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日本仏教のいい加減さ(2-1,2)

日本仏教のいい加減さ(2-1)

 前回、日本仏教のスクラップビルドの必要性について述べました。今回はその理由の一つをお話します。

 以前、NHKテレビ「歴史ヒストリア」で日本人の信仰のアバウトさについて放映していました。以前、筆者も「釈迦も驚く神仏習合」と題するブログを書きました。今回はその続編です。結論から言いますと、筆者は日本人の信仰に対するあまりのいい加減さに唖然としました。

 神仏習合思想がなぜ生まれたかについて、「歴史ヒストリア」では、百済から538年(552年とも)に仏教が伝来されると、それまで神を部族の守り神としてきた豪族たちが、「我らも仏教を」と取り入れたと言います。その部族の宗教は、政治との絡みでとても重要だからです(次回くわしくお話します)。番組では、神道と新興の仏教とを結び付けた「屁理屈」は、聖武天皇が完成した大仏に塗る金を手に入れるため、中国へ使者を派遣する途中、宇佐八幡宮(大分)の巫女に神が乗り移り、「我は仏教に帰依したい」と言ったからだとか。

 本地垂迹説とは、仏・菩薩(本地:筆者。註1次回末尾)が、衆生を救済するため、神の姿をとって現れた、とする考えです。もともと仏教がインドから中国→朝鮮→日本へと伝わるに際して、元からあった土着の神(失礼な言い方ですが)と折り合いをつけるのは自然のなりゆきでしょう。しかし、水と油を一緒にするようなものですから、どうしても何らかの合理化する理屈が必要でしょう。日本では現在までに、1)神社の中にお寺が付属する形(伏見稲荷大社、熊野三山など)2)神社と寺が一体(鎌倉鶴岡八幡宮寺、東大寺と手向山八幡宮など)、3)寺の中に神社がある(成田山新勝寺、川崎大師、薬師寺の守り神は休ケ丘八幡宮。御神体は僧形八幡神など)等々、さまざまな折衷案が実践されました。なかでも奇異なのは、滋賀県日吉大社の社殿の床下に薬師如来を祀る下殿があり、かって仏教的な儀式が行われていたこと。熊野三山はそれぞれ極楽浄土であるとされること、その神宮寺青岸渡寺の副住職は山伏(神道)という奇妙さ。一方、春日大社の本地は興福寺南円堂に鎮座する不空検索観音であり、現在でも毎朝僧侶たちが南円堂に行って礼拝し、くるりと後ろを向いて春日大社に向かって柏手を打つ習慣があることなどです。さらに春日大社本殿の裏回廊では、四六時中僧侶が読経していたと言い、いまでもその施設が残っています。さらに現在でも、比叡山の天台座主が日吉神社を参拝する儀式があります。またぞろ神仏習合は復活し始めているのでしょうか。

 密教では大日如来を最高の仏(概念としては宇宙の最高神)としていますし、筆者が以前お話したように、道元が「正法眼蔵」で「仏」と呼んでいるのは最高神を表わしています。しかし、神仏習合思想はこれらとはまったく異質の、「木に竹を継いだような」思想です。他人の信仰に対して口を挟む気はありませんが、話もここまで来ますと、いくらなんでも日本人の信仰のいい加減さに、実際にテレビを視聴していて気分が悪くなりました。アナウンサーの井上あさひさんも苦笑していました。

 明治維新政府が成立早々、神仏分離令を出した理由は、天皇を現人神とする国家神道(前述のように、政治と宗教は不可分の関係にあります)を打ち立てるためだったことはよく知られています。しかし筆者はそれだけではないような気もするのです。すなわち、明治維新を断行した若者たちの純粋さが、このような「いいかげんさ」を嫌ったのではないでしょうか。言うまでもなく、信仰とは限りなく純粋であるべきです。

日本仏教のいい加減さ(2-2)

 古来、宗教は政治と不可分の関係にありました。前回、古代日本の豪族たちが新しく入って来た仏教とどう折り合いをつけるか(取り込むか)は重要な問題であり、その一つの形態が神仏習合だったとお話しました。私たちが日本歴史を学んだ時、聖武天皇が巨大な大仏を造営し、全国に国分寺を作ったこと、唐から鑑真和上を招き、なんども難船しながら日本に至り、聖武天皇から僧侶まで多数の人に菩薩戒を授けた・・・。などという歴史上の出来事が感動を以て伝えられていますね。 

 しかし、これらの「感動的物語」には裏があることも忘れてはいけません。それらにはすべて天皇の重大な政治的配慮があったのです。まず、仏教が伝来した時、欽明天皇らがそれを受け入れたのは、当時無視することができないほど強大化していた豪族の力を削ぐためなのです。すなわち、豪族が守り神としていた「神」よりもっとすごい信仰対象があることを示したかったからです。人びとの思いがそちらへ向いて豪族支配に疑問を感じるようになったのは自然のなりゆきでしょう。さらに、わざわざ唐から鑑真和上を招いたのは、当時、強大な勢力を持ち、政治にまで口を出すようになっていた奈良仏教七大寺の力を削ぐため、「お前たちが受けてきた菩薩戒など無効だ。鑑真和上の菩薩戒を受けなければ僧侶として認めない」と言いたかったのです。南都七大寺側があわてたのは当然でしょう。しかし、鑑真和上が亡くなったあと、その弟子たちの勢力が急速に衰えました。旧勢力の巻き返しにあったからです。さらに、桓武天皇が都を奈良から京都に移したのも、奈良仏教の力を「チャラ」にしたかったのです。ことほどさように、大仏開眼や鑑真の渡来など、裏を返せばそれほど感動的なできごとではないのです。

 江戸時代には「寺受け制度」のもと、すべての人びとはいずれかの仏教寺院の信徒となることが義務付けられました。寺が幕府の権力機構に組み入れられたのです。寺は経済的に保証され、権力さえ持つようになりました。明治維新政府はその政策上、天皇を中心とする国家神道を復活しました・・・。これでお判りでしょう。日本の宗教は常に政治の道具に過ぎず、人々の心の支えとはほど遠い存在だったのです。

 東日本大震災のとき、被災の人々にとって日本仏教が無力であることを露呈しました。今、筆者がお話した理由から当然でしょう。今、私たちは仏教のほんとうの価値を知らなければなりません。そのためにはまず、これまでの日本仏教の「洗濯」が必要だと筆者は考えます。

註1 如来と菩薩 如来には阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、薬師如来があり、菩薩には弥勒菩薩とか地蔵菩薩などがよく知られています。それぞれ立派な仏像が作られ、日本各地の寺院の本尊として祀られています。私たちもお寺へ行って、ごく素直に礼拝しますね。しかし、釈迦の教えにはそんなものはないのです。第一、釈迦は自分の姿さえ像とすることを禁じたのです。ましてや弟子たちの偶像を作り、礼拝の対象とすることなど許すはずがありません。これらはすべて後期仏教、ことに大乗仏教で創作されたのです。ちなみに如来とは大宇宙の真理を悟った、菩薩とは悟りを求めるのことです。つまり、本来の意味ですら、尊敬すべき人たちであり、偶像とは関係がなかったのです。これらのことからも仏教のいい加減さがわかりますね。釈迦が説いたのは、あくまでも人間としての正しい生き方なのです。仏像を拝んでご利益を得たいという現代日本人の信仰を知れば嘆かれるでしょう。

大震災で示した日本人の心と日本仏教のスクラップビルト

 これまでのブログで、近年日本の少年が起こした様々な異常な事件についてお話しました。読者の皆さんは日本人だけが異常になったと受け取った方もいらっしゃると思います。しかし、そうではありません。日本はむしろ世界の人々が驚いた美しい心を持っていることを東日本大震災(以下、大震災)の被災者の皆さんが行動で示しました。次は、その2年後、元世界銀行副総裁の西水美恵子さんによる寄稿です(毎日新聞)。西水さんは、大震災のとき外国にいましたが、ちょうど日本にいた元部下から、被災者の皆さんの行動について感動的な報告を受け取りました。それが「日本から学ぶ10のこと」です。この元部下はその後ワシントンに戻り、「これが世銀やIMF(国際通貨基金)内はもとより世界中を駆け回っている」と西水さんに伝えました(寄稿はもちろん日本語ですが、少しわかり難いところもありますので、原文を参考にして筆者の責任ですこし字句を変えさせていただきました)。

日本から学ぶ10のこと

1.平静:悲嘆に胸をかきむしったり、取り乱す姿などは見当たらなかった。 悲しみそのものが気高かった。
2.威厳: 水や食料を得るためには秩序正しい行列があった。乱暴な言葉や、無作法な動作など、一つとてない。
3.能力: 例えば、驚くべき建築家たち.ビルは揺れたが,崩れなかった。
4.品格: 人々は、皆んなが何かを買えるようにと、自分に必要なものだけ買った。
5.秩序: 店舗では略奪が起こらなかった。路上では追い越し車も警笛を鳴らす車もない。思慮分別のみがあった。
6.自己犠牲:50人の作業員が原子炉に海水をかけるために留まった。どうしたら彼らに報いることができるだろうか?
7.優しさ: レストランは値下をした。無警備のATM(現金自動受払機)から現金を抜き取る者はいなかった。強者は弱者を介助した。
8.練:大人も子供も、すべての人が、何をすべきか知っていた。そして、なすべきことをした。
9.報道: 崇高な節度を保つ速報。愚かな記者やキャスターなどいない。平静なルポのみがあった。
10.良心: 停電になった時、レジに並んでいた人々は品物を棚に戻して静かに店を出た。

筆者の感想:もちろん、震災直後、無人の家屋に入って物を盗んだり、ATMから現金を引き出そうとしたケースもあったことを私たちは知っています。しかし、それはごく一時期、一部地域に限られていました。これらのことは海外でも報道され、在住の多くの人が誇らしげに伝えています。多くの国ではこういう時略奪や暴動まで起こると言うのです。あの中国人ですら「中国人には見られない行動であり、感動した」と言っていました。

 わが国には「日本人は悪い」という自虐的歴史観を持つ人たちがいます。筆者は彼らの発言をいつも残念に思ってきましたが、そういう人たちはこれらの海外報告を読んでどう思うでしょう。また、上記の日本のマスコミに対する評価も少し甘いと思います。あれ以来一貫して東京電力を一方的に悪と決めつけ、上記の尊い行為をした人たちのことは報道しませんでした。さらに、マスコミの正義を振りかざした報道姿勢が東京電力の一般従業員やその家族たちまで苦しめていることを配慮していません。

日本仏教にはスクラップビルトが必要です

 日本人のこれらの美質は江戸時代の武士階級の精神構造を継いでいるのでしょう。それらは昭和20年の敗戦までは色濃く残っていましたが、戦後米国の占領政策が日本人のこの美質を急速に変貌させていったのです。すなわち、西洋の個人尊重思想は「自分さえよければいい」と歪められました。さらに、わが国独特の自然との共存思想は、人間中心思想によって捨てられ、いともかんたんに環境を破壊してきました。筆者は子供時代、春秋の渡り鳥をよく目にしてきましたが、現在ではまったく見ることはありません。餌も住む環境もなくなってしまったのでしょう。恐ろしいことです。

 一方、中学校から小学校にまで及んでいる学級崩壊は、日本人の精神の劣化の表れであることは言うまでもないでしょう。個人的なことですが、筆者の孫は先日まで福岡県に住んでいました。中学校の学校破壊はすさまじく、授業が成り立たないため、上の孫はもっぱら塾で中学教育を受けていたと聞き、とても心配しました。下の孫も今年から中学生です。しかし、幸いにも父親の転勤で東京に移り、孫たちも福岡を離れました。この頃よく聞く学校での「いじめ」も筆者の小・中学校時代にはまったく聞かなかったことです。家庭での児童虐待は、50年前、筆者が「最近のアメリカ事情」として驚きを持って受け止めていたことです。それが現に日本で起こっているのです。そしてこのブログでお話した青少年による猟奇的事件も、日本人の美質が急速に失われていることの表れでしょう。私たちは是が非でもこの流れを断ち切らなければなりません。そのためにはまず日本が自己中心の競争化社会になったこと、他人を思いやる心が薄れてしまったことに気づかなければならないと思います。

 それには宗教を見直すことがとても大切だと思います。あの良寛さんは清貧の生活を送り、「居るだけで」周りの人の心を和やかにした人です。長い禅の修行を通じて、「人間にとって何が一番大切か」を体得されたのでしょう。今、欧米ですら日本の禅に強い興味を持つようになったと言います。当然でしょう。しかし、肝心の現代日本仏教が大きな曲がり角に来ています。多くの寺院が倒産の危険にあることがその証拠でしょう。魅力を失ってしまったのです。なによりも僧侶も宗教学者も仏教を正しく理解していないことが問題だと思います。宗教のスクラップビルドが必要なのです。坂本龍馬風に言えば、「日本仏教の洗濯」が急務ではないでしょうか。

殺してみたかった(その2)

(2-1)

 以前のブログで、殺して見たかったから殺した(1)を書きました。もう一度お話しますと、

 ・・・最近「ただ殺して見たかったから殺した」との不可解な犯罪が目立つようになりました。恨みからでも金銭がらみでもない異常さには、多くの人が重苦しい気持ちになったと思います。とくに印象深かったのは、昨年の名古屋大学女子学生のケースではないでしょうか。キリスト教会に誘ってくれた老婦人を殺してバスタブに隠し、何食わぬ顔をして故郷へ帰っていた事件です。理学部の学生でした(筆者の勤めていた大学ですからショックも大きかったのです)。

 警察はすぐに彼女を容疑者と特定して東北地方にある実家から呼び寄せました。心配して名古屋まで付いて来た母親を無理にホテルに泊め、自分は1ヶ月前に殺した女性の遺骸のあるアパートで一晩寝た(!)というのですから、聞いただけで鳥肌が立ちますね。

 もちろんマスコミも大々的に取り上げ、教育・臨床心理学者のコメントも多く紹介されました。警察が立件する前に精神鑑定をしたのも当然でしょう。しかし今日お話するのはそこなのです。心理学者たちが「家庭の教育に問題がある」と言っているのはおよそ的外れだと筆者は思うのです。それは単なるきっかけに過ぎないと考えます。

 彼女にはいわゆる邪霊が付いているに違いありません。邪霊と言ってもその正体が何であるかは筆者にはわかりません。筆者が10年以上神道系の教団に属していた経験から言っているのです。ぜひ優れた霊能者に見てもらうべきです。そうしなければ何一つ問題は解決しないと思います。まずその霊能者はその邪霊の正体を突き止めるでしょう。そして、除霊をするはずです・・・

以上のコメントは、筆者の憶測によるものです。ただし、筆者は10年にわたって、神道系の教団でさまざまな霊的現象を見聞きしていましたので、ほとんど確信だったのです。じつは最近、佐藤愛子さんの「私の遺言」(新潮社)を読んで、1997年に起きた「神戸児童連続殺傷事件」の犯人「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと。少年「A」)についてのコメントとピッタリ合いましたのでここに再録しました。同書を読めばお分かりのように、佐藤さんはじつに30年以上にわたって、くり返し耐え難い心霊現象に遭遇した経験がある人です。その上で上記のような感想に至ったのでしょう。

(2-2)

 上記のように、元名古屋大学女子学生による猟奇的事件について、筆者はかねがね検察や裁判所による審理や、臨床心理士によるカウンセリングのやり方に強い疑問を持っていました。あんなやりかたでは決して解決しないと思っているのです。現に本人は「今でも時々人が殺したくなる」と言っています。仮に刑期を終えて出所しても、必ずまた殺人事件を起こすでしょう。それでは家族も、本人も一生救われないはずです。筆者はこの考えを裁判所や検察庁、あるいは担当弁護士に伝えようと思いました。しかし、筆者の気持ちが担当部局に伝わるまでに、どれだけ多くの不愉快さを乗り越えなければならないかは、眼に見えています。受けるであろう疑問、不信、侮辱・・・。そのときふと、「私のブログに書こう」と思い立ちました。「ブログを読んで下さった人の中には、まじめに受け取って、裁判所や弁護士にメッセージを伝えてくれる人も出てくるのでは」と思ったのです。

 筆者が名大女子学生による殺人事件を知って、「これは悪霊の憑依によるものだ」と感じたのは、長い霊的体験があったからで、佐藤さんのこの本を知るずっと以前でした。自分が殺した人間の遺骸がある部屋で寝たり、拘留中の現在でも「人を殺したい衝動が湧く」との発言はあまりにも異常です。判決は無期懲役とせざるを得ないでしょう。「今でも人を殺したくなる」人間を世に出されたらたまったものではありません。現在、彼女は臨床心理士などのカウンセリングを受けているはずです。しかし、そんなことで矯正されるとは思えないのです。しかるべき霊能者によって、まず彼女に憑いている強い悪霊を除かない限りは。それを裁判所か検察、あるいは担当弁護士に、なんとか伝えたいのですが、良くても無視、悪ければひどい中傷を受けて傷つくはずです。佐藤愛子さんも「少年Aは悪霊の憑依だなどと書けば、私を黙殺あるいは嘲笑するでしょう」と言っています。

(2-3) 

 速報:このブログシリーズを書いているまさにその時(2019/3/28)の毎日新聞に、覚せい剤取締法違反の罪に問われた女性被告(37)の控訴審判決で、大阪高裁は懲役刑の一部を実刑とした1審の大阪地裁判決を破棄し懲役1年・保護観察付き執行猶予4年を言い渡した、とありました。この女性は過去にも覚醒剤を使ったとして執行猶予中でしたが、再び覚醒剤を使ったとして裁判中だったとのこと。被告は「中年男性である別人格に体を乗っ取られ、『覚醒剤を使え』という指示に逆らえなかった」と主張していた。高裁判決は、この精神科医の診断の信用性を全面的に認定したのです。この病気は解離性同一性障害と呼ばれ、高裁は「当時は別人格で、心神耗弱の状態だった」と判断したのです。実に画期的な判決だと思います。

 まさに、前記の西鉄バスジャック事件(1人死亡2人重傷1999)の17歳少年が事件の前、インターネット上に「自分の中の別の自分が人を殺せと言っている。助けてくれ」と書きこんでいたことと一致しますね。少年「A」(酒鬼薔薇聖斗)に取調官が、「なぜお前は切断した少年の首の口を切り裂くようなことをしたのか」と聞くと、「ただ、そうしたかったんや」と答えたことについて、佐藤愛子さんは「彼の中にはもう一人の彼がいる」と書いています。まさに、複数の人格を持ちそれらが交代で現れる・・・ですね。

 しかし、これではたんに病気の診断をしているだけです。問題は治療法なのです。従来、このような「症例」は以前から精神障害の一種、解離性同一性障害と考えられていました(以下、東京都立松沢病院HPから)。

 解離性同一性障害とは:衝撃的な出来事、事故、災害などの体験や目撃などの極度のストレスが引き金となって突発的に発症するケースや、幼少期の虐待や、あまりにも耐えがたい心理的葛藤から、相容れない情報や受け入れがたい感情を意識的な思考から切り離さざるをえなくなって発症するケースなど、心理的な原因が想定されており、心因性の精神障害に分類される。

症状には、1)自分が誰かという感覚が失われ、失踪して新しい生活を始めたり、ふいに帰ってきてその間の記憶がない(解離性とん走)2)自分が自分であるという感覚が障害され、あたかも自分を外から眺めているように感じられる。外界に対する現実感が急に失われることがある(離人症性障害)、3)患者は複数の人格を持ち、それらの人格が交代で現われる(多重人格障害・解離性同一性障害)、その他がある。

治療法としては、・・・治療初期には、患者さんに安心感を持ってもらうための精神療法に加え、薬物療法を併用することがある。治療が進むにつれ、カウンセリングも行う。苦痛がひどい場合には、入院治療を選択する場合もある・・・。とあります。

 しかし、問題はそれらの病気の治療法なのです。つまり、松沢病院のHPにあるように、これまでこれらの解離性同一性障害は精神疾患の一種と考えられ、病気としての治療が行われていただけなのです。少年「A」や西鉄バスジャック事件の犯人、覚せい剤取締法違反の罪に問われた女性、そして元名大女子学生も、おそらくカウンセリングや薬物療法だけしか行われていないでしょう。それだけではダメなので、こういう「患者」の少なくとも一部には霊的治療が不可欠だと筆者は考えるのです。霊能者による除霊です。その前にまず、「どうしてかれらはああなったのか」について私見を述べます。

(2‐4)なぜ彼らはああなったのか

 前記の「人が死ぬところを見たかった」と言った元名大女子学生の第一回裁判の証言台に立った母親は、

 ・・・小2のとき万引きをしようとして父親に厳しく叱れた・・・小5のある日、それまでは「ママ」と呼んでいたのに、突然「きょうからあんたは下の名前で呼ぶから」と言われ、呼び捨てにされた。宣言するみたいに。理由を聞いたら、「こう決めたから、こうなの」という言い方をされ、注意しても直りませんでした・・・

 家庭環境に問題があったのは確かでしょう。松沢病院のHPにあったように、・・・衝撃的な出来事、事故、災害などの体験や目撃などの極度のストレスが引き金となって突発的に発症するケースや、幼少期の虐待や、あまりにも耐えがたい心理的葛藤から、相容れない情報や受け入れがたい感情を意識的な思考から切り離さざるをえなくなって発症する・・・のでしょう。少年「A」や西鉄バスジャック事件の犯人の家庭や友人関係については、母親による虐待(少年「A」)や学校でのいじめ(西鉄バスジャック事件)などの説も上げられましたが、今となってはその真相は不明です・・・。霊能者の江原啓之さんによると、「彼らが生まれ育った土地の「気(霊位)」の低さにも問題があるとか。パワースポットの逆ですね。ただ、筆者には土地の「気」についてはよくわかりません。

 一方、以前筆者がお話したケースについては、その原因はかなりはっきりしています。 すなわち、  

 筆者が属していたある神道系教団に二十歳そこそこの女性会員がいて、ある日一人の友人を連れてきて教祖に相談しました。なんでも彼女はこの頃おかしいと言うのです。「〇〇ちゃんがいない」と泣き叫ぶとか。〇〇ちゃんは本人も女性会員も全然知らない人だと。教祖によると、その人には心中した若い女の霊が憑いており、あの世で添い遂げようと相手を探したけど見つからないと言うのです。当然でしょう。人は生前に達した霊位に合った幽界に行くのですから、心中しても同じ世界へ行くとは限らないのです。相談に来た女性は看護師で、終末期医療に携わっているとか。「治る見込みがあればこそやりがいがあるのに、ただ死ぬのを待っているだけの患者ばかり看護してきた今の仕事に希望を無くしてしまった」と言うのです。よくわかりますね。じつはこのような人が危ないのです。心の隙に霊が入り込んだと思われるのです。自分に絶望すると、自分としてのアイデンテテイを無くしてしまい、そこへ「別人格」の霊魂が入って来るのです。あの世(現幽界)でさまよう霊魂は、いつもこの世の誰かの肉体に入りたがっているのです。人は死んで初めてこの世に生きる意味を知るといいます。それは心の成長の場だったのだと。あの世では魂の成長はできないのです。「死んでしまって残念だ。もう一度現世へ戻って修行し直したい」と思うのでしょう。

 元名古屋大学女子大生や、酒鬼薔薇聖斗少年(当時中学2年生)も、おそらく生い立ちに厳しいものがあり、自分を見失っていたのでしょう。その、魂が抜けた肉体へ未浄化霊や邪霊が入り込んで別の人格になって、残虐行為をしてしまったと思われます。もちろん自分を見失ってしまった人がすべて未浄化霊に憑依されるわけではありません。個人差も大きいのでしょう。ただし、ネガテイヴ思考に陥ることはこのような危険があることはぜひ心に留めておいてください。

 筆者もこれまで何度もネガテイヴ思考に陥りそうになったことはありましたが、いつもグッと踏みとどまりました。必ず負のスパイラルに入り、ますます落ち込んで行き、解決から遠ざかることが直感的にわかっていましたから。じっと我慢すれば必ず解決への道が開けてきます。

岸根卓郎氏批判(3,4)

(3) 筆者の検証(2)

 岸根氏はホイーラーの思考実験(物理実験ではありません)の結果(?)から、「電子には心があり、人間の意図を読み取った」と結論付けています。そして、岸根氏の解釈はさらに飛躍します。

 ・・・自然界はすべて、心を持った電子が姿を変えたものである。人間と同じく、動物も植物もすべて電子によって構成されている・・・電子が心(意志)を持っているからこそ、その電子によって構成されている人間にも心(意志)があることが科学的に結論できる・・・ と言っています(註5)。

註5 もちろん人間の体は電子だけでできているのではありません。岸根氏が電子にこだわるのは、粒子と波との二つの性質を合わせ持つ物質の例としてでしょう。

 岸根氏はさらに、

 ・・・肉体としての人間が示す電子の波動現象こそが人間の生命であり、人間の心である・・・生まれるといっているのは、心を持った無機物が統合されて、心を持った有機物が作り出される統合作用のことである・・・死ぬといっているのは、心を持った有機物が統合作用を失って心を持った無生物に還るということだ・・・心もまた肉体の輪廻転生と共に、輪廻転生を繰り返す・・・心の住むあの世も、肉体の住むこの世も、ともに存在していて、それらが互いに輪廻転生している・・・自然界全体(大自然、大宇宙)の下では、無生物も生物も基本的には区別はなく、それらは同じ物である電子が姿を変えて互いに流転し、転生しているにすぎない・・・
と言っています。

 何人かの読者が指摘するように、岸根氏の文章は繰り返しが多く、独善的であるためわかりにくいので、筆者がまとめてみますと、岸根氏が言いたいのは、「電子は心を持つこと、時には波になり、時には粒子になる。その性質を輪廻転生と言い、人間も電子からできているから、人間の体も輪廻転生する」と言っているようです。輪廻転生という、仏教やスピリチュアリズムの概念を、電子の粒子と波との変化とくっつけているのには唖然とします。

 さらに岸根氏は、「仏教だけが量子論と統一できる唯一の宗教である」と言い、

 ・・・仏教にいう無量寿(無限の時間の流れ)が量子論にいう電子の粒子性に当たり(なぜなら粒子は速度を持っていて無限の時間を走るから)、無量光(無限の空間の広がり)が量子論にいう電子の波動性にあたる(なぜなら粒子は波動となって無限の空間に広がるから)と考えられるからである。ゆえに私(岸野氏)は(宗教である)仏教と量子論(科学)は同一化する。まさに驚異と言うほかはなかろう・・・量子論の説く粒子性・波動性が神の心と考えられる・・・

と言っています。つまり、岸根氏は「量子論が神の世界の存在を証明する」と称しているのです。

(4)筆者の検証(3)

岸根氏は、

 ・・・これからの心の時代には、この世とあの世の間に存在する、量子論に言う量子エンタングルメント(あの世とこの世の共存性)や量子テレポーテーション(あの世とこの世の情報交換)などの心の共鳴現象を理解せずしてもはや対応できない・・・2500年もまえの東洋の宗教の仏教と、西洋の最先端科学の量子論との間にも、時空を超えて同一性がある・・・

と言っています。岸根氏は「量子は心を持つ」という持論(岸根氏の独創ではなく岡野氏の考えの引用ですが)を量子論的唯我論と称し、それを強く意識した上で量子宗教という造語をしています。

さらに、

 ・・・未来のあるべき宗教は一神教文明で物心二元論の西洋物質文明に基礎を置く西洋の宗教よりも、多神教文明で物心一元論文明の東洋精神文明に基礎を置く東洋の宗教のほうが、心の時代の宗教としては適している・・・

と言っています。しかし、このような考えは岸野氏の独創でも何でもなく、多くの心ある人が言っているのです。

 以上のように、岸根氏のこの本は量子論に基づいて神の心を解き明かそうというものです。しかし、現代物理学でも量子の不思議な性質については、まだ正しい解釈はされていないのです。にもかかわらず岸根氏はその解釈の一つ、それもなんの科学的証明もなされていない意思説を自説に都合よく根拠としているにすぎません。しかがって同書はほとんど妄想としか言いようがないものなのです。

 ある読者の感想文の中に、

 ・・・量子論は日常の常識が通じず余りにも奇妙なためしばしばオカルトのネタとなるが、この本はまさしく量子論をネタにしたオカルト本である・・・

とあります。筆者も同感です。量子のようなミクロの世界は、どんなにそれが私たちには不思議であっても、それにふさわしい解釈をすべきであって、それを人間や宇宙のようなマクロの世界へ敷衍したために岸根氏や、一部のスピリチュアリズムの人達の誤解を生じるのでしょう。

 岸根氏の本は、京都大学名誉教授であるとか、湯川秀樹博士や朝永振一郎の師であることをキャッチコピーにしていますし、文章が巧妙に書かれているため、一部の読者が「すばらしい」と感じるのでしょう。しかし実体は、前述の読者が言っているようにオカルト本としか言いようがありません。真面目な読者が惑わされないように、願ってやみません。

岸根卓郎氏批判(1,2)

(1)はじめに、そして結論

 岸根卓郎さんのこの本「量子論から解き明かす神の心」(PHP研究所)についての読者の感想の一つに、

  ・・・こんなに格調高い文章の量子論は他にあるのでしょうか。繰り返し言葉を変えて語られる内容は重層的で、まるでオーケストラの音楽のようでした。通奏低音のように響く量子論をベースにしながら、その上で様々な音色で少しずつメロディーを変えて何度も繰り返されるテーマを読み解いていくのは非常に楽しい仕事でした。 本書は京都大学の名誉教授である著者の「あの世」と「量子論」への愛が満ちた書です・・・

とあります。とにかく興味あるテーマですからすぐに読んでみました。しかし、筆者はこの本を読みながら、しきりにオーム真理教事件が頭をよぎりました。なにかおかしいのです。麻原らの教義は、いろいろなところから聞きかじった断片的記事を恣意的に、つまり自分に都合よく解釈して組み立てているのが特徴的です。オーム事件が私たちに与えた衝撃の一つは、幹部の多くが一流大学を出たエリートだったことで、「なぜ彼らが」とみんなが思ったのです。広瀬健一死刑囚などは早稲田大学理工学部を主席で卒業し、大学院に進学後には超伝導技術を研究していた優秀な人でした。それどころか同世代の若者よりはるかに真摯に人生を考えていたのです。それが麻原の教義に出会って、人生の疑問に対する回答に「はまって」しまったのです。遺影を見ても彼の真摯な人柄がよくわかります。彼と遺族にとって不幸としか言いようがありません。

 以前にもこのブログシリーズでご紹介しましたが、オーム事件に一定の評価が定まったころ、筆者が深夜にふと点けたラジオで、ある大学の教授らしい人が、「私は霊的世界を決して否定する者ではありません。しかしオーム事件から学んだことは、さまざまな宗教やスピリチュアリズムについての本を読む時、『行間を読む』あるいは『眼光紙背に徹す』ことがいかに大切かを痛感したことです」と言っていました。

 同書を読んだ人は肯定派と否定派の二極に分かれています。ただ、否定派の人たちも「どうもおかしいが、どこがどうおかしいのかがよくわからない」ようです。筆者は岸根氏のこの本を精密に読み、論旨の流れに惑わされないように注意しつつ、筆者の能力の及ぶ限り学問的に検証しました。言うまでもなく同書は宗教書であり、「・・・から解き明かす神の心の発見」などという魅力的な文言に出会えば、同調して心酔する人が出てくるかもしれません(現に出てきています)。どうかこれまでに同書を読んで感動した人も、これから読もうとしている人も、まず筆者の以下の検証をお読みいただきたいのです。

 筆者の論及の姿勢は、あくまでも科学の視点に立ったものであり、なんらの感情も入っていません。むしろ肯定派の人たちからの反論を期待しています。

2)筆者の検証(1)

 前回もお話したように、筆者は読み始めてすぐ「これはおかしい」と思いました。岸根氏はこの著書で、電子や光子などの量子が持つ不思議な性質である、粒子性と波動性を根拠として壮大な(?)理論を展開しています。そして本書の目的として、「量子論に従って神の心を科学的に解明すること・・・」と言っています。それゆえ、どこがおかしいのかを検証するには、量子の性質について彼が犯した誤りの理由を突き止めればよいと思いました。

量子の不思議な性質

 20世紀になって電子や光子などの量子には奇妙な性質があることがわかってきました。すなわち、ごく通俗的な言い方をしますと、量子は粒子と波という2重の性質を持っていること、人間が観測すると粒子の状態に収束することなどです(註1)。岸根氏が、まさにこの人間が観察するとの語句をきわめて恣意的に解釈したことに誤りの根本があるのです。すなわち岸根氏は、「量子のこの不思議な性質についてのコペンハーゲン解釈(註2)においてN.ボーアは『この世の万物は、観測者の人間に観測されて初めて実在するようになり、しかもその実在性そのものが、観測者の人間の意識(心)に依存する』と主張した」と言っています。しかしN.ボーアは決してそんなことは言っていないのです。

一見、人間が観測すると波のように広がっていたものが一点に集まるように見えるのですが、収束がいつどのようにして起きたのかとか、観測が収束に必須とかは断定できないのです。正しい意味のコペンハーゲン解釈とは、観測前には空間的広がりがあった(波であった)ことと、観測時点で一点に収束していること、収束の確率が確率解釈に依存することの三つの実験事実を合意事項として採用する解釈として提唱されたものです。つまり、岸根氏はコパンハーゲン解釈を誤解、それも素人的で恣意的な誤解をしているのです。量子の不思議な性質についてには、今紹介したコペンハーゲン解釈以外にも、多世界解釈とか、岸根氏が重視する意思説があるのです。人間が観測すると粒子になるように見えるので、人間の意志が量子の状態を左右すると考えるのです。つまり、意思説は一つの解釈に過ぎず、しかもその前提には理論的裏付けがなく、実験による確認もされておらず、科学理論としての要件を満たしているとは言えないのです。岸根氏がコペンハーゲン解釈を自分の都合のいいように理解していることがおわかりでしょう。N.ボーアらのコペンハーゲン解釈は、現在正統派解釈とされているものです。

 岸根氏はさらに、「量子論には素粒子を心を持たない単なる物質(註3)と見て研究する、いわゆる量子力学の分野と、心を持った物質として研究する、いわゆるコペンハーゲン解釈としての量子論的唯我論の分野の二つがある」と言っていますが、およそ的外れであることもこれでおわかりでしょう。

註1 正確には電子は粒子ではありません。

註2 量子の不思議な性質についての基本的な考え方について、1927年に開催された第5回ソルベー会議において議論され、N.ボーアやW.ハイゼンベルグらによってコペンハーゲン解釈としてまとめられました。

註3「量子は心を持っている」は、この本の根本原理です。岸根さんが「それは科学的に証明されている」と言って4つの証拠(!)を上げています。スペースの関係上、すべてについて検証することはできませんが、その一つでも論破できれば十分ですから、次回それについてお話します。