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人工知能(AI)は宗教に取って代われるか(1,2)

人工知能(AI)は宗教に取って代われるか(1)

 人工知能(AI)の発達は驚異的で、今では逆に「人間とは何か」を再規定しなければならない状況になっています。先日もNHKテレビでこの問題について、AIの専門家である東京大学の特任准教授松尾豊さん、芥川賞作家の本谷有希子さん、囲碁七冠の井山裕太さん、お笑い芸人の徳井義美さんが話し合っていました。
 最近、世界最強の棋士イ・セドル(井山さん自身も)や将棋名人の佐藤天彦さんが、AIのそれぞれアルファ碁やポナンザに完敗したことが衝撃的でしたね。デイープ・ラーニングという、自ら学習するソフトが開発されたことが大きかったと言います。
 まず、松尾さんが「AIが発達すると人類を滅ぼすかもしれないと心配する人がいるが、そうしないようなプログラミングをすればよい」と言っていました。筆者など「コンセントを抜けばいい」と思っていますから、少しも心配はしていません。
 以前の番組で筆者の印象に残ったのは、中国であるソフト会社の有料の会員になると、仮想のキャラクター(若い男性に対しては若い女性)が割り振られ、さまざまな個人情報をインプットしてゆくと、やがてその男性のこよなき相談相手になるというものです。その仮想現実があたかも実在の人のように思われるようになり、やがて「結婚したい」とも錯覚するというのです。
 筆者がその様子を見て思いましたのは、「将来AIは、宗教に代わって人間を救う手段になるかどうか」です。本人の置かれている状況や、これまでの人生のさまざまな出来事などを、時には人に言えないような本音などまでもインプットしてゆけば、暮夜一人涙する時、心を慰めてくれるのでないかと思ったのです。
 今度の「人間とは何か」の番組は、その恐れ(期待?)を解消してくれました。すなわち、番組でAI同士(人間の姿が画面に映し出される)が勝手に会話をするところが紹介されました。驚くほどスムーズなやりとりでした。しかし、松尾さんは「はたしてこれが会話と言えるかどうか」と言っていたのが印象的でした。たしかに、いくら内容が複雑になっても、「おはよう」と言われたAIが「おはよう」と返すのと、本質的には変わりませんね。つまり、人間同士の会話でも何でもなく、たんなるパソコン上のやり取りに過ぎないのです。
 さらに番組では、赤ちゃんが母親を認識するメカニズムを例に挙げ、その複雑さはとうていAIが追いつけるものではないと言っていました。母親の手の温かさ、温かい息遣い、声の調子・・・など、きわめて多様で複雑な情報から赤ちゃんは「お母さんだ」と認識しているからです。宗教でもまったく同じはずです。昔から宗教を伝えるのは和顔愛語が大切だと言われてきました。よく相手の話を聞き、ときには共感して一緒に涙を流し、相手も気付いていない心の奥底を浮かび上がらせてあげる。そんな血の通った人間同士のやり取りがAIにできるはずがありません。

人工知能(AI)は宗教に取って代われるか(2)

 では芸術的創造性についてはどうでしょう。番組ではレンブラントの1200点にも及ぶ絵画作品の筆致、色調から絵具の厚みまで、2年をかけてAIに学習させ、その結果レンブラントの「新作」を完成させました。しかし筆者が見たところ、その「人物」の眼は死んでいたのです。一方、小説(短編)まで「創作」し、文学賞の予選を通ったと言うのです。しかし、そんなことは文字通り「バーチャル」の世界のことで、人間の創造性とは「似て非なるもの」でしょう。松尾さんが「AIの研究者達が、人間に近づけようとすればするほど人間が遠ざかっていくと口を揃えています」と言っていました。当然だと思います。

 「山椒大夫」「高瀬舟」などの名作で有名な森鴎外が医者であり、陸軍軍医総監だったことはよく知られています。森鴎外の漢文の素養は、夏目漱石が足元にも及べないものだったと言います。また、柿本人麻呂以来の歌人と言われた斎藤茂吉も精神科医であり、長崎医大の教授でもありました。「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」「セロ弾きのゴーシュ」などの作者宮沢賢治は、「100年後にでも読み継がれる数少ない小説の作者」と言われています。賢治は土壌改良の専門家であり、花巻のレコード店が驚くほどたくさんのレコードを東京から取り寄せ、「羅須地人会」でレコード鑑賞会を開き、自らもチェロの演奏をするほどの文化人でした。とうぜん彼らの人間生命に対する深い洞察が、文学の基盤にもなっていたことはまちがいないでしょう。彼らは長い間にわたって蓄えられたさまざまな知識と、それらを抽象化して得た概念群、そしてそれらに裏付けられたすぐれた感性を持っているのです。人間の感性にAIなんかが追いつけるはずがないのです。

 囲碁7冠の井山さんも言っていたように、碁や将棋の棋士たちは過去の棋譜からだけ学んでいるのです。そんなものをAIが学べるのはむしろ当然でしょう。人間は疲れますし年齢による学習能力の低下もあります。一方、AIはほとんど無限に学習できるのです。中学生の棋士藤井君が世間を賑わわせていますね(彼は筆者の出身大学の付属中学生です)。彼は高校進学をやめて将棋に専念すると決心したようですが、筆者は義務教育さえ疎かにしている藤井君には高校へ行って欲しくありません。第一、たとえ天才棋士と騒がれようとも、しょせんAIには勝てません。すでに囲碁や将棋界ではAIとの対戦は止めたと決めたようです。それも当然です。すでに結果は明らかだからです。
 つまり、囲碁や将棋をする能力は人間のごく限られた能力に過ぎないのです。一方、芸術や文学、そして宗教は無限の広がりを持っているのです。AIが追従できるはずがありません。

 その番組の結論としては、「人間とは何かがますますわからなくなってきた」で一致しました。つまり、「AIなどが追いつけるとはとても思えない」と言うのです。

般若心経解釈:佐々木閑さん、玄侑宗久さん

般若心経解釈 佐々木閑さん(1)

 佐々木閑さんは臨済宗系の花園大学教授。先頃のNHK「100分で名著」で4回にわたって般若心経の解説をしていらっしゃいました。40年にわたり般若心経の研究をしてきた人です。まず、般若心経の中心思想である「空(くう)」について、色(肉体:註1)、受(外界からの刺激を感じ取る感受の働き)、想(いろいろな考えをあれやこれやと組み上げたり、壊したりする構想の働き)、行(なにかを行おうと考える意思の働き)、識(あらゆる心的作用のベースとなる、認識の働き)などの五蘊はすべて「空」‐実体のないものとしました。五蘊はたまたま寄り集まったモノに過ぎずないこと、すべてのモノは変化し、相互の関係で成り立っているからだと言います。

註1 佐々木さんは「色」を「本当は木や石なども含めて外界にある物質全般を指しますが、ここではとりあえず人間の肉体のことと考えたほうがわかりやすいでしょう」と言っています。つまり、すべてのモノは実体を持たない架空の存在であると言うのです。

筆者のコメント:すべてのモノは常に変化し、それらは相互の関係において成り立つとの佐々木さんの解釈は、それぞれ、無常縁起という、釈迦がお説きになった基本的な思想と言われるものに則ったもので、これまでの仏教学者の手法を一歩も出てはいません。佐々木さんは五蘊の解釈自体を間違えていると思います。それは、著名な中村元博士や鈴木大拙博士も同様で、
・・・存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いた・・・(中村博士の解釈。下線筆者)
と解釈しています。筆者は以前のブログで、「存在するモノには五つの構成要素があるという意味ではなく、人間の認識作用のことを言っているのです。それをモノの有る無しにまで拡大してしまったことが、そもそもの誤りなのです」とお話しました。すなわち筆者の解釈では、

 色蘊 –  人間の肉体、つまり認識作用
 受蘊  -  見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚感覚などの知覚
 想蘊  - 「あっ!きれい」と判断する価値基準
 行蘊  - 「バラを取りたい」という気持ち
 識蘊  – 「バラだ」と認識する知識

 つまり、受蘊で感覚したものをを識蘊が「バラだ」と識別し、想蘊が「きれいだ」と判断して行蘊が「あれを取りたい」と思う。つまり五蘊とは、人間の認識作用(見て聞いて・・・判断し、行動する)を意味しているのです。これで筆者の言っている「空とはモノゴトの観かたである」と通じることがおわかりでしょう。モノの有る無しのことを言っているのではないのです。第一、色即是空・・・に続く受想行識亦復如是の部分をどう考えるのでしょう。「モノにも知覚や認識や感性がある」ことになってしまうのです。だれでも「おかしい」と思うでしょう。中村元博士、鈴木大拙博士などの錚々たる仏教学者、そして佐々木さんも基本的なところの解釈をまちがえていると思うのです。

死後の世界はあります(4)東日本大震災後の霊的現象(2)

死後の世界はあります(4)東日本大震災後の霊的現象(2)

 「神の存在も霊的世界も今一つ信じられない」と言う人がたくさんいます。というより、神が実在されることを信じるか信じないかの分かれ目が、まず霊的世界の存在を認めるかどうかだと、筆者の経験から想像できます。前回、東日本大震災のあとで体験された霊的現象についてお話しました。今回お話しする二つのケースは、東北学院大学生の工藤優花さんが卒業論文として、タクシー運転手たちに聞き書きしたものです(「呼び覚まされる霊性の震災学」新曜社 註1)。

 ケース1)東日本大震災から3カ月ほどたった、ある深夜の出来事だった。タクシー運転手の男性がJR石巻駅の近くで客を待っていると、もう初夏だというのに、真冬のようなふかふかのコートを着た30代くらいの女性が乗車した。目的地を聞くと「南浜まで」と一言。震災の津波で、壊滅的な被害を受けた地区だった。運転手は不審に思って「あそこはもうほとんど更地ですけど構いませんか?」と聞いた。すると女性は震える声で答えた。「私は死んだのですか?」。運転手が慌てて後部座席を確認すると、そこには誰も座っていなかった。
筆者のコメント:戦争や事故などで突然死んだ人は、自分が死んだという自覚がないことを、筆者が神道系の教団で霊感修行をしていた時、時々聞きました。

 ケース2)「巡回してたら、真冬の格好の女の子を見つけてね」。13年の8月くらいの深夜、タクシー回送中に手を挙げている人を発見し、タクシーを歩道につけると、小さな小学生くらいの女の子が季節外れのコート、帽子、マフラー、ブーツなどを着て立っていた。時間も深夜だったので、とても不審に思い、「お嬢さん、お母さんとお父さんは?」と尋ねると「ひとりぼっちなの」と女の子は返答をしてきたとのこと。迷子なのだと思い、家まで送ってあげようと家の場所を尋ねると、答えてきたのでその付近まで乗せていくと、「おじちゃんありがとう」と言ってタクシーを降りたと持ったら、その瞬間に姿を消した。確かに会話をし、女の子が降りるときも手を取ってあげて触れたのに、突如消えるようにスーっと姿を消した。

 東日本大震災に関わるこの種の話には「夢に現れた」というケースが多く(註1)、実証するすべがないのですが、工藤さんが調べた体験談は別です。なにより運転手さんたちはちゃんと仕事をしている時でしたし、なにより乗車記録として残っているのです。もちろん料金は支払われませんでしたが。
 前にもお話しましたように、筆者は一時期、何度も霊に憑依された経験があります。何よりの証拠は、あの時の独特の不快感です。有名な霊的カウンセラーの江原啓之さんは「霊媒体質についてどう思いますか」との問いに、「そんなものない方がいいに決まっています」と答えていました。筆者も同感です。筆者は憑りつかれた霊の除霊法も習いました。あるときなど、大学での試験監督中に憑依され、あからさまに除霊操作をすることも出来ず、閉口したことがあります。とにかくそいう体質になると、憑霊は次からつぎなのです。幸い今はそういうことはありません。
註1 関連書には「魂でもいいからそばにいて」奥野修司(新潮社)もありますが、夢の話が多いのは残念です。

唯識思想(2の1-4)横山紘一さんの考え

唯識思想(2‐1)

 NHK教育テレビで「唯識に生きる」についての6回シリーズが放映されています。横山紘一さん(立教大学名誉教授)のお話です。横山さんは50年来の唯識の研究者で、講演とともに熱心に講習会で「行」の実践を指導されています。

 唯識思想はAD4‐5Cインドの唯識瑜伽(ゆが、ヨーガ)行派の無着、世親によって確立されました。仏教の根本経典と言う人もいます。インドから中国へは玄奘三蔵によってもたらされました。わが国では興福寺が中心的存在で、空海、法然、親鸞、道元らによって尊重されたと言われています(註1)。筆者は以下の理由によって、これらの考えには賛成できません。

横山さんの解説:
 唯識思想のねらい:自己の心の奥底にあるメカニズムの探索、分析。
  基本的な考え:一人一宇宙(註2)
  瑜伽(ヨーガ)行の結果、人の意識には次の八つがあることがわかった。
  表層心: 眼識、耳識、舌識、鼻識、身識、意識
  深層心: 末那識(自我執着心)
       阿頼耶識(あらやしき、
          一切種子《しゅうじ》識とも)

 このシリーズの横山さんの「ねらい」は、「人間が煩悩(苦しみや悲しみ)から開放されるにはどうすればいいか」と説くことにあると思われます。それはもちろん仏教の重要な目的です。しかし、それは唯識説の主要な側面ではありますが、すべてではありません。なぜなら、仏教は「心とは」を究明する哲学でもあるからです。それについては最後にお話します。読者の皆さんはこのこのとをよくご記憶ください。

 唯識についての横山さんの基本的解釈は、「モノ(や人)やコトなどない。すべて心の所産である。モノは言葉としてあらわされたものである」でしょう。

筆者のコメント: まず、アンダーラインの部分は明らかに「空思想」を援用したものです(註3)。唯識思想独特のものではありません。そして、横山さんは「モノ(や人)やコトなどない」ことを、縁起の概念を拠りどころとして解釈しています。すなわち、「あらゆるモノはそれ自体では存在しない、すべて縁起、すなわち他との関わり合いで存在しているからだ」と言うのです。

註1 唯識思想は空海、法然、親鸞、道元らによって読まれたのは教養の一環としてであって、本ブログシリーズでお話するように、根本経典として尊重されたからとは思えません。
註2 人の心が皆違うため、見える世界もさまざまなのは当然でしょう。
註3 禅の「空思想」は龍樹の「空思想」とは別のものであることは、すでにこのブログシリーズでお話しました。

 横山さんは「モノ(や人)やコトなどない。すべて心、つまり言葉の所産である」について、次のような例を挙げています。
 例1)私たちがある人を「嫌いな人」だと思うとき、たんなる影像に「思いと言葉」が付けられて、心の外に嫌いな人がいると思い込んでしまう。すると深層心の中に種子(しゅうじ)ができ、その思いが積み重ねられると種子が成長し、ついには表層へ出る。つまり「嫌な人がいる」と思う。これがグルグル繰り返されるとますます「思い」が大きくなる。

 つぎにスタジオにあるリンゴをアナウンサーに持たせ、
 例2)リンゴがあると思えばある。思わなければ無い。心の中にある映像に言葉が付くと、モノが自分の外にあるかのように思ってしまう。

 そう言われてアナウンサーは当惑し、「でもここにリンゴはあります・・・」と言いたげでした。もっともな気持ちでしょう。それに対し横山さんは、こともなげに「モノに執着するからいけないのです」と切り抜けました。読者の皆さんはこのやり取りを聞いてどう思いますか?それは明らかに論理のすり替えです。アナウンサーが当惑した気持ちはよくわかります。「モノがあるかどうか」と「モノに執着するかどうか」とは別問題ですね。
 さらに、このブログシリーズでなんども指摘しましたように、本来「縁起の思想」は横山さんの解釈とは異なるからです。このような誤った解釈が、わが国の仏教解説者には非常に多いのです。しかし、後でお話するように、こういう解釈は本来釈迦が説いた縁起の概念を拡大・誤解したものだと思います(仏教は思想の拡大、増広と言います)の歴史なのです)。そして横山さんがこれらの思想を唯識の理論的根拠としたところに基本的な問題があると思います。

 横山さんは「まちがった表層のモノの見方が、深層心の阿頼耶識に種子として植え付けられ、その思いが積み重ねられると種子が成長して行き、ついは表層意識として現れる。これが人間の苦しみだ。そのサイクルを断ち切ることが大切だ」と言います。これが阿頼耶識の浄化法の一つだと言うのです。そしてさらに、正しい教えを聞いたり学んだりする(正聞燻習しょうもんくんじゅう)と、深層心の阿頼耶識に潜在する「清浄な種子」が成長し、芽吹く。また、笑顔を絶やさない、お経を音吐朗々と読む。整理・清掃、坐禅瞑想)自他を分別しない心でしないで、今ここになりきって生きる。などを挙げています。

 横山さんの唯識解釈の問題点 1)
 上記のように、横山さんは唯識思想をネガテイブな面からのみ見ています。すなわち、
例1)で挙げたように、
 ・・・私たちが「嫌いな人」だと思うとき、たんなる影像に思いと言葉が付けられて、心の外に嫌いな人がいると思い込んでしまう・・・早くこの連鎖を断ち切ればいい・・・
としています。
 では、ポジテイブなケースではどうでしょう。たとえば、私たちは自分の父母や子供などを「愛おしい、愛おしい」と思い続けていますね。するととうぜん、深層心の中に種子(しゅうじ)ができるはずです。そしてそれがくりかえされています。
 もし、大震災などで「愛おしい」家族を亡くした人に向かって、「あなたのお母やさんや子供などは最初からいなかったのです。たんに心の中の映像に過ぎないのですから悲しむことなどありません」と言ったら納得する人がいるでしょうか。人によっては怒り狂うのではないでしょうか。

 いかがでしょうか、上で述べたネガテイブなケースと同じメカニズムですね。つまり、横山さんの唯識思想の解釈は間違いなのです。

唯識思想(2-2)

 NHK教育テレビ「唯識に生きる」第5回は、「唯識思想の科学性」と題するもので、東京大学カブリ数物宇宙研究所教授大栗博司さんと横山さんとの対話でした。唯識思想の科学性と言われて、筆者も耳をそばだてました。この研究所は数学や物理の一流の学者が集まって宇宙の成り立ちについて討論をするための施設です。言わば、宗教研究とはとは対極にある人たちです。同研究所の談話室の柱には「宇宙は数学の言葉で書かれている」とのガリレオ・ガリレイの言葉が刻まれていることから、この研究所の目的がよくわかりますね。

お二人の討論の内容は以下のようでした。

 まず、横山さんは唯識思想を一口で言えば、「(宇宙などの)モノなどない。それはすべて心のはたらきである。一切は言葉が作り上げたに過ぎない。存在するものは心しかない。深層心の中にある阿頼耶識を浄化してゆけば苦しみや対立はなくなる」と持論を展開しました(重要な論点には下記のように仮の番号を付けました:筆者)。つまり横山さんは「宇宙は心の中の映像であり、それを言葉で表現した実体のないものだと言っているのですね:筆者)」
 大栗さん「そんなことあるのかな?が正直な感想です(註3)。科学では、まず世界というモノがあると仮定して、その仕組みを理解して行きます」

筆者のコメント:筆者も自然科学の研究者ですから大栗さんのおっしゃることはよくわかります。
 
1)人間の生きる意味とは
横山さん「人間の生きる意味とは何だと思いますか」
大栗さん「ワインバーグの『宇宙は調べれば調べるほど意味はない』を引用して、宇宙も人間も偶然の所産であり、生きる意味など与えられてい無いと思います」(あきらかに横山さん「(宇宙も)人間も神によって造られたものであり、人間には生きる意味が与えられている」と言外に言っていることを意識しての答えでしょう:筆者)。生きる意味は生まれてから成長する過程で人間が考えていくことだと思います。

2)唯識で宇宙の真の姿はわかるか
大栗さん「唯識思想では宇宙の真実の姿は理解できますか」
横山さん「ヨーガや瞑想によって、対象そのものに成りきると一切は夢であるとわかります。夢から覚めた人がブッダです」
大栗さん「対象に成り切るということがどういう形で真実に迫れるのかは私にはわかりません。さらに、成り切きって得られたコトが真実であるいかにして確信できるのですか」
横山さん「私が昔ブッダが悟りを開いたブッダガヤを訪れた時、菩提樹の下で涙を流して額を柵に付けて感動しました」。
大栗さん「科学者はそういうことに懐疑的です」

 筆者のコメント:大栗さんの言うとおりでしょう。横山さんが「対象そのものに成りきると一切は夢であることがわかる。夢から覚めた人がブッダである」の文言で言いたいのは「人々が現実と思っているのはすべて心が作り出した幻影である」との意味でしょう。「真実であることの証拠は、菩提樹の下で感動して涙を流したこと」では、およそ答えになっていませんね。まともな科学的論議とは言えません。
 
横山さん「ブッダの思想をどれだけ多くの人を引き付けて来たか、どれだけ多くの人が救われたかが、正しいことの証拠です」

筆者のコメント:オーム真理教も初めは多くの人を引き付けたと思います。これについては後述します。

3)自分とは何か
横山さん「自分とは何だと思いますか」
大栗さん「科学では『自分とは何か』には答えられない。自分というものがあるのではなく、脳細胞同士の関係として自分というものが現れて来るのでは」
横山さん「(自分の手を示しながら)手があると思えばあるのであって、無いと思えばないのです」
大栗さん「(唯識思想では)もともと「手」というモノさえ無かったはずではないですか」
横山さん「・・・・・・」

筆者のコメント:つまり、横山さんはそれには答えず、次の話題に移りました。

4)幸せとは何か
横山さん「人間にとって幸せとはどういうものですか」
大栗さん「自分に与えられた能力を最大限に発揮できることです。そして家族との円満な関係を感じた時です。それは普遍的なものではありません」
横山さん「その考えには反対です。普遍的な幸せはあります。それは、他人のために役立つことをすることです。そうすると人々の顔が輝きます」

いかがでしょうか。筆者の感想では、大栗さんと横山さんとの議論は成り立っていず、横山さんの回答はまったく答えになっていないと思います。つまりこの番組の内容はタイトルとズレていると思います。

 もし筆者が横山さんの代わりに大栗さんと対話していたら、やり取りは次のようになったでしょう。その前にご留意いただきたいのは、筆者は自然科学の研究者でしたから、大栗さんの立場と基本的には同じです。そこが、同じ仏教の研究者である横山さんとはまったく違うところです。一方、筆者は長年仏教について学んできましたから、大栗さんの考えともずいぶん異なると思います。このことを念頭に置いていただいて以下の筆者の考えをお聞き下さい。

唯識思想(2‐3)(前回からの続き)

 論点1)「人間の生きる意味」について:横山さんは「他人のために尽くすこと」という。大乗仏教の根本「未未得度先度他」を念頭に入れているのだと思います。それは最後の「幸せとは何ですか」の答えから明らかでしょう。あるいは「神から与えられた生命」としての使命を考えているのかもしれません。それに対し大栗さんは「生きる意味など、(神から与えられたものなどではなく)後天的に自ら感じて行くものだ」と答えています。それは3)の「自分とは何か」の答えとも軌を一にするものですね。

 論点2)「唯識思想では宇宙の真実の姿は理解できますか」について:横山さんは「対象に成りきればわかる。ブッダはそういう人だ」と言っています。大栗さんはさらに追及して「それが真実かどうかはどうして検証できるのですか」と言っています。それに対する横山さんの答えは取り留めもないものですが、筆者ならこう言います「直観的に正しいとわかるのです。数学者の吉田洋一さんはこう言っています。『ある数学理論が発見された時、それが自分の専門(数論)内ならば、2+3=5が誰にでも直観的にわかるように理解できます。専門外のことなら、手続き(つまり証明式)を踏んで行けば正しいかどうか)わかります』と。ちなみに横山さんの言う、「その教説が正しいかどうかの検証は
ブッダの思想をどれだけ多くの人を引き付けて来たか」は、正しくありません。これまで多くの新興宗教(たとえばオーム真理教)でも信者たちは教祖の言っていることに触れて随喜の涙を流して付いて行ったと思いますから。 

 論点3)「自分とは何だと思いますか」について:筆者も以前は大栗さんと同じ唯物思考でしたから、大栗さんのおっしゃることはよくわかります。しかしその後、仏教やスピリチュアリズムを学び、神道系の教団で数多くの実体験を踏むにつれ、考えが変わりました。すなわち、自分というものは死んで脳が壊れても存在するものだと思います。いわゆる「魂」ですね(もちろん、この世に生まれてからの人生で獲得し、変化した部分もあることは確かだと思いますが)。一番わかりやすい例は「生まれ変わり現象」や、霊魂の存在です。

 以上、結局、この番組で横山さんと大栗さんの論議は、タイトルである「唯識思想の科学性」とはかけ離れたものになってしまいました。大栗さんのおっしゃることはさすがに理論物理学者として明快でしたが、横山さんの唯識思想は大栗さんの疑問になんら答えることができなかったと思います。横山さんは唯識思想を50年にわたって研究してきたそうですが、「仏教とは何年やろうとわからなければわからない世界だ」と思います。
 以前お話したように、筆者は「唯識思想は仏教の正統な流れから外れてしまったもの」と考えています。「勇み足」と言ってもいいでしょう。ただ、正しい部分は残していると思います。以下に筆者が考える「唯識思想の科学性」についてお話します。横山さんの理解と比較してください。その前に、まず横山さんの唯識思想理解の問題点についてお話します。

 横山さんの唯識思想の問題点 2)

1)モノなどない?
 
 横山さんは(モノなどない。ただ心があるだけだ」の根拠として、「ただ縁起によってあるように見えるだけだ」と言っています。仏教学者がよくやる誤解です。本来、釈迦が説いた「縁起の法則」は、「すべての苦しみや悲しみには、原因がある。それを突き止めなさい」という意味だと筆者は考えています。素朴ではありますが、重要な教えで、原因も知らずに苦しみ、悲しんでいる人が多いからです。「縁起の法則」は「空」を説明するために誤解・援用する学者も多いことを以前お話しました。横山さんが、リンゴを示して「リンゴがあると思えばある。無いと思えばない」と言ったとき、アナウンサーが「でもリンゴはありますが・・・」と当惑したのは当然なのです。じつは、横山さんや、「空」の研究者自身も「ない」と言うのがなんとなく気持ちが悪いのでしょう。いつも筆者が言うように、「そういう人の頭をポカンとたたいてやればいいのです。「痛い!なにするんだ」と言うでしょう。そうしたら「あなたは頭などないと言ったではないですか」と言えばいいのです。
 モノはあるのです。禅でははっきりそれを言っています。「色即是空・空即是色」なのです。そこが、禅のすばらしいところなのです。

2)横山さんは末那(まな)識を「自己執着心」と解釈しています。それは横山さんの唯識思想の解釈に都合がいいからでしょう。しかしそれは誤りです。正しくは自分であることのアイデンテイテイ意識です。つまり、人間によるあらゆる認識や心の動きの本体である「自分であること」なのです。両者はまったく異なることにご注意下さい。

 次回は、筆者の理解した唯識思想です。

唯識思想(2‐4)

 唯識では本来、「人によってモノやコトの認識のしかたはさまざまである」と言いたいのだと、筆者は解釈しています。たとえば、ある人についての印象‐好悪の感情や能力の評価などは、それこそ多様でしょう。卑俗な譬えですが、「あばたもえくぼ」はこの人間の機微を言っているのだと思います。同じ見方なんてありえませんね。時が経てば変わりもします。つまり、「絶対正確な姿」などありないのです。もっと範囲を広げてみましょう。ここにある一つのリンゴについても、見え方は人によって変わります。リンゴが好きな人と、筆者のようにあまり好きでない人間でも見え方は異なるはずです。「人間だから」とおっしゃるなら、カメラや電子機器でも見え方はさまざまなのです。それぞれの器械の特性によって異なるのです。「見え方」だけではありません、味はもちろん、化学的性質や物理学的性質でさえ、測定機器それぞれで結果は少しずつ異なるのです。ではどれが真実なのか?つまり、人間であろうと、器械であろうと唯一絶対の真実など測定できないはずです。

 これが無着や世親が考えた唯識思想だったのではないかと思われます。つまり、人間の心は真実を歪めて認識することが多い。そのために苦しみや悲しみ、そして喜びまでも相対的だ・・・と言っているのだと思います。それを「モノなどない」と拡大解釈してしまったところに、日本仏教の解説者のほとんどの誤りがあったと筆者は思うのです。

唯識説の原理的欠陥

 以前のブログで筆者は、「唯識思想には原理的欠陥がある」とお話しました。もう一度言いますと、

 ・・・この思想は、阿頼耶識にはすべてのモノゴトについての種子(しゅうじ)が蔵されているとの前提に立っています。ではそれらの種子はどこから来たのでしょうか。「それは前世、およびその人のこれまでの人生で経験したモノ」と言います。ここで問題が生じます。それなら、今まで経験したことのないモノが目の前に現れたらどうでしょう。阿頼耶識にはその種子はありませんね。とすれば当然、見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうこともできないはずです。そもそも、「(前世および)これまでの人生で経験した」と言っても、それらの最初の経験以前にはそれらの種子はなかったはずです。たとえば近代文明に接したことのない人がテレビやスマホを見たり聞いたりしても認識できないことになります・・・

いかがでしょうか。これらの理由がわが国から唯識思想が消えてしまった理由だと筆者は考えます。

日本人の情感の喪失

歌謡曲は死んだ。

 近頃とても気になることがあります。歌謡曲というものがまったく無くなってしまったことです。演歌は歌謡曲ではありません。歌謡曲の逃げだと思います。その証拠に、歌いたくなるような曲が一つもないからです。若者が好きなビートの効いた洋風の曲は、筆者にはただ騒がしいだけで、歌詞も聞き取れません。歌謡ショーも残っているのはNHKの他には1‐2でしょうか。50歳以上の人なら、歌える昔の歌謡曲の20や30はあるでしょう。「聞いたことがある」ものなら、50曲を超えるでしょう。筆者もその一人です。

 その理由はいろいろ考えられるでしょう。上手な歌手がいなくなったわけでも、すぐれた作詞家や作曲家がいなくなったからとは思えません。日本人の心が変わってしまったのは事実でしょう。「泣けた泣けた」とか、「惚れーてー惚れーてー」とかの生(なま)の言葉を受け付けなったのは当然でしょう。そうではなくて、何よりも日本人の心が情緒とか情感を失ったからではないかと心配なのです。筆者は、よく知られたレコード制作会社が昭和時代に自社が制作した流行歌80曲以上をまとめたCD集を持っています。それらを一人の女性歌手が歌っていますが、その人の歌唱力とあいまって、それらは一つひとつ心に沁みます。つくづく歌謡曲は日本人の心を歌ったものだとわかります。この全巻80数曲は、その会社の歌謡曲制作史の記念として残したのだと思います。まぎれもなく日本の文化史として残るでしょう。

 「歌は世につれ」と言います。では一体、「今の世」はどうなったのでしょう。「歌謡曲が死んだ」ことは、「本が売れなくなった」ことと軌を一にしていると思います。電子本が大きな割合を占めるようになったためとか、ネットから大量の情報が供給されるとかは、理由に過ぎないと思います。やはり、入り込むべき日本人の心のひだの数が減ったからでしょう。

 その理由についてはよく考えねばなりませんが、一つには社会が激しい競争化の時代になったことがあるでしょう。その影響は子供たちにも及んでいます。今は小学生でも塾に行くのは当然のようになりました。よい中学→よい高校→よい大学→よい会社の人生目標が定着してしまったのでしょう。筆者の時代には学習塾などありませんでした。「勉強ができなくてもスポーツで」などは共通の認識でしたし、成績が上位でも実業高校へ行った人はいくらもいました。そして、中卒や高卒で就職してもそれぞれの立場で十分に力を発揮し、重要な役割を与えられた人もたくさんいます。筆者の現在の自宅の近くにもたくさんの子供たちがいますが、彼らが外で遊ぶ姿など見たことがありません。誰も彼も学習塾へ行くようになったのは、団塊世代が小学生の頃で、その子、そして今はその孫・・・。つまり、現代を構成する大部分の人達なのです。これでは情感や情緒が日本人の心から消えて行ったのは当然ではないでしょうか。

 筆者が心配するのは、このような世相が、これから成長する子供たちの情感を育くむ力が衰えてきたのではないかということです。歌や本は、大きな人間の心の支えでもあることは言うまでもないでしょう。それがら急速に失われつつあるのです。学習塾や、子供が好きなゲームなど、少しも情感の発達の役には立たないでしょう。
 そして何より筆者が心配なのは、情感が衰えた子供たちが宗教を必要とする時、それらを受け止められるだろうかということです。宗教は苦しんだり悲しんでいる人たちの琴線のどこかに触れるのだと思います。筆者が「禅塾」と謳いながら、他力の浄土宗系の仏教やキリスト教、神道、そしてスピリチュアリズムと幅広い窓口を開けていますのは、なるべく多くの皆さんの心のひだのどこかに感じていただけるところがあるのではないかとの思いからです。