態での発言でしょうが、本音だと思います。ちなみに、生命科学がいくら進歩しても神が生命を作られたことなど永遠にわかりません。ただ、直感で知るのみです。

 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教・・・どれをとっても「神」を信仰の根底にしています。いえ、いかなる宗教もその思想の根底に神を置くべきです。宗教とはそういうものなのです。どうして禅宗だけが例外であっていいでしょう。

 あの道元でさえ、

・・・(人の生き死にについては)ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行なはれて、これに従ひもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死をはなれ、仏となる(正法眼蔵・生死巻・・・

と言っています。「最後は仏様におまかせしよう」と言うのですね。

 一方、法然の浄土思想は、まさに仏(阿弥陀如来)に対する絶対的信頼の上で成り立っています。ただ、法然の言う阿弥陀如来は、最高神(仏)というより、もう少し下位の仏でしょう(神界にも階層があると言われています)。それにしても、法然の思想は、釈迦仏教の中でいかに革新的だったかおわかりいただけるでしょう。ブッダ以前のヴェーダ信仰と同じですね。岩村さんが「ヴェーダ信仰は虚論(けろん)である」と言ってるのは、あまりにもインド思想史を知らなさすぎます。岩村さんは仏教の古典をよく勉強していらっしゃますが・・・。なお、密教思想では大日如来を宇宙の最高神と考えていますが、いささか観念的的であるように思われます。

 多くの禅師は、「空」の正しい意味も知らずに法話をし、瞑想の危険性を知らずに座禅会をしているのではないかと思います。警策で「バシッ」と叩くのを単なる眠気覚ましと思っているのでは?あの役はかなり修行を積んだ禅僧にしかできないのです(いずれくわしくお話します)。