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旧統一教会解散命令(2)

 それまで長年にわたって旧統一教会信者や家族の救済に努力してきた弁護士が、「今後どうしたらいいと思いますか」とのNHKアナウンサーの問いに対し、涙ながらに「わかりません」と答えたこの案件が、 山上徹也被告の安倍元首相襲撃事件が重大なブレイクスルーになったのですね。

 あるテレビ討論会の一つで、北海道大学の櫻井義秀教授・・・・30年にわたってこの問題に取り組んできた人です・・・・が、「共生」とパネルに書いて示したのには驚きました。しかし、その後事情をよく調べてみますと納得できました。

 旧統一教会やエホバの証人の信者たちの気持ちを垣間見て、とても印象的だったのが、彼らは、私たちとは考えや価値観の基本、つまり座標軸が大幅にずれている点です。つまり、旧統一教会という「はしご」を外されると、今後どう生きて行っていいかがわからなくなってしまうようなのです。「洗脳」の恐ろしさをまざまざと思い知らされますね。

 会員の一人、28歳の女性で、同教会の事務をしている人が紹介されていました。幹部ですね。その人は、「なぜこれほど批判されるのか」という疑問の回答を得るため、何人かの現役信者や退会した人に聞いて回りました。しかし、この「ズレ」を埋める言葉には出会えなかったのです。その矢先に「解散命令」が出されました。涙がショックを物語っていました。

 

旧統一教会解散命令(1)

 岸田首相の指示により、文部科学省から東京地裁に旧統一教会解散命令請求が出されました。山上徹也被告による安倍元首相襲撃事件からわずか1年の迅速な対応でした。筆者は以前のブログで「安倍元首相でよかった」との私見を述べました。「危険な発言だ」と知人から心配もされましたが、真意はこうです。被害者救済のため、30年にもわたって努力してきた弁護士が、涙ながらに「どうしていいのかわからない」と言っていたのを知っていたからです。安倍元首相襲撃事件が重大なブレイクスルーになったかのは間違いありません。

 「自民党が旧統一教会と自民党が深く関わっていたこと を飛ばして幕引きを図った」との指摘は、その通りでしょう。最近亡くなった細田氏が、旧統一教会の式典で祝辞を述べた映像が何よりの証拠で、氷山の一角です。細田氏が亡くなるまで「問題ない」と言っていたのは、政治家のずるさの典型でしょう。

 この問題で、既存の新宗教、新々宗教である創価学会や天理教、エホバの証人等々が蒼くなっているのは容易に想像できます。いずれも同じ穴の〇〇〇だからです。私事ですが、以前、創価学会の空恐ろしさを知ったことがあります。ある統一地方選挙の時、私のふるさとから何人かの人が「〇〇さんに投票してください」と頼みに来たのです。創価学会の会員なのでしょう。中には知った顔もいましたが、名前はもちろん、話したことさえありません。とにかく故郷を離れて40年、一体どうして、私が30km離れたここに居ることを知ったのでしょう。選挙区もまったく別です。同学会の組織力は私の想像をはるかに超えます。

岩村宗康さんとの対話-禅と神(その6)

 〈正法眼蔵・心不可得〉に、徳山宣鑑(とくさん・せんかん780-865)の話が出てきます。徳山は広く仏教を学んで律にも精通し、とくに金剛経の研究では群を抜いていたが、彼が生きた時代、南中国で禅宗が盛んになってきた。ところが理論仏教を極めた学僧徳山にとって、禅が標榜する〈直指人心、見性成仏。教外別伝、不立文字〉の教えは、まったく納得できないものであった。そこで彼は外道を降伏(ごうぶく)しようと、金剛経の注釈書を車に積んで南方へ向けて出発した。しかし、途中の茶店の老婆に言われた言葉がわからなかった。徳山はすぐにその足で、近くに住む竜潭祟信(りゅうたんそうしん)禅師を訪ね、弟子入りした・・・。

 次に、〈正法眼蔵・渓声山色〉の巻には香厳(きょうげん)智閑(?~898)の悟りの契機について紹介されています。香厳は、大潙(だいい)大円禅師の道場で学んでいた時、「おまえは博識だが、経書の中から覚えたことではなく、父母がまだ生まれない(父母未生)以前のことについて、私に一言いってみなさい」と言われた。しかし彼の知識では何も答えることができず、遂に年来集めた書を燃やし、「絵に描いた餅では飢えを満たせない。私はもう今生に仏法を悟ることを望まない。ただ行粥飯僧(修行僧の食事係)として務めよう」と。しかし、さらに何年たっても悟ることはできず、そこも辞め、「ただ、旧師大證國師の墓守として生きよう」と決心し、師の蹤跡をたづねて武當山に入った。そこである日、道を掃いていると、かわらが飛び散って竹に当たり、「カーン」と響くのを聞いて、からっと仏道を悟った・・・。有名な香厳撃竹のエピソードです。

 この二つのエピソードはいずれも「禅はいくら知識があろうと、わかったか、わからないかの世界だ」と言っていますね。徳山も香厳も「わからないのは私が未熟だから」と、あくまでも謙虚さを失わなかったため悟りに達したのです。

わかるということ

 筆者に送られてきた岩村さんの膨大な書簡を読んで筆者が感じたのは「この人はわかるということがわかっていない」と思いました。一つの例があります。筆者の大学院指導生の一人に地方大学出身の人がいました。筆者の研究室では、学生が入学するとすぐに英語の論文を読むトレーニングをします。ところが彼の場合、どうもいつも答えのピントがずれているのです。下手な和訳ばかりするのです。ある時、「ハッ」とその理由がわかりました。彼は自分の和訳が正しいかどうかがわからないのです。筆者にもわからないことはたくさんあります。しかし、筆者には「わからないことはわかる」のです。おそらく岩村さんはわかるということがわかっていないのでしょう。

 禅の議論は、武士が刀を抜いて戦うのと同じ、文字通り真剣勝負です。

岩村宗康さんとの対話-禅と神(その5)

 対話は続きます。

岩村さん:塾長の「神」についての論述から連想するのは、西田幾多郎著「善の研究」第二編第十章「実在としての神」の下記の記述です。

 ・・・・宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである・・・・実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。………。実在の根柢には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度宗教の根本義である様にアートマンとブラハマンとは同一である。神は宇宙の大精神である・・・・「善の研究」第二編第二章は、「意識現象(直接経験の事実)が唯一の実在である」と記述されているので、上記の「実在」も「意識現象(直接経験の事実)」を指しています。後にそれは、「絶対無の場所」と言い換えられますが、指している事実が変わったとは思えません。
 上記の西田博士の提言を「等正覺」内容の表明として見れば何も問題が無いのですが、実在している筈の宇宙や自然や人間社会に立脚すると納得することはできません。
 原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・「善の研究」の用語で『諸法は実相である』を解くと、「各自の即今・此処の意識現象(諸法)は現に在る事実(実相:直接経験の事実)である」と、言えます。

筆者:前回もお話したように、岩村さんは禅の要諦である色即是空・空即是色を理解していらっしゃいません。つまり岩村さんは、西田博士は、宇宙・自然(モノ)も実在するという禅の色(しき)については言及していないことをわかっていないと思います。それゆえ、「西田博士の〈純粋経験思想〉では、宇宙・自然が説明できない」と、もどかしさを感じていらっしゃるのでしょう。

 つまり、西田博士は「直接経験こそが真の実在である」と言っているのであり、筆者の言う禅の〈空(くう)〉と同じで、モノゴトの観かたです。岩村さんはその〈実在〉の意味と、宇宙や自然(モノですね)が〈実在〉していることと混同していらっしゃるようです。西田博士はモノは実在するという、禅の〈色〉に該当する概念までは言及されていないからです。禅ではいずれも実在することに変わりはない。つまり「空(くう)と色(しき)は一如である」と言っているのです。空(体験)は実在であり、色(モノ)も実在し、両者は一如である・・・・これこそ禅の要諦であると筆者は考えます。このモノゴトの観かたを完全に体得することが、等正覚なのです。

 西田博士は「このモノゴトの観かたは宇宙原理そのものである」と言っています。しかしそれでは片手落ちなのです。西田博士の考えを突き抜けて「宇宙・自然(モノ)も実在する・・・・色即是空・空即是色、この禅の思想こそ宇宙原理だ」と筆者は考えます。

岩村さんはさらに、

・・・・原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・・決して、この災禍を「仏の姿の現れ」とは言わない筈です・・・・

筆者:岩村さんは「神が実在されるなら、なぜこれらの人類の災厄を黙って見ているのか」つまり、「神も仏もあるものか」とおっしゃりたいのでしょう。宗教者にあるまじき発言ですね。原爆もコロナ禍もまぎれもなく「仏の姿の表われ」なのです。神は人間のすることを見守るだけで、手を下さないのです。神の摂理に反することなら早くそれに気づき、神の心を取り戻すのを待っていらっしゃるのです。これが筆者の考える〈神とは〉です。岩村さんは神(仏)についての基本的なことがわかっていないと思います。

 たしかに西田博士の言う〈純粋経験〉は宇宙原理につながるものでしょう。禅の空思想(空観)も同じです。しかし、それを宇宙原理そのものだと言っては飛躍がありすぎだと思います。

 しかし、残念ですが、岩村さんの知識の多くはピント外れだと思います。岩村さんの最後の言葉、は「塾長(筆者のこと)は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。

 筆者が禅と神を結び付けたこと、つまり、「悟りとは仏と一体化すること」への(感情的)反論でしょう。しかし、すべての宗教はその根底に神(仏)をおいているのです。仏教が例外であるはずがありません。大日如来は宇宙の主催神ですし、浄土宗の言う阿弥陀如来も間違いなく「仏(神)」です。〈道元も正法眼蔵・生死巻〉ではっきりと「(生死の問題は)仏の家へ投げ入れて仏の方から行われ、それに従い持て行く・・・」と言っています。〈法華経〉で常不軽菩薩の言う「あなたは仏になれる人です」の「仏」とは何なのか、悟りとは「仏と一体化する」でなければ何なのか。これでも仏教の根底にはすべて「仏(神)などない」と言うのでしょうか。

 要するに、岩村さんは筆者が禅を神と結びつけたことに違和感を感じるのでしょう。筆者は、岩村さんを初め、何人かの臨済宗の師家、曹洞宗の西嶋和夫さんやその師・澤木興道さんの著書など、さまざま読みました。その結果、「これでは日本の禅宗は滅びる」と思っています。彼らは旧来の禅にドップリ浸かり、師から弟子へ同じ誤りが伝えられ、マンネリ化した法話をしているのでしょう。「日本の禅をこんなにしたのはだれか」。

 これに対し筆者は、禅と神(仏)を結び付けることがそのブレイクスルーなると思うのです。じつはこのことは臨済宗の宗祖臨済も、あの道元も気付いているのです。いかなる宗教思想の根底に仏(神)があるのは当然です。注意深く読めばわかることなのです。岩村さんは「自分の宗教家としての人生全部を否定された」と思っていらっしゃるかもしれません。そのいらだちが、「神に取り憑かれた塾長と議論した私が愚かでした」などの感情的発言になったのでしょう。筆者は別に気にしていません。学問の論争に感情など入り込む余地などまったくないからです。岩村さんとの対話は筆者の考えを映す鏡でした。鏡に映すことによって考えを整理することができました。また岩村さんや他の方々と議論することが望まれます。

岩村宗康さんとの対話-禅と神(その4)

岩村さん:〈虚空〉は無為法(註1)であり、成住壊空(じょうじゅうえくう。註2、生じ、そして滅する)を繰り返している宇宙がある場所のような概念で、有爲法(註1)全体の様(さま)を表す〈空〉とは全く異なります。〈般若心經〉において〈不生不滅〉は、〈無心・無分別・無戯(け)論〉を意味し、〈不垢不淨、不増不減〉と共に〈空〉の相を言い表す句です。しかし、〈華嚴經〉における〈不生不滅〉は〈常恒不変(生まれたり滅んだりすることがない絶対的存在)〉を意味し、「虚空」の相を言い表す句として用いられています。
 前記の経文から〈等正覺〉の三文字を除くと、毘廬遮那佛が〈虚空〉のように〈全宇宙を内包しているモノ〉のように見えます・・・〈不生不滅〉には全く異なる解釈があり、〈空〉と〈虚空〉とは全く異なる概念であることを承知し、〈華嚴經〉の毘廬遮那佛は〈如來の等正覺〉のシンボルであることを承知して欲しいと思います。

筆者のコメント:1)ここでも岩村さんは「毘盧遮那仏は最高の悟りの内容である」と考えています。しかし、自身がどうも気になるので「華厳経の毘廬遮那仏が無限で悠久な宇宙の主宰者だと誤解されそうな経文を探してみた」のでしょう。しかし、「誤解されそうな経文」ではありません。なぜなら毘盧遮那仏が宇宙の主宰神であることと、最高の悟りの内容であることとは少しも矛盾しないのです。両者はなんら区別する概念ではありません。悟りとはそういうものなのです。つまり、岩村さんは「仏(神)とは」を正しく理解していないのです。これはとても重要なことです。

 2)つづいて岩村さんは「般若心經で言う不生不滅は、無心・無分別・無戯(け)論を意味し、不垢不淨、不増不減と共に「空」の相を言い表す句である。これに対し華嚴經における不生不滅は常恒不変(生まれたり滅んだりすることがない絶対的存在)を意味する」と言っています。

 しかし、この解釈もまったくの的外れだと思いますす。〈般若心經〉で言う不生不滅は、〈無心・無分別・無戯(け)論〉を指すのではありません。何度も話しているように、筆者の言う〈空〉とは、モノゴトの観かた、一瞬の体験であり、それだからこそ、不生不滅・不垢不淨・不増不減なのです。

 3)さらに、岩村さんの言う〈空〉とは、初期仏教〈長阿含経〉の〈成住壊空〉の〈空劫〉を指しているのでしょう。「空劫」とは、世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間のことで、「成住壊空」の一部です。これに対し、大乗経典の華嚴經における〈空〉とは常恒不変、すなわち虚空が絶対不変であることを表す言葉です。両者は異なる概念であり、岩村さんは初期仏教と大乗経典というまったく別の概念を混同しているのでしょう。ことほどさように、〈空〉という概念は、さまざまな経典でそれぞれ違った意味で使われているのです。筆者がここで一貫して話題にしているは、もちろん禅の空思想です。

註1 無為とは、特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅の存在のこと。逆に、さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象を有為(うい)と言います。また、涅槃のことを無為ということもあります。

註2 〈長阿含経〉は初期仏教・法蔵部の概念。世界の成立から破滅に至る時の経過を四つに大別したもの。成劫(じょうこう。生成し)・住劫(続き)・壊劫(えこう。滅する)・空劫。