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苦しみを幸せに変える 鈴木秀子シスター(1,2)

(1)鈴木秀子シスター(1932-)聖心女子大学教授(日本近代文学)を経て、国際コミュニオン学会名誉会長。全国および海外からの招聘、要望に応えて、「人生の意味」を聴衆とともに考える講演会、ワークショップで、さまざまな指導に当たっていらっしゃいます。「純潔」「清貧」「従順」の三つを誓ってシスターになられました。「純潔」の誓いにより、一生涯独身生活を守り、身も心もすべて神の国の建設のために捧げるのです。

「自分を生き抜く聖書のことば」(海竜社)、「死にゆく者との対話」(文藝春秋)、「あなたは、あなたのままでいてください」(アスコム)、「あなたは生まれたときから完璧な存在なのです」(文藝春秋)など著書多数。 

(以下はNHK「明日も晴れ、人生レシピ・苦しみを幸せに変える」の放送から)

 鈴木さんの活動の一つに「死を間近にした人への癒し」があります。枕元で手を取りながら「吐く息とともに心配や不安が全部外へ出て行きます」「過ぎ去ったことはすべて許されます」と言って死への恐怖から解放してくださいます。鈴木さんは「一人の人生の、それに振り回されず終わりというのはこの世を卒業し、向こうの世に生まれ変わって行くすばらしいチャンスだ」との、独自の死生観をお持ちで、そのきっかけは47歳の時、階段から落ちて5時間も意識不明になったときの臨死体験に基づきます。 ・・・取り巻いている全体が金白色のすばらしい光に満ちていて、立っている私は満たされている。ああ、無条件の愛とはこういうものだと、とても強く感じた(註1)・・・

 鈴木さんの言葉はどれ一つをとっても胸に響きます。

 ・・・病気とは苦しくて先がすごく不安になりますね。だけれどもその体験があなたを幸せに導いてくれます・・・よく「私の病気を治すために祈ってください」と言う方がありますが、私は「病気を直してください」とは祈りません。苦しみが無くなることがその人にとって果たしていいのかどうかわからないからです。その苦しみを通して、その人が人間として成長してゆくため、いまそれらに出会っているのかもしれない。「それを乗り越える力を与えてください」と祈ります・・・。

 ・・・迷うことも苦しむことも人間として当たり前ですが、そういうことを通して神さまが導いてくださり、すべてよく計らっていて下さると私は確信しております。ともかくその時に沸き起こってくる感情を認めながら、その感情に振り回されず、一つ一つの出来事に対処するのが一番とわたしは考えます・・・すべて起こることには意義がある、だから悲観せず、最悪とは考えずに、その気持ちを受け止めながら、今日一日を精一杯生きて行くことが大切です・・・

 ・・・自分自身と良い絆を築く、これが幸せになる第一の法則と確信しています。あなたが自分を叱りつけたり、なんであんなバカなことをしたんだろう」とか言って自分を責めたりしていると、他の人との人間関係も悪くなります。あなたが「また私を責め始めている」と気付いたら、このマジックワードを思い出してください。「意外と私は・・・」と言うんです。「意外と私は頑張ったじゃないか」「意外と私はみんなに感謝されているじゃなないか」・・・そういう自分の良いところを引き出してみてください・・・。

 鈴木さんは一年に一回、北海道で9日間、ただ一人で「沈黙の黙想」をなさいます。日常を離れ、静かに神に祈り続けることで「苦しむ人のために祈り続けるエネルギーが生まれてくる」と言っていらっしゃいます。

 鈴木さんのところへは、全国から相談のメールや手紙、あるいは直接訪ねてくる人がいます。その一人に7年前、娘を自死で亡くしたお母さんが来ました。「母親として失格ではないか」と苦しみ、3年間はほとんど寝たきりだったという。「鈴木さんに苦しさを話したいだけ話すと、ようやく少し楽になった」と。鈴木さんは「そのあなたの苦しみと救われた体験を私の会でお話になりませんか」と言うのに応えると、鈴木さんは「後で多くの皆さんから、『勇気をいただいた』との反応があったじゃないですか。あなたが想像しないところでたくさんの人が勇気をもらっている。(お嬢さんの自死という)出来事があって今のあなたがある。お嬢さんは素晴らしいものを贈られましたね。天国からお母さんにすばらしい働きかけをしているのです」。お母さんは「そう言われればそんな気にもなります」と。

(2)一生涯「純潔」「清貧」「従順」の誓いを守って生きて行くことは、部外者には信じられないほどの覚悟と実践でしょう。鈴木さんは13歳の時終戦を迎え、今まで、校長や教頭、すべての先生たちが「登校した時必ず天皇陛下のご真影にご挨拶しなさい」と教えて来ました。しかし(終戦の年)夏休みが終わって学校へ行ってみると、一人遅れてきた子がいた。窓から見ているとある先生が「あのバカはまだあんなことをしてる」と、せせら笑った。それを聞いて私の心にあった大切なものが一気に粉々になりました・・・」。「その空洞を埋めたのが、その後入学した聖心女子大学で同級生の曽野綾子さんから聞いた次の言葉でした・・・戦時中、シスターの一人が神についてお話していると、憲兵たちが乗り込んできて「キリスト教などデタラメだ」と言って講義を中止させた。しかし憲兵たちが引き上げると、シスターは、すぐに元の話にもどった」。キリスト者の心の中心軸は少しもぶれることがなかったのですね(註2)。

筆者のコメント:鈴木さんのご活躍はただただ頭が下がります。強い信念をもって神を信頼されている方ならではのお言葉と行動でしょう。ただし、死を間近にした患者へ、「吐く息とともに心配や不安が全部外へ出て行きます」「過ぎ去ったことはすべて許されます」との言葉は霊的な観点から言えば誤りです。誤りを伝えてやすらぎを得させるのは、やはり正しい道とは思えません。筆者でしたら、「あなたがこれまでひどいことを言ったり、ひどい仕打ちをした人に許しを乞いなさい」「あなたを生かしてくださっている神に感謝しなさい」「あなたを許し、愛して下さったたくさんの人に感謝しなさい」「自分を心から認め、許しなさい」と伝えるでしょう。また、「(自死をした)お嬢さんが天国からお母さんにすばらしい働きかけをしている」かどうかも筆者にはわかりません。お母さんの「そう言われればそんな気もします」が正直な感想でしょう。しかし、お母さんが、それまでのただただ自分を責める生き方から、「他人に聞いていただこう」と前向きになったのは間違いないでしょう。

註1 鈴木さんの「臨死体験が神の存在を確信させた」かどうかについては、異論もあります。「脳の中に組み込まれていた生存本能としての記憶に過ぎない」という人たちもいるのです。

註2 鈴木さんは「日本人には中心軸を持っている人が少ない」と言っています。まったく同感で、今度のコロナウイルス騒ぎなど、その好例でしょう。

一般人でも悟れるか(1,2)

一般人でも悟りを開くことがありますか?

ネットを見ていましたら、このような質問がありました。「がっしー」さん50代男性からです(https://hasunoha.jp/questions/32252)。

 ・・・仏門に入ったり修行を積んだりしていなくても、悟りを開くことはできるのでしょうか?

 私は家庭環境の事情もあり、ほぼ天涯孤独な人生を歩んでいます。病気・事故などで死にかけたこともありますが、その都度周囲の方々に助けてもらいながら約50年生きてくることができています。その中で一つ一つの問題を自力で解決する中でたどり着いた結論があります。簡単に表現すると、自身を取り巻く環境はすべて自分が決定している、というようなものです。 欲求をコントロールすることで環境は変えられ、安心安楽な生活を送れると考えています。実際に一般的には余裕は全くありませんが、平穏・安楽な毎日を送ることができています。

 仏教に関する教えなどを本で読むと、私にとっては当たり前の論理が展開されており 少々物足りない感じを受けます。もちろん書物は一般向けの表現であり、実際はもっと複雑なものだと思います。

 現在の生活環境で特に問題があるわけでもなく、自身の人生を全うすべき邁進する毎日ではありますが、この状態が悟りを開いた状態なのかどうかが最近気になっております。仮に悟りを開いているとしても、論理的に理解できているだけでまだまだ体調の良くないときは欲が出てきたり、咄嗟に感情が表に出そうになることもあります。まだまだ私の世界は狭く、もっと広い世界を見れば私の論理が通用しないことも出てくるとは思いますので見聞は広げていきたいと思っています。悟りを開きたいという願望は特には無いですが、一般個人でも悟りを開くことができるのであれば、自分の意見に自信を持って周囲の人に助言をすることができるのでないかと考えています。(もちろん自分の意見として)これまでは、他者に不用意な発言をするのもある種の自己の欲求であることも判っておりましたし、天涯孤独という特別な環境に生活する個人の特殊な論理として自分の発言を控えていました。しかしながら当然の帰結(私の理屈では)で悩み、怒り、ストレスを抱えている周囲の人の力になることも自身の存在理由なのかと感じることも増え、この度の問い合わせとなりました。

お坊さんからの回答:(それに対する筆者のコメントを逐次付け加えます)

1)悟れません(浄土真宗・住職)

 広島県でしたら「がっしーさん」の周囲は 浄土真宗の寺院が多いでしょう。浄土真宗では「人間は煩悩を滅せない凡夫であり、今生で悟りは得られないので、全て阿弥陀如来にお任せして成仏させていただく」と考えますから、一般人も僧侶も自力では悟れないのです。阿弥陀如来のお力で救われるだけです。それを信じることで安穏が得られる訳で、その阿弥陀如来から頂いた安穏の気持ちを 他の方々におすそ分けすることはできます。自分が悟っていようと悟れていなくても 周囲の力になることは出来ますよ。

筆者のコメント:まず、「悟りとは何か」の定義が重要ですが、それは以下の回答とも関りがありますので追々触れていきます。

 浄土の教えでは悟りに至ることはできないことは宗旨からいって当然です(すでにこのブログシリーズでお話しました。後ほど改めて書きます)。ただ、「がっしーさん」が浄土真宗寺院の多い広島県にあるからと言って、悟っていないことの理由とするには不適切と思います。あくまでもがっしーさんの言葉から判断すべきです。 

2)悟りに至っているかどうかは…(臨済宗住職)

 一口に仏教と言っても、八万四千の法門と言われるように様々な思想体系を備えています。その分、悟りという状態も時代やセクトによって指しているものが異なるというのが実際でしょう。初期の仏教では文献を読む限り、悟りに至るには出家が絶対条件でしたので、在家のままでは悟れません。しかし、大乗仏教では維摩経などで示されるように在家のままでも悟りに至る事が可能であると説かれています。上記でお判り頂けるように悟りを明確に定義する事は出来ませんが、その前提の上で私見を述べます。

 仏教では老病死は苦として扱われますが、四門出遊で示されるように、これらの苦からの解放が仏教の立ち向かう重要なテーマです。では、なぜ老病死が苦なのかと言うと、他でもない自分に訪れるからです。ここで言う自分とは自意識、いわゆる「我」です。我が強ければ、それに比例して老病死苦は耐え難く、反対に我のない人は軽やかに人生を終えるでしょう。そのため、我を慎ましくするべく瞑想を行います。だから、悟りに至っているかどうかは「我・私心」の有無によって分かれるように思います。

 私自身は悟りに至っていない明確な自覚があり、あなたが悟りに至っているかは私には分かりませんが、誰かを助けるのに必要なのは悟りの自覚ではなくて、共感ではないでしょうか。私が本当に辛かったときに、一番助けになったのか達観した論理的なアドバイスではなく、一緒に泣いてくれた人の存在でした。あなたに共感があるのであれば、悟りに関係なく、手を差し伸べて頂ければと思います。

筆者のコメント:「誰かを助けるのに必要なのは悟りの自覚ではなくて、共感では?」はもっともな回答だと思います。やはりこの僧侶は自覚どおり、悟りに至ってはいませんね。

3)できます(天台宗住職)

 仏道修行をしなくても、悟りがえられるかどうかということですね。
もちろん、仏道修行をしていなくとも、仏道修行に値する人生を歩んでいれば覚れます。坊さんでなくても覚れます。覚りは坊さんの専売特許ではありません。すべての人に覚りはあるのです。高僧といわれる僧侶であっても堕落している坊さんを少なからず見てきました。反面、僧侶や高学歴でない人でも、多くの生命を救い人々を幸せに導いている人はたくさんいます。覚りの内容の受け止め方は人それぞれですが、少なくとも人の幸せを喜びに感じ努力を惜しまず導く人は大きな覚りを持った人でしょう。覚りは特殊な力、超能力ではないのです。生きる実感だと私は思っています。合掌

筆者のコメント:「仏道修行をしていなくとも、仏道修行に値する人生を歩んでいれば覚れます」とは筆者も共感するところはありますが、やはり「悟り(覚り)」とは別です。「特殊な力、超能力ではない」は卑俗な表現です。前回お話したように、「悟りに至ったかどうか」は「奇跡が起こったかどうか」で、明確に区別されます。筆者は、自らの体験からも一般人でも悟りに至ることはできると確信しています。

4)悟っています(浄土真宗副住職)

 悟るとはなんでしょうか? 大きな安心を得ること、心にわだかまるがないこと、澄み切った青空のような気持ち、人によって違うようで、違わないような、求めても得られるものではなく、求めれば求めるほど 遠ざかるように思えます。

佛是幻化身 祖是老比丘  仏はこれ幻化の身 祖はこれ老比丘
儞若求佛 卽被佛魔攝   仏を求めれば すなわち仏魔に攝せられん
儞若求祖 卽被祖魔縛   祖を求めれば 祖魔に縛せられん
儞若有求皆苦 不如無事  若し求めることあらば皆苦なり 如かず無事ならんには

淡々と生きられたらよろしいかと。ただ、一つ異論があります。自らが選択した人生ではありますが、生かされた人生、給わりたる人生、と考える報恩感謝の気持ちが湧いてきて、よりあなたの人生を豊かにするのではないかと、愚拙は思います。南無阿弥陀仏

筆者のコメント:よく見られる人生相談に対する僧侶らしい回答ですね。つまり単なる一般論です。厳しい修行を続けている僧侶たちは、明確な意思を持って悟りを求めています。「求めれば求めるほど遠ざかる」とは、この住職は悟りに至っていないことを自ら示しているのです。

5)菩提道次第(臨済宗住職)

 真に悟りを開けば、迷い苦しみは完全に滅するため、その境地が悟りかどうかなどについても迷うことなく、ここにご質問頂くことももちろんないことになるでしょう。とにかく、悟りへと至るためには、確かなる仏道により、無明(根本的な無知)と煩悩を退治し、業を清らかに調えていくことが必要となって参ります。特に、悟りの妨げとなってしまっている煩悩障と所知障(究極の真理を知ることを妨げる障害:筆者)を、仏道修行における智慧と福徳の力で対治(退治?:筆者)することが求められるところとなります。ではいかにして私たちは悟りへの道を歩むべきであるのか、それが詳しく述べられてあるのが、10~11世紀に活躍されましたインド・ヴィクラマシーラ大僧院の僧院長であったアティシャ大師による「菩提道灯論」からの流れを受け継ぎ、14~15世紀のチベットにおいて活躍されましたツォンカパ大師により著されました「菩提道次第論」、「菩提道次第広論」であります。和訳があります。

筆者のコメント:これも単なる一般論でしょう。「あなたは悟りには至っていません」という答えですね。それにしても「〇〇を読んでください」はちょっと無責任では?

宗教と奇跡(1)

 高野山の奥深くで、虚空蔵求聞持法(註1)という特別な修行が行われていること、満願のとき奇跡が起こって修法が完成したことの証とされていることは、以前お話しました。その「奇跡」が起こらなければ、最初からやり直しという厳しいものです。

 奇跡とは神霊現象の特別なものでしょう。宗教が神霊現象と深く関わっていることは、人間の心の問題であるからには当然だと思います。旧約聖書には多くの奇跡が書かれておりますが、決して神話だからというわけではないと思います。イエス・キリストの他にもムハマンド、釈迦、法然、親鸞、日蓮などの宗祖たちも、他の悟りに達した高僧たちも、おそらく数々の神霊現象を体験しているはずです。「禅は神(仏)とは関係ない」という人もいますが、そんなことはありません。道元も「仏の中へ(我が身を)投げ入れて・・・」とはっきり言っています。筆者はそれどころか、霊感がなければ宗教の要諦は究められないと思っています。筆者も、「空」の意味がわかったとき、奇跡が起こりました。その内容については前著で触れました。

 民俗学者の柳田国男のことはよくご存じでしょう。柳田さんは11歳の時、知り合いの祖母が大切にして、死後、家族によって庭に作られた祠の中にしまわれていた蝋石(蝋のように半透明で柔らかい石)の玉に触れたとたん、「向こうの世界」へ入ってしまったそうです(「故郷七十年」)。柳田は「ばかばかしいこと」と称していますが。思想家小林秀雄によると「そういう素質があったからこそ、民俗学をやる資格があった」と言っています。柳田の「遠野物語」には、あの世のことや心霊現象のことがよく出てきますね。小林は、「科学には限界があり、『科学的』でなくても正しい体験はある」と言っています。その通りだと思います。筆者は科学研究を40年やってきました。科学と神霊現象は矛盾するものではないと考えています。もちろんオカルトのような怪しい現象など論外ですが。

  筆者それ以外にもこれまでさまざまな神(心)霊現象を経験したことはすでにお話しました。奇跡とも言えない、柳田国男の言う「ばかばかしいこと」の類です。最近、60年来の親しい友人を亡くしました。葬儀で弔辞を読んだほどの仲でした。奥様から知らせをいただいた夜、寝ている時、「彼」が来ました。筆者は霊魂が訪れると、その独特の感触からわかるのです。以前、後輩が亡くなったときにも同じ現象が起こったのです。夜中にうなされていたのを家内が心配して起こしてくれました。その時まさに夢の中で後輩に会っていたことは憶えております。友人の場合は「しんどいから」とも言えず、困りました。やがて離れていきましたが。

 その「感触」は独特のもので、例えようがありません。あるいは「減圧タンクに入って

空気が抜かれた感触か」と考えたこともありますが、実際にそれを体験した人の話では違うようです。神経が高ぶって、背中が痛いような感じです。この感じは、日中でも他の霊魂が憑依した時や、ひどい時には竜神と感応した時もそうでした。

註1ノウボウ・アキャシャ・ギャラバヤ・オン・アリ・キャマリ・ボリ・ソワカという真言を1日1万回で100日間(2万回なら50日間)唱える。空海が土佐の室戸岬の御厨人窟(みくろど)でこの修法を行って悟りを開いたといわれています。このとき、口に明星が飛び込んできたと記されています。

禅の空は龍樹の空と異なる(3)アイドルトーク2さん

 アイドルトーク2さん(どうか今後はご本名にしてください)から、以下のようなコメントをいただきました。前々から筆者のブログを読んでいただき、誠実なコメントも頂いていている方と思っておりましたので、ここでお答えさせていただきます。アイドルトーク2さんのコメントは、

・・・玄侑宗久師のコメントに従い中村元著『龍樹』(講談社学術文庫)を読みました・・・塾長も先入観を捨て、熟読下さる事を切にお願い致します・・・

 これは、筆者が「玄侑宗久さんや藤田一輝さんは、松原泰道さんなど、多くの現代日本の仏教家と同じように「空(くう)」を龍樹の『縁起』に従って解釈しているからダメだ」と言ったのに対する反論(?)です。

 筆者は「龍樹の空と禅の空は異なる」と、繰り返しお話してきたにもかかわらず、アイドルトーク2さんは、「中村元博士の『龍樹』には〇〇〇と書いてあります・・・」と言っていらっしゃるのです。もっときちんと筆者のブログシリーズを読んでいただきたいのです。

 現代日本の大部分の仏教家はを龍樹の「縁起」で説明し、「だからモノという実体はない。それゆえ実体の無いモノゴトにこだわるから苦しみが生じる」という思考パターンです。

 よろしいですか。「禅の空を縁起で解釈してはいけない。龍樹の空とは異なる」というのが筆者の主張なのです。もちろん中村博士の「龍樹」を読んだ上でそう考えるのです。

  龍樹の「空理論」は、前期仏教の一宗派・説一切有部の「法(あらゆるものを成り立たせている原理)はそれ自体で成りたつ」との主張に対する反論として提出されたのです。龍樹は「縁起の法」に従って論駁しました。それを多くの当時の仏教学者が「よし」とし、後の大乗仏教の礎となったのです。しかし、当時も今も、縁起についての解釈すらさまざまなのです。おそらく釈迦は「あらゆる苦しみには原因がある」と言う意味で縁起(因縁果)を使ったのでしょう。それを龍樹が驚くべき拡大解釈したのです。彼の説はけっして絶対ではないのです。一歩下がっても、単なる一つの解釈に過ぎません。

 第一、龍樹の「空理論」自体にも自己矛盾があるのです。なぜなら、当然その理論も、別の思想と相互依存しているはずです。つまり、龍樹の空理論も恒久不変なものではないことになります。

 筆者は長年、さまざまな角度から禅を学んできました。道元の「正法眼蔵」「永平広録」「臨済録」「無門関」なども読みました。もちろん中村元博士の「龍樹」も。そしてある時、「禅の空は龍樹の空とはちがう」という、当たり前のことに気づいたのです。それは「龍樹の空は禅の空とは異なる(1),(2)」に書いてあります。どうか読みください。

西田幾多郎 絶対無(1-3)

(1)西田博士のこの思想は以前にもご紹介した純粋経験思想に次ぐものです。例によって哲学は難解ですので、まず、それに対する解説記事の一つをご紹介し、次回筆者の解釈をお話し、さらに超訳をご紹介します。どうか比較してください。禅と深い関係がある重要な概念です。以下は藤城優子さんの「絶対無と歴史的世界―中期西田哲学についての一考察―」日本大学大学院総合社会情報研究科紀要No.7, 225-234 (2006)から引用しました。なお、解説書には新井均さんや中村昇さんによるものなどがあります。長いので筆者の責任で一部省略と文言の変更をしました。ご容赦ください(以下、藤城さんは「西田幾多郎全集」(岩波書店)の文章から引用しています)。

・・・それでは、「叡知的一般者」及び「絶対無の場所」とは如何なる概念なのであろうか・・・「叡知的一般者」とは、ノエシスとノエマ(意識の作用的側面がノエシス、対象的側面がノエマ:筆者)という対立の世界を含む「一般者」である・・・西田が「叡智的世界に於てノエシスの方向に立つものは、いつも反価値的である、自己自身の底に深く見るもの程、悩める自己でなければならぬ」と述べているように、叡智的世界における最も深い実在とは、自己矛盾的な存在であることがわかる。そしてこのような自己とは、「道徳的自己」であると考えられている。つまり、一方で真、善、美という価値がある理想的な自己である。しかし一方においては、それに反する自己がある。だが同時に、自己の中に自己超越の要求を持った存在でもある・・・つまり、限りなく真の自己、即ち「神」と呼ばれるものに近い自己が於いてある場所が、「叡知的一般者」なのである。しかし、真の自己に至るには、「叡知的一般者」の段階にとどまっていることはできない。それが「絶対無(太字筆者。以下同じ)の場所」であって、そこにあるのは宗教的意識である。「絶対無の場所」とは、「叡知的一般者」をも包む・・・矛盾を脱して真に自己自身の根底を見ることが 宗教的意識である。叡智的世界から宗教的意識の世界に至るためには、「廻心」がなければならない・・・西田は、「宗教的意識に於ては、我々は心身脱落して、絶対無の意識に合一するのである、そこに真もなければ、偽もなく、善もな ければ、悪もない」と述べている。宗教的価値とは、自己の絶対的否定を意味する。迷える自己が絶対に自己を否定して、見るものなくして見、聞くものなくして聞くものに至ることが宗教的理想であると考えられている・・・「宗教的意識とは、言語を絶し思慮を絶した神秘的直観の世界と云うの外はない。つまり、「絶対無の場所」に於いてある宗教的意識は、全く我々の概念的知識を越えており、体験とか直観の極致において現れる・・・このように、真に絶対無の意識に透徹した世界に ついては「我もなく人もなく天地もない、そういう 絶対の無に絶対の死に入った時そこから絶対の宗教的生命が溢れ出て来る、真の自己が生れて来る、それを蘇生するという」と表現されている・・・それでは、「絶対無の自覚」とは如何なる概念なのであろうか。宗教的意識の於いてある「場所」である「絶対無の場所」は、ノエシスとノエマという対立を越えた「絶対ノエシス」の立場であると言うことができる。その場所において、真の自己を見ることが「絶対無の自覚」である・・・それでは、「絶対無の自覚」の構造は如何なるものなのであろうか・・・絶対無のノエシス的限定の方向には超知識的なものが見られ、そのノエマ的限定の内容として我々の知識というものが成立する・・・以上のことから、「絶対無の自覚」の概念の構造が明らかとなる。つまり、絶対無のノエシス的方向は、超知識的なものであり、そのノエマ的限定の内容が知識である・・・このように、西田の関心は、宗教的意識の於いてある「絶対無の場所」、即ち「絶対ノエシス」を映して見る立場、即ち「絶対無の自覚」が如何なるものかを解明することに向けられている・・・

 いかがでしょうか。難解ですが、ぜひがまんして精読の上、次回の筆者の解釈と、次々回の筆者超訳とを比較してください。

(2)筆者の口語訳(前回お話した西田幾多郎博士の原文と藤城優子さんの解説と対比して、以下をお読みください)。

 西田幾多郎博士(1870-1945)は、日本で初めての本格的哲学者だと言われています。 西田博士は弟を日露戦争で、次女と四女を病気で亡くすなど、最愛の家族を次々に亡くし、「哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と言った人です。

 ここで西田博士は3つの論点を示しています。すなわち、1)人間には真の自己になりたい という本能的欲求がある。2)純粋経験(モノゴトがあって私が見るのではなく、モノゴトを 観るという体験こそが真の実在である)は絶対無(神)に近づく道である。3)モノゴトとは、 人間の知識の発現である、の3つです。

 1)人間には真の自己になりたいという本能的欲求がある。

 ・・・人間にはモノゴトを認識する作用の主体、すなわち「私」には真、善、美を価値とする理想的な自己と、それに反する非道徳的な部分がある。しかし人間は本性として完全な道徳的自己、つまり真の自己(筆者の言う『本当の我』)になる可能性を持っている。そして、「神」と呼ばれるものに近い真の自己が「叡知的一般者」である。しかし、真の自己に至るには、「叡知的一般者」の段階に留まっていることはできない。人間はそこを越えてさらに神に近づかなければならない。神のいらっしゃる場所が絶対無の場所である。神の世界は人間の想像を超えており、それを知るには「回心」が必要である。そうすれば我々は心身脱落して、絶対無の意識に合一する。そこに至ることができるのは、深い罪の意識に沈んで、悔い改める道さえ見い出せない者である・・・神の世界には真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もない。我もなく人もなく天地もない(だから絶対無と言う:筆者)。神の世界に至るには自己の絶対的否定がなければならない。迷える自己が絶対に自己を否定して 絶対の無、絶対の死に入った時、そこから絶対の宗教的生命が溢れ出て来て真の自己に生まれ変わる・・・

 2)純粋経験は絶対無(神)に近づく道である

 ・・・ 見るものなくして見、聞くものなくして聞くものに至ることが宗教的理想であると考えられている・・・宗教的意識とは、言語を絶し思慮を絶した神秘的直観の世界と云うの外はない・・・

とは、「直感するには純粋経験が重要であり、純粋経験は絶対無の場所、つまり神の世界に通じる道である」と言っているのだと思います。

3)モノゴトとは、人間の知識の発現である。

 ・・・ 絶対無のノエシス的限定の方向には超知識的なものが見られ、そのノエマ的限定の内容として我々の知識というものが成立する・・・

 ノエシスとは「人間が見るという作用」ノエマとは「モノゴト」という意味です。では「モノゴトとは何か」と言いますと、西田博士は「純粋経験によって蓄積された知識」だと言うのです。それは脳の中に蓄積されているのではなく、(たとえば)魂の一部として蓄積されているのです。魂は絶対無の一部です。仏教の唯識論で言いますと阿頼耶識です。それを「超知識的なもの」と言い、絶対無の自覚と言っているのだと思います。哲学者としては阿頼耶識などとは言えませんね。

 いかがでしょうか。哲学者たちはどうしてああも晦渋な言い方をするのかと筆者は思います。なるほど、哲学にあっては一つ一つの言葉の定義を厳密にし、論理を明確にしなければならないという根本的な義務を持っていることはよくわかります。それにしても独自の造語することを喜びとしているとしか思えません。困ったことです。そこで次回はもっとわかりやすくするため、筆者の超訳をお話します。

 西田博士の絶対無の思想は宗教と共通するところが多いと思います。西田哲学を理解する鍵は「宗教」です。

(3)筆者の意訳

 絶対無は、西田幾多郎博士の思想です。難解ですが、禅の考え方を参考にすればよく理解できます。すなわち、 

 西田博士の言う絶対無とは、宇宙の真理、あるいは神の摂理、仏教で言えば「悟りによって認識される世界」でしょう。このブログシリーズで何度もお話しているように、初期西田哲学の純粋経験の考えも、禅の空(くう)の思想と同じように宇宙の真理(モノゴト)に対する正しい認識作用だと思います。そして人間がより良く生きるとは、「空」の思想や西田哲学に従って正しくモノゴトを観て(聞いて、味わい、嗅ぎ、感じて)、つまり五感を通して宇宙の真理(神の摂理)を認識し、それに従って生きて行くことでしょう。認識の仕方を誤ると人を傷付け、自らも苦しむことになるのです。大部分の人はモノゴトを正しく観ていないのです。では、私たちはふだんどのようにしてモノゴトを認識しているのかを、見るという五感の一つの働きを例にしてお話します。よく、私たちは生まれてから死ぬまで、時の流れに沿って歩いて行くと言われています。その道の横には壁があり、その窓を通してモノゴト(自然や人間関係)を見ていると考えてください。しかし、そうして見えるのは宇宙真理の真実の姿ではありません。虚妄の世界なのです。

 原始の時代には人間は自然の間近にあり、その原理に従って生きていました。それゆえ神の摂理をいつも肌に感じていたと思います。しかし、農業技術の発達などにより、力のあるものが出るようになると階級社会となり、それを維持するためにさまざまなルールができました。それと関連して知恵、すなわち価値観や好悪の情が生まれてきたのです。それにしたがって人間が自然や他人を見る目にだんだんフィルターがかけられるようになり、それらの実体が見えにくくなってきたのだと思います。価値感の相違や好悪の情による誤った認識が重なって、争いが増えて行ったのですね。

 「それではいけない。フィルターを全部外してモノゴトを正しく観て、宇宙の真理(神の摂理)に従って本来あるべき生き方にもどろう」と考える人たちが増えて行ったのですね。その一つが禅であり、カントやヘーゲルなどのドイツ観念論哲学であり、その流れを汲む西田哲学だと思います。

 では正しくモノゴトを観るにはどうしたらいいか。まずもう一度、前述の人生を歩むことの情景をイメージしてください。私たちの人生とは、道を歩いて行くことだとします。壁には窓が開いており、そこからモノやコト、すなわち、山や川やなどの自然、動物や人間同士の関係を見て通り過ぎます。しかし、もし窓が広かったら、それを通して見えるモノゴトは往々にしてボケていると思います。さまざまな人間の価値観のフィルターによって見えるものが曇っているからです。正しい観かたに戻るには、壁のスリットの幅をできるだけ狭くすればいいのです。そうすれば「観るという体験」だけになって、「アッ私の好きな〇〇だ」とか「嫌いな〇〇だ」という価値判断をする暇がなくなります。そうすると真実の世界が観えるようになります。ピンホールカメラを思い出してください。箱の穴が大きいとスクリーンに映った像はボヤけて、よくわかりませんね。しかし、穴をどこまでも小さくすると像はハッキリします。

 絶対無とは神の世界

 筆者は「絶対無とは神の世界だ」と言いました。「神の世界とか絶対無と言っても漠然 としています。そこでビッグバンを例としてお話します。宇宙はビッグバンから始まっ たと言われていますね。いま、ビッグバンの前の状態を考えてください。ビッグバンの前 には何も無かったのです(註1)。ビッグバンの一瞬前には、宇宙空間も時間さえ無かっ たのです。その後、よく知られているように、陽子や中性子や電子が造られ、水素やヘリウムなどの原子となり、それらが融合を繰り返して、さまざまな他の原子ができ、星がで き、銀河ができていき、現在の宇宙となり、人間も作られました。つまり、宇宙や人間は 絶対無から生じたのです。絶対無の世界には宇宙もなければ人間もなく、そのため真もな ければ、偽もなく、善もなければ、悪もないのです。当然でしょう。それゆえ絶対無なのです。

西田博士の絶対無理理論と禅思想とのくわしい比較については、また別の機会にお話します。

註1最新の宇宙物理学では、ビッグバンの前の状態は完全な無ではなく、「有と無が揺れ 動いている状態」だったようです。