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養老孟司さんの思想

その1)NHKテレビ2024/1/3の「養老孟司 日常ヒトの生活 体と脳」が放映されました。一見養老さんの日常生活を紹介した番組のようにも見えますが、じつは養老さんの「大きな新しいモノの見かた」を示すのがNHKの意図でした。筆者は録画を取り、すべての言葉を文章に起こして精密に学びました。以下に、その内容を筆者のコメントとともにお話します。幾つかの言葉はアナウンサーによるインタヴューで、他のいくつかは養老さんの著作から引用されていました。

 養老さんの考え方の趣旨は、

 「人間を心と体に分けると、現代社会ではに中心が行き過ぎてしまっている。もっとブータン人のように体中心の生き方に戻るべきではないか」でしょう。ここで養老さんの言うとは、「合理性、経済性、効率性に捉われた現代人の生き方」です。これに対して、養老さんが重視しているのは、ブータンで出会った人たちの体に重きを置く暮らしです。

 養老さんは、東京大学医学部解剖学教室の教授でした。「体を重要視するようになったのはそのためだ」と言っています。養老さんが臨床医を辞めて解剖学に移ったのは、「医療ミスを何度もやりそうになったからだ」と言っています。じつは、養老さんは1995年、東大紛争のあおりを受け、東大教授を辞任した人です。52歳でした。その経緯については、後でお話しますが、大きなショックであったことは間違いないでしょう。その時、縁あって訪れたのがブータンでした。ちょうどその頃ブータンが鎖国を脱し、外国人を受け入れていたことも良いタイミングだったのです。養老さんは「ブータンの人々は祈りが生活の中心であり、人々は自らの体を仏に投げ出して生きているのを知った。ブータンに通い始めてすぐに、そこでは自分の常識やモノの見かたが通用しないと分かった」。養老さんはその後28年も通い続けたのです。それどころか、12年前、養老さんの寄進によってニエルン・デチャックリン尼僧院が、建立されました。

 養老さんは、解剖学者として身体を見てきただけでなく、「体にこそ個性が宿ることに気付かされた」と言います。(NHK記者の)「個性とは何ですか」の質問に対し、「身体でしょ。『オレは腹空いてるけど、お前は空いていない。当たり前でしょ」と答えています。前述のように、養老さんがブータンの人々に接して感じたのが「体に重きを置く暮らしをしていることだった」と言っています。体に重きを置く暮らしとは、たとえば「(仏に参拝するときの)五体投地の習慣や、(修行僧たちの)1日3回の食事も体を形作る修行だ。経典を何度も繰り返すことで、頭ではなく体にお経を沁み込ます。よく生きることは自らの体に生まれる欲望を見つめること。あらゆる欲望を否定した人生に幸せな世界がある。それがブータン仏教の教えだ。考え方どうこうは、おしゃべりでどうにもなる。体の動かしかた、あり方は意識で簡単にコントロールできない・・・・と言っています。

 しかし、筆者にはこの論理にはこじつけがあるように思えます。五体投地が体に重きを置く暮らしだと言えるでしょうか。さらに、1日3回の食事が体を形作るための修行とは、たとえ修行僧たちだとしても言いすぎでしょう。養老さんは「個性とは身体であり、体にこそ個性が宿ることに気付かされた」と言いますが、どう考えても個性とは心だとしか思えません。さらに「経典を何度も繰り返すことで、頭ではなく体にお経を沁み込ます」と言いますが、やはり沁み込むのは頭だと思います。また、「よく生きることは自らの体に生まれる欲望を見つめること。あらゆる欲望を否定した人生に幸せな世界がある」と言いますが、それは私たちでも同様でしょう。つまり、養老さんの考えは、解剖学者として長年、体を見つめてきたことの弊害、と言ったら言い過ぎでしょうか。

その2) 養老さんは「今の世の中で生きていると『心は個性的でなくちゃいけない』となんとなく教え込まれてしまう。『心の問題はお互いに了解できないけど、了解しなくちゃ意味がない』・・・・そう思って何十年もやってきたかど、僕みたいに『分かるわけがないよ』という結論に達するか、あくまでも『分かるはずだ』と思ってたくさん引き出しを作っていくかでしょう」と言います。

筆者の感想:それはそれでもっともだと思いますが、だからといって、体に重きを置く暮らしに戻れとはならないでしょう。じつは、この問題は、現代人のモノゴトの考え方と、昔の人のモノゴトの考え方との相違なのではないでしょうか。つまり、やはり心と体ではなく、心と心の問題なのです。とすれば、養老さんの考えはNHK記者の言うような「新しい大きな考え」にはならず、私たちもごく普通に考えていることになってしまうのです。

養老さんの思想の原点:

 筆者は、養老さんと同時代人で、東大教紛争のあおりを受けて養老さんが辞任したことも知っています。養老さんは辞めた理由として、「ヒトと逢うことは疲れる。若い頃からそうだった。人見知りであり、人前に出ない。ネコとならうまく付き合うことができる。ふつう子供はそうだが、私はそのまま大きくなっただけ」とか、「日本の大学制度は西洋から輸入されたもの。そこら辺の自分と周囲の摩擦がどんどん大きくなって大学を辞めちゃった。その気分でブータンへ来たらホッとした。そういう状況以前の国だったから」と言っています。しかし真実は、東大紛争で学生たちから「解剖学なんて古臭いものが学問と言えるか」との強い糾弾を受けたことが大学を辞める原因だったと聞いています。つまり、真相は別だったと思うのです。「人見知りだった」、「臨床医には向かないと思った」・・・・その最後の居場所が解剖学だったのです(学者は他人との付き合いを最小限にしても済みます。筆者にもよくわかります)。そを最後の砦を「そんなものは学問ではない」と否定されたのです・・・・。それが本当の理由だったと思います。

輪廻転生について:

 養老さんは「ブータンの人の生き方として印象深く思っているのは、輪廻転生をそのまま受け入れた人生観に沿って生きていることだ」と言います。つまり、

 ・・・・「ヒトは死んでも生まれ変わる」。そんなブータン仏教の教えを伝える寺がある。私は、初めて訪れた時からそこで生きるヒントを見出していた。ブータンの人々は死を恐れないと言う。ブータンの人々は、縁起によってモノができていると信じている。前世と現世に生きる者すべての人生がつながっている。もし自分の前世(の人)がいなかったら、すべての巡り合わせを願ったと言っても、お互いに離れ離れのままです。たとえば違う場所に生まれた人が巡り合うのも前世からの因縁による。ここの仏教ではそうだ・・・・この国は小さな畑や田んぼを作ってヒトは生きている。つまりこうやって先祖は生きてきたんだな。この国で見たのは、自分の体の声に耳を澄ませながら生きる暮らし、日常の生活、周りのヒトの言うこと・・・・お互いに矛盾する面があっても適当に折り合ってそれが一体化している。日常の重要性が歳を取ると、どんどん大きくなってくる・・・・「人生とはもっと立派なものだ」と思っているヒトは多いと思う。それは私にはかなりのストレスになっていた。そんなものはお釈迦様の眼から見たら何でもないんでしょう。ブータンだとそれがすんなり入って来る。よく昔のヒトは考えたよね。「どうやったて救われない。56億7千万年後に阿弥陀如来が再臨なさって救ってくださる」と。このブータンへ来るとどうせ輪廻転生を繰り返してその間待てばいいんだと・・・・・現代社会の人々はこういうことを決して思いつかないでしょう。そこまで行くと「嘘だろう」と必ず言うんだけど、それはモノゴトがどういうふうに動いて行くのかを考えないからでしょう。ブータンに来て面白いのは、そういうのが現に生きている。「輪廻転生を信じる人々にとって、生まれ変わるのならば、死は次の人生の出発点に過ぎません。ブータンでは、常住坐臥そういうこと全部が一緒になって、いわゆる伝統とか文化になっている。その全体の中で何かを感じるという・・・・・

筆者は、養老さんが輪廻転生説をそのまま受け入れているのには驚きます。もちろんそれは個人の自由です。しかし、それを根拠に「大きな考え」を提唱しても、ほとんどの現代人には受け入れ難いでしょう。しかも「それはあなたたちがモノゴトがどういうふうに動いて行くのかを考えないからだ」と言うのはいかがなものか。ちなみに筆者は輪廻転生説は面白いと思いますが、とてもそれを信じ、自分の考えの基盤にすることはできません。

幸せとは何か:

 養老さんは続けます「時折『幸せとは何か』と聞かれる。わたしはいつも「考えたことはありません」と答える。ケンカを売っているのではありません。何か起きた後に思いがけなく感じるものが幸せなのです。「あらかじめ分かっていること」「幸せとはどういうものだ」と定義できるようなものは幸せではないと思う。私の例で言えば、採れるはずがないと思っていた虫が思いがけず採れたというものが幸せです。「思いがけた幸せなんてないような気がします」(〈養老訓〉新潮社)。

筆者の感想:「幸せとは何かと聞かれて、そんなことは考えたことはありません」と言いながら答を出しています。筆者がいつも養老さんのお話を聞いて困惑するのはこういう「物言い」なのです。「考えたことはない」と言いながら答えているではないですか。

 NHKデイレクターの「先生が明らかにしたいと思っていらっしゃる大きなことってなんですか」質問に対し、養老さんは「結果が知りたいわけではない。だから、『アッ』とか『ここが違う』が面白い。分かるのが面白い』。なにかつい『どういう結論だったんですか』と聞きたくなってしまう。それは言葉の世界に住んでいる人の特徴で、言葉でモノを切るからね。切れないんですよ実際は。人生の意味なんか分からない方がいいので、わからないと気が済まないというのは気が済まないだけのことで、それなら気を散らせばいい。私は気を散らすために虫取りを初め、いろいろなことをする。今日も日向ぼっこをしていたら虫が一匹飛んできた。寒い日だったから何とも嬉しかった。『今日も元気だ。虫がいた』それが生きているということで、それ以上に何が必要だと言うのか。その土俵際が難しい」(〈モノがわかるということ〉祥伝社)

筆者の感想:今、能登大地震で大切な家族を亡くした人が大勢います。その人たちに対して「今日も元気だ。虫がいた。それが生きているということで、それ以上に何が必要だと言うのか」と言ってなんになるというのでしょうか・・・・・。

要するに養老さんの論法は韜晦術、と言って悪ければオトボケだと思います。筆者が最初に読んだ「バカの壁」がまさにそういう論調でした。「バカの壁を見るとバカになる」と言っていた人がいます。筆者も同感なのです。

旧統一教会解散命令(2)

 それまで長年にわたって旧統一教会信者や家族の救済に努力してきた弁護士が、「今後どうしたらいいと思いますか」とのNHKアナウンサーの問いに対し、涙ながらに「わかりません」と答えたこの案件が、 山上徹也被告の安倍元首相襲撃事件が重大なブレイクスルーになったのですね。

 あるテレビ討論会の一つで、北海道大学の櫻井義秀教授・・・・30年にわたってこの問題に取り組んできた人です・・・・が、「共生」とパネルに書いて示したのには驚きました。しかし、その後事情をよく調べてみますと納得できました。

 旧統一教会やエホバの証人の信者たちの気持ちを垣間見て、とても印象的だったのが、彼らは、私たちとは考えや価値観の基本、つまり座標軸が大幅にずれている点です。つまり、旧統一教会という「はしご」を外されると、今後どう生きて行っていいかがわからなくなってしまうようなのです。「洗脳」の恐ろしさをまざまざと思い知らされますね。

 会員の一人、28歳の女性で、同教会の事務をしている人が紹介されていました。幹部ですね。その人は、「なぜこれほど批判されるのか」という疑問の回答を得るため、何人かの現役信者や退会した人に聞いて回りました。しかし、この「ズレ」を埋める言葉には出会えなかったのです。その矢先に「解散命令」が出されました。涙がショックを物語っていました。

 

旧統一教会解散命令(1)

 岸田首相の指示により、文部科学省から東京地裁に旧統一教会解散命令請求が出されました。山上徹也被告による安倍元首相襲撃事件からわずか1年の迅速な対応でした。筆者は以前のブログで「安倍元首相でよかった」との私見を述べました。「危険な発言だ」と知人から心配もされましたが、真意はこうです。被害者救済のため、30年にもわたって努力してきた弁護士が、涙ながらに「どうしていいのかわからない」と言っていたのを知っていたからです。安倍元首相襲撃事件が重大なブレイクスルーになったかのは間違いありません。

 「自民党が旧統一教会と自民党が深く関わっていたこと を飛ばして幕引きを図った」との指摘は、その通りでしょう。最近亡くなった細田氏が、旧統一教会の式典で祝辞を述べた映像が何よりの証拠で、氷山の一角です。細田氏が亡くなるまで「問題ない」と言っていたのは、政治家のずるさの典型でしょう。

 この問題で、既存の新宗教、新々宗教である創価学会や天理教、エホバの証人等々が蒼くなっているのは容易に想像できます。いずれも同じ穴の〇〇〇だからです。私事ですが、以前、創価学会の空恐ろしさを知ったことがあります。ある統一地方選挙の時、私のふるさとから何人かの人が「〇〇さんに投票してください」と頼みに来たのです。創価学会の会員なのでしょう。中には知った顔もいましたが、名前はもちろん、話したことさえありません。とにかく故郷を離れて40年、一体どうして、私が30km離れたここに居ることを知ったのでしょう。選挙区もまったく別です。同学会の組織力は私の想像をはるかに超えます。

岩村宗康さんとの対話-禅と神(その6)

 〈正法眼蔵・心不可得〉に、徳山宣鑑(とくさん・せんかん780-865)の話が出てきます。徳山は広く仏教を学んで律にも精通し、とくに金剛経の研究では群を抜いていたが、彼が生きた時代、南中国で禅宗が盛んになってきた。ところが理論仏教を極めた学僧徳山にとって、禅が標榜する〈直指人心、見性成仏。教外別伝、不立文字〉の教えは、まったく納得できないものであった。そこで彼は外道を降伏(ごうぶく)しようと、金剛経の注釈書を車に積んで南方へ向けて出発した。しかし、途中の茶店の老婆に言われた言葉がわからなかった。徳山はすぐにその足で、近くに住む竜潭祟信(りゅうたんそうしん)禅師を訪ね、弟子入りした・・・。

 次に、〈正法眼蔵・渓声山色〉の巻には香厳(きょうげん)智閑(?~898)の悟りの契機について紹介されています。香厳は、大潙(だいい)大円禅師の道場で学んでいた時、「おまえは博識だが、経書の中から覚えたことではなく、父母がまだ生まれない(父母未生)以前のことについて、私に一言いってみなさい」と言われた。しかし彼の知識では何も答えることができず、遂に年来集めた書を燃やし、「絵に描いた餅では飢えを満たせない。私はもう今生に仏法を悟ることを望まない。ただ行粥飯僧(修行僧の食事係)として務めよう」と。しかし、さらに何年たっても悟ることはできず、そこも辞め、「ただ、旧師大證國師の墓守として生きよう」と決心し、師の蹤跡をたづねて武當山に入った。そこである日、道を掃いていると、かわらが飛び散って竹に当たり、「カーン」と響くのを聞いて、からっと仏道を悟った・・・。有名な香厳撃竹のエピソードです。

 この二つのエピソードはいずれも「禅はいくら知識があろうと、わかったか、わからないかの世界だ」と言っていますね。徳山も香厳も「わからないのは私が未熟だから」と、あくまでも謙虚さを失わなかったため悟りに達したのです。

わかるということ

 筆者に送られてきた岩村さんの膨大な書簡を読んで筆者が感じたのは「この人はわかるということがわかっていない」と思いました。一つの例があります。筆者の大学院指導生の一人に地方大学出身の人がいました。筆者の研究室では、学生が入学するとすぐに英語の論文を読むトレーニングをします。ところが彼の場合、どうもいつも答えのピントがずれているのです。下手な和訳ばかりするのです。ある時、「ハッ」とその理由がわかりました。彼は自分の和訳が正しいかどうかがわからないのです。筆者にもわからないことはたくさんあります。しかし、筆者には「わからないことはわかる」のです。おそらく岩村さんはわかるということがわかっていないのでしょう。

 禅の議論は、武士が刀を抜いて戦うのと同じ、文字通り真剣勝負です。

岩村宗康さんとの対話-禅と神(その5)

 対話は続きます。

岩村さん:塾長の「神」についての論述から連想するのは、西田幾多郎著「善の研究」第二編第十章「実在としての神」の下記の記述です。

 ・・・・宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである・・・・実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。………。実在の根柢には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度宗教の根本義である様にアートマンとブラハマンとは同一である。神は宇宙の大精神である・・・・「善の研究」第二編第二章は、「意識現象(直接経験の事実)が唯一の実在である」と記述されているので、上記の「実在」も「意識現象(直接経験の事実)」を指しています。後にそれは、「絶対無の場所」と言い換えられますが、指している事実が変わったとは思えません。
 上記の西田博士の提言を「等正覺」内容の表明として見れば何も問題が無いのですが、実在している筈の宇宙や自然や人間社会に立脚すると納得することはできません。
 原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・「善の研究」の用語で『諸法は実相である』を解くと、「各自の即今・此処の意識現象(諸法)は現に在る事実(実相:直接経験の事実)である」と、言えます。

筆者:前回もお話したように、岩村さんは禅の要諦である色即是空・空即是色を理解していらっしゃいません。つまり岩村さんは、西田博士は、宇宙・自然(モノ)も実在するという禅の色(しき)については言及していないことをわかっていないと思います。それゆえ、「西田博士の〈純粋経験思想〉では、宇宙・自然が説明できない」と、もどかしさを感じていらっしゃるのでしょう。

 つまり、西田博士は「直接経験こそが真の実在である」と言っているのであり、筆者の言う禅の〈空(くう)〉と同じで、モノゴトの観かたです。岩村さんはその〈実在〉の意味と、宇宙や自然(モノですね)が〈実在〉していることと混同していらっしゃるようです。西田博士はモノは実在するという、禅の〈色〉に該当する概念までは言及されていないからです。禅ではいずれも実在することに変わりはない。つまり「空(くう)と色(しき)は一如である」と言っているのです。空(体験)は実在であり、色(モノ)も実在し、両者は一如である・・・・これこそ禅の要諦であると筆者は考えます。このモノゴトの観かたを完全に体得することが、等正覚なのです。

 西田博士は「このモノゴトの観かたは宇宙原理そのものである」と言っています。しかしそれでは片手落ちなのです。西田博士の考えを突き抜けて「宇宙・自然(モノ)も実在する・・・・色即是空・空即是色、この禅の思想こそ宇宙原理だ」と筆者は考えます。

岩村さんはさらに、

・・・・原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・・決して、この災禍を「仏の姿の現れ」とは言わない筈です・・・・

筆者:岩村さんは「神が実在されるなら、なぜこれらの人類の災厄を黙って見ているのか」つまり、「神も仏もあるものか」とおっしゃりたいのでしょう。宗教者にあるまじき発言ですね。原爆もコロナ禍もまぎれもなく「仏の姿の表われ」なのです。神は人間のすることを見守るだけで、手を下さないのです。神の摂理に反することなら早くそれに気づき、神の心を取り戻すのを待っていらっしゃるのです。これが筆者の考える〈神とは〉です。岩村さんは神(仏)についての基本的なことがわかっていないと思います。

 たしかに西田博士の言う〈純粋経験〉は宇宙原理につながるものでしょう。禅の空思想(空観)も同じです。しかし、それを宇宙原理そのものだと言っては飛躍がありすぎだと思います。

 しかし、残念ですが、岩村さんの知識の多くはピント外れだと思います。岩村さんの最後の言葉、は「塾長(筆者のこと)は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。

 筆者が禅と神を結び付けたこと、つまり、「悟りとは仏と一体化すること」への(感情的)反論でしょう。しかし、すべての宗教はその根底に神(仏)をおいているのです。仏教が例外であるはずがありません。大日如来は宇宙の主催神ですし、浄土宗の言う阿弥陀如来も間違いなく「仏(神)」です。〈道元も正法眼蔵・生死巻〉ではっきりと「(生死の問題は)仏の家へ投げ入れて仏の方から行われ、それに従い持て行く・・・」と言っています。〈法華経〉で常不軽菩薩の言う「あなたは仏になれる人です」の「仏」とは何なのか、悟りとは「仏と一体化する」でなければ何なのか。これでも仏教の根底にはすべて「仏(神)などない」と言うのでしょうか。

 要するに、岩村さんは筆者が禅を神と結びつけたことに違和感を感じるのでしょう。筆者は、岩村さんを初め、何人かの臨済宗の師家、曹洞宗の西嶋和夫さんやその師・澤木興道さんの著書など、さまざま読みました。その結果、「これでは日本の禅宗は滅びる」と思っています。彼らは旧来の禅にドップリ浸かり、師から弟子へ同じ誤りが伝えられ、マンネリ化した法話をしているのでしょう。「日本の禅をこんなにしたのはだれか」。

 これに対し筆者は、禅と神(仏)を結び付けることがそのブレイクスルーなると思うのです。じつはこのことは臨済宗の宗祖臨済も、あの道元も気付いているのです。いかなる宗教思想の根底に仏(神)があるのは当然です。注意深く読めばわかることなのです。岩村さんは「自分の宗教家としての人生全部を否定された」と思っていらっしゃるかもしれません。そのいらだちが、「神に取り憑かれた塾長と議論した私が愚かでした」などの感情的発言になったのでしょう。筆者は別に気にしていません。学問の論争に感情など入り込む余地などまったくないからです。岩村さんとの対話は筆者の考えを映す鏡でした。鏡に映すことによって考えを整理することができました。また岩村さんや他の方々と議論することが望まれます。