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宗教と奇跡(1)

超常現象はある(その1)

 以前このブログで「宗教を真剣に学び、修行が進めば霊感が鋭くなる。霊感が鋭くなければ宗教の要諦は究められない」とお話しました。釈迦はもちろん、道元や法然は、数々の奇跡を体験したに違いありません。今回からしばらくは、霊的なことについてお話します。

「科学者はなぜ幽霊の存在を信じないのか」。その理由として、次の二つの「原則」が挙げられているようです。

1)カール・ポパー(1902-1994)「いかなる仮説も観測や実験によって仮説が間違っていることを示せる可能性があるべきだ」つまり実験により証明できないものは考慮の対象外とする、と言うものです。

2)オッカムのかみそり。オッカム(オッカムという場所にいるウイリアム、神学者、哲学者 1285?-1349?)ある事柄を説明する際に、必要以上に多くのことを仮定するべきではないという指針。別名として科学的単純性の原則や倹約の法則とも。伊勢田哲治さん(註1)による説明:例えば、等速直線運動に対する次のような説明があったとします。 ・・・外から力がかからない物体は、神が等速でまっすぐに動かし続けている・・・ この場合、「神が」という部分が説明に不要である、として切り落としてしまうのがオッカムの剃刀です。オッカムの剃刀で「神」という余分な仮定を切り捨てると、 ・・・外から力がかからない物体は、等速で直進する・・・となる、と言うのです。

 筆者のコメント:それに対し筆者は、「これらの指針に従わない事実はいくらでもある」と考えています。筆者は長年生命科学の研究に携わってきましたが、霊や超常現象の存在を確信しています。現時点では、それらの有無を実験的に証明する方法は見つかっていませんが、事実は厳然としてあるのです。ダークマターや重力波の存在はまだ証明されてはいませんが、科学者たちは莫大な費用と人員をかけて、それらの存在を実験的に証明しようとしています。単に、これまでの技術では証明できなかったのに過ぎません。よく超常現象に関するテレビ番組に登場し、何でもかんでも否定する元早稲田大学教授大槻義彦さんなど論外です。 以前にもこのブログシリーズで書きましたが、筆者は10年間、神道系の宗教団体に属し、霊能開発修行を受けました。別に筆者が望んで受けたのではなく、それを目的とする団体だったからです。その結果、超常現象を「これでもか」というほど体験し、その激しさが増していくようになりました。教祖に相談しますと、「もう少しで霊能者としての扉が開く」と。世の中にはそれを喜ぶ人も少なくないようですが、筆者は「霊能者になれば当然、責任が生じる」と考えました。趣味でやるような事ではないはずです。筆者には大学での研究と教育という使命がありました。教祖もそのことをよくわかっていただいていており(たぶん)、それ以上霊能が開発されるのを止めていただきました。今でも後悔はなく、教祖には感謝をしています。以前、某国立大学教授でありながら自らの霊能(その程度のものを持つ人は筆者の周りにはザラに居ます)を利用して、前世療法に加担していた人のケースをお話しました。本人は「専門の研究はちゃんとしている」と言っていましたが、結局、その大学を追われることになったのです。現代の日本はそれほど甘くはないのです。

安楽死?それでも医師を支持します(2)

 前回ご紹介した、スイスで安楽死を選んだKさんの闘病生活や安楽死に至るまでの思いを克明につづったNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」について、「精神病者集団」から次のような抗議が寄せられました(紙面の制限により一部割愛させていただきます)。

 ・・・番組中では、安楽死が肯定的に表現され、死に様までもが克明に放送されたことは私たち障害者にとってたいへん衝撃的でした。この「重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ」という考え方は、相模原市における障害者施設で発生した連続殺傷事件の被告の優生思想につらなるものであり、平然と公共放送で流されている状況は看過できないです。相模原事件の被告につらなる「重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ」という考え方は、つまるところ障害者の生を否定するものであり、私たち全障害者に向けられた殺意そのものです・・・。

筆者のコメント:かなり激烈な表現ですね。ことに「『重度障害者になるくらいなら死んだ方がマシ』という考え方は、つまるところ障害者の生を否定するものであり、私たち全障害者に向けられた殺意そのものです」の発言には、疑問があります。まず、相模原事件とKさんの問題はまったく別です。相模原事件は異常な偏見を持った人間による殺人事件です。一方、NHKの番組は、Kさんの「私には、生きる権利と同時に死ぬ権利も欲しい」という願いと経過を冷静に追ったものです。筆者も強い感動を得ました。「殺意そのもの」という感情的表現は、これからなされるべき真摯な話し合いを妨げるもので、大勢の人の反発を招きかねないと思います。

 一方、今回のAさん(実際はHさん)の安楽死事件について、ALS当事者で医師の竹田主子さん(50)は、

 ・・・私は7年前に発症しました。ALSとの診断をされ、大きなショックを受けました。自分が無力で価値のないものに思えます。ALSのようにどんどん身体が動かなくなるのは恐怖ですし、治らないとなると人生に絶望し、死にたくなります。でも今は24時間介護を受けて、視線入力パソコンを使い、医療コンサルタントの他、生命倫理や終末期医療について学会や大学で講義を行っています。病気で療養している、という自覚は消えて、たぶん、健康な皆さんと同じ感覚で生活しています。そんな私から見ると、この事件は二つの要素があります。一つ目は自殺願望の人間の呼びかけに応じて、ゆがんだ思想を持った医師が、金銭目的で殺人を行ったこと。二つ目は病気を苦に、自殺したい人がいることです。この二つは分けて考えなければいけません。報道で見る限り、2容疑者は、高齢者蔑視の発言をしたり、医学的知識を悪用して完全犯罪をもくろみ、「死なせたい“老人”」の殺害方法を書いたり、その目的を達成するために患者さんの意向をでっち上げることをほのめかしたりと、もはや医者の皮を被った凶悪犯罪の容疑者としか思えません。問われるべきは医師の倫理です。他に被害者がいないことを祈るばかりですが、こうした明らかに倫理観が欠如した医師を生み出さないシステムを考えないといけないと思います・・・今回の事件のような、健康問題を抱える人と自殺したいほど悩んでいる人を、全員法律で自殺可能にしていいのでしょうか?

筆者のコメント:竹田さんのように、病気を受け入れ、ネットなどを通じて社会とかかわりを持ち、「生きがいである仕事もして、プライベートも充実して、何事もなかったかのように生活している」人はまことに結構だと思います。しかしここでもKさんやAさんの状況とはまったく違うのです。24時間途切れることのない激烈な痛みに苛まれ、将来、人工呼吸器を付け、栄養も排泄も他人に頼らざるを得ず、植物状態にもなりかねない人たちの必死の訴えなのです。「全員法律で自殺可能にしていいのでしょうか?」 の言葉もこれからなされるべき真摯な議論に水を差すものです。精神難病についての研究をしていていた筆者がそう思うのです。さらに、竹田さんの「健康な皆さんと同じ感覚で生活しています 」は嘘です。

 安倍首相はじめ政権はこの件にタッチせず。立憲の枝野代表に至っては「安楽死事件ではない」と述べてこの事件を安楽死や尊厳死に関連付けて議論すべきではないとの認識を示した。ただ維新だけが「尊厳死の法整備の議論をすべき」と言っています。その通りだと思います。

追記: 石原慎太郎元東京都知事が「武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ」とTwitterで発信しました。やや乱暴な言葉ですが、事の本質は突いているようです。

正法眼蔵・道得・將錯就錯

 このところ読者のお一人huさんのコメントについて筆者の考えをお話しています。よく勉強していらっしゃいますし、謙虚な態度に好感が持てます。なにしろ「正法眼蔵」や「スッタニパータ」の文章を自己表現の手段としていらっしゃるのですから。前回のコメントに、

 ・・・(筆者の「huさんの解釈には誤りがあります」とのコメントに対して)・・・ありがとうございます。真摯に受け取らせていただきます。今現在の私の考えに過ぎないので否定していただいてよろしいです・・・正見できるよう精進したいと思います。將錯就錯、「道得を道得するとき、不道得を不道するなりを肝に銘じます」・・・

とありました。良い機会ですので、これらの言葉について解説します。

 まず、將錯就錯(しょうしゃくじゅしゃく)から。

「正法眼蔵・行佛威儀」に、
 ・・・たれかこれを夢幻空花と將錯就錯せん。進歩也錯なり。退歩也錯
一歩也錯、兩歩也錯なるがゆえに錯錯なり・・・

筆者訳:進むも錯(あやまり)、退くも錯(あやまり)、一歩すすめば錯、二歩進も錯であるから錯の連続である。このむなしい努力を夢幻空華としてやりすごすことはでむきない。間違えても間違えても進むしかない。

夢幻:ゆめとまぼろし。また、はかないことのたとえ。「夢幻のこの世」

空花:目の見えない人が空中に花を見たように錯覚すること

筆者のコメント:huさんは「間違えても間違えても前へ進む」とおっしゃっています。謙虚な感想ですね。

次に「道得(どうて)を道得するとき、不道得を不道するなり」について。

 これも「正法眼蔵・道得巻」にある言葉です。「諸仏諸祖は道得なり」から始まります。「諸仏諸祖は道得なり」とは、これまでの優れた先師たちは、仏法(真理)は言葉で言い得て、それを実践できる人だ」という意味です。「道」とは「言う」という意味で、仏法(真理)は言葉で言い得るかどうかです。とても重要な問いですね。禅の世界では師から弟子へ、言葉を通してではなく、直接心に訴えることを重要視します。直指人心ですね。それもわかりますが、筆者は言葉でも通じると考えています。思想とは言葉です。言葉なくして思想はありません。キリスト教では「初めに言葉(ロゴス)あり」と言います。「光あれ」と神がおっしゃったので光が現れたのです。筆者は、これは決して単なる神話とは思いません。たとえば、ビッグバンは何もないところ(無)で起こったのです。宇宙は無からできたのです。まったく不思議ですが事実です。筆者がこのブログシリーズを続けていますのは、言葉によって仏法が伝えられると思うからです。言葉を通じてわかれば奇跡は起こります。

 huさんも「仏法は言葉で言い表せると考えているからコメントしている」とおしゃっているのですね。

嘱託殺人?でも医師を支持します

(以下、主な情報は、毎日新聞7月24日朝刊の記事から引用しました)

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っていた51歳の女性Aさんが安楽死を選び、かかわった医師二人は嘱託殺人の疑いで逮捕されました。24時間続く激痛、最後は呼吸筋も弱って人工呼吸器を付け、栄養補給も胃に開けた管からされます。Aさんは障害福祉サービス「重度訪問介護」を利用して、一人で暮らしていました。SNSで「体は目だけしか動かず、話すことも食べることもできず、呼吸苦と戦い、寝たきりで窒息する日を待つだけの病人にとって、安楽死は心の安堵と今日生きる規模を与えてくれます」「こんな身体で生きている意味はないと思っています。日々の精神・身体的苦痛を考えると窒息死を待つだけナンセンスです。これ以上の苦痛を待つ前に終わらせてしまいたい」「操り人形のように介助者に動かされる手足。惨めだ。こんな姿で生きたくないよ」「主治医に栄養を減らして身体を弱らせるようと相談したが自殺ほう助罪に当たるとして断られた」 と。

 以前、このブログで紹介したKさんは、多系統萎縮症という、同じように24時間激痛を伴う病気に罹り、スイスで安楽死を受け入れた人です。Kさんも51歳でした。

 昨年の参院選でれいわ新撰組から当選した舩越靖彦議員(ALS患者)がコメントを発表し、「患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知った」、『苦しみながら生かされているのは本当につらい』などの反応が出ていることについて、「こうした考え方が難病患者や重度障碍者に『生きたい』と言いにくくさせる社会的圧力が形成していく」「どんなに障害が重くても、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命」と言っています。毎日新聞の論説では「難病患者が生きやすい社会の実現を訴える」と。一方、生命倫理政策研究会共同代表の橳島(ぬでしま)次郎さんは、「日本でも命の終結につながる行為をどこまで認めてよいか、きちんと議論すべきだ」と言っています。

 安楽死は、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、カナダで合法化されています。フランスでは安楽死は認めていないが、延命治療中止は認めています。日本も概ねそうです。

 わが国の判例では、(1)耐え難い肉体的苦痛がある(2)死期が迫っている(3)苦痛を除去、緩和する方法が他にない(4)患者の明らかな意思表示がある-の4要件が示されています。Aさんは(2)だけが該当しません。

 前述のKさんは、進行した同じ病名の患者の専門施設を訪れ、「ただ生きているだけの植物状態になった人たちを目の当たりにし、安楽死を決断した」と言っていました。とても誇り高い人で、「おむつまでされて生きたくない」と、姉二人とスイスへ渡り、安楽死を選びました。「生きたいという権利と同様に、死にたいという権利も主張したい」と言うのです。その通りでしょう。わが国の法律により遺骨は持ち帰ることができず、スイスの川に流しました。姉たちは、あの選択が正しかったかどうか、今でも悩んでいます。しかし、たとえ安楽死を中止して帰国しても必ず何度目かの自死を試みたと思います。Aさんもスイス行きを考えたそうですが、付き添いの人も「ほう助罪」に問われるとかであきらめたと。Kさんの姉たちには「ほう助罪」は問われませんでした。

 たしかに安楽死を認めている上記の国々では、それ以前に大がかりな国民的議論がなされたようです。しかし、日本は、その種の国民的議論など到底できないと筆者は考えています。欧米諸国には国民による議論の歴史が日本とはくらべものにならないほど長いのです。橳島(ぬでしま)次郎さんの言うような「きちんとした議論」などできるはずがありません。マスコミが煽り、テレビのワイドショウで「専門家」たちがさまざまに言い、司会者や常連のゲストが言いたい放題で終始するのは、今のコロナ騒動を見ればよくわかります。

 第一、人の命に関わるこのような重要な問題は、患者自身とその家族だけしか発言する資格はないはずです。専門医の信念などで判断することではありません。舩越靖彦議員の言う「難病患者が生きやすい社会の実現を訴える」は、患者や家族の決定とはまったく別の問題なのです。

 ALS治療法に関する研究はまだ始まったばかりです。神経化学の研究をしていましたから現状を見て、3年や5年で実用化されるはずがないと思っています。しかし、患者は今、ひどい苦しみの真っ只中にいるのです。治療法の希望の灯が見えてきた将来の話ではないのです。将来のことは将来議論し直せばいいのです。

 SNSで知り合っただけの医師二人が、主治医でもないのにAさん宅を訪れて薬剤を投与したことについては筆者にも抵抗があります。Kさんは自分で薬物チューブを開けました。Aさんはどうしたのでしょう。しかし、主治医が反対しているのにどうして相談できるか。やはり、筆者はこの二人がやったことを支持します。100万円以上の報酬を得たそうですが、報酬が伴わなければ、逆に医療活動とは言えなくなるのです。

 これまでわが国では罪に問われたケースが5件ありました。2件の有罪判決を除き、最近ではほぼ不起訴処分になっています。ことに裁判員制度で裁かれることが多くなったからで、やはり、専門の裁判官より、人の心をより多く斟酌するようになったのでしょう。

 神の言葉:人間にとってこの世に生きる意味は、魂の成長のためだ。それができなくなったら私のところへ帰ってきなさい。呼吸もできず、ものを食べることもできなくなり、植物人間になってどうして魂の成長ができるでしょう。家族の「生きていてくれ」という気持ちはよく理解できます。しかし、Kさんが言ったように、生きる権利と死ぬ権利は患者自身のものであるべきです。「(植物人間になっても)生きていてくれ」という家族の想いはわかりますが、患者の権利を奪うこともになるのです。

追記:その後の報道で、医師はAさんの胃の管から麻酔薬を投与したことがわかりました。Kさんのケースと同じです。苦痛はなかったはずです。

仏教における「気づき」の大切さ

 読者のhuさんから仏教における「気づき」の大切さについてコメントがありました。たしかにその通りですが、「正法眼蔵・現成公案巻」や、「スッタニパータ874」との関連性についてのhuさんの理解には少し偏りがあるとお話しました。そこで今回は、改めて「仏」教における気づきの大切さ」についてお話します。

 「気づき」は、パーリ語でサテイ。英語でマインドフルネスと訳されているように世界的によく知られている概念です。これについてとくに重視していらっしゃるのは、前にもお話したように、日本テーラワーダ協会長老アルボムッレ・スマラサーナさんです。ためしにテーラワーダ協会HPによりますと、

・・・ 絶対に怒らないぞと決心しても、つい怒ってしまうという人は、無常を理解したほうがいいのです。無常を理解するための具体的な実践方法としては、今やっている行為に「気づく」ことです。手を上げているとき、今手を上げている、歩いているとき、今歩いている、立っているとき、今立っている、水を飲んでいるとき、今飲んでいる、と今の瞬間の行為に気づくことです。この気づきを瞬間瞬間つづけていくうちに、やがて無常を発見することができるのです。どういうことかといいますと、たとえば何か嫌なことがあって怒ったとしましょう。そのとき「今怒っている」と気づくと、怒りがスーッと消えるのです。嫉妬しているとき「今嫉妬している」と気づくと、嫉妬が消えるのです。妄想しているとき「今妄想している」と気づくと、妄想が消えるのです。これが無常ということなのです・・・

とあります。

 もともと「気づき」は「スッタニパータ」にあります。たとえば、

1034 アジタが言った「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか。 その流れを防ぎ守るものは何ですか。 その流れは何によって塞がれるのでしょうか。 それを説いてください。」
1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気を付けることである。〔気づき」をこのような意味だけでなく、瞑想中にさまざまな思いが出てくるときの対処法とを付けることが〕煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう」 とあります。

  さらにスマラサーナさんは瞑想をするときにも有効だと言っています。すなわち、瞑想をしているといろいろな思いが浮かぶものですが、なにかの思いが浮かぶたびに、それに気づいて「アッ○○だ」と気付けば消えるというのです。