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悟り体験と批判(1,2)

 (1)「豁然として心境が開け・・・」。「世の中ががらりと変わった」・・・さまざまに語られる悟りの体験は、仏教を学ぶ者にとって大きな魅力ですね。これまでの事例を集めた大竹晋さん「『悟り体験』を読む」(新潮社)によると、悟り体験には次の5段階から構成されていると言います。すなわち、

1)自他亡失体験:自己と他者との隔てを亡失して、ただ心のみとなる体験(ただし、臨済宗ではそれは「悟り」とは認めていない。)

例(以下同じ)〇倉田百三:(裏山を歩いていて)私は宇宙と自己が一つになっているのを覚証した。

2)真如顕現体験:通常の心である「自我の殻」を破って、真如が顕現する体験。

〇朝比奈宗源:まるでわしの体が爆発して飛んでしまったように思え、がらりーとして。

〇白水敬山:豁然として心境が開けて、思わず「天真光明遍照 天真光明遍照」と絶叫して躍り上がって歓喜した。

3)自我解消体験:真如-法無我-が顕現したことによって、通常の心である「自我の殻が解消される体験。

〇今北洪川:ただ、自分の体内にあった一つの気が、全方向の世界に満ち溢れ、光り輝くこと無量であるのを、知覚するのみだった。

〇朝比奈宗源:見るもの聞くもの何もかもキラキラ輝いた感じ、そこの生も死もあったものではない。

4)基層転換体験:通常の心である「自我の殻」が解消されたことによって、存在の基層が従来の基層から転換する体験。

〇原青民:かって心外に実在していると思っていたものが、意外なことに、心の中にあったことを発見した(原文は古語。筆者訳)

〇菩提達磨(達磨大師ですね):悟ってからは心が景色を含んでいるが、迷っているうちは心が景色に包まれている。

5)叡智獲得体験:存在の基層が従来の基層から転換したことによって、かってない叡智を獲得する体験。

〇高峰原妙:あらゆる仏祖の、きわめて入り組んだ公案、古今の様々な因縁のうち、解決されないものはなかった。

〇井上秀:前にいだいたキリスト教の疑問も解け、儒教の浩然の気も、判然と理解されました。人生に対する疑問も、精神上の不安も、この刹那すっかり消え去りました。

筆者のコメント:いかがでしょうか。これらは大竹晋さんによる分類であって、ダブっている体験もあるようです。また、5つの段階があるのか、5つのケースがあるのかちょっとわかりません。第一、筆者の体験や知識では、これ以外の「悟りの体験」もあると思います。

 筆者が日々禅を学び、座禅瞑想を欠かさないのはこのうち5)の叡智獲得体験を目指してきたためです。長年、生命科学者として生きてきた筆者にも「アッ」と予想もしなかった考えが浮かぶことがありました。以前にもお話しました、遺伝子の構造を見ていて突然「生命(いのち)は神が造られた!」という直感したのもその一つです。

(2) 一方、平田篤胤、安藤昌益などによる「悟り体験などない」という批判があります。大竹さんは「悟り体験を読む」(新潮選書)の中で次のような「悟り体験批判」した人たちのエピソードを紹介しています。

 まず、近・現代の著名な師家である澤木興道師(1880-1965、曹洞宗 元駒沢大学教授)が「座禅の仕方と心得」(大法輪閣)で、

 ・・・悟ろうとも思わずに、ただ座るところに道は現れている、悟りは輝いているわけである。ただ座るところに悟りは裏付けになっているのである(原文は旧仮名遣い:筆者訳)・・・

つまり、「わざわざ悟りを求めなくても、座禅した瞬間にもはや悟りはある」と言っているのですね。

筆者のコメント:澤木興道師は元駒沢大学教授、生涯お寺を持つことも、妻帯することも、組織を作ることもなく、移動叢林と称して弟子と共に一所不住の禅人生を送った人です。当時大変人気のあった人です。弟子には、弟子丸泰仙師、内山興道師、松原泰道師などが。他に強く影響を受けた人に西島和夫師、村上光照師などがあります。

 澤木師の言う「座禅した瞬間にもはや悟りはある」には抵抗があり、「この人は本当に悟りに達したのか」という疑問が残ります。澤木師の著作もいろいろ読みましたが、どうも心に響くところが無かったのです。以前のブログで、澤木師の考えに対する疑問を呈しました。ご参照ください。

 元曹洞宗駒沢大学総長の岡田宣法(ぎほう)師(1882-1961)は、「日常の行に現れた禅」で、

・・・禅の目標は人間完成にある。悟りを強要するような禅は、見性流の禅であって、超人生活をあこがれる人々の迷妄である(下線筆者)・・・最近余が自坊に一雲水来って宿泊を求めた。余はこころよく一夜を過ごさせたが、泊中余に悟りの境界はどんなものですか、と問うたので一喝して「悟りなんかあるものではない」と即答した。更に語を次いで・・・大悟(した者が)却(って)迷(う)とは無上の真理である。悟ろうとするよりも、迷うまいとするよりも、人間らしい生活をすことが何よりも大切である・・・

筆者のコメント:岡田師のこの考えには筆者も同感です。筆者の恩師は国立大学学長も勤めた方で、文字通りの人格者でした。筆者は長年に亘って薫陶を受けました。それが筆者の人生の幸いです。しかし、先生は宗教に関することを口にされたことはありません。最愛の娘さんを早くに亡くされましたが、「これも人生だ」とおしゃっていたのが強く心に残っています。これが先生の悟りでしょう。やはり、人格の陶冶を第一にしなければ、禅の修行は本末転倒になるでしょう。

 この2例のように「悟り体験などない」という考えは曹洞宗系の人から出ました。この主張については曹洞宗内部からも批判があり、澤木師や岡田師が第一線から退くと、自然に下火になっていきました。

荒了寛さん 般若心経(1,2)

 1)荒了寛さん(1928-2019)は大正大学大学院で天台学専攻修了。天台宗米国ハワイ開教総長としてハワイに在住。天台宗大僧正。ハワイ及びアメリカ本土で布教活動に従事。その傍ら、ハワイ美術院、ハワイ学院日本語学校などを設立、日本文化の紹介、普及に務めていた。「空即是色花ざかり」(里文社)など。

 「般若心経で救われるか」(里文出版)で、太田保世さん(1936~郡山市・太田総合病院理事長2010年当時)、玄侑宗久さんらと鼎談。荒さんは当書で他のお二人に繰り返し「空わかればが苦がなくなるか」と尋ねています。それは当書のタイトルにも従うのですが、じつは荒さんには過去に苦い経験があったためだとか。すなわち、荒さんは、

 ・・・30代の頃、ある友人が、名門の高校に入ったばかりの一人娘さんに自死されてしまった(註1)。まず奥さんが精神的におかしくなった。友人は奥さんが娘の後を追いはしないかと見守りながら、なんとか会社に出ていました。時々私に電話をしてきて、会社の帰りに駅前の飲み屋で待っているからということで、飲みながら語り合ていたのですが、ある時彼は、真剣な顔で「人は死んだらどこへ行くのかなあ」と、聞くんですね。私は瞬間大いに戸惑いましたが、かれは大学で高分子化学を専攻して、日本の最大手の石油化学工業会社の開発部の課長をしていたほどの人物でしたから、うかつなことは言えないと思い。とっさに「色即是空だなあ」と言ってしまったのです。すると彼は険しい顔で「何だそれは」と聞いてきたので、私はあわてて「空とは・・・、色とは・・・」と説明しようとしたのですが、「あんたそれでも坊主か。ぼくら夫婦は、今ごろ娘は無事に極楽に行ったとか、それともまだ三途の川の手前の花畑あたりで花を摘みながら、時々こっちをみて、『お父さん、お母さん』と言っていると思いながら生きているのだ。そう思わなければわれわれ夫婦は一日も生きて行けないんだよ。僧侶なのにもっとましなことが言えないのか」と怒鳴るように言う。私としては科学者なら、特に石油化学の最先端で仕事をしている人なら理解できると思って「色即是空」などと言ったのですが、こんな時に言うべきではなかったと大いに反省したけど、遅かった。娘さんの一周忌を済ませると、友人夫妻は、娘さんが亡くなった部屋で、二人して後を追っていったのです。必ずしも私の一言でそうなったとは限らないかもしれませんが、あの時、極楽浄土の話(註2)とか、仏教の常識的なイメージが浮かぶような話をして、この夫婦をはげますことができれば、この夫婦の生き方も変わっていたかもしれないかと思うと、今でもやり切れないのです・・・

筆者のコメント:これが当書で荒さんが他のお二人に「空がわかればが苦がなくなるか」と繰り返し尋ねている理由(註3)なのですね。荒さんは20歳のころから高神覚昇さんの「般若心経講義」などを通じて、般若心経の内容を知り、・・・「空即是色は花ざかり」と言う言葉を見付けた時「あっ空(くう)とはこういうことか」と感動したことを今でも般若心経を読むたびに生き生きとよみがえってくる・・・と言っています。しかし、80歳の、大久保さんや玄侑さんとの鼎談の時でも「空」の意味はわかっていないのです。それは「般若心経で救われるか」や自著の「空即是色花ざかり」を読めばよくわかります。自分がわかっていないことを根拠にして生死のことで人を勇気付けられるはずがありません。

 それにしても荒さんはその友人に何とバカなことを言ったものでしょう。「大いに反省したけど、遅かった」と言っていますが、決して遅くはなかったはず。話を変えればよかったのです。おまけに日本の最大手の石油化学工業会社の課長までやっている人に極楽浄土のことを聞いて「なるほど」と思うはずがないでしょう。僧侶をしてる人なら、こういう時適切なアドバイスができるよう心掛けているのは当然でしょう。

註1 娘さんが入学したのは荒さんが個人的縁故で紹介した入学が難しい有名な私立高校でした。お父さんは、第一学期の成績表を見て「こんなことじゃいかんね。もっと勉強しなさい」と言ったそうです。もともと成績が良く、深刻なショックだったのですね。

註2 わが国の「地獄極楽思想」は、天台宗の源信(942-1017)が「往生要集」の中で初めて説き、後の法然や親鸞の浄土思想に大きな影響を与えました。しかし法然自身は地獄や極楽の存在など少しも信じていず、単に大衆を導く方便だったと思っています。筆者は、以前のブログで「釈迦も驚く地獄極楽思想」を書きました。ちなみに源信も天台宗の僧侶です。

註3 荒さんが大久保さんや玄侑さんに「空がわかればが苦がなくなりますか」と何度尋ねても、話は噛み合いませんでした。いつも変な方へ行ってしまったのです。当然でしょう。二人とも般若心経はわかっていなかったのですから。

2) 荒了寛さんが感動した高神覚昇(1894-1948)さんの「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)には、

 ・・・因縁(太字:筆者)より生ずる一切すべての法のものは、ことごとく空です。空なる状態にあるのです・・・雪ふりしきる厳冬のさ中に、花を尋ねても、花はどこにもありませぬ。これがとりも直さず「色即すなわち是れ空」です。しかし、霞たなびく春が訪れると、いつとはなしに、枯れたとみえる桜の梢には、花がニッコリ微笑ほほえんでおります。これがすなわち「空即ち是れ色」です。何事によらず、いつまでもあると思うのもむろん間違いですがまた空だといって何物もないと思うのももとより誤りです・・・とあります。

 「ブルータスお前もか!」ですね。荒さんが40年後でも・・・「(あの時)あっ空(くう)とはこういうことか」 と感動したことを今でも「般若心経」を読むたびに生き生きとよみがえってくる・・・と言っているのが、まだ「空」がわかっていなかった何よりの証拠でしょう(註1)。

 筆者なら「死後の世界は必ずあります・・・」と言ったでしょう。大切な人を亡くした人にとって、それが一つの大きな慰めになることを承知していればこそ、このブログシリーズで、あの東日本大震災後に起こったさまざまな霊的現象を紹介したり、筆者自身の霊的体験をお話しているのです。それもできるだけ控えめに! 

 筆者がこのブログシリーズを書いている大きな目的は、震災や事故の遺族たちの少しでも支えになればと思っているからです。東日本大震災の時、現地に入った有名寺院の僧侶たちが「いかに無力だったか」と涙ながらに語っていました。

 荒さんは最終的には天台宗大僧正の位だったとか。「神も仏もあるものか」と言い放った瀬戸内寂聴も天台宗です。大僧正などという時代離れした大仰な階級こそ布教には不適切でしょう。筆者は、天台宗は過去の宗教と考えています。そんなものがハワイやアメリカで布教できるとは思えません。

註1 荒さんの「羅漢さんの絵説法(2)- 般若心経 空即是色花ざかり」(里文出版)の「色不異空・空不異色」については、・・・若木の花のみずみずしさ 老木の花の気品・・・「色即是空・空即是色」については、・・・咲く時は渾身の力で咲け 輝く時は命がけ輝け 人間の一生は短い・・・と書かれています。さらに荒さんがハワイの天台宗別院のセミナーで使っていたテキストには、

・・・「色即不異空・空不異色」はThe form does not differ from emptiness, nor emptiness from form・・・、「色即是空・空即是色」は、The form is emptiness, the emptiness is form.・・・とあります。こんなものをテキストにされたら、受講者はたまったものではないでしょう。

 筆者註 荒さんは2019年1月に亡くなられましたので、筆者のこのコメントに対する反論ができません。代わってどなたにでも反論していただいて構いません。

玄侑宗久さん 般若心経(1-3)

1)「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)より、

 まず、前回お話したように、般若心経のハイライトは色即是空・空即是色だと思いますから、この語句の解釈について玄侑さんの論説に関する筆者の感想を述べます。結論から言いますと、玄侑さんも、新井満さんや、村上一照さん、ひろさちやさんとまったく同様に、「空(くう)」を縁起と無常の原理(?)で解釈しています。つまり、これまでの仏教解説者とまったく同じなのです。

 まず、玄侑さんはのっけから・・・仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体性(自性)をもたず、無限の関係性の中で絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、ということだ・・・と言っています(p39)。玄侑さんはこの基本的考えに基づいて「空」を、つまり「色即是空 空即是色」を解釈しようとしているのです。つまり、・・・「色」というのは、(人間でいえば)六境(色、声、味、触、法などの外界:筆者)と六根(眼、鼻、耳、舌、身、意などの感覚器:筆者)が出逢い、感覚器と脳とで把握した現象のことです。人間に見えている物(ここで玄侑さんは花瓶を例としています)の姿だけが物体の実相なんて言えない。たとえば犬やハチや鳩は感覚器がまったく違うわけですから、花瓶はまったく別の姿を見せるはず。人間に見える「色」(花瓶)も犬やハチや鳩やモンシロチョウに感じられる「色」(花瓶)もいずれも「空」という実相に依存しています。すなわち「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ、それぞれの感覚と関係し合い、それぞれ別な「色」を作るのです(p45-50)・・・とも言っています。

 すなわち、筆者が言う「空」と全く違う解釈なのです。読者の皆さんの中には、「どちらが正しいのかわからない」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、玄侑さんや新井満さん、藤田一照さんたちの考えでは肝心なことが解釈できないのです。論点は三つあります。

 第一に、モノは間違いなく実在します。それは、筆者がよく言う「花瓶で玄侑さんや藤田さんの頭をコツンとたたいてみれば実感できるはず」。物事が「縁起」の産物やであろうとなかろうと、「無常」であろうとなかろうと、それらの理論では説明できない現実なのです。

第二は、空不異色の解釈です。それはけっして色不異空の単なる対語ではありません。重要な意味があるのです。藤田さんは「まあ、あまり細かいことは言わずに・・・」と逃げました。玄侑さんは、空不異色とは、

 ・・・(あらゆる現象には自性がないために、すべては感受する感覚器やその場の時空間に限定され、つねに特定の「色」として現れるしかない)だから「色」を実体視することは問題ですが、同時に虚無的に見ることもない・・・とか、・・・「色」は常に実相そのものではありませんが、とにかく実相はいつも「縁起」して特定の「色」として顕現する・・・とか・・・(それでも、本質が「空」であるからこそ、物事は変化して関係を持ちうる)だからこそ「縁起」の中で「色」として発現できる・・・とか、「空」であるが故に「縁起」し、あらゆることが現象してくるということです(p153)・・・それが空即是色です・・・と言っています。

 筆者のコメント:ここで玄侑さんの論調は急にトーンダウンしてしまいましたね。自信が無くなったのでしょう。・・・ 本質が「空」であるからこそ、物事は変化して関係を持ちうる)だからこそ「縁起」の中で「色」として発現できる・・・とはどういう意味でしょうか。

第三は、「即」です。「色是空」のですね。「色不異空」とは重みが違うのです。「即」は「すなわち」ではなく、即座の「即」です。そこには禅独特の重要な意味があるのです。玄侑さんも藤田さんもそこを理解していないので、ことさら取り上げなかったのでしょう。

2)前記のように玄侑さんは、・・・人間に見える「色」(ここでは花瓶)も、感覚器が異なる犬やハチや鳩やモンシロチョウに感じられる「色」(花瓶)も、いずれも「空」という実相に依存している(太字は筆者)。すなわち「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ、それぞれ(動物)の感覚と関係し合い、それぞれ別な「色」を作る・・・本質が「空」であるからこそ物事(モノゴト)は変化し関係を持ちうる。だからこそ「縁起」のなかで「色」として発現できる・・・と言っています。

筆者のコメント:つまり、玄侑さんの言う「実相」とか「本質」とは、属性(性質)のことでしょう。ではそういう属性を持った本体があるはずですね。たとえ人間や犬やハチや鳩やモンシロチョウが「色」として感じているモノ(花瓶)がそれぞれの動物の感覚器の違いにより、特有の「色」として感じられたとしても、当然、それらには共通する元の本体があるはず。花瓶は茶碗や水差しとは違いますから。つまり、「色」のさらに本体があるはずです。ではそれらも縁起の法則に従っているのでしょうか?・・・これでおわかりですね。どこまで行っても止まらないのです。つまり、玄侑さんの論説には原理的矛盾があるのです。筆者の「空」の解釈によればそういう矛盾は一切生じません。

筆者のコメント(続き): 玄侑さんの「色即是空・空即是色」についての解釈がよく出ている言葉があります。すなわち、・・・般若心経は「色即是空」で充分だ。我々の眼に見える現象というのは空だと思えばいい。わざわざ「空即是色」とつけたということは、(空が)わかっただけでは救われないという主張がはっきりあるからだ(註3)・・・と続きます(「般若心経で救われるか」里文出版p187)。とんでもないことです。上記のように、玄侑さんは・・・「空」とは現象、つまり「色」の属性と考え、その属性の内容は「縁起」と「無常」だ(それゆえ「モノゴトの実体はない)・・・と言っています。しかしそれでは、わざわざ「色即是空」と「空」と「色」とを対比する必要もないではありませんか。たとえ縁起の産物であり、無常であろうとも、「色」は間違いなく実体です。そもそも玄侑さんが・・・「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ(太線筆者)、それぞれ(動物)の感覚と関係し合い、それぞれ別な「色」を作る・・・と言っているのは間違いだと思います。正しくは「色」の属性が「空」だでしょう。「空」も実体、「色」も実体なのです。ただ、真の実体こそ「空」である。それが色即是空・空即是色の真の意味だと筆者は考えます。

註3 玄侑さんの言う「(空が)わかっただけでは救われない」とは、「(般若波羅蜜という)修行の実践だ」です。

超因果

 しかも玄侑さんはその一方で、「超因果(因果の法則に従わない)現象もある」と言っています。例として挙げているのは、・・・生物の発生のある時期に、特定の器官の発生を促す物質を分泌する器官(形成体)があることが確かめられた。アヒルにはアヒルの足を誘導する形成体があるため、たとえばそれをある時期に妙な場所に移植してやると、妙な場所から足が生えてくる・・・今度はニワトリにアヒルの形成体を埋め込んでみると、確かに足は生えたのですが、それはニワトリの足だった・・・少なくとも因果律的には、アヒルの足が生えてくる「原因」はまだ網羅されていない・・・「いのち」は常に超因果を含んだ現象だ(「現代語訳 般若心経」ちくま新書p119)・・・と言っています。それはないでしょう!玄侑さんは当書で一貫して「空=縁起(因果)」であるとした確固とした信念のもとに解説しているではないですか(註4)なのに超因果現象があるとは!

註4 じつは玄侑さんは発生学や遺伝学の基礎的知識がないままに、誤って借用してこの論理を展開しているのです。アヒルの形成体とニワトリの形成体は働きが共通していただけで、遺伝子は異なるのです。「瓜の蔓には茄子は成らぬ」のは当然なのです。

3)玄侑さんが「現代語訳 般若心経」で、なぜあんなに「空(くう)=縁起・無常」と繰り返し言っているのか、少し不思議な気がしましたが、「般若心経で救われるか」玄侑宗久、太田保世、荒 了寛(里文出版)を読んで「アッ」と疑問が氷解しました。玄侑さんはその中で・・・「空」についてはむしろ龍樹を読んだ方が読んだ方がよくわかるし、より緻密に論述されている(p109)・・・「般若心経」では「空」を説くことは主題ではありません。「空」というのは論理的な把握はできないし、言葉で表現することもできない。実践が肝要である(註3)・・・と言っているからす。

 龍樹の「空」理論と禅の「空」理論は違うのです。それについては以前、このブログシリーズでお話しました。たしかに龍樹は「空」思想を大成した人だと言われています。ということは、それまで「空」の解釈については、さまざまな解釈があったということですね。しかし、龍樹は、たんに一つの有力な考えを提唱したに過ぎないと思います。そのカギとしたのが「縁起」の法則だったのです。しかも、筆者がこのブログシリーズで何度もお話したように、「縁起」の解釈は、釈尊の元々の考えを拡大したものだと思います。

 さらに、龍樹は紀元3世紀頃の人(AD150-250頃)、鳩摩羅什が「般若心経」を漢訳したのはAD400年頃、つまり、龍樹の時代から200年も後のことで、漢語「色即是空・空即是色」が案出せられたのです。つまり、龍樹の解釈と違っても少しもおかしくありません。そして達磨大師が中国に来て禅思想を伝えたのが6世紀初頭、禅思想が発展し、隆盛を極めたのが7世紀から10世紀の唐の時代です(禅の大成者六祖慧能:えのうは、638 – 713)。つまり、龍樹の500年も後の人です。唐時代に優れた禅師たちが輩出し、禅の理論と実践が積み重ねられ、「空」思想の解釈が確立して行ったのだと筆者は考えています。

 いかがでしょうか、こういう歴史的な視点を持つことが仏教の解釈には不可欠のことだと、筆者が言うのはこのことです。玄侑さんや、藤田一照さん、松原泰道さんを初め、近・現代の禅師たちはこういう視点を持たずに解釈しているのではないかと思います。要するに玄侑さんたちは「空」の思想をよく理解できないのでしょう。

筆者のコメント:玄侑さんが・・・「空」についてはむしろ龍樹を読んだ方がよくわかる・・・と言っているのは、結局、自信が無いからでしょう。 しかし、なにか釈然としないので、

・・・「空」は主題ではない。「空」というのは論理的な把握はできないし、言葉で表現することもできない。実践(般若波羅蜜)が肝要である(註3)・・・とわざわざ理屈付けをしています。しかし、仏教では教えと実践は共に不可欠です。これを教行一如と言います。「空」の意味もわからず実践だけしていてどうするのでしょう。

 筆者は龍樹の解釈とはまったく異なる「空」の解釈を皆さんにお話しているのです。玄侑宗久さんは臨済宗、藤田一照さんは曹洞宗の僧侶です。おそらく宗派と言う閉鎖的社会にあるため、師から弟子へ、弟子から孫弟子へ・・・と、「空」=縁起の考えが伝わったのでしょう。これが出家してある宗派の僧侶になることの、大きな弊害だと思うのです。

註3 玄侑さんの言う「実践」とは、無意識のうちに経典を読誦すること(五蘊ごうんの「色受想行識」のうち、色(声)を「受」(耳という感覚器官で感じた)までで止め、「想(「アッお経を読んでいる声だ」の判断まで行かない状態)と、「ガーテイガーテイ・・・」の真言を翻訳せずに音読することとしています。なお、玄侑さんはこの真言部分を現代語訳したことについて中村 元先生を批判していますが、そんなことはわかりきったことです。

補注:筆者のこれらのブログを引用する場合は必ず出所を明示してください。

脳科学は宗教を解明できるか 藤田一照さんによる批判

(1)研究の概要

「脳科学は宗教を解明できるか」 芦名定道・杉岡良彦・藤田一照ら(春秋社)

まず、当書のタイトル「脳科学は宗教を解明できるか」について、少し問題があると思います。内容からから言って「脳科学は宗教体験を解明できるか」の方が適当でしょう。そのわけは、後述する、これらの研究に対する藤田一照さんによる批判とも関連があるからです。

 ここで問題にされている宗教体験には見神体験(神や宇宙との一体感を感じたり、神や高級霊や低級霊の姿を見たり、声を聴いたり、感じたりする体験)や幽体離脱体験、瞑想状態などです。つまり、「脳科学は宗教を解明できるか」とは、「霊的体験を神経科学の言葉で理解できるか」という意味なのです。近年、脳科学の研究法は急速に発達し、MRI法、SPECK法、PET法などが実用化されています。それらの方法を一言で言いますと、脳の構造を見たり、特定部位の働きを見たりする方法です。ふつう、それによって、てんかんや統合失調症など、さまざまな脳の病気の診断をします。それらの技術が宗教体験についても応用され、研究が始まっているのです。

神秘体験と脳画像

 ポール・ガール(「カルメル会の修道女の研究」2006、出典については当書を御参照下さい:筆者)らは、15名のカルメル会の修道女(23歳-64歳)を対象とし、以下の三つの課題の際に生じる脳内の活動をfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いて測定しました。すなわち、

1)目を閉じて、かって人生の中で最も強力に感じた神秘体験を思い出し、追体験する。2)目を閉じて、かって人生の中で最も強力に感じた他者との一体感を思い出し、追体験する。3)目を閉じる。

その結果、1)と2)の課題遂行時の比較では脳の6か所の領域に有意な活性化が見られた。具体的には、右内側眼窩前頭皮質の活性化は、楽しいという感情に関り、尾状核の活性化は喜びや無条件の愛に関わり、脳幹の活性化はオーガズム状態とも関り。自己の空間知覚に関わる上頭頂小葉の活性化は、自分より偉大な何かに自分が吸収されるという体験と関わることなどが示唆された(ここで問題は、脳の状態を測定しているのは神秘体験をしているその時ではないことです。著者もそれは認識しています)。

 当書で紹介されている事例の他にも、

2)ペンシルバニア大学のアンドリュー・ニューバーグ(サム・パーニア「科学は臨死体験をどこまで説明できるか」三交社)は、深い瞑想状態祈りの状態にある者の脳内の神経学的変化(PET画像などによってでしょう:筆者)を研究した。ニューバーグによると、深い祈りを込めた瞑想は、(脳の)上頭頂葉後部の活動を低下させ、血流を減少させていた。また瞑想者のメラトニンやセロトニン(神経伝達物質)濃度は上昇し、コルチゾールやアドレニン(ホルモン)濃度は低下していた。前者2つのホルモンはリラックス時には上昇し、後者2つはストレス負荷により上昇するので、この変化は理に適っているとした(以上、カッコ内は筆者の説明)。

瞑想と脳波

 一方、平井富雄(東大医学部1955 註1)らが、修行年数20年以上になる曹洞宗の僧侶14名を対象に、座禅瞑想をしている時にどういう脳波が出るかを調べた。その結果、一般人が日常生活を送っている時出るのはいわゆるβ波で、目を閉じて平静な状態で出てくるのがα波とされている。α波が出ている時、人は心身ともにリラックスした状態にある。それよりも遅いのがθ波で、中程度の睡眠の時に現れる。平井らの実験によると僧侶らが座禅をしている時数分でα波が出てきて、時間がたつにつれて、なかにはθ波が出てくる僧侶もいた。一方、座禅をやったことのない人に同じように座禅をやらせてもβ波が出るだけであった。

註1 筆者が読んだのは、「自己催眠術 劣等感からの解放・6つの方法」(光文社カッパブックス文庫)ではなかったかと思います。とても感動しました。それ以来、α波は創造性と深い関係にあるとされ、脳波簡易測定装置や、「α波を出す機械」が市販されたりしました。


脳科学は宗教を解明できるか(2)藤田一照さんによる批判

 藤田一照さんは共著者の一人ですが、このような研究に対して、・・・私はこの主題に関連する「学者」ではなく、一介の座禅修行者である・・・と断りつつも、かなり厳しい批判をしています(芦名定道・杉岡良彦・藤田一照ら 春秋社)。すなわち、

1)特殊な「宗教体験」をもって宗教を代表させるかのような主張がなされていること。そのような立場は宗教についてのきわめて偏頗な理解というべきである。

2)脳科学によって宗教が科学的に解明できるというという主張は脳科学の分限を逸脱したな妄想と言うべきである。

 では藤田さんの考える宗教とはなにか?藤田さんが依拠している仏教思想は、大乗仏教の虚妄分別(こもうふんべつ)論です。虚妄分別論とは、人間の営みは基本的に能執(主観)と所執(客観)の二元的な対立の上に展開しているという考えです。つまり、人間が生きていくということは、他人やモノに対する執着の過程だということでしょう。

 つまり藤田さんは(藤田さんの論調は少し複雑のように思われますので、筆者の責任において切り貼りをしました)、

 ・・・これまでの宗教科学が対象としてきた、見神体験(神を見たとか神の声を聴いたなどの体験)や悟りの体験によって真の宗教を把握することは原理的に不可能だ。仏教について言えば、仏法における真実は決してわれわれが直接に経験し得るものではない。経験成立以前の、しかも経験そのものを成り立たせているものだ・・・禅は悟りを得ることを目指すものと一般的に理解されているが、じつはそのような人間によって指向されるような悟りの体験とは、個人が勝手にそう思っているだけの虚妄分別の枠内の体験でしかない・・・脳科学が注目すべきものはもはや個人的「体験」と「脳」ではなない(「世界や身体をも巻き込んだ」の意味は後述します:筆者)・・・と言っています。

筆者のコメント:まず、藤田さんの言う「行為」とは何のことか?あまりに漠然としていますね。藤田さん自身が「浅学菲才の身である私にはわからない」と言っています。これだけ激しく批判をしておいて、自分でもわからないことは言わないでほしいです。「人間が目指す悟りなど利己主義、我執の延長でしかない」とも言っていますが、第一、藤田さんの言う「悟り」の定義がわかりません。それでは「行為」との差も考えようもないではありませんか。まず定義をはっきりさせるのが議論のイロハです。

 さらに、藤田さんの論説には重大な自己矛盾があります。まず、藤田さんは「悟りを求めることなど虚妄分別論で言う二元対立行為だと言っています。そして、「特殊な体験とは何ものも求めることなく、身心を挙げて環境と一体になって行じられる無所得無所悟に正身端座する座禅こそ正しい修行だ・・・と言っていますが、それも「何かを求めて修行する」虚妄分別行為のはずです。

 藤田さんはさらに、・・・脳科学の拠って立つ基盤そのものが抱える問題がある・・・と批判しています。すなわち、脳は脳だけで単独に存在し、機能しているのではなく、身体全体と密接につながり交流していなければならない。さらに身体が身体として生きて働くためには世界と密接につながり交流していなければならない・・・曹洞禅のキーワードの一つである「尽十方界真実人体(註2)」はまさにこの事実を指している・・・とすれば脳を身体から、世界から離してあたかも単独で特権的に働いているもののように取り扱っている脳科学は根本的にダメなのだ・・・と言っています。これが前述の、・・・脳科学が注目すべきものはもはや個人的「体験」と「脳」ではななく、世界や身体をも巻き込んだ「行為」でなければならない・・・の意味するところです。

 しかし、これはまったく見当はずれの論難です。宗教体験研究は始まったばかりなのです。MRIやPETなどの新しい医科学の技術を使って初めて見神体験や瞑想を科学的に研究する端緒をつかんだことが尊いのです。藤田さんのようなことを言えば、現在急速に進歩をしている医科学や宇宙物理学も、初期の頃の研究はきわめて素朴なものだったのです。批判などいくらでもできたでしょう。藤田さんが自然科学について疎いのは教育学部出身だから、などというエクスキューズは通じません。藤田さんはいやしくも曹洞宗国際研究所長、つまり日本の禅を海外に紹介する重要な役です。道元が泣くでしょう

 藤田さんは「おわりに」で・・・以上「宗教体験」に対する若干の批判と「脳科学的アプローチ」に対する若干の批判を一座禅修行者の立場から試みた・・・と言っています。まったく「これだけ徹底的に批判しておいてよく言うよ」ですね。

註2「尽十方界真実人体」の真の意味は、「このわれわれが生きる世界の姿や働きすべてが真実人体(仏の姿の顕現)だ」です。藤田さんは誤解しています。

なぜ「空」は誤解されてきたか

 前回お話したように、ほとんどの人が、空(くう)を解釈するために、縁起の法則と無常の法則を使っています。しかしそれは誤りだと思います。

なぜ空(くう)思想は誤解されてきたか

 縁起の法則とは、もともと釈尊が、「すべての苦しみには原因があり、それを突き止め、取り除かなければ苦しみは消えない」という意味でおっしゃったのだと思います。実際に苦しんでいる人たちを救うための知恵ですね。釈尊は大衆に高邁な哲学を説いたのではなく、苦しみから逃れ、心の安寧に至るための生活の知恵を説かれたのだと思います。じつは、筆者の体験を通してもわかりますが、どんな苦しみでも、さまざまな要素が絡み合って、原因がよくわからないことが多いものなのです。それを釈尊は「落ち着いて、苦しみの真の原因を突き止めることが大切だ」とおっしゃったのでしょう。

 それを後年、おそらくインドの仏教思想家たちがあれこれ考え、拡大解釈し、変質させていったのだと思われます。つまり、「すべての苦しみには原因がある」→「すべての現象(モノゴト)は原因があって生じる」→「あらゆるモノは、いろいろな他のモノと関係しあっている(華厳経の重々無尽の考えですね)」。それゆえ「(他のモノとの関係のない)モノはない」・・・そして結果的に「空(くう)」を「モノという実体はない」と解釈するようになった・・・。仏教思想はこんな風に変質していったのでしょう。

 もう一つが無常の法則です。もともと無常とは、「あらゆるものは変化する。一瞬たりとも同じ状態にはない」という、いわば当たり前のことを言っているのです。実際に釈尊がおっしゃったのかどうかわかりませんが、現在では仏教の中心思想の一つとされています。それが人生のはかなさ(無常-本来別の意味です)と結び付いて広まったのでしょう。それを後世の仏教思想家たちが、「だからモノには固定的な実体はない」、それが大飛躍して「モノはない」になったのでしょう。しかし、この考えが誤りであることは、モノというものはいくら変化しても「ある」ことは間違いないのです。筆者がよく言う「『モノはない』という坊さんの頭をコツンとたたいてやればいい。『痛いじゃないか。何するんだ』と言うでしょう。そしたら「あなたというモノもないのでしょう?」と言ってやれ」というのはこのことです。たしかにあらゆるモノは変化し続けています。しかしモノという実体は厳然として存在するのです。

 いかがでしょうか。「空(くう)思想」についての誤解は、こうして生まれたのだと思います。仏教を理解する上で大切なことは、それらの思想の歴史的変遷を読み解くことだと筆者は考えます。