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良寛さん法華転・法華讃(6)

 筆者の感想

 要するに法華経の主旨は1)諸法実相(自然のすべては仏の姿や声の現われであること、2)人にはすべて仏としての本性があることでしょう。たしかにとても大切なことですね。道元や良寛さんが法華経を尊重していることや、「正法眼蔵」に法華経の思想がたくさん入っていることから禅と法華経には深いつながりがあることは容易に想像されます。

 しかし筆者は法華経を知る前からこれらのことを実感していました。すなわち、
 1)筆者は生命科学の研究に従事していたあるとき、遺伝子DNAの構造をながめていて、突然「いのちは神(仏)が造られた」と直感しました。生命だけではありません。山も川も、宇宙のすべてが神によって造られたにちがいないのです。法華経で言う「諸法実相」ですね。
 2)「造られた」ということは、裏を返せばそのまま私たちは神(仏)だということです。神につながる「本当の我(霊魂)」が人間の本体であると筆者は考えるのです。このことはこのブログシリーズでなんどもお話しました。神(仏)がお造りになった人間を愛おしみになるのは当然でしょう。母親が我が子を本能的に愛するように。これが本当の他力思想なのです。法然は、浄土三部経などで得た知識からではなく、直観的にこのことを理解したのでしょう。私たちはこのことをはっきりと認識し、ただただ、神仏の恩寵に感謝すればいいのです。法華経で言う「人間の本性は仏(神)」ですね。

 神仏は殺人の罪を犯した者さえ、そして自死した者でも救って下さるのです。よく、自死した者は煉獄に落とされ、永久に救われないという話がありますが、そんなはずはありません。それでは「すべての人を救う」という神仏の御心に反するからです。それはたんなる警告、仏教で言う抑止(おくし)に過ぎません。輪廻転生、つまりくりかえされる生まれ変わりが心の成長のためだとすれば、まあ「一回休み」でしょう。

 このように、法華経はたしかに優れた経典ですが、「特別な経典」ではないと筆者は考えています。日本には法華経に依拠する新々宗教がいくつかあります。以前それらについて調べてみたことがありますが、相互の攻撃があまりに過激であることを知り、調査をあきらめました。

良寛さん法華転・法華讃(1-5)

道元・良寛さん・賢治と法華経(1)

(1)このシリーズで以前、「道元や良寛さん、宮沢賢治の法華経に対する思い入れは相当のものがある」とお話しました。道元は「法華経は諸経の大王である」と言い、あの「正法眼蔵」には法華経からの引用が随所に見られます。また良寛さんは「法華転」「法華讃」と名付けた漢詩を、それぞれ68編と122編作っています(これだけでも良寛さんの学識が並々ならぬことがわかります)。さらに宮沢賢治は遺言として「私が死んだら法華経を印刷し、経筒に入れて故郷花巻を取り巻く山々に埋めて下さい」と言っているほどです。

 わが国の法華系のさまざまな宗教団体が「法華経こそ釈尊がお説きになった最高の経典である」としています。しかし、法華経が、いわゆる大乗経典の一種であり、釈迦の直説でないことは、学問的にはすでに確定しています(註1)。とは言え、筆者はけっして大乗経典を軽んじているわけではありません。釈迦以降にもインドにはすぐれた思想家が数多く輩出して、法華経という思想体系を作り上げたのでしょう。
 そこで、今回から、このシリーズの締めくくりとして、良寛さんの「法華転・法華讃」に基づいて、法華経についてお話します(註2)。
 まず、法華とは宇宙の真理を指します。そして法華転とは、森羅万象のすべては仏がお造りになったものであり、仏の働きそのものだ、という意味です。法華経では諸法実相と言い、繰り返し説いています。法華経ではさらに多くのたとえ話を巧みに使って、人間には仏としての本性があると言っています。法華七喩(しちゆ)と言います。それについては次回お話します。

 1)諸法実相について
良寛さんは諸法実相について、法華転・第六十三の偈で、
風定(さだ)まって花尚(な)お落ち 
鳥啼(な)いて 山更(さら)に幽(しずか)なり
観音の妙智力(かんのんみょうちりき)千古空(むな)しく悠々
と読んでいます。「これらの自然の風物こそ仏のはからいそのものだ」と言うのです。さらに、唐の詩人で禅者である蘇東坡が悟りに至った時の感激を読んだ有名な詩、
渓声便(すなわち)広長舌、山色豈(あに)清浄身(しょうじょうしん)に非(あら)ずや(谷川の音は仏法を説く声であり、山の姿は仏の清浄身の現われである) 
も引用しています(法華讃・偈第十四)。
註1 ここでは、あの中村元博士が「法華経の成立はどんなに遡っても紀元40年を越えることはない」と言っていることだけを追加しておきます(宮本正尊 編『大乗仏教の成立史的研究』(昭和29年) 附録第一「大乗経典の成立年代」)。釈迦滅後4~500年後のことです。
註2 現代語訳は中村宗一「良寛の法華転・法華讃の偈」(誠心書房)を参考にしました。

道元・良寛さん・賢治と法華経(2)
  2)人間の本性が仏であること(法華経の比喩)
 法華経の教えはたとえ話をよく使って説かれているのが特徴です。すなわち、
①火宅の喩(たと)え(譬喩品)
②窮子(ぐうじ)の喩え(信解品)
③薬草の喩え(薬草喩品)
④他城(けじょう)の喩え(化城喩品)
⑤衣珠の喩え(授記品)
⑥髻珠(けいしゅ)の喩え(安楽行品)
⑦医子の喩え(寿量品)
の七つです。ちなみに〇〇品とは法華経の章のことです。
火宅の喩(たと)えとは、
 家に火がついて大変なのに、中で子供たちは遊びに夢中になっている。外から父が「こっちには羊の引く車があるから出てこい」と言っても子供らは聞かず、「鹿の引く車がある」と言っても聞かなかった。そこで最後に「(最高級)の白牛が引く車がある」と言ったら、それに惹かれて子供たちが出てきた、という話です。子供たちとは、二流(二乗)の教えや三流(三乗)の教えを信奉している修行僧たちのこと。そして白牛の車とは、最高(一乗)の教え、つまり法華経を指し、「早くこの尊い教えに乗り換えろ」と父は言うのです。

窮子(ぐうじ)の喩えとは、
 長者の息子でありながら家を飛び出し、数十年後乞食となって放浪するある日、豪奢な家の前に立った。父親はすぐに息子とわかったが、息子はすっかり忘れていた。そこで父親は息子を便所の掃除人として雇い、だんだんさまざまな仕事を与えた。ようやくその行いや精神が正しくなったと認めた時、初めて我が子であると明かし、長者の家を相続させたという譬え話です。つまり、「本来人間には仏としての本質があるのにそれを知らずにいる。早くそれに気付きなさい」という教えです。
衣珠の喩(たと)えとは、
 友人を訪ねて酒をふるまわれた貧困の男が酔いつぶれているうちに、友人は所用のために出かけることになり、男の着物の中に名宝を縫い付けておいた。男は後に友人からその話を聞き、貧困から脱することができた。

 他に、誰に対しても、どんなに悪罵されようとも、「あなたは仏になれる人です」と礼拝した常不軽(じょうふきょう)菩薩についても「道友である」と言っています(法華讃・偈頌第五十六)。宮沢賢治が「雨ニモ負ケズ」の詩で「みんなにデクノボウと呼ばれ(るような人になりたい」と言っている僧です。
 しかし、良寛さんは、
昔日の三車(羊車、鹿車、白牛車)名のみ空しくあり
今日の一乗実も亦(また)休す・・・
(今では三車の譬えなどの法華経の教えも単なる物語として受け取られて形骸化し、一乗の教えも口にされなくなってしまった・・・)
と嘆いています(法華讃・偈第二十四)。そして、
 「(今では)坊さんが金襴の袈裟を着けて法座に上り、形ばかりの法要、説法に終始している。「嘆ずべきかなこの末世の仏法」と悲しんでいます(法華転・偈第七十五)」
 良寛さんも道元と同じように法華経が最高の教えであると言っています(法華転・偈第一)。すなわち、
口を開くも法華を謗(そし)り
口を閉じるも法華を謗る
法華 法華 如何にか讃(たた)えん
焼香・合掌して曰(いわ)く
南無妙法華・・・
(法華経を説明することも、説明しないことも法華経を謗ることになる。ではどのように法華経を讃ずるべきか。ただ焼香・合掌して「南無妙法華」と言うだけだ・・・)
道元は「正法眼蔵・法華転巻」で、禅の六祖慧能の言葉、
「心迷えば法華に転ぜられ(真理を離れ)、心悟れば法華を転ずる(真理と一つになる)」を引用しています。

道元・良寛さん・賢治と法華経(3)
  竹村牧男さん「良寛さまと読む法華経」(1)  
 前回、「法華経の重要さは、諸法実相(自然のすべてはそのまま仏の声や姿の表れである)ことと、人にはすべて仏としての本性があることの二つの重要な思想を説いていることにある」とお話しました。今回は、竹村牧男さん(1948-)のお考えをご紹介します(「良寛さまと読む法華経」大東出版社)。まず、「諸法実相」に関して、
「薬草喩品」に対する良寛さんの讃:
 習風昨夜煙雨を吹き
 山河大地共に一新す
 東公意無く恩沢を布(し)き
 資(もたら)し始(はじ)む千草万樹の春
竹村さんの訳:春風は昨夜、けぶるような雨をそよがせ、今日は山河大地すべてが面目を一新した。春を司る君公ははからいなくすべてに恵みをもたらし、ありとあらゆる草木が春らしい粧(よそお)いとなった(仏の大悲は、差別なく一切のものに働き、各々が各々の生命を輝かしていく。p79)。
竹村さんの解釈:如来(釈尊:筆者)の説法は、皆、悉(ことごと)く、人々に一切智地、すなわち仏地に到達することを実現せしめるものだ、ということです・・・法華経には一切智についての説明はありませんが、一切智(一切法:筆者)とは、まず真如・法性(宇宙の最高の真理:筆者)に通達して一切の存在に行き渡る本質・本性を体証する智慧でしょう・・・(筆者の責任において少し言葉の前後を変えましたp71)。「一切智についての説明はない・・・」これこそ江戸時代の平田篤胤が「(法華経は)効能書きばかりで中身のない丸薬」と言う理由でしょう。
 そして竹村さんは、「薬草喩品」の一節、
如來は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂(いうところは)、解脱相・離相・滅相・究竟涅槃・常寂の滅相にして、終(つい)に空に歸す。
を引用して、「一切法は空(くう)である。その一味こそが、如来の説法の核心だと言うのです。もっとも、空は無ではありません。空ということの中に、仏智の世界もあります。生き生きとした生命のはたらきの世界があります。ここが誤解されると、ニヒリストに陥ったりしますから、この真理を説くは用心が必要です・・・」と言っています。
 この竹村さんの「空」の解釈は筆者とは異なります。何よりの証拠は「空」は「無」と対比すべき概念ではないからです。

道元・良寛さん・賢治と法華経(4)
 竹村牧男さん「良寛さまと読む法華経」(2) 
 つぎに「人にはすべて仏としての本性がある」について、
「方便品」に対する良寛さんの讃:
騰々任運只麼過 騰々任運只麼(しも)に過ぐ
困来眠 飢来餤 困じ来れば眠り 飢え来れば餤(くら)う
唯此一事也不要 唯だ此の一事も也(また)要せず
不知何処度二三 知らず何れの処にか二三を度せず
竹村さんの訳:ただぼんやりと時を過ごしている。眠くなったら眠り、お腹がすいたら食べる。ただそれのみ。方便を設けて、ああでもないこうでもないという必要もない。
竹村さんの解釈:自己が自己に対してはからう(あれこれ考える:筆者)以前にある真実、それに目覚めるのが仏知見だとしたら、(法華経が言っている)一仏乗(仏の最高の知恵・一切智・一切法の理解に至る道。法華経のことですね:筆者)などということをふりかざすでない。ああでもないこうでもないという必要もない。
筆者の感想:前回の「習風昨夜煙雨を吹き・・・」の詩や、今回のこの詩のように、良寛さんは法華経を最高の経典と崇めながら、それについてさえ批判的ですね。「時の流れのままに、困じ来れば眠り 飢え来れば餤(くら)うの生き方でいいじゃないか」と言うのです。しかし、それは、あらゆる厳しい修行と思考・勉学を修めた良寛さんだから言えることでしょう。良寛さんはさらに、法華経を学ぶ目標についても厳しい批判の目を向けています。すなわち、
「授記品」に対する良寛さんの讃:
「授記」とは、将来仏になれるという釈尊の印可。最高の弟子魔訶迦葉がそれを受けたのを知り、魔訶迦栴(正しくは木偏ではなく方偏:筆者)延らもそれを願ったという逸話が書かれています。
それについての良寛さんの讃:
眼華影裏逐眼華 眼華影裏(げんけようり)に眼華を逐(お)い
記去記来無了期 記し去り記し来たって了期なし・・・(以下略)
竹村さんの解釈:眼華とは、眼病によって目の前にちらつく華のようなもので、じつは幻のように実体のないもの・・・眼華を逐(お)うとは本来無いものを求めて追いかけるということで、眼華の虚像の中でさらに眼華を求めるとは、迷中又迷の状態を表しているでしょう。良寛さまは授記などまやかしにも等しいと言っているのです。なぜかというと、やはり即今、此処、自己の真実に目覚めるのが覚りであって、その自己を離れて、遠い将来になにか仏として実現するような自己を追いかけるべきではない・・・すでに仏である者が、さらに仏になることはありえないと言うのです。
筆者の感想:ただ、竹村さんの言う「即今、此処、自己の真実に目覚めるのが覚りだ」については、「なるほどそういうものか。でも具体的にはどういうことかよくわからない」のが読者の率直な感想でしょう。

道元・良寛さん・賢治と法華経(5)
 良寛さん批判?
 水上勉のような良寛さんを批判する人が「(若いのに働きもしないで)他人に食物を無心する手紙が49通ものこっている」と言っています。見当はずれの言葉でしょう。「あなただったら3通も続きますか?」と言いたいです。当時の皆さんは良寛さんだから喜んで「無心」に応じたのです。さらに「49通もの無心の手紙さえ残っていることを不思議に思いませんか」とも・・・・・・。そうなのです。人々は良寛さんの手紙が欲しくてしかたなかったのです。無心の手紙を出させ、もらった人は宝にしたのです。

 つい、花を採ってしまった良寛さんを「謝罪の文を書いてくれたら許します」と言った人がいます。良寛さんの書が欲しかった偽りの怒りですね。良寛さんは、絵とともに次の句をしたためて謝ったと言います。すなわち、
良寛が 花もて逃ぐる お姿は いつの世までも 残りけるかな      
良寛「花盗人」(この書も残っています:筆者)
 あるとき浜辺の漁師小屋が焼けたことがありました。ふるさと柏崎のことでしょう。失火の犯人と疑われた良寛さんが、漁師たちに殴られました。そこへ偶然通り合わせた親しい人が漁師たちに飲み代をやって良寛さんを解放させ、尋ねたそうです。「なぜ自分ではないと言わなかったんですか」と。良寛さんは静かに「相手は怒っているのでしかたがない」と。私たちはよく、いわれのない誤解を受けて腹が立つことがありますね。しかし、良寛さんならきっと「誤解してるんだから仕方がない」と受け流すでしょう。
 またあるとき、「お経も読まず説教もせず、子供と遊んでばかりいる」批判する人がありました。良寛さんは「ただ、私はこういう人間です」と心の中で答えたそうです(その漢詩も残っています)。人の心情など他人が評価判断できるものではありませんね。良寛さんは、反論など無意味だとわかっていたのです。良寛さんの心はそういう人たちとは比べものにならないほど高く、批判する人たちとはケンカにもならなかったのでしょう。
・・・・・・・
 良寛さんは晩年貞心尼という熱心な弟子ができました。現代でも「老いらくの恋」などという人が少なくありません。筆者は数年前、長岡の近くへ行ったとき、車の中から「与板」と言う道路標識を見付けてアッと止めました。そうです。良寛さんファンなら知らない人はいない土地なのです。はたして近くに良寛さんと貞心尼の歌碑がありました。
 「誘いて行かば行かめど人の、見て怪しめ見らばいかにしてまし(あなたを誘って行くのは行ってもよいのだが、他人の目から怪しまれないだろうか)」 良寛
 「鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ 烏はからすなにかあやしき(何おっしゃるのです。トビはトビ同士スズメはスズメ同士、サギはサギ同士。黒衣のわたしたちカラスはカラス同士仲良く行くのに何が変でしょうよ)」 貞心尼
ほのぼのとした良いやりとりですね。貞心尼は長岡藩士の娘、良寛さんとは40歳も違う人です。大変な美人だったと弟子の尼が書き残しています。向田邦子の良寛さん批判など「〇〇の勘ぐり」でしょう。
 今でも良寛さんファンはたくさんいます。筆者もその一人です。現在、良寛さん関連の本は300冊以上あると言います。「良寛さん研究会」も各地にあります。みんな良寛さんのこういった人となりを知って心からホッとするのです。どんな高僧の本や仏教書にも勝るのです。

読者からのご相談

 「相手から裏切られた。怒りが収まりません」という、読者からのご相談がありました。答えはただ一つ「早く怒りを止めて下さい」です。「相手の裏切り行為は相手のもので、あなたのものではありません。重要なことは、じつは相手にたいする怒りや恨みで苦しんでいるのはあなたの方なのです」。それに早く気づくといいのですが。

 どんな宗教でも「こだわりを捨てよ」とあります。しかし、それが簡単でないことは、誰でも身に沁みて知っていることですね。あの、元薬師寺館長高田好胤師の「広く、広く、もっと広く」はとても良い言葉だと思いますが・・・。

 筆者の古い友人たちのことです。二人は60年以上にわたる、ほとんど仇敵同士です。どういうわけか双方、相手のごく個人的な秘密、それも社会的には公言できないようなことまでも知っており、筆者に話してくれます。筆者が共通の友人であることも気が付かないのです。相手を非難する人は、必ず相手もそれをわかり、非難を返してくるのです。おそらく片方が死ぬまで、いや死んでも関係が回復することはないでしょう。恨みを持って恨みに返せば恨みは消えることがないのです。一体どうするつもりでしょう。

 筆者は定年後、中学時代の友人たちと付き合うことが多くなりました。クラス会や学年会と言うと、いまではすべて中学時代の關係です。彼らから学ぶことが非常に多いのです。まず、彼らは民生委員や保護司など、誰かがやらなくてはならないことを何年も、もちろん無償でやっていました。彼らの話を聞いてみますと、たとえ善意の行為でも、腹立たしいことが返ってくることも少なくないようです。忍耐がなければできない仕事なのです。たとえば保護司の友人は「激しく反発されることもある。相手に来てもらったり、こちらが行ったりすることになっているけど、相手が来ないことがよくある」と言っていました。別の一人は「世の中いろいろな人がいるのだ」と言っていました。それが不愉快なことをクリアする彼のノウハウなのです。よい言葉ですね。だと思います。大乗経典の大きな趣旨は、「自未得度 先度他(たとえ自分が悟りに至ってなくても)人のために尽くす」です。

 友人の中には、大会社の幹部のような「偉い人」もいます。中には過去の立場を未だに引きずっている人が少なくないのです。上記の「仇敵同士の二人」も、現役時代は「偉い人」でした。一方、地道に社会貢献している人たちは、あるいは不動産屋の親父だったり、一会社員であったり、一農民であった人たちです。主婦として過して来た人もいます。彼らはいつも明るく、親切で、付き合うのがまことに楽しいのです。
 そういう友人の一人から最近聞いた話です。末期ガンで入院していた友が「君だけには聞いてほしい」と、病院から連絡があった。駆け付けると、話し始めたところたびたび眠ってしまうので、「明日も来るから」と言って帰ったとか。翌日行ってみると「今朝亡くなった」と。眠ってしまったのではなく、重症で気を失ったのですね。彼は遺言をしたかったのでしょう。近所の同級生と金銭上のトラブルがあったようなのですが。「それを聞けなかったのが心残りだ」と、昨日も残念がっていました。「最後の心残り」を話たかった唯一の人間だったのですね。
 
天は公平です。中学時代の人達とは、最近なにかと理由を付けて集まります。しかし、その「近所の同級生」や、「偉かった」人には、「集まろう」と回りから声を掛けてもらえることはないのです。

読者のご質問(15)

禅と浄土思想は矛盾するか

 次のようなご質問がありました。他の読者にも参考になると思いますので、あらためてここで私見を述べさせていただきます。
宮本様のご質問:
 幼少の頃より信仰してきたキリスト教者の話を並列して法然さんの真髄を語られましたが、禅徒として如何に考えるか困っております。
絶対神を信じない人達は無神論者と一口に片附けられます。浄土地獄を信じない私は本質無宗教者なのかも知れません、が、禅の考え方に沿うとしております。
その禅に於いても葬儀では南無阿弥陀仏を唱えます。私も名号は所有しております。
仰る法然さんであれば現在の浄土教団と浄土僧侶は不必要と考えますが、禅の自己追及において念仏をどのような位置づけに考えたら良いでしょうか。法然さんの心に従えば禅は逆説的に時間の無駄となります。
知る浄土宗住職さんは「座禅組みながら念仏を唱えるのが良い」と苦し紛れの言葉を発しております。(笑)
よろしくお願いします。

筆者の感想です:宮本様の御質問はいくつかの部分に分かれていますので、分別してお答えいたします。まず、
1)地獄極楽思想は日本仏教の妄想で、釈迦の思想にはありません(すでにブログでお話しました)。それゆえ地獄極楽を信じない宮本さんは無神論者ではありません。
2)「心の平安」のためでしたら現在の浄土教団と浄土僧侶は不要です。親鸞も「歎異抄」の中で、「父母のために念仏したことはない」と言っています。ただ、寺にはもう一つの意義があります。それは門徒の墓の管理者としての役割です。江戸時代以降400年の歴史があり、先祖も「南無阿弥陀仏で供養してくれ」と願っています。筆者自身は禅を実践していますが、実家の宗旨は浄土真宗です。それは変えることはできません。先祖が承知しないでしょう。法事の時は南無阿弥陀仏と唱えます。少しも問題はないと考えます。
3)禅の大家道元も究極的には仏を信じています(ブログでお話しました)。浄土思想と同じなのです。少しも矛盾しません。
4)エベレストに登るにはいろいろなルートがあります。禅も浄土思想もルートが違うだけで目標は同じ「心の平安を得ること」です。「坐禅をしながら念仏を唱える」には笑えます。その僧侶はルートが違うのに同じだと思っているのです。それでは遭難してしまいますね。
5)キリスト教も浄土系宗派も神(仏)にたいする絶対的な信頼があります。ただ、「絶対的」であり続けることは、よほどの信念がないと無理でしょう。「心の底から信じられるかどうか」ここがポイントなのです。あの東日本大震災で、津波で流されている人たちを目の当たりにして「神も仏もあるものか」と言った僧侶がいました。もちろん失格ですね。

浄土の教えの誤解「正法眼蔵・生死」

その1)
先日、筆者の友人がすごい剣幕で(古い友人ですから)筆者を批判しました。筆者のブログ「『浄土の教えを誤解しています』を読んで」と言うのです。筆者は、「ある有名な浄土の教えを信奉する人が『無量寿経は宝の山である』と言っているのを聞いて、唖然とした」と書きました。上記の筆者の友人はそこを批判しているのです。彼も定年後熱心に日本仏教について勉強を始め、すでにたくさんの関連書を読んでいました。宗教には無関心の別の友人もいる席でしたので、何も反論せず、ただ「どうして法然や親鸞の真意がわからないのだろう」と思っていました。

以前のブログで、「浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)の中身は何もない」とお話しました。浄土の教えを説いた法然は、論理の基盤を善導の「観経疏」に置きました。「観経疏」は言わば「こじつけ」の書です(詳しくは以前の関連ブログをお読みください)。法然がそれを論拠としたのには理由があるのです。法然は「ただ仏を信じ、南無阿弥陀仏と唱えなさい」と言いたかっただけなのです。それでもとにかく「思想」ですから、一応論理体系としての体裁を取らなければならなかったのです。それゆえ「観経疏」を体裁上の論拠としたのでしょう。読者はこの論法を知って「おかしい」と思わねばならないのです。さすがに親鸞は法然の考えを正しく理解し、「たとえ私が法然の考えを信じたばかりに地獄へ落ちようと悔いはない」と言ったのです。有名な「地獄は一条住みかぞかし(歎異抄)」ですね。

親鸞の「教行信証」についても、同じです。なに一つ重要なことは書いてありません。浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如(1415‐1499親鸞より200年後の人です)は「教行信証」の一部を抜粋して「正信偈」を作りました。筆者の実家の宗旨は浄土真宗で、法事と言うとそれを読誦します。小学生の時お寺に集まってその練習をしました。今でもその一節・・・印度西天四輪家 中夏日域之高僧・・・などが自然に口を突くことがよくあります。じつに口調がよく、リズム感もすばらしいのです。まったく蓮如は大したプロデューサーだと思います。ちなみに彼は5人の夫人に27人の子を生ませ、それぞれを有名寺院の後継者に送り込んで一大宗派を作り上げた、呆れるばかりの人です。

「歎異抄」についても同様で、以前にも書きましたように、あれは「(親鸞の住む京の都を遠く離れた関東の弟子たちが)師の教えに勝手な解釈(異)をしている」と歎く弟子唯円の書なのです。たいしたことは書いてないのです。本願寺の書庫でそれを見付けた蓮如は驚いて「禁書」としました。なにしろそこには「親鸞の弟子など一人もいない」と書いてあるのですから、一大浄土真宗王国を築いた蓮如があわてたのは当然でしょう。

仏教は厳しい自力本願を修行の根本とします。釈迦自身の教えは、現実生活に即した穏やかなものです。しかし、釈迦滅後、すでに初期仏教の時代から修行はどんどん厳しくなって行きました。後代の真言密教や禅など「修行第一」ですね。そこへ法然が出て「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」との「他力本願」を説いたのです。釈迦以降の仏教史を様々に読み進んで行きますと、法然の思想がいかに革新的かがわかります。

法然の教えはただ一つ、「仏(神)に対する絶対的な信頼」です。 キリスト教と同じですね。すばらしい思想なのです。「歎異抄」を高く評価する人には、西田幾多郎、三木清、倉田百三とロマン・ロランなどたくさんいます。これら「浄土の教え」や「歎異抄」を信奉する人達が早くこのことに気付き、法然や親鸞の思想の原点に戻って欲しいのです。

その2)禅思想の究極には絶対神がある(道元「正法眼蔵・生死)

前回、秋田県の玉川温泉に集まる末期ガンを宣告された人たちの声をご紹介しました。自分の力ではどうしようもないこともあります。事件や事故で大切な肉親を失った人も同様でしょう。悲しくて辛いのは想像に余りあります。しかし、苦しさや辛さをいつまでも引きずるのは、体にも障るはず。よく使われる「それでは亡くなった人が浮ばれないから」という言葉は、長い間に培われた人間の知恵でしょう。

道元は人間の生死について、すばらしい言葉を残しています。「正法眼蔵 生死(しょうじ)巻」別巻5で、
・・・(生死は)厭うことなかれ、願うことなかれ。この生死は、すなはち仏の御いのち(命)なり、これを厭い捨てんとすれば、すなはち 仏の御いのち(命)を失なわんとするなり。これに留(と)どまりて、生死に執著すれば、これも仏の命を失うなり。仏のありさまを留どむるなり。厭うことなく、慕うことなき、このときはじめて、仏の心にいる。ただし心をもて測ることなかれ、言葉をもて言うことなかれ。ただわが身をも心をも、放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに従いもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死 を離れ仏となる。誰の人か、心に滞るべき・・・

筆者は最初、この道元の教えを読んで驚きました。道元は禅の悟りに至っていたはずですから、当然、自力で生死の問題も達観していたと思っていたのです。ところが、実際には道元は他力の人だったのです。しかし、ほとんどの人は他力の意味を誤解していると思います。他力とは、「神さま(仏さま)助けて下さい」とは違うのです。もちろん、重い病気の場合、悔いのない治療は受けなければなりません。しかし、それは過剰診療ではありません。筆者の知人に、末期ガンの御主人を治すため、財産のすべてを使ってしまった人がいます。それでも亡くなりました。

「最後は、神さま(仏さま)にお任せしよう」と道元は言っているのです。筆者の友人が言っていました「末期ガンの知人のお見舞いに行ったところ、まったくいつもと変わらない態度で本を読んでいた」と。その人は敬虔なクリスチャンだったそうです。「長崎の鐘」の著者永井隆博士は、長崎医大の放射線科の医師でした。当時のX線装置は不完全で、治療中に放射線が漏れ、医師や技師たちは深刻な放射線障害を受けるのがめずらしくなかったようです。永井博士は原爆に曝される前すでに、職業病としてX線障害を受けていたとか。夫人にそれを告白すると、夫人は「すべて神さまの思し召しどおりに」と答えたそうです。「神を心から信じる」とはそういうことなのだと思います。

筆者が「無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経などは単なるお話で、法然や親鸞の教えの真意は別にある」と言っていますのはそういう意味なのです。

浄土の教えの誤解(2その3)

最近、「アメージンググレース(驚くべき神の恵み)」の演奏を聞き、あらためて感動しました。作詞はイギリスのジョン・ニュートン(1725‐1804)。彼はクリスチャンの家庭で育ちましたが、後に黒人奴隷貿易に携わり、多くの富を蓄えました。しかしあるとき、別の航海で船が嵐に遭い、転覆の危険に陥ったのです。彼は必死に神に祈り、救われたました。ニュートンはこれを転機とし、その後船を降り、勉学して牧師となったのです。そして多額の献金を重ね、自分が得た富を社会に還元しました。彼が作ったこの詩には、犯した罪に対する悔恨と、にも拘らず赦し賜うた神の愛に対する深い感謝が歌われています。アメリカ人に最も愛されている讃美歌です(筆者訳)。

驚くべき(神の)恵み(なんと甘美な響きよ)、
私のようなどうしようもない者も救って下さった。
かっては道に迷っていたが、今は神に見い出され、
今まで神の恵みが見えなかったが、今は見える。
神の恵みが私に恐れることを教え、
その恵みが恐れから私を解放した
どれほどすばらしい恵みが現れただろうか、
私が最初に信じてから
多くの危険、苦しみと誘惑があったが、
私はいま辿り着いた。
神の恵みが、ここまで私を無事に導いて下さった。
さらに私を神の元に導てくれるだろう。
神は私に約束して下さった。
神の御言葉は私の希望である。
彼は私の御盾となり、分身となって下さる。
私の命が続く限り。
そうです。この心と肉体が滅び、
私の命が終わっても、
神の御許で得るものがある。
それは、喜びと平和の命です・・・・・・

これが本当の信仰だと思います。

法然の思想の真髄がわかったのは、親鸞と唯円などわずかな弟子だけだったでしょう。もちろん今日でも同じです。以前京都の本願寺へ行ったとき、壮麗な堂宇群に驚きました。法然や親鸞の死後500年、子孫たちは江戸幕府の権力機構の一端を担い、絶対的な力と富を作り上げたのです。いま日本の浄土系宗派(他の宗派ももちろんですが)が滅びつつあるのは明らかです。法然の真意もわからず、きらびやかな僧衣をまとい、儀式も説法も形式に流れ続けてきた当然の結果でしょう。そんなものは何もいらないのです。ただ心から「南無阿弥陀仏」と唱え、仏の愛を信じればいいのです。