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新島襄と神の啓示(1,2)

新島襄と神の啓示(1)(以下は「わが若き日」新島襄 毎日ワンズ(原文は英文)による)

 新島襄(1843-1890)は上州安中藩板倉氏3万石の江戸屋敷で生まれる。本名は七五三太(しめた)後に敬幹。密航してアメリカ行きの船長から、七五三太は呼びにくいからとJoe(ジョー)と呼ばれ、そのまま襄と名乗ったという。父は神官だったが、後年安中藩に仕えた。ただし禄高は五石(手取りは6両‐現在の貨幣価値で60万円)と最下級の武士だった。

 新島をキリスト教への眼を開かせてくれたのは、最初は友人の家で見付けた漢訳聖書(註1)で、のちに出会った蘭学の師杉田廉卿(れんけい、杉田玄白の子孫)から大きな影響を受けたようです(「宗教心の厚い人で、「解剖学を極めてゆくうちについに神を認め、しかもこれを奉じるにはキリスト教しかないと信じるに至った(青山学院創立者津田仙の回想記から)」。新島は剣にも優れ、藩主の護衛役にも選ばれた。あるとき藩主に供奉して江戸から安中まで行ったとき、藩主は駕籠に乗り、自分たちは徒歩で従うことに疑問を抱き、「なぜそのような隷属を強いられなければならないのか」と思ったという。このことからも、新島はほとんど天性のようにリベラルな思想の持ち主だったようです。その思いが脱藩、密出国という当時としては大罪を犯してまでして自由の国アメリカへ渡ったのでしょう。

註1 もちろん当時はキリスト教は厳禁でした。ただし、すでに日米和親条約は締結され、下田(後に横浜)と函館2港は開港されていました。そしてそれぞれの都市にはキリスト教司祭も来ていました。漢訳聖書は、アメリカ人宣教師が、聖書の重要な部分を漢字でまとめたもののようです。

新島の言葉:
・・・自問自答した。私を造ったのは誰か?父か?母か?いやわが神である。神はわが両親を造り、両親に私を造らせた。私の机を造ったのは誰か?大工か?いや、わが神である。神は地上に樹木を生じさせた。その樹木を用いて大工が私の机を造ったのである。私は神に感謝し、神を信じ、神のために誠心を尽くさなければならない」「俺はもう両親のものではない、神のものだ」と叫んだ。その瞬間、父の家に私を縛りつけていた鎖はバラバラになったのです・・・この新しい考えに勇気づけられた私は、藩主を見捨て、家や祖国を一時去ろうと決心したのです・・・
 のちに新島は江戸に設立されたばかりの海軍学校に入り、本家備中松山藩の帆船で岡山まで航海した。その縁で22歳のとき密かに脱藩し、まず同船に便乗させてもらい、函館へ行った。そこで多くの人たちの助力を得て、アメリカ船ベルリン号で上海へ行き、アメリカ船ワイルド・ローヴァー号に乗り換えてアメリカに渡った。船賃の代わりに、船長室で無給の雑用係をしたという。

 新島の言葉:
 アメリカ行きの船中でイギリス人の男が親切に英語を教えてくれたが、ある時命じられていることが理解できないでいると、男は私をいきなり殴り付けました。私は我慢できず、無礼打ちにしてやるつもりで刀を取りに自室へ駆け下り、刀をつかんで部屋を飛び出そうとしたそのとき、どこからともなく「このような行動に移る前にはよくよく考えねばならないぞ」という声が聞こえきたのです。そこで、ベッドに腰を掛け、独りこう言った。「これは些細な出来事なのだ。これから僕はもっと辛い目に遭うであろう。これくらいのことが我慢できなくてどうして大いなる試練に立ち向かうことができようぞ」私は自分の短気を恥じて「いかなる場合でも二度と刀に手をかけてはならぬ」と肝に銘じたのです・・・
 4か月かかってボストンに着くと、ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけフィリップス・アカデミーに入学することができた。そして1866年アンドーヴァー神学校付き属教会で洗礼を受けた。その後アマースト大学を卒業(理学士)。当初、密航者として渡米した新島であったが、初代駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。
 卒業後、新島はキリスト教海外伝道組織から日本での宣教に従事する意思の有無を問われると即座にそれを受託し、「日本伝道通信員」となった。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付を得た。10年後の明治8年(1975)に帰国し、3年後には安中教会を設立。同年、同志社大学の前身同志社英学校、および同志社女学校(のちに同志社女子大学)を設立した。以下の新島の活動はご承知のとおりです。

新島襄と神の啓示(2)

 新島が、不完全な漢訳聖書を読んだり、蘭学師杉田廉卿から影響を受けたとはいえ、脱藩、密航という思い切った手段を取ってまでアメリカへ行こうと決断したのは、不思議とさえ思えます。漢訳聖書を読んだ人や、杉田の弟子はいくらもいたでしょうから。
 新島はわずか14歳のとき、藩主の愛妾が政治に介入し、新島の恩師を讒言によって更迭するなどしたことを知って憤激し、その妾の暗殺を企てたと言います。その意図を別の信頼する先生に相談したところ、「累はお前の一家親類の迷惑になるから」と懇々と諭され、思い留まったと言います。純粋で正義漢も人並み外れていたのでしょう。

新島の言葉:
 ・・・私を造ったのは誰か?父か?母か?いやわが神である。神はわが両親を造り、両親に私を造らせた。私の机を造ったのは誰か?大工か?いや、わが神である。神は地上に樹木を生じさせた。その樹木を用いて大工が私の机を造ったのである・・・
は素朴ではありますが、筆者もまったく同感なのです。以前お話したように、生命は、そして宇宙も神が造られたとしか思えません。理由はすでに書きました。ビッグバンは、空間も時間もないところで突然起こったのです。素粒子は17個あり、その質量や性質はこれからどんどん解析されてゆくでしょう。しかし、なぜそれらが17個なのか、どうしてそれぞれがそれぞれの資質を持っているのかは、いくら科学が進歩しても永遠にわからないのです。神の御業としか思えないのです。

 アメリカ行きの船中で、無礼な仕打ちをしたイギリス人を切り殺そうとしたとき聞いた、「このような行動に移る前にはよくよく考えねばならないぞ」言葉は、神からのメッセージだったような気がします。もし実行していたら、その後A.ハーディー夫妻の援助をうけフィリップス・アカデミーに入学し、つづいてアマースト大学を卒業できたことも、日本伝道通信使となったことも、同志社大学などの設立も一切なかったはずです。やはり「神の啓示」と言うのがふさわしいでしょう。

 恐らく新島は「見えざる手に導かれた人」人生だったのでしょう。
 筆者は以前、浜松の聖隷クリストファー大学看護学部の前身の短期大学で非常勤講師をしたことがあります。その時、ふと目にしたパンフレットを読んで衝撃を受けました。現在の聖隷福祉事業団の前身は、末期の結核患者を受け入れるための施設で、当時忌まわしい病気として「私にはどこにも居場所がない」と嘆く患者たちを世話していました。創立者長谷川保さん夫妻とスタッフはキリスト教精神に則った、筆者には到底まねのできない尊い奉仕活動をしたのです。亡くなった患者の寝巻を洗って自分たちの衣服とし、食事は患者の残りをオジヤにする・・・。
 そのパンフレットには「神が造り給うたものには一切無駄がない」と書いてあったのです。

 ただ気になるのは明治の初めのキリスト教信者は約30万人、100年後の今もほとんど増えていないことです。現在ではむしろ、キリスト者の高齢化と相俟って、信者が減っているとか。残念なことです。理由はいろいろあるでしょう。しかし筆者には、キリスト教があまりにも聖書に依存し過ぎているていることも問題の一つのように思われます。仏教が釈迦の死後、初期仏教から大乗仏教へと増広を積み重ねていることときわめて対照的です。キリスト者は何かにつけて「マタイ伝第〇章第〇節」とか、「旧訳聖書詩編△編△節」という言葉を口にします。確かに人生を決めるすばらしい言葉が多いのですが、逆に言えば教義が硬直化しているように思われます。もう一つの問題は、キリスト者同士の結び付きが強く、外部の人が入りにくい組織のようにも思えるのです。筆者は、キリスト教信者ではないのですが、長い苦しみの人生からキリスト教精神を、恐らく信者以上に自分のものにしている人を知っています。キリスト教系の雑誌もいろいろありますが、そういう人たちにも門戸を開き、考えを述べてもらうなど、組織のスクラップ・ビルドが必要な時ではないでしょうか。

霊的現象についての小林秀雄さんの考え

神と死後の世界の存在(4)‐小林秀雄さんの思想

 小林秀雄(1902‐1983)は日本を代表する評論家。「本居宣長」「感想(ベルグソンについて)」など著書多数。「心霊現象」にも深い関心を持っていた哲学者のH.-L.ベルグソン(1859-1941)の思想についても紹介しています(「小林秀雄講演集 新潮CD 註1)
 ベルグソンが出席していたある世界的な会議で、同席したフランスの名高い医学者が一人の夫人の体験談を紹介した。
 ・・・この前の戦争(第一次世界大戦:筆者)の時、士官である夫が遠い戦場で戦死しました。私は、夫が塹壕で倒れた光景を白日夢で見ました。それはきわめてリアルで、戦後私のところへ夫の死の模様を知らせに来てくれた人たちの顔は、白日夢で見た倒れた夫の元へ駆けつけた戦友たちの姿と一致しました・・・
その医者は、「あなたのおっしゃることはよくわかります。しかし、そのような予知夢には誤りであるケースも多いのです。ですから残念ながらあなたの体験が真実だと結論することはできませんと答えた」と言う。ベルグソンはそれを聞いていたが、その会議の場にもう一人若い娘さんがいて、ベルグソンに「わたしは先ほどのお医者さまの考え方は間違っているように思います。あの考え方のどこが違っているのかわかりませんけれども、間違いがあるはずです」と言った。ベルグソンもその女性の意見に賛成したという。
 小林氏は言う、
 ・・・私も家内や子供が死んだ夢を見たことがあります。しかし、現に二人ともピンピンしています。しかし、私はベルグソンの考えの方が正しいと思います。なぜなら、近代科学ではすべてを「正しいか、正しくないか」と決め付けます。しかし、そういう判断をするようになったのは、たかだかここ数百年のことなのです・・・
 つまり小林氏は、「たとえそのような神秘体験の90%が間違いであっても、残る10%まで否定してしまってはいけないのではないか」と言うのです。これはとても示唆に富んだ問い掛けだと思います。
 筆者は、たくさんの神秘体験をしました。しかし、大学教員時代は一切それを口にしたことはありません。教員としての「良識」を問われかねないからです。現在でもこのブログシリーズで霊の存在などについては、慎重に言葉を選んでお話しています。しかも体験の一部しかご紹介していません。たとえば、筆者は2回、はっきりとした、いわゆる「金縛り現象」を体験しました。現在では、そういう体験はすべて「睡眠麻痺」として説明され、否定されています。しかし、筆者のそれらの体験はじつにリアルで、それぞれの内容は異なります。筆者はのちほど「睡眠麻痺」も経験しましたが、前の2件の「金縛り」とは明らかに違うのです。
 筆者は、40年にわたって生命科学の研究者として過ごして来ました。そこでは、新しい現象が現れた時には「説明してはいけない」ことを経験的に学びました。説明とは、必ず過去の知見や思想に基づいて行うものだからです。新しい現象は、今までとはまったく異なる原理で解釈すべきなのかもしれません。そういう基本的態度を持っていなければ創造的な研究などできません。ですから、筆者は神の存在や死後の世界のことなどについて、体験した人の話を頭から否定することはありません。

註1 小林氏は30年以上前に亡くなっており、「小林秀雄講演集 新潮CD」の著作権者が現在どうなっているのかわかりません。もし、筆者の上記の引用記事が著作権に抵触するようでしたら、ご一報いただければ幸いです。

法華経と道元(1-4)

法華経と道元(1)

「法華経」と禅
一般に禅は、「法華経」と同じ初期大乗経典である「般若経典類」から始まり、龍樹(ナーガールジュナ)が「空思想」を確立したことが発展の端緒になっていると言われています。しかし、龍樹の「空思想」は、禅の「空思想」とは異なることを、このブログシリーズですでにお話しました。しかも、よく調べてみますと、禅思想はむしろ「法華経」に強い影響を受けていることがわかります。あとで「法華経と良寛さん」のところでくわしくお話しますが、禅の公案集(語録)として有名な「碧巌録」や「無門関」などの随所に「法華経」の文言が引用されています。禅の正統な実践者である道元や良寛さんが、「法華経」を尊重するのは当然でしょう。

道元がどれほど「法華経」を尊重していたかは、「正法眼蔵 歸依佛法僧寶巻(註1)」に、
・・・法華経これ大王なり、大師なり。余経余法は、みなこれ法華経の臣民なり、眷属(家来)なり・・・とあり、「法華転法華巻」もあることからわかります(「法華転法華巻」については次回お話します。註1)。ただ、筆者には、道元ともあろう人が「法華経これ大王なり」というような大仰な言葉を使っているのは不思議に思います。「法華経がとくに優れている」と言うより、「他の経典が・・・」なのでしょう。

さらに道元は、自分の死期を悟ったとき、「法華経 如来神力品」の一節、

・・・若しくは園の中であっても、若しくは林の中であっても、若しくは樹の下であっても、若しくは僧房であっても、若しくは在家の家であっても、若しくは殿堂であっても、若しくは山や谷や広野であっても、この中に皆、当然、塔を建てて供養するべきである。理由は何故か。当然、知るべきである。その場所は、すなわち道場だからである。諸々の仏がここに於いて真理(原文では阿耨多羅三藐三菩提、のちほどお話します)を悟った境地を得、諸々の仏がそこに於いて仏の教えを説き、諸々の仏がそこに於いて最後の悟り(般涅槃)を得られた(以上、前回ご紹介した加藤康成氏の訳による)・・・
を口ずさみながら、経行(歩きながらの瞑想:筆者)し、最後に庵の柱に「妙法蓮華経庵」と墨書したと言います(「永平開山行状建撕記」より、建撕は永平寺第十四世。有名な話ですが筆者未読)。

「正法眼蔵」は道元が「法華経」のどの思想に共感したのかは、宮沢賢治の場合と同じように、やはり道元自身に聞いてみなければわかりませんが、筆者の推定では、第一に、迷悟、善悪、教養のあるなしなど、一切の対立概念を否定しているところでしょう。たとえば「法華経如来寿量品」には、

・・・如来は如実に三界の相を、生まれること死すること、若しくは退すること若しくは出ずることが有ることなく、また、世に在るもの及び滅度する者もなく、実ににも非ず、虚にも非ず、如にも非ず、異にも非ざることを知見して、三界のものの三界を見るが如くではないのである。このような事を、如来は明らかに見て、誤りのあることがない・・・
とあります。
これこそまさに、主客(我と対象)のない、「空」のモノゴトの見かたです。ただ、迷悟、善悪、教養のあるなしなど、一切の対立概念を否定しているを直接禅に結びつけるのは早計だと思います。たしかに革新的な思想ですが、道元の解釈は「禅的な解釈」と言った方がいいと思います。

註1それにしても「正法眼蔵」の解釈にはまったく苦労させられます。道元は、簡単なことを、わざとむつかしく書いているように思えます。「法華経」もそうですが、「ゴミ」の部分が多すぎるようなのです。

法華経と道元(2)

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい:最高の教えの世界)
「法華経には最高の教え(阿耨多羅三藐三菩提)が説かれている」とくり返えされています。では、「最高の教えの世界」とは何かが当然気になりますよね。しかし、それは明らかにされていないのです。
すなわち「法華経方便品」には、

・・・舎利佛よ、要約して言うならば、計り知れないほど多くの、しかも未だかつて示さなかった教えを、仏はことごとく身に付けている。止めよう。舎利佛よ。再びこの教えを説く意思はない。理由は何故かというと、仏が身に付けているこの教えは、第一に優れ、類のない、理解しがたい教えであるからだ。ただ仏と仏だけが、あらゆる事物や現象や存在の、あるがままの真実の姿かたちを、究めつくすことができるのだ・・・

最後の太字は、よく知られた漢訳の「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相(ただ最高のレベルに達した者たちがわかる自然の本当の姿)」です。そして「如来寿量品」には、

・・・三界に住む者が三界を見るようなことではない・・・

とあります。つまり、「三界(欲界・色界・無色界)を輪廻するお前たち衆生が見る世界とは違う(お前たち衆生にはわからない)」と言っているのです。(以上、加藤康成さん訳)

まったく、「あれだけ重要な経典だ、重要な経典だと言っておきながら、法華経とは何かが書かれていない・・・。いい加減にしてくれ」と言いたいですね。それが筆者が最初に読んだとき「???」と思ったところなのです。しかし、道元や良寛さんはちゃんと読み取っているのです。以下、道元の「正法眼蔵」や良寛さんの「法華讃」を参考にして筆者が理解できたところをお話します。結論から言いますと、やはり最高の悟りに達した者が見るこの世の姿と、大衆の見る世界とはまったく違うのです。

法華経と道元(3

道元が「法華経」のどの思想に共感したのか。筆者の考えの第二は、「諸法実相」の思想ではないかと思います。すなわち、

「法華経」のエッセンスの(一つ)は、「諸法実相」つまり、「自然のほんとうの姿」を知ることだと言われています。道元はその心を、
峯の色 渓の響きも みなながら 我釈迦牟尼の 声と姿と
と詠っています(松本彰男「道元の和歌」中公新書)。そして「正法眼蔵 谿声山色」で、

・・・東坡居士蘇軾(そしょく)、廬山にいたれりしちなみに、谿水の夜流する声をきく(聞く)に悟道す・・・

と中国北宋時代の詩人蘇軾(1037‐1101)が「谿川の水がゴウゴウと流れている音を聞いて悟った」有名な逸話を紹介しています。つまり道元は、「私たちが見た山の姿や渓流の音、そのままが、釈迦が説いた自然のほんとうの姿だ」と言っているのです。また「山水経」でも、

・・・而今の山水は古仏の道現成なり(今ここで見ている山の姿は、これまでに最高の悟りに達した人たちが見た山のほんとうの姿が現れている)・・・

と言っています。
ただし、その山の姿や渓流の音は、最高の悟りに達した者と、大衆が見たものとはまったく違うのです。そこを読み解かなければなりません。
「正法眼蔵 山水経」に雲門文偃(うんもんぶんえん864‐949)の言葉を引用した個所があります。

・・・古佛云、山是山水是水。この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり・・・

つまり雲門文偃は、「私が悟りに至らない段階では、山は山としか、水は水にしか見えなかった。(悟りに達すると)山は山でなく、水も水でなくなってしまった。そして、さらに修行が深まると、また山が山として、水が水として新鮮に蘇ってくる」と言うのです。

法華経と道元(4)

「法華」とは宇宙の真理だとお話しました。「法華経 方便品」には、
・・・十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三・・・
とあります。つまり、「自然はただ一つの法則(一乗法)によって支配されており、二もなく三もない」と言うのです。道元の「正法眼蔵 法華転法華」には、禅の六祖慧能(638‐713)の偈

・・・心迷へば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず。誦すること久しけれども己を明らめずんば、義のために讐家と作る。無念の念は即ち正なり、有念の念は邪と成る。有無倶(とも)に計せざれば、長(とこしなえ)に白牛車(最高の教えに至るための乗物)に御す・・・

から引用したものです。つまり、

・・・(苦しいこと、悲しいことが起こっている状況も宇宙真理の現われである。一方、楽しいこと、嬉しいことの起こっている状況も宇宙真理の現われてある。)したがって、苦しいこと、悲しいことで心が惑わされるのは、宇宙の真理を正しく受け取っていないからであり、楽しいこと、嬉しいことで有頂天になるのも同様である。それぞれの状況を、あれこれ考えずにそのまま受け取ることが肝要だ(下線筆者)・・・

と言うのです。「あるものをあるがままにあると認める」‐これこそ「法華経」の真髄なのです。
道元はまた、

・・・すでに十方仏土と転法華す、一微塵のいるべきところなし。色即是空の転法華あり、若退若出にあらず。空即是色の転法華あり、無有生死なるべし。在世といふべきにあらず、滅度のみにあらんや・・・

と言っています。つまり、

・・・全世界、すなわち自然は法華として(宇宙真理のままに)現われている、それ以外に塵一つ入る余地は無い。色がそのまま空であるという法華の転回がある。出現したり、消滅したりするのではない。空がそのまま色である法華の転回がある。生も死もない。よって世にあると言うべきではなく、去来のみが真実である・・・

と言うのです(太字の部分はとても大切ですから後で改めてお話します)。そして、「色がそのまま空であり、空がそのまま色である姿を正しく見る眼が悟りの眼」なのです。では、どうしたらそうなれるのか・・・。「法華経」に基づく道元の悟りの眼、つまり自然観は、

峯の色 渓の響きも みなながら 我釈迦牟尼の 声と姿と
(山の姿、谷川の響き、それがそのまま最高の悟りなのだ)

だと言われています。「そうは言われても」というのが大衆の正直な気持ちでしょう。しかし、最高の悟りに達した者が見た自然と、大衆が見たものとはまったく違うのです。「その差を理解するには、
・・・色即是空の転法華あり、空即是色の転法華あり・・・
の真意を自分のものにすることだ」と道元は言っているのです。

法華経と宮沢賢治

法華経と宮沢賢治

 「法華経」を読み解く上での困難

 まず、「法華経」など仏教経典に出てくる「仏」とは、釈迦牟尼仏(釈迦)のことです。しかし、言っていることはまさしく「神」のことです。なぜ釈迦をたんなる尊敬ではなく、文字通り神格化するのか。それは仏教の成り立ちを考えればなりません。仏教では「神」という絶対者の存在を認めません。なぜなら、仏教がそれ以前のインドの宗教であるヴェーダ信仰(神を最高とする)のアンチテーゼ(対立概念)として成立したからです。まさに富永仲基の言う「加上説」ですね。明らかに「神」を指しているのに「神」とは言わず、「釈迦牟尼仏」と言うのには、やはり無理があると筆者は考えます。

 「法華経」を読み解くには、しばしば出てくる、「われは無量千百万億阿僧祇劫においてこの得難き阿耨多羅三藐三菩提を修習せり」とか、「六千五百万憶那由他の恒沙河(ガンジス川の砂の粒ほど多い)の諸仏を供養せり」とか、「大通智勝仏の寿命は五百四十万億那由他劫である」とかいう、やたらに大きな数字、やたらに装飾的な言葉に辟易としながらも、がまんして読み進まなければなりません。「法華経」の解説者が、 ・・・大乗経典は物語性に富み、想像力豊かな舞台構成を有し、劇的な展開に満ち、深い人間存在の追及を示す・・・と言って称賛しますが、筆者など、荒唐無稽としか言いようがないハリボテフィクションだと言いたくなります。「法華経」の本質を突き止めるには、砂やゴミの山の中に埋もれれている金の粒を選り出すように精選しなければなりません。

宮澤賢治と法華経

 宮沢賢治が熱烈な法華経信者であり、数々のすぐれた作品も「法華経」の精神によって裏打ちされていることはよく知られています。

 賢治と「法華経」との出会いは、「宮沢賢治」(宮沢賢治記念会発行)によると「18歳で『漢和対照妙法蓮華経』を読んで体が震えるほどの感動を受け、以後、法華経信仰を深め、鮮烈な生涯を送った」とあります。1919年に盛岡高等農林学校を卒業後、同21年には、田中智学が指導する日蓮主義の在家集団「国柱会」に入会し、熱烈な信者になりました。父親(浄土真宗信者)や、盛岡高等農林以来の親友保阪嘉内を折伏しようとして義絶同然になったり、花巻の街をうちわ太鼓をたたきながら歩き回ったりしたと言います。臨終に当たって父親に「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください。私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と頼み、実行されました。

 宮澤賢治がなぜあのように熱狂的に「法華経」を尊んだのかは、賢治の心に聞いてみなければわからず、推定するしかありませんが、「法華経」にはいかなる人にも仏となる素質があり、善人も悪人も最後には仏になれる。あるいは、迷悟・善悪・大小・貴俗などはすべて釈迦(神)が作られたものだから価値の差はない、と説かれているからではないかと思われます。賢治の「法華経」信仰は、あの「雨ニモマケズ」の詩に表れていると思います。

雨ニモマケズ
 ・・・・・・
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
・・・・・・
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
・・・・・・
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

つまり、「法華経」から、絶対的な他人への奉仕の精神を学び取ったのでしょう。ちなみにこのデクノボウとは、「法華経」にある常不軽菩薩、すなわち、誰に対しても「あなたを尊敬します。あなたは仏ですから」と言った菩薩のこと、(じつは釈迦)と言われています。

法華経と道元、良寛さん、賢治(1,2)

法華経と道元、良寛さん、道元(1)

 はじめに

 「法華経」は初期大乗経典(般若経、法華経、維摩経、無量寿経、阿弥陀経)の一つであり、紀元1世紀から紀元3世紀までに成立したとされています。現代でも法華宗系統の宗派では「釈迦が最後にお説きになった最高の経典」と考える人が多いです。しかし、前にも書きましたが、この経典は釈迦の思想とはほとんど無関係です。現在でも法華経を根本経典とする宗派は、日蓮宗、創価学会、立正佼成会、顕正会など数多くあり、信者(世帯)数は1600万人以上に上ります。

 筆者は30数年前に初めて法華経を読んだとき、「???」と思いました。「法華経はすばらしい」「法華経はすばらしい」と書いてあるばかりで、なかなか本題に入らないからです。結局本題はよくわかりませんでした。たとえば源氏物語の中に「源氏物語はすばらしい」「源氏物語はすばらしい」と書いてり、源氏物語の本文がなかったら、やっぱり変でしょう?そうしているうちに、すでに同じようなことを言っている人がいることを知りました。

法華経は効能書きばかりで中身がない薬のようなもの

 江戸時代の学者富永仲基は、「法華経一部、只讃言のみ、仏を讃めたたえるか、自画自賛する言葉だけで教理らしきものは説かれていない。経と名づけるに値しない」と言っています(註1)。さらに、平田篤胤(1776-1843、 古神道の復活に寄与した人。以前お話した「勝五郎再生記聞」の著者 註2)も、「みな能書きばかりで、かんじんの丸薬がありはせぬもの」と言っています。

註1「出定後語」(日本思想大系43・富永仲基・山片蟠桃)の作者。のちほど改めてお話します。

註2「出定笑語」。富永仲基の「出定後語」をもじったもの。両著についての検討は菅野博史氏の東洋大学紀要に詳しい:https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/15718.pdf

 一方、現代の尾崎正覚さんは、「仏教学者の中には、『法華経そのものは、仏が広大な功徳を持つ有り難いお経を説いたと述べるだけで、説かれた筈の肝心の経の内容については何も説かず、恰も薬の効能書きだけで中身のない空虚な経だ』と言う者もいる。然しそれは正に彼等が仏法を知らないことを自ら暴露するものである」と言っていますが・・・。

 その後筆者は、敬愛する良寛さんや道元禅師が深く「法華経」に傾倒していることを知りました。「正法眼蔵」には別巻として「法華転法華」の巻がありますし、良寛さんには、「法華転」と「法華讃」という、文字通り「法華経」を礼賛した詩があることもわかりました。・・・と聞けば看過することはできないと、再びできるだけ精密に「法華経」を学び直しました。これからのシリーズはそれを基にしています。

 まず、本題に入る前に、皆さんにぜひ確認して置いていただきたいことがあります。それは「法華経」は釈迦の思想とはほとんど無関係だということです。「法華経」は、上述のように、いわゆる大乗経典の一つであり、釈迦の死後数百年も経ってから成立した経典です。つまり、釈迦の思想はそのごく一部にしか残っていないのです。これを「大乗非仏説」と言い、大乗教典類が成立したころから言われていました。そして、現在ではほとんど定説になっていますが、それを初めて体系立てて述べたのは江戸中期の学者富永仲基(1715-1746)です。仏教の経典のすべてを集めたものを一切経(大蔵経とも)と言い、約5000巻あります。富永がそれをすべて読破したかどうかはわかりませんが、「さまざまな経典は、必ずそれ以前の考えを乗り越えるものとして成立した」という、「加上説」を唱えました(前出「出定後語」)。それ以前は、経典はすべて釈迦が説いたものだと言われていましたから、後代、だんだん積み重ね(増広)られて行ったと看破した富永は恐るべき天才と言えるでしょう。道元はもちろん「法華経は釈尊が直接お説きになったものだ」と確信していたでしょう。良寛さんは、富永より50年くらい後の人ですが、当時の国情から考えれば、富永の考えは知らなかったと思います。

 追って「法華経」の内容についてくわしくお話しますが、「法華経」は釈迦の思想とはほとんど無関係だとすれば、道元も良寛さんの考えもよほど変更を余儀なくされるでしょう。それでも道元は「法華経は経典の王である(「正法眼蔵 帰依仏法僧宝巻」」と言えるかどうかですね。

法華経と道元、良寛さん、賢治(2)

 まず、「法華」とは法(宇宙真理)の華(花)という意味で、「法華経」はそこからつけた名前です。「法華経がまずあって」ということではありません。前回お話したように、「法華経」のような大乗経典類は、それまでの初期仏教(部派仏教とも)に対する批判から成立しました。それまでの初期仏教では、修行者自身がお寺などに籠り、ひたすら自己の悟りをめざして瞑想などをしていました。「それでは大衆のためにはならない」と、「自未得度先度他」(たとえ自分が悟りを得られる前でも、他の人の悟りへの道を助ける)を重視して大乗の教えが発達したのです。それは現代でも、法華宗の信者たちが、ともすれば強引に折伏する態度によく表れています。
 「法華経」の崇拝者たち(道元ですら)が、初期仏教のことを「小乗」と称していますが、以上の経緯から名付けた貶称(バカにした言葉)なのです。筆者は大乗経典も尊重していますが、まず釈迦自身の思想をぜひ知りたいと思っています。その意味で、釈迦の思想そのものを色濃く残していると言われる初期仏教の経典(パーリ語経典類)に強い関心を持っています。
 たしかに釈迦は傑出した思想家でしたが、古来インドには哲学的国民性があり、釈迦以降にも沢山のすぐれた思想家が出ています。「法華経」などの大乗経典類の作者は知られていませんが、釈迦に劣らないほど優れた人だったのでしょう。その人たちが大乗仏教を盛んにする一方、現代ではむしろ、仏教とは異なるヒンズー教などが主流を占める原因となっているのです。これらの事情をよく念頭に置いて「法華経」を学んでいただきたいのです。

 法華経とは

 「法華経」には四つの大きな論点があると思います。第一が、「初期仏教にはない最高の教えを説いている」とする点で、一乗の教えとか、阿耨多羅三藐三菩提、あるいは無上正等覚と呼ばれるものです。第二は、「すべての人には仏性(仏となれる素質)があるというものです。第三が、「善悪、美醜、貧富など、一切の対立概念がない」こと、そして第四が上で述べた「自未得度先度他」の思想です。

 では「法華経」で説く最高の教えとはなにか。じつは、「それは最高の悟りに達した者だけがわかる」と言うのです。すなわち、

「法華経方便品」には、

 ・・・舎利佛よ、要約して言うならば、計り知れないほど多くの、しかも未だかつて示さなかった教えを、仏はことごとく身に付けている。止めよう。舎利佛よ。再びこの教えを説く意思はない。理由は何故かというと、仏が身に付けているこの教えは、第一に優れ、類のない、理解しがたい教えであるからだ。ただ仏と仏だけが、あらゆる事物や現象や存在の、あるがままの真実の姿かたちを、究めつくすことができるのだ(下線筆者)・・・

最後の下線は、よく知られた漢訳の「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」です。そして「如来寿量品」には、

 ・・・三界に住む者が三界を見るようなことではない・・・

とあります。つまり、「三界(欲界・色界・無色界)を輪廻するお前たち衆生が見る世界とは違う」と言っているのです。
                           (以上、日蓮宗精勤山西鶴寺 加藤康成師訳)

 まったく、「あれだけ重要な経典だ、重要な経典と言っていながら、いい加減にしてくれ」と言いたいですね。それが筆者が最初に読んだとき「???」と思ったところなのですが、道元や良寛さんはちゃんと読み取っているのです。以下、道元の「正法眼蔵」や良寛さんの「法華讃」を参考にして筆者が理解できたところをお話します。結論から言いますと、最高の悟りに達した者が見るこの世の姿と、大衆の見る世界とはまったく違うのです。そして、「法華経」はやはりすばらしい経典だったのです。