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縁起空観・真空観(2)

 では「真空観」とはなにか、

増田さんは、・・・縁起空観が、モノの存在を対象として分析しているのに対し、真空観はこのように観じ、考える当の主体的立場そのものを徹底的に省察し浄化して行って、何の前提もなく一切の偏執限定を絶した無立場の立場ともいうべき主体的空に証入する・・・執着の根源たる主体そのものを空ぜんとする・・・つまり、主体自身がある特定の立場とか境涯とかにとどこおり執着することを、どこまでも否定し、払い尽くして行くのである・・・空は空自体に徹底透徹することによって空自体をも脱却解脱するのである。すなわち三昧(透徹)によって解脱が得られる・・・と言っています。つまり自己を徹底的に空しくすることを「空観」と考えているようです。しかし、これでは、およそ「空観」と呼べるような思想ではありませんね。「そんなことができれば苦労はない」と、誰でも思うでしょう。

 では、このような般若真空の立場(増田さんの命名)に至るには具体的にはどうすればいいのか、増田さんは、

 ・・・実践的体験的には三昧(ざんまい、つまり禅定。瞑想の到達点)が般若を覚証するための基盤であり関門である・・・と言っています。つまり、深い瞑想が大切だと言うのです。そんなことは当たり前で、「真空観」というような概念の問題ではなく、実践法なのです(註1)。

 いかがでしょうか。たしかに空観を縁起空観と真空観と分けたところや、「龍樹学派(註2)の縁起空観は誤りだ」というところは、岩村さんのおっしゃるように筆者の考えと似ています。しかし、増田さんが言っているのは真空観の内容ではなく、境地の到達点なのです。それはむしろ観念的な境地であり、これでは少しも参考にはなりません。これに対し、筆者の空観(もちろん先人の知恵です)には具体的で、修行の方法まで明確です。ブログをお読みください。

註1 このように増田さんは一つのことに集中統一することも三昧と言っています。それも簡単ではありません。

註2 龍樹の誤解ではありません。その後の僧侶や仏教研究家のご解釈です。ちなみに道元はもちろん「空」を正しく理解しています。

縁起空観と真空観(1)

 先ごろ岩村宗康さんから「中野さん(筆者)の空観(くうがん-空についての考え方)と増田英男さんの考えには共通したものがある」と指摘していただきました。ようやく当著が届きましたので、さっそく読みました。増田英男さん(1914-没年はわかりません)は元明治薬科大学教授・宗教法人釈迦牟尼会理事。「仏教思想の求道的研究」(創文社1966)に該当文がありました。以下その概略です。

 増田さんは、「龍樹の空観はおかしい」と言っています。厳密に言えば「龍樹以降から現代に至る仏教研究者や僧侶が龍樹の空観に基づいて論説を展開しているのはおかしい」と。つまり、「龍樹の空観がおかしい」と言っているわけではありません。

 すなわち、増田さんは「空観」を「縁起空観」と「真空観」に分けました。「縁起空観」こそ龍樹の「空観」で、「それはおかしい」と言っているのです。

 まず、「縁起空観」とは文字通り、「すべての法やモノは、因縁の和合によって生じたものであるから、そのもの自体としての実体はない」と言うのです。増田さんはこの考えについての疑問を論理的疑問から、そして経験的疑問から論述しています。

「論理的疑問」からは(少しわかりにくいので筆者が少し表現を変えました)、・・・この考えは「の存在とは、本来独立的不変的な固定的実体であるはずだ」という前提に立っている。したがって龍樹学派の言う「(縁起に依存して存在する)非独立的・(無常である)非固定的実体は虚である」という論説には自己矛盾がある・・・と言うのです。そのとおりですね。第一、「龍樹の『空観』自体も虚だ」ということになってしまいます。

 次に「経験的疑問」は、「さまざまな法やモノは相互に関係し合っており、変化するのは当然で、取り立てて論ずべきものではない」と言うのです。つまり、筆者の言う「実体はないと言ってもこつんと叩けば痛いじゃないか」と同じですね。

 さらに増田さんは、「龍樹の考えはそれ以前のヴェーダンタ哲学で、「人間には個我(アートマン)という固定的・絶対的モノがある」と言う考えに対するアンチテーゼ(対立命題)として提出された」と言っています。これも筆者がお話しました。そして、「縁起空観によって安心立命が得られるはずはない」たんに人生に対する諦めや絶望がもたらされるだけだと言っています。

 以上、たしかに増田さんの言う「縁起空観の誤り」は筆者の考えと同様です。

 では真空観とは何か。じつは増田さんの言う真空観の内容はよくわからないのです。                       (次回へ続く)

曽野綾子さん・慈善事業

曽野綾子さんと海外邦人宣教者活動援助後援会

 第四回読売国際協力賞(1997年度)の選考理由は、

・・・国際協力活動で顕著な業績のある個人・団体を表彰する読売国際協力賞の第四回受賞者は、開発途上国などの貧困救援活動を展開してきた海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS:Japan Overseas Missionary Activity Sponsorship、本部・東京都大田区、曽野綾子代表、支援者約1600人)に決定しました。正賞と副賞500万円を贈ります。

JOMASは、作家の曽野綾子氏を中心に、72 年に活動を開始したNGO(民間活動団体)で、日本全国から寄せられた寄付金をもとに、アジア、アフリカ、南米諸国に定住するカトリック神父や修道女を介して辺境地域へ物資や資金を提供し、現地の教育、医療、生活環境の改善に大きく貢献してきました。これまでの事業総額は4億円を突破しています。

 選考委員会では、25 年にわたるJOMASの活動実績をはじめ、〈1〉会の運営費はすべて自費で賄い寄付金全額を事業に投ずる〈2〉現地調査で寄付金の使途を監査する〈3〉寄付金は布教目的に使わない――などの活動姿勢を高く評価しました・・・。

 曽野さんの著書「神さま、それをお望みですか」(文芸春秋)によると、海外邦人宣教者とは、海外で働く日本人神父と修道女たちを指し、彼らの活動を助けるための資金と物資(住居、薬品、食料、衣料、教育など)の援助を目的としています。同書の中でまた、「対象者を日本人神父と修道女に限り、現地での任務の終了まで」と限ったのは、この種の国際慈善事業は、往々にして現地の仲介者(政治家や聖職者を含む)による横流しや、善意のだらしなさがあるためだとのことです。日本人神父や修道女なら、現地調査で寄付金の使途を監査することができるからでしょう。さらに、「会の運営費はすべて自費で賄い」がまことに尊いですね。世に国際慈善事業はたくさんありますが、この一項を順守している団体は他にはないはずです。曽野さんを含めて6人の女性と公認会計士の男性(いずれも発足当時)はもちろん無給で、必要に応じた海外渡航費は自費です。なにしろ、支援者への連絡用ハガキは「各方面から送られてきたアンケート用ハガキにいくらか足して郵便局で正規のハガキに変えてもらったもの」という徹底ぶりです。3)の「寄付金は布教目的に使わない」は、カソリック信者でない人からの寄付もあるからという理由から。

 以前、ある国際援助団体の日本支部の幹部がファーストクラスの飛行機で移動したる不明朗な点を指摘した人が、同団体に訴えられ、敗訴したこともあります。それに比べて曽野さんの団体のなんと単純明快、爽やかさでしょう。

 曽野さんは1931年生まれ、幼稚園から大学まで一貫して聖心女子学院で学んだ人で、生え抜きのクリスチャンでしょう(自身は「私は信仰が深くないから」と言っています。たしかに曽野さんと同じ高校・大学で学び、「強い影響を受けた」シスター鈴木秀子さん(元聖心女子大学教授)は、生涯独身を保っていらっしゃいますから、「鈴木さんに比べれば」でしょう。なお鈴木秀子さんの尊い活動については以前お話しました)。もちろんカソリックの神父や修道女は、生涯独身を誓わなければ就任できません。もし神父が女性との間が子供を持つような関係になったら、教会は、その子供の幸福を優先するから、神父には教会で働く職を解き、結婚生活に入れるとか。ホッとしますね。

 いかがでしょうか。曽野さんや鈴木さんを含め、神父や修道女たちカソリックの人々の信仰の強さは、神に対する絶対的な信頼でしょう。曽野さんが紹介している、アウシュビッツで身代わり死を申し出たマキシミリアノ・M・コルベ神父の場合や、北アフリカで宣教を志願した神父や修道女たちが、次々に伝染病や虐殺で死んでいったため、請願書に「殉教を志願して」というラテン語の一項を設けたところ、かえって志願者が増した例など、聞けば気が遠くなります。

デフォルトモードネットワーク(1‐3)

(1)  読者の滝川哲さんから誠実なお言葉をいただきました。内容は他の皆さんにも参考になると思われますので、ご紹介させていただきます。紙面の都合上一部は次回にご紹介します。

 ・・・貴HPを最近読み始めた者です。初めて感想を書きます。

 中野さんが、「パッと『生命は神によって造(創)られた』と直感した」現象は、恐らく「デフォルト・モード・ネットワーク」現象だと思います。NHK(BS1)の「シリーズ人体~神秘の巨大ネットワーク “脳”のひらめきと記憶」で紹介されました。「デフォルト」とは「何もしていない状態」のことです。「何もしていない状態」の時、人間には知性・能力・思考等を超えた〈気づき〉が起こるというのです。その番組で、出演していた山中伸弥氏(京都大学)は「アパートのシャワーを浴びている時、ふと素晴らしいアイデアが閃いて、「『よし!』と言った」そうです。これが、ノーベル賞に繋がったそうです。

 他にも例はいくらでもあります。冷たい水で本棚を雑巾掛けしていた時「無姿、無形、不可視」の者を〈見た〉、それは「私が〈神〉を見る眼は、また同時に〈神〉が私を見る眼であった」という前川博さん、父から指導された「内観法」で〈神〉に逢着した井筒俊彦氏などで、神秘体験です。そこに気づいた人間(往相)は、既に現実世界に帰還していると思われます・・・龍樹の間違いも納得しました・・・。

筆者のコメント:滝川さんはかなり仏教を学んだ方だと思います(御歳は筆者より上か?)。しかも、そういう人にありがちな「上から目線」でなく、筆者と対等な立場からお話いただいているという温かみを感じます。良い機会ですから筆者の感想を交えて解説します。

 まず、筆者が「パッと『生命は神によって造(創)られた』と直感した」ことは、ブログにも書いた通りです。筆者の研究グループが明らかにした、人間のタンパク質の遺伝子(DNA)構造を眺めていた時のことです。滝川さんのご指摘を勘案すれば、私たちが初めて突き止めた神の御業の一つに触れた瞬間だったのでしょう。それゆえ『生命は神によって造(創)られた』と直感したのかもしれません。滝川さんが「還相です(註1)」とおっしゃっているの聞き、身が引き締まる想いがします。「神の御業に触れた人間は、多くの人にそれを伝えなければならない」と言う意味ですが、本当に筆者の体験がそうであったかどうかはわかりません。ただ、この10年間、禅について著書を出し、ブログを書いていますのは、「なんとか皆さんのお役に立ちたい」と考えているからです。

筆者は今でも、あのとき「パッと」浮かんだ考えは、神からのメッセージだと思っています。それを現代科学の言葉で言えば「デフォルト・モード・ネットワーク(註2)」の働きかもしれません。

註1還相回向(げんそうえこう)のこと:浄土宗の基本的思想。念仏して極楽に往生した者が、再びこの世に帰ってきて衆生を教え導き、共に仏道を実践すること。

註2Marcus E. Raichleワシントン大学医学部教授の考え。 かんたんに説明しますと、

 ・・・脳活動の中心となっているのは、「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と呼ばれる複数の脳領域が連携するネットワークで、脳内のさまざまな神経活動を同調させる働きがある。私たちの脳は、話をする、本を読む、といった意識的な仕事を行っているときだけ活動し、何もせずぼんやりしているときは脳もまた休んでいると考えられてきました。しかし、安静状態の脳でも重要な活動が営まれているというのです。しかもこの脳の「基底状態」とも言える活動に費やされているエネルギーは,意識的な反応に使われる脳エネルギーの20倍にも達すると言います(「脳科学メデイア」より)。車で言えばアイドリング状態のこと。

デフォルトモードネットワーク (2)

 滝川さんの「(筆者の言う)龍樹の間違いも納得しました」の一言には勇気付けられました。以前のブログにも書きました「龍樹の『空』と禅の『空』は違う」ことこそ、近・現代の僧侶や禅の研究家が禅の「空観」を誤って理解していることの証拠と思うからです。龍樹が間違えたのではなくて、彼らが安易に「龍樹の空観」を禅の「空観」と結び付けているのです。前にもお話しましたが、筆者が初めて禅について学んだのは松原泰道さんの「般若心経入門」(祥伝社)でした。松原さんの言う「空」の意味は、「あらゆるモノは変化し、縁によって生じているから)実体はない」でした。それまで「空観」には諸説あったのですが、龍樹は「あらゆるものは変化する(無常)」と「縁によって生じる(縁起)」をブッダの思想の根本とし、「空」を説明しました。本当はブッダの言った「縁起」とは別の意味だったのですが・・・。筆者は松原さんの本を読んで、「そんなばかな。たたけば痛いじゃないか。実体はある」と、どうしても納得が行かず、その後禅から離れてしまったのです。松原さんは澤木興道さんの高弟だったとか。澤木さんは、内山興正さん、西澤和夫さん、そして松原さんなど、そうそうたる人たちの師で、「大正・昭和を代表する禅師」と言われています(註3)。澤木さんを初め、内山さん西澤さんの本も読みましたが、心に響くところはありませんでした。

 じつは筆者は「龍樹の『空』と禅の『空』は違う」こともある時「パッと」気が付いたのです。「どうして今までこんな当たり前のことに気が付かなかったのか」と、笑ってしまいました。澤木一門は誰一人このことに気付かなかったのです。「空」がわからなければ禅はわからないのですが・・・。なお、筆者の空観察や、龍樹の「空」と禅の「空」の違いについてはすでに詳述しました。

註3村上光照師も澤木さんの弟子ですが、上記の人たちとはまったく違い、特別な人だと思います。現代最高の禅師だと思いますが、残念なことに著書がほとんどありませんので、村上さんの考えを詳しく知ることはできません。17回、計5時間も瞑想をする、まさに「只管打座」の人なのでしょう。

デフォルトモードネットワーク(3)

瀧川哲さんへ、デフォルトモードネットワークは悟りへの梯子ではありません

 以前、滝川哲さんから「デフォルト・モード・ネットワークは、「空」であり、悟りへの梯子である」とのご意見をいただきました。

 デフォルト・モード・ネットワークとは、何もしないでぼんやりしている時の脳の状態のことで、脳の消費エネルギーの75%はこの状態のときに使われています。この時、脳の複数の離れた領域が、同期・協調して働きネットワークでつながって活動することが、ワシントン大学のマーカス・レイクル教授などによって発見され、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と命名しました。DMNは、心がさまよっているときに働くネットワークですが、脳に次々雑念が湧いてくる時に活性化するほか、これから起こりうる出来事に備えるため、さまざまな脳領域の活動を統括するのに重要な役割を果たしていると考えられています。

 人は何もしないでぼんやりしている時、よく過去の出来事の後悔や未来の不安などネガティブなことを無意識に次々と連想させてしまうことがあります。考えても意味のないことを、繰り返し続ける思考の堂々巡りから抜け出せず、心も身体も疲れ果ててしまうのです。つまり、DMNの暴走が起こるからです。その結果、うつ病になることが多いのです。

 この暴走を食い止めるようにする方法が、マインドフルネス(気づき)のトレーニングです。それを系統的に指導・実践している施設が世界各国にあり、うつ病の治療や働く意欲の向上に目覚ましい効果を上げています。

 さて、瀧川さんは「デフォルト・モード・ネットワークは、「空」であり、私が見つけた悟りへの梯子である」とおっしゃっています。たしかにDMNは瞑想状態を連想させますね。しかし、残念ながらDMNと瞑想状態とはまったく違います。なによりDMNでは「あれこれ取り止めもなく考えている状態」であり、瞑想では「まったく何も考えない」からです。もちろん「空」ともちがいます。その理由については、筆者のブログをお読みください。瀧川さんは相当深く仏教、ことに禅を学んでいらっしゃる方だと思いますが・・・。

 禅は「わかったか、わからないかの世界だ」と言うのはこういうことなのです。どうこのチャンスをプラスと受け止め、一層の精進をお祈りします。





聖なる巡礼路を行く

 NHK(7・24)「聖なる巡礼路を行く」を見ましたか?フランス中部の聖地ル・ピュイ・アン・ヴィレイからスペイン北西部の聖地サンチアゴ・デ・コンポステーラ寺院までの、実に1500キロを徒歩で目指すものです。サンチアゴはキリストの弟子パウロのスペイン語名です。キリスト亡きあと、第一の弟子として活躍を期待されていた人ですが、その声望を恐れたユダヤ王によって殺されました。遺体は弟子たちによって船で運ばれ、密かに埋葬されました。その場所は長く不明でしたが、800年後、星に導かれた羊飼いによって見付けられました。そのに建てられたのがサンチアゴ・デ・コンポステーラ寺院です。12世紀には巡礼者は年間50万人に達したとか。しかし、その後途絶え、今世紀になってふたたび盛んになりました。現代の巡礼者たちは1日約20キロ、2か月半を掛けて辿るのです。巡礼路のところどころには、専用の宿泊施設もあります。1500キロは、奇しくもわが国の四国88か所巡りと同じ距離です。筆者は以前から、四国遍路に強い関心をいだき、ブログにも書きました。今回もこの番組を見て強い感銘を受けましたのでご紹介します。

 巡礼者たちの動機はさまざまでした。さまざまな国から、そしてさまざまな年齢層(中には80歳代の人も)の男女が参加していました。とくに印象的だった例は、

 1)46歳男性。スイス国境に近いフランスの町でレストランのオーナーシェフでした。21歳で結婚してから、家族のために働きづめに働いた結果、半年前に心筋梗塞で倒れた。「ある日突然私の心臓は止まったのです。そこで初めて気付いたのです。私は自分を癒す時間を取らなかったことを。それが最も必要なことで、常に私が求めていたことを。ゆっくり人生を考える時間はありませんでした。子供が大きくなったらゆっくり休もうと思いながら。結局ずっと働き続けました」。この危機を契機にそれを問い直すため、レストランを売ってこの巡礼に参加した。巡礼の途中で出会った教会には必ず立ち寄り、祈りを捧げた。「追い越されたり抜いたりしているうちに、自然に一つの集まりになったのです。それがとても心地よいことだと気づいたのです。そのうち自分が小さな幸せの中にいることに気づくのです。今までと違う視点でものごとを考えることができるようになりました。抱えてきたストレスが消え、心がとても静かになりました」。

 2)46歳フランス人女性。夫の家庭内暴力に長い間苦しめられ、最後には全財産を持って出て行かれた。おまけに娘まで家出をしてしまった・・・。「なぜ巡礼路に向かったのか思い出せないくらい混乱していました」「歩いてみると私のために祈ってくれる人がいたのです。自分が独りぼっちではないと気が付いたのです・・・」。 取材の今、2回目を歩いています。

 3)17歳アメリカ人少女。母親と一緒に。「高校を卒業して、大学に入る前1年間休みを取ることにしました。本当の自分の進むべき道は何なのかを知りたい。巡礼することで世界の人々とつながりを持てるし、どんな人生を送るべきかその答えも見つかるかもしれません」と参加。

 フランス―スペインの国境にあるピレネー山脈越えが最大の難所で、頂上は氷点下にまで下がり、最初の9キロはひたすら上りが続く。このため、登り口には、わざわざ巡礼者にその大変さと覚悟を確認するための案内所があるほど。とくに印象的だったのはスペインに入って150キロ続く丘陵地帯を歩く。山も川も木々さえまれな道のため、意識はひたすら自分の内部に向けられる。四国巡礼にも同じような遍路道があり、巡礼者に大きな実りをもたらす一方、そこで挫折する人も少なくないと言います。

  巡礼者たちは歌います。

 ・・・毎朝われわれは道を行く行く、毎朝もっと遠くへと。巡礼路がわれわれを呼ぶ。それはコンポステーラの声。もっともっと遠くへ。もっと高みへ。神よ導き給え・・・

 目的地に達した人たちの満足感は測り知れないでしょう。

 ・・・とても良い話ですね。これらの話を聞いて、筆者には忸怩たるものがあります。例に挙げたオーナーシェフ以上の人生を送って来たからです。70歳で仕事をやめ、自分を見つめる生活に入りました。幸いにもそれまで倒れることはありませんでした。それから10年、禅を学び続けています。