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生命は神が造られた(1)ー筆者の信仰の原点

生命は神が造られた(1)‐筆者の信仰の原点

 「生命の起源は何か」は、ギリシャの時代からの人間の永遠の疑問ですね。現在、唯物史観の立場から、次のようなさまざまな説があります。

 オパーリンの化学進化説:
 最初の生命発生以前に有機物が蓄積していたはずです。「原始地球の環境で無機物から有機物が合成され、有機物同士の反応によって生命が誕生した」とする仮説です。化学進化説と言います。

 生命の素材隕石由来説:
 宇宙から飛来する隕石の中には多くの有機物が含まれており、アミノ酸など生命を構成するものも見られると言います。さらに彗星中のチリにもアミノ酸が存在することも確認されています。これは地球上で汚染されたものであるという可能性が捨てきれませんでしたたが、NASAなどの研究チームが南極で採取した隕石を調べたところDNAの塩基であるアデニンとグアニン、ヒポキサンチンとキサンチンが見つかったため、この説を裏付けることとなりました。

 パンスペルミア仮説:
 「宇宙空間には生命の種が広がっている」「地球上の最初の生命は宇宙からやってきた」とする仮説です。あのDNA二重螺旋で有名なクリックなども支持していました。
 地球を水惑星とも呼ぶその水も隕石が持ってきたことは確実なようです。

 筆者は、生命科学の研究者として過ごして来ました。現代の自然科学はもちろん唯物思想に立っていますから、筆者もそういう立場で研究してきましたし、上記の生命の起源のさまざまな説について知っていました。オパーリンの「生命の起源」など、懐かしく思い出します。
 今でも宇宙物理学が好きで、関連のテレビ番組は欠かさずに見ています。それによりますと、私たち人類は上記のように「偶然の積み重ねで生まれた」とされています。しかし、筆者はその考えに疑問を持っています。前著でくわしく述べました(註1)が、そんな偶然は、たとえば1兆分の1の、1兆分の1の、また一兆分の1の確率でしか起こらないことなのです。つまり、ほとんど「ありえない」ことなのです。

 ごく最近、39光年先に地球型惑星が見つかり、「生命が存在するかもしれない」と話題になっています。しかし、たとえ生命が存在しようと、それはごく原始的な生命でしょう。そんなものなら、地球の奥深く、100℃以上の、酸素のない暗黒の世界にも居ます。人間のような高度の知性を持った生命体とは分けて考えなければなりません。数年前から世界の国々が連携して地球外知的生命体からの電波を探求する研究が行われています。そして、ロシアで早速「これは!」と思われる信号をキャッチしたと大々的に報道されました。しかし、結局それは地球起源の雑音でした。中国では昨年、直径500mもある電波望遠鏡が完成しました。地球外知的生命からの信号を捉えるためです。UFOは昔から私たちの興味の対象でした。「わかった。わかった。しかし地球のどこかに着陸したことがあるのか」。これがフェルミのパラドックスです(註2)。

 筆者は15年ほど前、多くの人々の協力を得て、ある酵素たんぱく質の遺伝子構造を突き止めることが出来ました。そのDNA構造を調べている時、突然、「生命は神によって造られた」との思いが湧き出たのです。その時は別に生命の起源などについて考えていたわけではありません。「ある日突然に」でした。その気持ちは今も変わりません。そうとしか思えないのです。生命というものが偶然の積み重ねで起こるとは考えられないのです。生命が地球上で化学進化の結果できようと、隕石によってもたらされようと、問題ではありません。それも含めて神の御業だと思うからです。
 人間宇宙論という説があります。「神は自分の偉大さを客観的に知りたいと、それを明らかにするであろう人間という知的生命体を作った」というものです。筆者には神の御心はわかりませんが、宇宙には、われわれ人間以外の知的生命はないだろうと考えています。その思いに基づいて著書の第2作をまとめました(註1)。

註1「続・禅を正しく、わかりやすく」(パレード社)
註2 フェルミのパラドックスとは、物理学者エンリコ・フェルミ(1901-1954、ノーベル物理学賞受賞者。原爆開発にも関わった。しかし、広島・長崎の惨状を知り、責任を感じて自死)の考えで、地球外生命の存在の可能性の高さと、そのような文明との接触の証拠が皆無である事実の間にある矛盾のことです。

五蘊と脳の働き-浅野孝雄さんの考え(1-3)

脳科学と仏教‐浅野孝雄さんの考え(1)

NHK「こころの時代」心はいかにして生まれるか‐脳科学と仏教の共鳴」より

 浅野孝雄さん(1943-、埼玉医科大学名誉教授)は、脳外科医師。幼少時から熱心な浄土真宗信者であるお母さんの信仰を目の当たりにし、お経を読まされ、講話も聴いた。内容には疑問を持ちながらも影響を受けて来た。専門の脳外科医として活躍するうちに、どうしても患者に意識とか心について話さなければならなくなった。そして自然に脳の働きと仏教思想との関連に興味を持つようになったと言います。そこで上記の自分の原風景をベースにして、まず自分の心を理解しようと、改めて仏教を勉強した。そして、浅野さんは「古代インド仏教と現代脳科学における心の発見」(産業図書)を著わしました。

 番組によると、浅野さんは、仏教の代表的思想である五蘊の考えと、脳のさまざまな働きには大きな共通性があることに気付いたと言います。
 すなわちブッダの考え、
 ・・・人間存在は炎のようなものだ・・・修行僧よすべては燃えている。貪欲の火によって。嫌悪の火によって。迷いの火によって燃えている誕生・老衰・憂い・悲しみ・苦痛悩み・悶えによって燃えているのだ・・・(「燃える火の教え」中村元訳 註1)

を引用しつつ、五蘊を脳の各領域のそれぞれの働きと次のように関連付けています。まず、
 ・・・五蘊とは炎のような人間の心を構成する五つの要素。これらが互いに影響を及ぼしながら一つの大きな炎を作り上げる。それが心だ・・・

と述べています。すなわち、浅野さんの五蘊の解釈は、

 (ふつう、人間の体や木や草など、形のあるものすべてを表しますが、浅野さんは、モノが外界にあるのではなく、人間が形成
し、知覚するもの。すなわち、意識に上って来る知覚の働きと解釈。つまり唯識的な考え:筆者)=脳の知覚領(以下同じ)
 (美味しいものは美味しい、不味いものはマズイ、痛いものは痛いという知覚が生じるに従って出てくる怨憎会苦や喜怒哀楽の感情。それに伴って生じる情動)=視床下部と脳幹
 (理性的、知性的働き。出来上がったイメージを組み合わせて一つのまとまった形にする)=頭頂葉
 (こうしたい、ああしたいと、自分の中で起こって来る欲望・衝動的欲求。無意識の中から上って来る人間のすべての感情・行動)→煩悩に結びつく=運動領
 (分別・思考・判断など、人間が論理的に施行する能力)=前頭葉

と解釈しています。そして、
 ・・・これらによって人間の高次脳機能を網羅。それらは大脳皮質の(上記の)それぞれの部分に分かれて存在。これらの精神活動が、それぞれ燃えている。これら五つの脳の領域が相互に刺激を与えあって心を生じる。これらのものが統合されなければ意識にはならない。これら五つの火が燃えて大きな炎になる。「それが心だ」とブッダは言った。火のように動的なもの。そのイメージそのものが自然のエネルギー、生命力であり、しかも動的に変化する形。ブッダが自然現象の炎にたとえたところに彼の天才性がある・・・
と言います。

 そして、浅野さんは、「これらの脳領域の働きが理性と情動を作る。そして両者のバランスを取ることが正しく生きること」と結論付けています。
しかし、筆者にはこれらの浅野博士の考えには疑問があります(次回に続きます)。

註1 「ブッダ伝」中村元 (角川ソフィア文庫)(「スッタニパータ」「サンユッタ・ニカーヤ」「ダンマパダ」「テーラガーター」「テーリーガーター」「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」などの原始仏典から重要なエピソードをブッダの生涯の歩みに合わせて年代順に紹介する構成になっています)。たとえば、 
 ・・・ガヤー山(伽耶山。象頭山)で修行を続ける弟子たちにブッダは「燃火の教え」を説いたと伝えられています。「比丘たちよ! われわれの心の中はすべてが燃えている。色が燃えている。眼が燃えている。耳が燃えている。音が燃えている。鼻が燃えている。舌が燃えている。味が燃えている。身体が燃えている。接触するものが燃えている。思考が燃えている。何によって燃えているのか。貪欲・瞋恚・愚痴の三毒、煩悩によって燃えているのだ。誤った三毒を除くならば、苦悩の原因は除かれる。正しい認識と正しい行動をすることによって、一切の束縛を解脱し、涅槃の境地に達することができる・・・

脳科学と仏教ー浅野孝雄さんの考え(2)

 前回、浅野孝雄さんの、「仏教の五蘊の思想を大脳のさまざまな部分の働きに対比させる」という考えには疑問があるとお話しました。以下筆者の考えについてお話します。

筆者の解釈では、
 色蘊  –  人間の体(眼や耳、皮膚などの感覚器官)と、認識する対象、すなわちモノ
 受蘊  -  見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚などで感覚したものをイメージとして形成する働き
 想蘊  - 「あれは〇〇だ」と分析し、識別する働き
 行蘊  - 「〇〇を取りたい」などの情動
 識蘊  – 「きれいな〇〇だ」などの価値判断する働き

となります(註2)。たとえば上記の〇〇がバラだとしますと、バラは色蘊、それを写した目の網膜上の画像が受蘊。「これはバラだ」と分析するのが想蘊。「きれいだ」と判断するのが識蘊。「取りたい」と思うのが行蘊です。

 つまり、受蘊で感覚したモノを想蘊が同定し、その内容を識蘊が識別。行蘊が「あれを取りたい」と思う。すなわち、筆者は「五蘊」とは、人間の認識作用だ(見て聞いて・・・判断し、行動する)と解釈しているのです。つまり、五蘊のそれぞれが縦につながってモノゴトを認識し、それに基づいて行動する仕組みを言っているのです。浅野さんの解釈とは違うことがおわかりいただけるでしょう。

 筆者の解釈を別の譬えで説明しますと、

 ここに人工知能(AI)を持ったロボットが階段を下りるという場面を想像してください。まず、ロボットにあるカメラ(人間の眼ですね)のセンサーが状況をとらえます(テレビ画面とお考え下さい。人間の網膜です)。これが五蘊のうちの受蘊です。しかし、それが階段であるか、平地であるかはわかりません。「なにかあるモノ」が写っているだけです。それが階段であることを識別するにはAIが持っている記憶の中から同じようなものがないかを識別して、「階段だ」と分析します。それが想蘊です。つぎに、ロボットのAIは、「このまま進むと危ない」と判断します。識蘊ですね。そして「注意して降りよう」とします。これが行蘊です。

 これに対し浅野孝雄さんは前述のように、「五蘊とは人間の脳の働きを構成する五つの要素であり、それらが相互に影響をおよぼしあって心を形成す」ると解釈しています。つまり、浅野さんの考えでは、「五蘊はそれぞれ対等な精神活動であり、それの相互作用によって心が形成される」と言うのでしょう。

 個々の五蘊について、浅野さんの考えと筆者の考えとをくわしく比較しますと、

1)受蘊について:浅野さんは、眼や耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官によるイメージの形成(筆者の言う受蘊)と、脳による「これは〇〇である」という分析(筆者の言う想蘊)、そして「きれいだ、きたない」などの感想とか好み、つまり判断(筆者の言う識蘊)を受蘊に混ぜて入れています。
2)想蘊について:浅野さんは「理性的、知性的働き」と解釈していますが、それは浅野さんの識蘊の解釈、すなわち、「分別・思考・判断など、人間が論理的に施行する能力」と同じです。つまり、両者をごっちゃにしています。

以上が、浅野さんの思想と筆者の考えとの違いの第一点です。

註2 五蘊について、浅野さんの理解とは異なる他の人の解釈もあります。たとえば、増谷文夫「阿含経典(1)」(ちくま学芸文庫)では、
 ・・・人間を分析して、肉体的要素と精神的要素に分け、精神的要素を四つに分った。ここに「色」というのは、その肉体的要素を指す言葉である。そして、その精神的要素については、さらにそれを分析してそれを四つの要素に分った。「受」というのは感官のいとなみ、すなわち、受動的感覚である。「想」というのは表象作用、つまり、感覚によってイメージを造成するいとなみである。また、「行」というのは、その表象にたいして、快もしくは不快を感じ、追求もしくは拒否の能動的意志の作用にうごく段階である。そして、最後に「識」とは意識、すなわち理性のいとなみがはたらく段階である・・・
とあります・・・

ちょっとわかりにくいところもありますが、「色」は別として、あとは筆者の解釈とほぼ同じように思われます。

脳科学と仏教‐浅野孝雄さんの考え(3)

 ここで、脳の部位と機能について、他の脳科学者の意見では、

 前頭葉(浅野さんの言うの部位):現在の行動によって生じる未来における結果の認知や、より良い行動の選択、許容され難い社会的応答の無効化と抑圧、物事の類似点や相違点の判断に関する能力と関係している。

 頭頂葉(浅野さんの言うの部位):外界の認識に関わる部分
 脳幹(浅野さんの言うの部位):大脳からでるすべての命令や、大脳に向かうすべての情報が通るところ
 感覚領(浅野さんの言うの部位):大脳皮質に存在し,感覚に関与している部分。皮膚感覚や深部感覚などの体性感覚野は大脳の中心後回に,聴覚野は側頭葉に,視覚野は後頭葉に,そして嗅覚野はその付近に,味覚野は体性感覚野と嗅覚野の中間にある。(つまり、浅野さんの言う脳の知覚領には聴覚野はなく、側頭葉にあるとこの人は言うのです:筆者)
 運動領(浅野さんの言うの部位):骨格を支配する脳幹と脊髄の運動神経細胞に神経信号送って運動を起させる
 ことほどさように、同じ脳科学者でも、脳の部位と働きについての解釈はかなり異なるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 浅野さんの思想に対する筆者の疑問の第二点は、浅野さんは五蘊という脳の各部位の神経活動を、ブッダの言葉である「炎のたとえ」に対比しているところです。すなわち浅野さんは、「心とは、五蘊それぞれが炎となって燃え、それらがダイナミックに変化して綜合されたものだ」と言うのです。しかしその対比はまちがっていると思います。なぜなら、ブッダは

 ・・・人間のさまざまな欲望は炎のように燃えている。それを鎮めることが心の平安である・・・

と言っているだけなのです。前回お話したように、浅野さんは結論として、「脳の機能を情動と理性に分けて、それらのバランスを取ることが大切だ」と言っています。しかし、炎となって燃えるのは情動であって、理性はクールなものです。けっして「燃えるもの」ではないはずです。つまり浅野さんは五蘊を脳の各部位の神経活動と結びつけた自分の考えを、都合よくブッダの「炎の思想」に結びつけただけだと思います。

 浅野さんの思想に対する筆者の疑問の第三点目は、浅野さんの言う「情動と理性のバランスの大切さ」についてです。これは、今を問わず、良識ある人間なら当然承知して身を処しているのであり、ブッダに言われるまでもないことですね。つまり宗教思想とは言えない、常識です。これに対し、五蘊を正しく解釈すれば、五蘊皆空という重要な仏教思想に結び付くのです。

 筆者は、浅野さんの言う「大脳の各部分の働きがダイナミックに変化して心を作る」という考えに疑問を呈しているのではありません。浅野の五蘊の解釈自体に問題があるのに、それらをと結び付けていることに疑問を呈しているのです。
 

四国遍路のシーズン

四国遍路のシーズン

 いよいよ春が近づき、遍路のシーズンになります。志す人は毎年20万人にも及ぶとか。1200キロ(1450キロとも)を歩き通す人もいれば、バスツアー、自転車や車で巡る人もいるそうですが、一番多いのは、シーズンごとに10か所くらい歩いて回り、次の回にはそこまで電車で行って、そこから始め・・・という人もいる由。筆者の友人にも四国遍路をした人たちがいます。中には八十八ヶ所所だけでなく、別格二十ヶ所、さらには西国三十三ヶ所巡礼も結願し、最後の高野山や谷汲山へお礼参りもした人もいます。巡礼者たちは、各札所ごとに般若心経や不動明王の真言を唱え、印をいただいて、参拝の証とすると聞きます。
 巡礼の動機は、亡き親族の供養から、新しい自分を見付けるきっかけを見つけるためなど、人さまざまなようです。

 最近、その友人の一人とお話しました。筆者のブログを読んでいただいていることもあり、「四国遍路をどう思うか」との質問も、話の流れで出ました。筆者がこのブログシリーズで、日本仏教に対して厳しい目を持っていることを承知の上での質問でしょう。もちろん筆者は「尊いことだ」と思っています。筆者は以前から四国遍路に興味を持ち、テレビの体験番組から、ドラマまでほとんど見ていると思います。

 弘法大師開祖の高野山のご本尊については、ネットで調べてもよくわかりません。高野山と言っても金剛峯寺をはじめとする各寺院の集合体ゆえでしょう(金剛峯寺の御本尊は薬師如来とあります)。高野山は日本古代神道系の山岳信仰と習合していることが、不動明王をも崇めている理由でしょう。四国八十八か所寺では弘法大師その人を御本尊としていると聞きます。
 崇める対象がさまざまであることは、キリスト教やイスラム教徒から見れば「驚くべきこと」でしょう。筆者にも当惑するところがないではありません。ただ、本来、空海が尊重したのは、大日如来、つまり、宇宙の最高神ですから、空海を拝んでも結局は大日如来に帰依することになり、問題はないでしょう。しかも、筆者が四国遍路を「尊いことだ」と考えるのは別の観点からです。

 筆者には遍路を続けている人の心の変化に興味があります。以下は、体験者の言葉や、テレビ番組の内容に、筆者の感想を加えたものです。
 まず、最初の数日は歩きながら、それまでの人生の苦しかったこと、悲しかったことを次からつぎへと思い出すのでしょう。自分への嫌悪感、思い通りにならない世間に対する不満を繰り返すこともあるかもしれません。しかし、何日か経つと足は痛く、疲れも重なって来るし、単調な景色にも見飽きて、だんだん何も考えなくなり、ただひたすら歩くだけになるでしょう。
 巡礼をしていると、各地の住民たちから接待を受けることはよく知られています。報謝そのものが巡礼したとことになるからだと言います。そして、各札所で真剣に参拝しているうちに、おのずと、「自分一人の力で巡礼を続けているのではない」ことを知るのでしょう。つまり、「歩いている自分」から、「歩かせていただいている自分」に気付くのだと思います。つまり、苦しんだり悲しんだりしている「内向きの自分の目」から「生かされている」という、「外から自分を見つめる」との、思考の逆転が起こるのだと思います。
 これこそ、四国遍路の最大の収穫でしょう。これらのことに気付けるかどうか、それが成功するかどうかとの分かれ目でしょう。一回でわかる人もいれば、100回以上回る人もいます。しかし、10回巡錫しようと100ぺん回っても気付かなくても、それはそれでいいのだと思うのです。

志慶真文雄さんと浄土の教え(1)

志慶真文雄さんと浄土の教え(1)

 志慶真さんは沖縄県うるま市で小児科医院を開くかたわら、二階に聞法(もんぼう)道場をつくり、仏教講演会、仏教読書会などを開催していらっしゃいます。聞法とは、おもに浄土真宗で使われる言葉で、仏教の教えを聞くことです。
 志慶真さんは 「十歳のある日、夜空の星を見ながら、自分がいずれこの地上から消えてしまうという恐怖感とむなしさに襲われた。その日を境に生きていくのがつらくなり、誰か助けてくれという悲鳴をあげながら過ごしてきた」と言います。そして大学時代、「歎異抄」に関する聞法を通して、浄土真宗に出会ったのです。以後二十年にわたってそれを続け、沖縄に帰って開業し、「まなざし仏教塾」を開きました。現在は、ビハーラ医療団(註1)にも属し、「仏教の基盤に立った医療活動をしていきたい」と言っておられます。
 筆者が志慶真さんのことを知ったのは、2014年11月のNHK教育テレビ「こころの時代」でした。経歴も、テレビ映像から伺えるお人柄も誠実そのものの人で、深い印象を受けました。
 しかし、筆者には、そのおっしゃっていることで心に響くところはまったくないのです。浄土の教えを深く学んだ結果、どんなところに感銘したのか、視聴者に何を伝えたいのかが読み取れないのです。たとえば、

tannisho.a.la9.jp/seishi_wo_koerumichi_ge.html
http://manazasi-letter.com/index.php?2014%C7%AF(%CA%BF%C0%AE26%C7%AF)

をお読みください。ふしぎな気がします。誠実に生き、ひたむきに仏教の教えを学び、広めようとしている人を批判するのは大きなためらいがありますが、やはり見過ごすことはできません。ビハーラ医療団についても、その趣旨はあくまでも終末期のカウンセリングであって、けっして志慶真さんのおっしゃるような「仏教精神に基づく医療活動」ではないはずです(註1)。

 志慶真さんがテレビで「仏説無量寿経は宝の山です」とおっしゃっていましたのには驚きました。「仏説無量寿経」については、以前、このブログシリーズでお話しましたように、弥陀の四十八願という、「阿弥陀仏がすべての人を救うために立てた誓い」が書いてあります。しかし、そのエピソードがすべてフィクションであることは考えるまでもないでしょう。フィクションから何を学ぶというのでしょうか。さすがに浄土真宗当局の中にも「事実だ」と言うことに不安があるようで、「釈迦のようなすぐれた人が深い瞑想の結果感得したことだ」と註釈を付けています。しかし、これは宗教でよく見られる「逃げの論法」なのです。そう言われてしまえば議論は終わってしまうからです。

 筆者は、志慶真さんは法然の思想を誤解されていると思うのです。法然の著作をよく読めば、法然自身、「仏説無量寿経」の内容など重視してないことは明白なのです。法然や親鸞は、そんなものを飛び越えて、一気に他力本願の思想を理解したのです。筆者がそう考えた理由についてはのちほど改めてお話します。志慶真さんは他の宗教にも目を向けるべきだったと思います。
 今、わが国の仏教が滅びつつあるのはだれの目にも明らかです。志慶真さんのような浄土の教えの理解では、その衰退を止めようがないと思うのです。志慶真さんも読者の皆さんも、筆者のこの提言を虚心に受け止めていただくことを祈っています。

註1 ヒバーラ医療団とは、ネットで検索しますと、浄土真宗の教えを学び、ビハーラ(仏教ホスピス)運動を推進する医療関係者・ビハーラ関係者のネットワーク組織。1998年7月に内田桂太(岩手県立磐井病院院長、田畑正久(東国東国保総合病院院長)、田代俊孝同朋大学教授の呼びかけで発会。全国組織で会員は多くが医師などの医療関係者であり、同時に僧籍を持つ。毎年、各地で「仏教と医療を考える研修会」を開催。とあります。

佐野洋子さんの死生観(1,2)

佐野洋子さんの死生観(1)

 絵本作家でエッセイストの佐野洋子さん(1938‐2010)の大人の絵本(挿絵は北村裕花)のことは、NHK番組「ヨーコさんの言葉」で知りました。単行本「ヨーコさんの言葉 それが何ぼのことだ」(講談社)になり、早速読みました。その中にとても感動的な一章があり、ご紹介します(少し多くの部分を引用させていただきますが、本の売れ行きにマイナスでなく、プラスになることを願っています)。

フツーに死ぬ

 医者はレントゲン写真をビューアーにはさんで、
 少し沈痛な面持ちをしていた
 「ガンですね。一週間かもう少しもつか」
 フネ(愛猫:筆者註)を連れて帰った。
 フネはじっとめをつぶって 置いたままの姿勢だった。
 そばに水を置いてスーパーに行った。
 一番高いかんずめを十個買った。
 白身の魚のあまりのうまさに、
 パクパク食べてガンがだまされるかもしれん。
 レバーなんぞペロペロ食べたら、もしかしたら ガンも負けるかもしれん。
 高いったって安いものだ。
 しかし奇跡は起こらないだろうとも思う。
 小さな皿にスプーン一さじをとり分けて
 フネの鼻さきに持って行った。
 匂いをかいでフネは一さじ分を食べた。
 私は勇んでもう一さじを入れた。
 フネは口を閉じたまま私の目を見た。
 「ねえ、食べな」と私は言った。
 フネは私の目を見ながら
 舌を出して白身を一回だけなめた。
 私の声に一生懸命こたえようとしている。
 お前こんないい子だったのか、知らんかった。
 ガンだガンだと大さわぎしないで、ただじっと静かにしている。
 なんと偉いものだろう。
 時々そっと目を開くと、
 遠く孤独な目をして、またそっと目を閉じる。
 静かな諦念がその目にあった。
 一週間、私はドキドキハラハラ浮わついていたのに、
 フネは部屋の隅で、ただただ 
 静かに同じ姿勢で、かすかに腹を波打たせているだけだった。
 見るたびに、偉いなー、人間はダメだなー、と感心した。
 二週間過ぎると、風呂場のタイルにうずくまるようになった。
 熱があって 冷たい所に行きたいのか、暗いところで 邪魔されたくないのか。
 ちょうど一月たった。 フネは部屋の隅にいた。クエッと変な声がした。
 ふり返ると少し足を動かしている。
 ああ、びっくりした、死んだかと思ったよ。
二秒もたたないうちに、またクエッと声がして、フネは死んだ。
全然びっくりしなかった。
私はフネを見るたびに、人間がガンになる動転ぶりと比べた。
この小さな生き物の、
生き物の宿命である死を
そのまま受け入れている目に
ひるんだ。
その静寂さの前に恥じた。
私がフネだったら、わめいて
うめいて、その苦痛を呪うに違いなかった。
私はフネのように、死にたいと思った。
人間は月まで出かけることが出来ても、
フネのようには死ねない。
フネはフツーに死んだ。

感動的なお話しですね。しかし、これはウソだと思います。犬や猫など、人間以外の生き物には死の不安はないと筆者は考えます。危険を避ける本能はあると思いますが。ウソと言って悪ければ文学です。文学では人を救うことはできません。猫の死生観と言うより佐野さん自身の死生観でしょう。佐野さんはたしかにきっぱりとした人生観をお持ちの方です。それについては次回お話します。

佐野洋子さんの死生観(2)

 筆者の年齢になりますと、友人達が集まったとき、よく死生観の話が出ます。同年代の人たちの訃報が次つぎに来ますし、わが身にも色々不具合が出てくるからでしょう。中には「僕はもういつ死んでも後悔はない」と言う人がいます。しかし筆者は心の中で即座に「ウソだ」と思います。もちろんニコニコと聞いていますが・・・。そのときになってみなければわからないと思うからです。高名な禅師仙厓が死の間際に「死にとうない」と言って弟子たちを驚かせた有名な話があります。

 友人の一人がガンの生検を受けたときの気持を話してくれました。「検査結果は来週お話しますので、家族の方と一緒に来てください」と看護婦さんに言われたとき、「いや一人で大丈夫ですと言った。たとえガンと宣告されても絶対に動揺などしないとの自信があったからだ」と。「それでもぜひ」と言われて、「まあ、相手の立場もあるだろうから」と、次の週に奥さんを連れて行ったそうです。「結果は白だったけど、ひょっとしたら自分一人で行ってガン宣告を受けたら、帰りの電車ではどうだったかなー」と言っていました。そのへんが正直なところでしょう。

 じつは佐野さん御自身が乳ガンになり、7年後に亡くなられました。

 佐野さんは「死ぬ気まんまん」(光文社)で、
 ・・・「何よりも命が大事だというのはおかしい。私は闘病記が大嫌いだ。それからガンと壮絶な闘いをする人も大嫌いだ」と。そしてガンの脳への転移を医師から告げられると、「これで老後の心配がなくなった」。ガンが大腿骨にまで転移して痛いので、這うように病院に行ってもタバコは止めなかった。病院はもちろん禁煙だから帰りのタクシーで吸負うと思っていたが、タクシーも禁煙だったため、病院帰りに新車のジャガーを買った。車にさえ乗れば右足は動くから、自分の車でたばこを吸うためにである・・・「余命はあと2年です」と言われた時「これで老後の心配な無くなった」。「2年間の治療費はどれぐらいになりますか」と聞くと、「一千万円くらいでしょう」と言われ、「それくらいの値段のジャガーを買った」・・・
 これらの言葉はそのまま佐野さんの心を表わしたものだと思います。佐野さんは最後に骨髄にまでガンが転移して、「あまりの痛さにパジャマのひもを柱に縛り付けた。そうしなければ2階まで這い上がって行ってベランダから谷へ身を投げるかもしれないから」だ。そういう自分さえ客観的に眺めていた人なのです。まったくすごい人です。
 それは、いくつかの著作を読めばわかります。ちなみに「最後に『クエッ』と言って死んだのは愛猫のフネではなく、2年間寝たきりだったお父さんでした。

 ある、筆者の著書に関連して開いていただいた集まりで、「あなたの死生観は何ですか」と聞かれたことがあります。批判的な響きがありましたので、適当に答えておきました。しかし、親友にさえ言わないことを初対面の人間に言うはずがありません。筆者の心の奥底の問題ですし、第一、そのときになってみなければわからないからです。
 よく言われることですが、ガンが宣告された人はまず、「そんなはずがない」と、いろいろな別の病院へ行く。検査が進んで、だんだん本物のガンだとわかると、「神も仏もあるものか」「どうして私だけが」と怒る。次に「あと10年生かして下さい」というように神と取引する。さまざまな本を読んだり、新興宗教を尋ねたりする。そしていよいよダメだとなると、うつになり、最後に静かな諦めが来るそうです。(EC・ロス「死ぬ瞬間」読売新聞社)。ただ、前述の佐野洋子さんは、「私にはそういうのがぜんぜん当てはまらない」と言う。
  作家であり、僧侶でもある瀬戸内寂聴さんが、病気で激しい痛みが続いた時、「神も仏もあるものか」とテレビで公言したことがあります。驚いたNHKの渡辺あゆみアナウンサーが「でもあなたは僧侶ですし、仏教の教えについての講演や本もたくさん出していらっしゃるではないですか」と聞くと、「私は小説家ですから」と切り返していました。ことほどさように、筆者は小説家の死生観など信じていません。そのことは、吉村昭や津村節子さんを例として、以前に書きました。
 一方、佐野洋子さんの人間観は、これらの人とは次元が違うようです。「死ぬというのは当然のことだ。みんな仲よく元気に死にましょう」と言うのですから。
佐野さんは言います。
 ・・・どんなに冷静沈着な人でも、頭で考えることと気持ちの底の底は自分でもわからないのだ。
 その時にならないとわからないのだ。
 奥さんも医者もわからなかったのだ。
患者の言葉の向こう側の言葉でないものは、その時が来ないとわからない。
理性や言葉は圧倒的な現実の前に、そんなに強くないのだ・・・

筆者もまったく同感です。