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生きようとする意欲の大切さ

 ふだん気にも留めなくても、人間には生きる意欲・張りがどれほど大切か、筆者は何度も目の当たりにする機会がありました。その一例が、筆者の勤めていた大学の他の研究室の教授です。穏やかで優れた方で、研究室には活気があふれていましたが、ある時、最愛の息子さんを亡くされました。十八歳そこそこの不幸なオートバイ事故でした。それまではよく言う、風邪もひいたこともないようなお元気な方でしたが、それ以来、明らかに生きる意欲を無くし、わずか2年後には幽冥境を異にされました。そんな例を幾人も間近で見ています。

 どんな人でも、一生の内には、辛いことや苦しいことがあるのは当然でしょう。中学時代の友人たちが集まったとき、筆者が「みんなそれぞれいろいろなことがあって、穏やかな今日に至ったのだね」と言ったところ、ある女性に「私は今そういう時です」と・・・困りました。なんでも娘さんのご主人が重いガンだとか(けっきょく、1年も経たずに亡くなったそうです。まだ小学生の娘を残して)その女性には最近も会いましたが、もう昔通り元気そうでした。もともと明るい人だったのです。

 さまざまな人を見ていますと、人は苦しい状況になると、その対応が二つのタイプに分かれることがわかります。一つは、上述の女性のように辛いことは時間とともに忘れて元気を取り戻すタイプ。そういう人が多いのは事実です。マルチタレントだった森繁久彌さんが「人間の素晴らしい能力は忘れることです」と言っていました。いい言葉ですね。もう一つのタイプはマイナス思考になる人です。一度そうなると、次々にマイナス思考、すなわち、負のループに入るのです。そして身体も衰えていくのです。間違いなく。

 筆者は長年、医学の研究を続けてきて、人間の命を守るシステムの巧妙さに驚くことがしばしばでした。しかし最近その考えを改めなければならなくなりました。気力がとても大切なのです。若いときは相当落ち込んでも回復します。しかし、歳を取ると気力が落ちると身体も「もろに」衰えるのです。

 筆者にはすばらしい別の友人がいます。長年、工務関係の中企業の経営者でした。上級公務員としての将来を捨てて、早くに亡くなったお父さんの跡を継いだ人です。何十年も「このプロジェクトが終わったら次はどんな仕事を請け負えるか」と、眠れない夜が続いてきたとか。従業員の生活が掛かっているのです。「もし倒産すればその町には居られなくなる」と。みんなその町の住民だからでしょう。彼の言う経営の要諦は「ただ忍耐です」。それを50年間立派に続けて来られたのですから感動します。そんな過酷な人生ですから、体にも影響がないはずがありません。今では厳密な健康管理が必要だとか。それでも実に明るいのです。いつもニコニコしながら、そういう厳しい人生をさりげなく話す人なのです。今は経営から引退しましたが、なにかと関わっているそうです。話していると「彼なしには経営が円滑にいかない」ことがよくわかります。社長が暗い顔を見せたり、他人の批判ばかりしていたら、従業員のやる気が無くなるのは当然でしょう。彼の明るい性格と生きる意欲の源はそこにあるようです。

 結局、どういう人生を送るかはその人次第でしょう。いつまでも世を恨み、知らず知らずにマイナス思考の人になるか・・・そういう人からは周囲が離れます・・・そして生きる意欲を無くして行く人。一方、過去は過去と割り切り、現実は現実として受け入れ、明るく前進し続ける人。空思想の実践者ですね。困難な状況になったとき、負のスパイラルに陥らないように頑張ることは誰にでもできることなのです。そういう自分に気付き、方向を変えればいいのです。歯を喰いしばってでも。

 筆者も今ご紹介した人たちと同年代です。こういうことをお話する資格があると思いますが・・・。

求道の人 河口慧海(1,2)

(1) 河口慧海師(1866-1845)は禅の黄檗宗の僧侶。中国や日本に伝承されている漢語に翻訳された仏典に疑問をおぼえ、釈迦本来の教えがわかる物を求めて、サンスクリット語の原典とチベット語と訳の仏典入手を決意。日本人として初めてチベットへの入国を果たしました。

 当時チベットは厳重な鎖国政策をとっており、中国僧と自称して、ネパール経由で間道の間道を通って2年をかけてチベット入国を果たしました。それは文字通り命懸けの旅であり、事実、以前同じ目的で再三チベット入りを企てた能海寛(ゆたか)はが行方不明になっているほどです。慧海の燃えるような求道精神は、あの玄奘三蔵のインドへの旅に匹敵するでしょう。慧海の準備は周到で、大石を背負ってヒマラヤ越えの体力をつける訓練をしたり、チベット人少年から俗語まで学んでいます。そしてチベットへ大乗経典の原典を求めてチベットへ渡ったのです。 

 1897年32歳で日本出発。念願のラサに到着したのは4年目、1903年6年ぶりに多数の仏典を持って帰国しました(1913~1915)にも2回目のチベット入境を果たしています)。慧海が持ち帰った資料はチベットやインド、ネパールなどから持ち帰った経典や仏像、仏具や、数千種類のヒマラヤの高山植物の標本類、貨幣、女性の髪飾りなどの装身具など多岐にわたり、一括して東北大学に寄贈されています。ただ、著書を「チベット探検記」とせず、「チベット旅行記」としたのは慧海の謙虚さを表しているでしょう。しかし、慧海は仏教家というより、探検家、あるいは民族学者というべきでしょう。その理由は以下のとおりです。

 まず、慧海はチベットへ行く前は上座部仏教(初期仏教)を「小乗教」と蔑み、小乗の仏典は必要ではなく、最も必要なものは大乗仏典であると考えました。そのため、日本でパーリ語を学んでいた釈興然(セイロンへ留学して初期仏教を学んでいる)と激論し、結局はパーリ語の教授を断られています。筆者もこの点に大きな疑問を持って、慧海のチベット旅行記を読み始めたのです。

 その結果、驚くべきことに、20代後半頃の慧海に見られた熱烈な大乗仏教への傾倒は影を潜め、むしろ釈迦の直説経典と言われる「阿含経」(四阿含)こそが正統な仏典で、声聞もまた正統な仏子だと言います。そして、そうした元々の仏教は元来「大乗」なのであって、それらを「小乗」と貶する「自称大乗教徒」の方が誤っていると批判しました。さらに、大乗仏教でも特に大集経典(密教的な要素が多い)や密教経典には正統性が無いことを指摘するなど、考えをほとんど180度修正しました。河口慧海のチベット語仏典の研究は、「在家仏教」としてまとめられました。内容については次回お話します。

註1チベット旅行記(上・下)講談社学術文庫

註2チベット仏典 チベット大蔵経は、8世紀末以後、主にサンスクリット語仏典をチベット語に訳出して編纂されたチベット仏教経典が集成されたもの。インド本国において最終的に紛失・散逸してしまった後期仏教の経典の翻訳を数多く含み、その訳出作業も長年の慎重な校訂作業によって絶えず検証、再翻訳され続けてきたため信頼性が高く、サンスクリット原本がない場合などは、チベット訳から逆に翻訳し戻す作業などによって、原本を推定したりして、世界の仏教学者の研究のよりどころとなっています(以上、ネットWikipedia「河口慧海」記事から)。

(2) 筆者は河口慧海のことは、困難を克服してチベットへ行った人くらいの知識しか持たず、「チベット旅行記」も読んだことはありませんでした。しかし、下記のように、河口師の考えには筆者も共感するところが多いことがわかりました。

 慧海は帰国後、1921年(大正10年)に還俗(!)しました(その理由については自身の著書「在家(ウパーサカ)仏教」(国立図書館コレクションKindle版)に詳しく記されています)。すなわち、在家でも悟りに達することができること、「四阿含経」などの初期仏典(いわゆるパーリ語仏典)こそ正統な釈迦の教えであること、大乗経典類は釈迦の直説ではなく、後の時代のインド思想家による創作部分が多いことなど、筆者の考えと同じくするところが多いのです。すなわち、

1)大乗経典類は釈迦の直説ではなく、初期仏典(いわゆるパーリ語仏典)こそ正統な釈迦の教えである

 「阿含経」は、「長阿含経」(初期仏教の内の法蔵部の根本経典、以下同じ)、「中阿含経」および「雑阿含経」(説一切有部)、「増一阿含経」(大衆部)からなりますが、河口師は「阿含経こそ正統な仏典である」としています。そして大乗経典類は釈迦の直説ではなく、後の時代のインド思想家による創作部分が多いと言っています。

筆者のコメント:筆者はむしろ、釈迦仏教より釈迦以前の(以後も続く)ヴェーダンタ信仰の、人間には個我(アートマン)という「本当の我」があり、ブラフマン(神)との一体化を目的とする思想を尊重しています。この考えは、初期仏教の一派、説一切有部の考えとも一致します。説一切有部は後の大乗仏教各派から激しい批判を浴びましたが、むしろ当然でしょう。

2)近代における「出家仏教」維持の困難

 出家仏教は、貨幣経済が浸透し徴兵制がある(わが国の戦前の:筆者註)近代国家においては実践不可能である。それゆえ、「近代以降も実践可能で、正統性のある唯一の仏教」として、在家仏教を勧奨すべきであると主張しています。

筆者のコメント:これは言いすぎでしょう。当時も今も、永平寺や、高野山金剛峰寺、山川宗玄師の正眼寺を始め、多くの寺院で厳しい修行が行われています。もちろん筆者は彼らの生活を尊いものと思ってますが、彼らの修行方法(ことに禅問答)には形式に堕したところが少なくないのです。それゆえ筆者は、むしろ形式にとらわれていない分、在家の方が悟りに達するには有利ではないかと考えているのです。言うまでもなく在家でも座禅瞑想は不可欠で、筆者も毎日実践しています。

4)以下、河口師は各宗派批判(註3)として、

 天台宗批判:・・・天台宗が依拠している天台智顗(ちぎ)の教相判釈(以前お話した、五時八教説、つまりすべての経典を釈迦が悟りに至ってからの年代説明)は、史実と照らしてデタラメである・・・。

 日蓮宗批判:四項目挙げられています。その一つに・・・妙法蓮華経(法華経)は妙法そのものではなく、言わば妙法の「効能説明書」たる一経典の名(見出し)に過ぎない・・・とあります。

筆者のコメント:両方とも前回のブログでお話しました内容と一致します。

 真言宗批判:(略)

 浄土教批判:・・・称名念仏(南無阿弥陀仏の名号を口に出して称える念仏)による極楽往生を保証するはずの「第十八の本願文(註4)」は、康僧鎧(?-?、252年頃の人)訳の「仏説無量寿経」のみに見られる改変捏造された無根拠な記述である。

筆者のコメント
康僧鎧訳「仏説無量寿経」は、浄土宗や浄土真宗で根本経典とされています。筆者はサンスクリット原典と漢訳の無量寿経との比較調査を行いましたが、サンスクリット原典にも第十八願の「唯除五逆謗法」に相当する文章はありました。しかし筆者は、別の観点から「仏説無量寿経」に書かれた「弥陀の本願」はナンセンスだと考えています(すでに以前のブログでお話しました)。

 禅宗批判:その一つに

・・・「拈華微笑」も大梵天王仏決疑経なる偽経を根拠とした中国人による完全な創作である。

筆者のコメント:これについてもすでにお話しました。

 その後の河口師の信仰生活

遺族によると河口師は、朝夕2回家の外に掲げられた板木を鳴らし、

「謹んで一切衆生に申し挙ぐ

生死の問題は至天にして

無常は刹那より速やかなり

各々務めてさめ悟れ

謹んで油断怠慢するなかれ」

と歌うように唱えていたと言います。

まとめ:筆者はチベット仏教の経典類も、その原典であるパーリ語原典も読んだことはありません。さらに、河口師の「在家仏教」を読んだのもごく最近です。しかし、ブログを系統的に読んでいただいている方にはおわかりいただけると思いますが、筆者の考えは、チベット仏教の経典類を原語でくわしく研究した河口師の論説に共感するところが多いのです。それらのことは、現在私たちが入手できる情報からもわかるのです。

 それにしましても、あれほど初期仏教に批判的だった河口師が、チベット仏典を入手し、研究した後は、それらを支持するように180度転換し、大乗経典類やそれに依拠するわが国の仏教各宗派を厳しく批判するようにのなったのには驚きます。危険を冒し、大変な努力をしてチベット入りした河口師は激しい人だったのでしょう。

註3 上記の各宗派批判は、その一部の記述を筆者が選びました。詳しくは河口師の原著をお読みください。

註4 弥陀の第十八願:(現代語訳)わたし(阿弥陀仏)が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そ)しるものだけは除かれます。

なぜ「空」が大切か

 筆者は、このブログシリーズで繰り返し「空」の概念についてお話してきました。「空がわからなければ禅はわからない」とも。最近、山本七平氏の「ある異常体験者の偏見」(文芸春秋)を読んでいて、「空」と関係がありそうな,、とても興味ある意見を知りました(スペースの都合から筆者の責任で少し簡約しました)。

 ・・・よく人から「戦場のことをよく憶えていますねえ」とか「山本さんは記憶がいいですねえ」と言われて戸惑います。少なくとも戦場のような命の危険を感じる状況で受けた経験は人間の記憶とは別種のものだからである(註1)・・・簡単に言うと「見る」ということ、および「見る」という状態(そのもの)なのである・・・じつは、人は普段はものを見ていないで、「見た」と思った瞬間、その前後に「判断」が付随しており、こ「判断」がいわば一種のシャッターとフィルターと絞りのような役をし、それがまたある種の緩衝作用もしているのだが、何かの異常な恐怖のようなものでこの「判断」の機能が停止すると、人間はものを「見るだけ」になり、そしてその対象は直接に脳髄に焼き付けられてしまう状態になる。これが「記憶とは別種のもの」の意味である・・・普通に生活しているとき、人は「見ること」と「判断すること」とは別だなどという意識は全くない。しかし、判断というフィルターもシャッターも絞りもなくなった、「純粋に見ること」とはどういう状態なのか・・・たとえば、舞台で「処刑の場」が演ぜられている。観客は「見る」の前後に、「芝居」という判断が付随しているから椅子に座って見ていられるのであって、なにかでその判断が停止して、ただ「見たら」全員恐怖のあまり総毛立ち、化石のようになってしまうだろう・・・「脳髄焼き付け」という以外にない。そして焼き付けられたものはもう、もがいてもあがいても消えない。記憶には判断が入っているから判断で操作できるが、この焼き付けはもうどうにもならない・・・一体この「判断停止」「ただ見ることだけ」「脳髄焼き付け」という状態は、どんな時に起こるのだろうか。それはおそらく処刑寸前、戦死寸前、拷問寸前といった状態で起こるもので、頭の中がスーッと空っぽになり、周囲がすべて澄み切ったようになり、あらゆる映像が異常に鮮明に見え、すべてのものがはっきりとそのまま目に飛び込んできて脳髄に焼き付くが―何も理解していないと言った状態である・・・

いかがでしょうか。山本氏の話を聞いていた人が「私も交通事故で『あわや』と言う時、相手の運転手の無精ひげまで見えた」と言いました。「脳髄に焼き付けられる」は、専門外の山本氏ならではの表現で、実際には「脳の通常の記憶が保存される部位以外に蓄えられる」と言う意味でしょう。つまり、脳ではなくの部分のことだと思います(註1)。

 山本氏の言う「ただ見たという経験」とは、まさに「空」の概念と同じだと、筆者には思われます。「空」とい概念を別の言い方で表したように思うのです。そこに何の判断も入らない「見たという体験」は、そのまま魂と感応し、そこへ保存されるのではないでしょうか。

 「空」の概念は、モノゴトの認識方法だと、何度もお話してきました。過去を後悔したり、思い煩ったりせず、未来を思い煩わないことは、現実生活での「空」思想の応用です。それはそれでとても大切な禅の知恵です。しかし達磨大師以来、1800年以上に渡って培われてきた禅思想の真のすばらしさは、このモノゴトの観かたにあると筆者は思います。「ものがあって私が見る」という、唯物論的なモノゴトの見方は、たかだか、産業革命以来300年くらいで出来上がったものなのです。

註1「精神活動(こころ)は脳の(生物学的な)働きによるものかどうか」は、古くからの重要なテーマで、現代でも決着は着いていません。山本氏の「記憶とは別種のもの」と考えと関連があるかもしれません。人間の魂を考える上でとても重要なテーマです。以前、このブログで少し触れました。いずれ再び話題にします。

なぜ今だに法華経なのか-100分で名著(1,2)

(1) 最近、植木雅敏さん(仏教思想研究家)をゲストにNHKで放映がありましたね。しかし筆者には「なぜ今ごろ」と思ううのです。番組の内容を簡単にまとめますと、

・・・釈迦の死後仏教界は分裂し、約20の部派に分かれたこと(註1)、その中で「切一切有部」がもっとも勢力が大きいこと、しかし次第に権威主義的になり、「自分たちだけが悟りに達すればいい」と考えるようになったことが、後に強い批判を浴びるようになり、それに対する反発が徐々に新しい思想へと発展しました。いわゆる大乗仏教ですね。まず般若経や維摩経としてまとめられました。そこでは部派仏教を「小乗仏教」と決め付け、教えを「聞いて」学んだ者を声聞(しょうもん)、独学した者を独覚とに分けました。ちなみに「乗」とは乗り物を指し、悟りに至るための手段のことです。つまり、小乗とは初期仏教徒をバカにした言葉です。

 そして、釈迦のみを菩薩と呼び、完全なる悟りに至った人(ブッダになれた人)だとし、声聞や独覚は、それぞれ、声聞果、独覚果という、ブッダより一段低い、阿羅漢の境地にしか至れないとしました。さらに、般若経や維摩経のような初期大乗仏教では、「すべての人間は悟りに至ることができる」と言いながら、声聞や独覚のひとたちを例外とみなすという、自己矛盾に陥っていたのです。そしてそれらを統括する教えとして、「釈迦が最後にお説きになったのが法華経だ」と、法華経を尊重する人たちは言います。しかし、初期仏教の経典類(スッタニパータなど)と大乗経典の法華経とはまったく異質です。

筆者のコメント:まず、小乗仏教と言う言葉が貶称(バカにした言葉)です。にもかかわらず植木氏のような現代人でさえ注釈なしに使うのはいかがなものでしょう。さらに重要なことは、釈迦が「最後にお説きになったのが法華経だ」という考えには根本的誤りがあることです。法華経は釈迦が直接説いた教えではないのです。このことはすでに学問的に確立しています。それゆえ、植木氏がいまだにそう考えているのは驚きです。大乗経典類は、おそらく後代、インドの無名の、しかし優れた哲学者たちが積み重ねていった思想なのでしょう。

 たしかに古来、「すべての経典は釈迦がお説きになった」という根強い考えがあります。さまざまな矛盾のつじつまを合わせるために考えられたのが五時八経説などのこじつけなのです。すなわち、釈迦が悟りを開かれて最初にお説きになった教えが華厳経・・・、そして最後にお説きになった最高の教えが涅槃経や法華経だというのです(註2)。これに対し、「大乗経典は釈迦が説いた教えとは大きく乖離したものである」と見抜いたのは、江戸時代の若き学者富永仲基です。すべての経典を一切経とか大蔵経と言い、約5000巻あります。富永は主要なものを読んで、それらの内容が階層的になっていること、後期の大乗経典類は、初期仏教の経典から大きく変貌していることを見抜いたのです。まさに大天才でしょう。

註1偉大な釈迦が亡くなられた後、迦葉(かしょう)を中心にして「釈尊の教え」について、さまざまな弟子たちの記憶が突き合わされ、調整されたのは当然でしょう。にもかかわらず、その後意見を異にする部派が20もできたのです。それだけインド人は思索好きなのでしょう。

註2天台智顗(ちぎ、隋代の僧侶、天台宗の開祖)が、一切経を釈迦が悟りを開いてから亡くなる前の45年間に説かれたものとして時系列に従って分けた説。華厳時(華厳経)-阿含時(阿含経・発句経)-方等時(阿弥陀経・観無量寿経など)-般若時(大般若経・般若心経など)-法華・涅槃時(法華経・涅槃経など)。日本へは天台宗の最澄のが紹介しました。これを日蓮が採用し、「法華経」が最高の教えであるという根拠としたのです。そのため、創価学会など、日蓮宗系の宗派がこの説を採用していますね。

(2) 筆者は以前、法華経を通読して奇妙な読後感を持ちました。法華経の中に「法華経はすばらしい」「法華経は最高の教えである」と何度も書いてあるのに、その中身が示されていないからです。後に江戸時代の学者平田篤胤が、「法華経はみな能書きばかりで、かんじんの丸薬 がありはせぬもの」と筆者と同じことを言っているのを見付け、噴き出しました。まさに「王様は裸」だったのでは?

 要するに法華経の趣旨は1)すべての人間には仏性がある(長者窮子ちょうじゃぐうじの比喩 《信解品》や髻中明珠けいちゅうみょうしゅ《安楽行品》の比喩、常不軽菩薩 じの比喩《常不軽菩薩品》など。「すべての人間」の中には、悪人(ダイバダッタ)や女性が含まれています)、2)すべての人間は最高の悟りに達することができる、そして、3)法華経を伝えることの大切さ、だと思います。創価学会会員の、ときには異常と思える熱心な布教活動は、3)の教えによるのでしょう。そして、道元や宮沢賢治が法華経を尊重したのは、おそらく1)の理由からだと思われます(註3)。たしかに重要な教えですが、道元以前の禅の世界では繰り返し指摘されている事柄です。わざわざ法華経にもどるまでもありません。そして道元は永平寺という雪深い修行道場を本拠とし、けっきょく3)は実践しませず、悟りに達するためには専門僧になることを強く勧めています。「すべての人間」ではありませんね。むしろ初期仏教の教えに添うものですね。

 法華経にたいするもう一つの重要な疑問は、悟りに至る方法についてはまったく触れられていないことです。釈尊は、悟りを得る「ある方法」を地涌の菩薩のリーダーに与えたとありますが、その方法は法華経には書かれていません。天台智顗は、悟りの内容を「一念三千」という形で体系づけ、瞑想のような方法で自ら実践はしていたが、公開して人に勧めるようなことはしなかった。日蓮は、「法華経の文の底」から「釈尊の真意、真理」を読み取り、「一念三千の法」を文字漫荼羅として顕わし、「南無妙法蓮華経」と唱えていくことで、「すべての人が今世で悟りを得ることができる」と説きました。

 筆者は法華経には屁理屈が少なくないと思います。たとえば、初期仏教(部派仏教)徒を小乗仏教徒と貶め、「彼らの修行法では最高の悟り(ブッダ)には至れない。法華経で説かれた方法が最高の教えである」と言っています。しかし、初期仏教も釈迦が説かれた教えなのです。この矛盾を法華経では「釈尊はあれは方便だったと言っている」と説明しています。つぎに、「女性も悟りに至ることができる」は、法華経の眼目の一つです。八歳の竜女が悟りに至った(提婆達多品)とありますが、「釈迦の弟子たち」が『そんなはずはない』と言いますと、竜女はパッと男に変身して、「だから私も成仏できた」と説明しています。変成男子ですね。「女性も悟りに至ることができる」とは矛盾していますね。さらに、とつぜん地面から膨大な数の菩薩が出現した(地湧菩薩)。釈尊が彼らすべてを悟りに至らせた、と言うのです。それに対し「弟子たち」の『悟りを開かれてから亡くなられるまでわずか45年だ。そんな短い間にそれほどのひとを成道させられるはずがない』という当然の疑問に対し、「釈尊は何度も生まれ変わっていらっしゃる。その生涯毎に成道させた人たちだ」と説明するのです。ご都合主義に唖然としますね。

註3道元は、法華経を尊重する比叡山延暦寺で修行した人ですから、正法眼蔵や永平広録などの教えの中で法華経の言葉を多用するのは当然でしょう。

神罰はあるか-辻正信(追加)

 以前、「神罰はあるか-辻正信」についてブログを書きました。それで完了するはずでしたが、最近、辻正信について同じような意見があることを知りました。山本七平氏(「一下級将校の見た帝国陸軍」文春文庫)です。

 山本氏は筆者が昔から尊敬してきた思想家で、「日本人とユダヤ人」の著者です。上述のように、山本氏は自分の戦争体験を通して、今も続く「日本人の宿痾」について論究し、「私の中の日本軍」「ある異常体験者の偏見」「空気の研究」などを著しています。今回読んだ「一下級将校の見た帝国陸軍」もそれらシリーズの一つで、あらためて山本氏の知性に感銘を受けました。

 以前のブログで筆者が辻正信について取り上げたのは、長年、「日本はなぜあのような無謀な戦争をしたのか」を追求する過程で浮かび上がってきた人物だからです。戦争責任を追及すべきは、東条英機、杉山元、菅原道大、富永恭次・・・など、沢山いました。しかし、特異な元凶として浮かび上がってきたのが、辻正信だったのです。辻はいわゆる将官ではなく、少佐時代から異常な”権威”を振るってきた人物です。

 山本氏は「一下級将校の見た帝国陸軍」でも辻のことが取り上げられています。すなわち、原秀男「出陣における捕虜の取り扱い」(偕行)を引用し《入手できませんので孫引きをお許しください:筆者》、

 ・・・このとき(昭和17年4月9日・バターン米軍降伏のとき:開戦直後の日本軍が連戦連勝のころ:筆者)、大本営参謀の肩書を持つ辻正信中佐は、戦線視察のたびに兵団長以下の各級指揮官に「捕虜を殺せ」と督励して歩いた。第十六師団長森岡中将もこの勧説を受けたが、もちろん相手にしなかった。だが、辻参謀はその第一線に出向いて、直接連隊長以下各隊長に「全部殺せ」と指示する始末。渡辺参謀長は、師団司令部から副官をその有名な参謀に付けてやって、「その参謀の言うことは師団長の命令ではない」といちいち取り消して廻る騒ぎだった・・・

 そのころ、司令官の知らない異常な「命令」が頻発していたと言います。陸軍刑法で厳禁されている「私物命令」を出していたのです。後ほど、それが辻正信によるものであることがわかったのですが山本氏は、

 ・・・終戦後の収容所の中では、すでに周知の事実だった。したがって私などは、戦後のはなばなしい辻正信復活に、何とも言えない異様さと絶望を感じた・・・その奥には何か、日本軍も戦後人も共に持つ弱点があるはずである・・・戦後まで戦前と同じような権威と社会的地位を保持し続けている。あのままで行けば辻内閣ができても不思議ではない・・・

 これこそまさに筆者が、無謀な戦争を引き起こし、今も続いているのではないかと危惧し、追求し続けてきた「日本人の体質」の一つでしょう。筆者のような、戦争の実体験がない者でさえ、辻はあまりにも「うさん臭い」と思えたのです。

 山本氏はこの日本人の宿痾ともいうべき体質を、

・・・ある種の虚構の世界に人びとを導き入れ、それを現実だと信じ込ます不思議な演出力である・・・その基礎は気魄という奇妙な言葉である・・・これは帝国陸軍が絶対視、した精神力なるものの重要な一項目でもあっただろう・・・辻正信は「気魄誇示屋」の典型であり、どの部隊にも、どの司令部にも必ず一人か二人はいた、みな始末に負えない小型「辻正信」、すなわち言って言って言いまくるという形の”気魄誇示”の演技屋であった。結局、この演技屋にはだれも抵抗できなくなり、その者が主導権を握る・・・

 いかがでしょうか。筆者は山本氏とは異なり、戦争の現場にいたことなどありません。それでも山本氏と同じような、現代にも続くと思われる日本人の体質に異様な不安を感じたのです。

 今、福井県高浜原発に関連して、元助役森山某の異様なまでの権力が問題になっていますね。3億円に上る不明朗な金が関電幹部に渡ったこと、しばしば彼らを怒鳴りつける姿が目撃されていたこと、109人もの福井県庁の職員に昇進祝いなど意味不明の金などを与えていたこと、自分の関連する会社が多額の関連事業を請け負っていたことなど、現代では信じられないような権勢を振るっていたことなどが次々に明らかにされています。関係者は返せばどんな仕返しを受けるかわからないのでタンスにしまっておいたと言います。なぜ彼には逆らえなかったのかが不思議なほどです。まさにミニ辻正信とその部下たち(?)でしょう。今でも日本の社会構造は変わっていないのです。

 筆者はもう一つ、マスコミにあおられるとすぐフィーバーになる、「意見を持たない日本人」の体質もあるように思いますが。