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西田幾多郎博士の絶対無と禅の「空」(4) 禅の空思想

 西田博士の絶対無の思想は、筆者のこのブログシリーズで繰り返しお話している禅の「空思想」と共通しますね。西田博士の哲学が禅と深く関わっていることはすでにお話しました(前掲の拙著)。西田博士が、著名な禅の研究者である鈴木大拙博士と金沢の同郷、旧制高等学校も同じでしたし、「お互いに影響を受けた」のです。以下に、西田博士の絶対無と禅の空思想との関連について筆者の私見をお話します。 

色即是空

 「私がモノゴトを見る」という唯物的見方で見えたモノゴトが「色」で、「空(くう)」の観かたで観えたモノゴトが「真実の姿」です。これが色即是空です。

「空(くう)」で観たモノゴトの姿が神の世界

 「空(くう)」のモノゴトの観かたで観たモノゴトは、西田博士の言う純粋経験と同じように「見る私も見られるモノゴトも無い、ただ純粋な体験だけです(それゆえ「純粋」なのです)これこそ、禅で言う心身脱落(しんじんとつらく)の状態であり、神の世界(西田博士の言う絶対無の世界に合一するのです。これが「空(くう)」思想と絶対無との関係です。

 空即是色

 私たちがふだん見ているモノゴトは、たとえ間違って見えるとしても実在しています。つまり、ふだん私たちが見ている「色(しき)」も、まぎれもなく一つのモノゴトの姿であり、それを無視することはできないのは当然です。ここが「空」を縁起の法則で解釈している人たちとの相違点です。大切なことは、モノ、つまり「色」も神(絶対無の世界)によって作られたということです。「色」すなわち宇宙も山も川も人間も絶対無の世界、つまり神によって造られました。それゆえ、その本質は「空(くう)」の観かたで観たものと同一ですが、私たちに知恵が付いてしまったのでモノゴトを観る眼が曇ったのです。これが空即是色の意味です。藤田一照さんのように「まあ細かいことは・・・」などと言ってはいけないことがおわかりでしょう。

 「即」の意味

 般若心経で、「色即是空」に続いて「空即是色」と書いてあることについて、筆者は「単なる語呂合わせなどではない」とお話しました。もちろん「即(すなわ)ち」ではありません。禅では、色と空、つまり、観たモノゴトと見たモノゴトは「同じではないが違ってもいない」と言います。不一不異です。ことほどさように、筆者が「即は『すなわち』ではなく即座の即だ」と言いますのは、「色は即座に空、そして空は即座に色だ」と言う意味です。

「空」の理解は悟りへの重要なステップ

 「空」の正しい理解なくしては悟りには至れません。悟りの第一段階です。筆者がこのブログシリーズで「空」の正しい意味を何度もお話しているにもかかわらず、なかなか読者の皆さんに浸透しません。わかっていただいた人は一部です。相変わらず、龍樹の「空」理論を根拠に「空」を縁起で理解している人が多いのです。「空」の理解は、筆者の言う「本当の我」に通じる道なのです。「本当の我」は神の一部です。

最短時間で悟りに至った人

 アルボムッレ・スマナサーラ著「パティパダー巻頭法話 No.35(1998年1月)」
より。スマナサーラさんはスリランカ上座部仏教(テーラワーダ仏教)の長老であり、日本テーラワーダ仏教教会会長でもあります。スマナサーラ師のお話を聞いたことがありますが、日本語がとてもお上手です。スリランカは日本仏教が大乗仏教であることと対照的に、初期の上座部仏教が伝わって現在に続いています。筆者もスリランカ中部のキャンデイの寺院で短期間瞑想修行をしたことがあり、共感するところが多いのです。エピソードの内容は、

 ・・・自分は「悟った人」と思っていた元インドの商人バーヒヤが友人に「君は聖者でもなく、聖者たる者はどのような人かということの一かけらさえ知りません」と友人は言われ、非常にショックを受け、我に返った。そこで彼は「どうか私に聖者になる道(悟りへの道)を教えてください」と友達に懇願しました。すると友達は言いました。「私はその道は知りません。人間の間に今、仏陀が現れています。彼が伝道して多くの人々を悟りへ導いています。その釈迦牟尼仏陀に会って指導を受けてください」バーヒヤは、その話を聞いてすぐすべてを捨てて立ち上がったのです。何カ月もの日々をかけて仏陀のおられる北の方へ旅をし、托鉢中の釈迦に会いました。

 仏陀は「食事の後教えますから、待ちなさい」とおっしゃいましたが、バーヒヤは引き下がりませんでした。「人は生きていれば、いつでも食べられます。ですが人間はいつ死ぬかわかりません。その前に清らかな心を作ることこそが最優先の目的ではないでしょうか」この言葉には、釈迦尊も何も言うことがありませんでした。そこで釈尊は立ったまま説法を始めました。


「バーヒヤ、見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない(対象にわれない)。内にもいない(心の中にも執着が生まれない)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない。それは一切の苦しみの終わりである」

 この言葉を聞いただけでバーヒヤは完全に悟りを開いて、阿羅漢になりました。瞬間のできごとでした。彼は後に釈迦の弟子の一人として認められました。

筆者のコメント:あらゆるモノゴトを認識(見た、聞いた、嗅いだ、味わった、触れた)したときに一切の判断を入れないという、「空の観かたで観たモノゴトの認識」こそ、悟りへの最短距離だと言っているのですね。ただし、頭で理解しただけではダメです。全身で体験しなければ。

筆者が禅の道に戻った理由

 筆者は20歳代の頃から「どうも生きにくい」と感じていました。周りとの関係がギクシャクすることが多かったのです(それには霊的な理由があることが後年わかりました)。そこで筆者はキリスト教の教会に通いました。しかし、どうもしっくりいきません。そこで禅の本を読みました。たまたま手にしたのが松原泰道さんの「般若心経入門」です。30歳の頃でした。しかし、松原さんが「あらゆるモノには実体がない」という考えにどうしても納得が行きませんでした。その失望から禅から離れました。まちがったことを書くことの罪は大きいのです。その判断は今でも変わらずこのブログシリーズでも書きました。もちろん今度は、「なんかおかしい」ではなく、「ここがおかしい」との根拠も明示しました。

 40歳代初めに個人的にとても困ったことが起こり、どうしても解決できない苦しみの中で、たまたま書店である神道系教団の教祖の著書を見付けました。さっそく隣県にあるその教会を訪れ、感じるところがありましたので、入会しました。そこでは「霊能開発修行」を主旨にしておりましたが、そのことは入会してから知ったたのです。月に1回、1日3回ずつ「霊感修行」があり、神前で座り、後ろで導師が祝詞を奏上するという型式でした。最初から強く感応したので驚きました。1回の修行ごとに修行帖に判を押してくれます。5年ほどで300回に達しました。修行が進むと神占法、神伝治療法(病気の治療)、邪霊払いなどができるようになります。今考えればその修行は「悟りへの道」だったと思います。その後別の教団へ移り、さらに5年間、同じような修行を積みました。そこで筆者が「なぜ生きにくいか」の霊的意味もわかりました。もともとある程度の素質もあったのでしょう。霊能開発は進み、ついに「あと一歩で霊能者になるところまで達しました(教祖の言葉)」。世の中には霊能者になるのを目指している人も少なくありませんね。しかし、霊能者になれば大きな責任が生じます(それをわかっていない人が実に多いのですが)。趣味として、あるいは仕事の片手間でやることではないのです。筆者には大学での研究と教育という重要な責務がありました。そこで教祖と相談し、霊能者への道を閉じていただきました。今でも正しい判断だったと思います。けっきょく、いろいろな事情があって筆者はその教団をやめました。その理由の一つは、修行が受け身だったことです。やはり、信仰とは、なにより自ら積極的に学ぶことだと思ったからです。このブログを書き始めたのは、すべての公職を終えてからです。

 以上、筆者の信仰も仏教に始まり、キリスト教から神道系教団と変化しましたが、結局、「禅こそ」との考えに至りました。その途上で神智学や、カントや西田哲学も学びました。南伝仏教の拠点スリランカの道場でも瞑想修行をしました。今考えてもこれらの遍歴は決して無駄ではなかったと思います。というより、「何かに導かれてここまで来たのではないか」とさえ考えています。なにより大切な気づきは、命は神によって造られたことに「ハッ」と気付いたことです。霊の存在もいやというほど体験しましたが、それも貴重な経験だったと思います。

 人間的にもずいぶん変わったと思います。大学の教え子に「人見知りする」と言ったところ「先生は明るくて、気さくで話好きな方だと思っていました」と驚かれました。生命は神によって造られたとの思いは、自ずと他の人に対する見方がやさしくなったのは当然でしょう。そして「少しでも世の中のために」と始めた一人ボランテイア活動が地域の人の目に留まり、最近、思いがけなく市から表彰されました。

 そして、こうして禅に関するブログを書き続けていることは、大きな生きがいになっています。

瞑想の意義(1)

  (話の途中ですが)

これまでもっぱら禅の教えについて学び、お話してきました。禅に限らず仏教では「教行一如」と言い、学びと修行はいずれも不可欠です。学びなくして悟りはありません。「わかったことが正しいかどうか」は奇跡が起こることで確認できます。そこで今回は、もう一度瞑想についてお話します。

 もちろん筆者は瞑想を毎日実践しています。瞑想の意義の一つは、心を鎮めることにあります。現代の私たちには、「良い高校や大学に入り、一流の会社に就職し、豊かな(?)人生を歩まなければならない」という暗黙の至上命令に従って生きています。そのため、時には幼稚園や小学校から塾に通う人もあり、就職してからも神経をすり減らす毎日です。つまり、私たちは常に何かを考えています。その「何か」も私たちがこの世で生きる本来の意味である、魂の成長とはおよそ関係のない、俗事ですね。それによってどれだけ心が曇り、魂との疎通が滞ってしまうかわかりません。そのため瞑想によって心を鎮めるのです。

 瞑想の最も重要な意義は、正しい瞑想を積み重ねることによって「本当の我(魂)」に出会い、それを通して神(仏)と一体化することです。神と一つになって正しいメッセージを受け、神の御心に従って生きるのです。筆者はもっぱら禅について学んでいますが、じつは釈迦以前のインドのヴェーダ信仰や神智学に共感するところが大きいのです。自己(アートマン)と神(ブラフマン)との一体化を目指すのが、ヴェーダ信仰の目的です。人間の言葉や行為によってカルマが生じ、それが私たちの魂の記憶になって刻み付けられると言います。輪廻転生(生まれ変わり)のさまざまな状況でカルマが表に現れ、多くの場合「好ましからざること」となって具現化すると言われています。

 これに対し釈迦仏教では、真っ向から自己(アートマン)という固定的なものを否定し、輪廻転生については「無記(語らない)」としました。それは当然のことで、もともと釈迦仏教はヴェーダ信仰のアンチテーゼ(それを否定する理論)として生まれたからです。

一方、神智学とは、広い意味では、カルマの存在や、神との一体化を目指す、ヴェーダ信仰と共通するところが多い考えです。ヨガにも通じるところが大です。もちろんヨガでも瞑想は重要な修行です。

 筆者は、神道系教団にも属して修行をしましたし、神智学についても学びました。カントの観念論哲学や西田哲学も学びました。そして今日に至るのですが、もう何が現在の考えに結び付いたのかはわかりません。いずれにしましても、釈迦仏教とはかなり異質なものです。

 ここでとくにお話したいのは瞑想のやりかたについてです。「ひとお―つ、ふたあ―つ・・・」と声に出して数える方法、自分の心を見つめる方法など、さまざまなやりかたがありますが、そのほとんどに筆者は馴染めませんでした。筆者が「これなら」と思う方法にたどり着くまでに10年かかりました。どうか皆さんもさまざまな試行をしてみて納得するものをつかんでください。なによりも続けることが大切です。

 最後にとても大切なことを付け加えます。瞑想は正しい指導者の指示に従ってください。「正しい」とは、「途中で何か起こっても対処できる人。それだけの霊的能力を持った人」」という意味です。有名寺院で5年や10年瞑想体験をしただけの人でもとてもダメだと思います。くれぐれもご注意ください。

Aさんが仏教では悟れなかった理由(1)

以下はネット記事です。著者Aさんはその理由を三つ挙げています。

 仏教には膨大な経典と、それらを裏付ける圧倒的な論理があり、その完成度は非常に高いと言われています。また、日々をもっと柔軟に過ごすための、ホッとするような包容力もあって、とてもバランスのよい教えだと思います。ですが、僕の読んだ多くの仏教書や情報教材が悪かったのか、以下のような点で幻滅をしてしまいました。

  • 「なんとなく日々を気楽に過ごすための心がけ」になっている
  • 複雑で難しい話が多く、それを理解したからといって幸せになれるとは思えない
  • 仏教の論理性や歴史を盾に、他の宗教を批判している

 悟りとは、きっと頭であれこれ考えることでもありませんし、外側から身につける「知識」でも、思い込みでなんとなく前向きになる「心がけ」でもないはずです。また、もし仏教の考え方が論理的に正しいものだったとしても、ある特定の「知識」を強く信じることは、かえって「執着」となって、硬い結び目のように、寛容性・柔軟性を欠きがちです。これを「信念」と呼べば聞こえはいいものの、実際の場合、ほとんどが自分のエゴを守るためのロジックに使われ、自分とは異なる価値観を批判したり、ひどい場合は衝突にもつながってしまうのではないでしょうか。

悟りとはきっとそのようなものではなく、知識を超えて、差別や区別のない、ただ愛だけが内側から溢れるようなものだと思います。そして、このような境地は、本を読んでいっぺんに得られるものではなく、ブッダがそうしたように、瞑想で自分の内側を見つめ、地道に気づきを深めていくことでしか手に入らないものだと、今でははっきり分かります。

理由2.何年も瞑想をしても、全く変わらない

 一通り教えを学んだのち、仏教に本格的に取り組もうと思った意識の高い人たちは、次に実際に瞑想や座禅をしてみて、少しでもブッダのいう「悟り」の片鱗を感じようとします。その際に、付近にある寺などで教えを受けながら実践する人もいれば、学者やセラピストの書いた本を購入して、独学で挑戦しようとする人もいるでしょう。また、瞑想のやり方も様々あり、じっと座って心を見つめ、雑念が出てきたら流すというものや、あるいは、ある言葉を繰り返し集中して唱えるという方法もあるようです。どんな方法であれ、一人でゆっくり座って無心になり時間を持つことで、ある程度、自分自身の穏やかさを取り戻すことができ、とても良い習慣だと思います。ですが、瞑想の目的が単なるリラクゼーションではなく、本当に悟りを目指して、自分の変容を目指している人にとっては、だんだんとある疑問が湧いてくることでしょう。それは、「いつまでたっても雑念だらけで、自分が何も変わらない」という根本的なものです。少し昔に、あるお寺で10年もの間、座禅をやり続けたという人とセラピーで一緒になったことがあります。しかし、それだけ地道に頑張ってきた方であっても、自分の性格の頑固さなどが原因で、仕事や人間関係がなかなかうまくいかないという悩みを抱えているようでした。年数で比較するのもどうかと思いますが、ブッダが悟りを開くのにかかったのは6年間ほどと言われています。ブッダの生きてきた時代や生活の状況とは全く違うとはいえ、10年頑張ったのに悩みは絶えず、雑念が次々と湧いてくるというのですから、思わず「やる意味があるのか」と疑ってしまいました。この人以外にも、瞑想をなんとなく続けているものの、実際は自分が変容しているか分からない、という人はとても多いと思います。もちろん、僕自身も独学で瞑想を毎日行っていましたが、正直まるで変わりませんでした。大学の先生の翻訳した本に書いてある通り、ブッダと同じやり方で修行しているはずなのですが、雑念は消えず、流しても流しても湧いてくるのです。そんなことを数十年繰り返しても良くならないとなれば、「悟りなど存在しない!」と憤慨する気持ちも分かります。決して楽をして悟りたいというわけではありませんが、それでも「もっと効率の良いやり方があるのでは?」と感じるのは、僕だけではないと思います。

理由3.出家をして極端な苦行をしなければ、悟れない?

 悟りを目指そうとするときに突き当たる問題として、やはり「外の世界の影響」を挙げなければなりません。試しに、外で仕事をして帰ってきた時と、一人で家に居てじっとしていた時の瞑想を比べてみてください。後者の方が、圧倒的に内側に入っていける感覚があると思います。それだけ、日々の生活で色々な人からたくさんのエネルギーを受けているため、やはり修行には人から隔離された静かな環境が不可欠なのです。そのような意味で「本格的に悟りたいなら、出家して世俗から離れよ」というのは、間違ったことではありません。

 ですが、日本人として生まれ、日本の社会で育ってきた人にとって、「出家」という選択肢は、あまりに極端に思えます。本当の理想を言えば、普通に社会人生活を営み、子供を育てたりしながら悟りを目指せる道があれば、それが一番だと思いませんか。社会との関わりをあまりに無視しすぎるのもバランスが悪く、孤独故にエネルギーが滞る原因になってしまうと思うのです。また、ブッダの時代から数世紀経って、状況も大きく変わっている今、その当時の極端な修行法をそのまま踏襲しようとするのはリスキー過ぎるように思います。日本でもしブッダと同じように出家して何日も断食を行ったり、過度に自分を痛めつけるような修行を行わせる団体があったら、公安から目をつけられてしまうでしょう。現代でも千日回峰行といった過酷な修行法があるそうですが、果たしてそんな辛い思いをしなければ悟りにはたどり着けないのでしょうか。苦行を繰り返すことで、本当に内側から愛が溢れたり、雑念がなくなり純粋になるということが起こるのでしょうか。

個人的には、神様からいただいた心と体は、もっと大切にして、誰かを幸せにしたり、安定した瞑想のために使うものだと思っています(もっとも、現代では、大切にしすぎて弱ってしまっているのですが)。

 「ストイックな自分」との共依存も起こりやすい

 このように、仏教を厳密に極めようとすると、どうしてもストイックにならざるを得ないわけですが、その構造自体にもリスクをはらんでいます。それは、「ストイックさはエゴに結びつきやすい」という点です。ブッダのように、まっすぐ戒律を実践できれば良いものの、多くの場合、自分の中に堕落的な気持ちがあるのにもかかわらず、それを抑圧してまで教えを守ることが正しいように振舞い、「自分はこんなに教えを正しく守っている」と意地を張ってしまうのです。

当然のことですが、いくら気持ちを押さえ込んでも、あるものをないことにはできません。このような抑圧を繰り返しおこなっていくと、エゴとして固着化して頑固になり、それをほどくのにもっと時間がかかってしまうのです。それはある意味、ストイックな自分との共依存であり、ブッダのいうような「執着を捨てていく生き方」とは真逆のものと言えるかもしれません。

本当に悟りを目指すために、仏教を去らざるを得なかった

 このような理由で、僕は仏教を去り、さらに本当の真理を求める旅を続けたのでした。もちろん、ブッダの教えは不滅であり、その真髄が衰えることはありません。僕自身も、今でもブッダが示してくれた教えには(失礼な表現かもしれませんが)、今でもとてもワクワクしています。ですが、現代の日本において、悟りのために必要なのは、厳しい苦行ではなく、日本のライフスタイルに馴染むような、社会人として普通に生活しながら、同時に神を愛し、悟りに近づいていけるような教えではないでしょうか。ブッダの時代からこれだけの年月が経っています。それなら、悟りの道ももっと進化しているはず・・・。

筆者のコメント:ネット記事をくわしく検討した結果、Aさんはとても純粋でひたむきに仏教を学んだ人だと思いました。ただ、若者らしく、いかにも視野が狭く、未熟なままであきらめてしまったように思いました。Aさんの論拠は一つ一つ精密に論破できますが、読者の皆さんもそれぞれのお考えをお持ちでしょう。判断はお任せします。また、人の心はその人のもので、他人がとやかく言う筋のものでもありません。ただ、他の若者たちの中にはAさんの言葉を「なるほど」と思う人もいるかもしれません。そこで、Aさんに反論するより、筆者が禅に(仏教に)戻った理由をお話した方が良いと考え直しました。(続く)