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五蘊と脳の働き-浅野孝雄さんの考え(1-3)

脳科学と仏教‐浅野孝雄さんの考え(1)

NHK「こころの時代」心はいかにして生まれるか‐脳科学と仏教の共鳴」より

 浅野孝雄さん(1943-、埼玉医科大学名誉教授)は、脳外科医師。幼少時から熱心な浄土真宗信者であるお母さんの信仰を目の当たりにし、お経を読まされ、講話も聴いた。内容には疑問を持ちながらも影響を受けて来た。専門の脳外科医として活躍するうちに、どうしても患者に意識とか心について話さなければならなくなった。そして自然に脳の働きと仏教思想との関連に興味を持つようになったと言います。そこで上記の自分の原風景をベースにして、まず自分の心を理解しようと、改めて仏教を勉強した。そして、浅野さんは「古代インド仏教と現代脳科学における心の発見」(産業図書)を著わしました。

 番組によると、浅野さんは、仏教の代表的思想である五蘊の考えと、脳のさまざまな働きには大きな共通性があることに気付いたと言います。
 すなわちブッダの考え、
 ・・・人間存在は炎のようなものだ・・・修行僧よすべては燃えている。貪欲の火によって。嫌悪の火によって。迷いの火によって燃えている誕生・老衰・憂い・悲しみ・苦痛悩み・悶えによって燃えているのだ・・・(「燃える火の教え」中村元訳 註1)

を引用しつつ、五蘊を脳の各領域のそれぞれの働きと次のように関連付けています。まず、
 ・・・五蘊とは炎のような人間の心を構成する五つの要素。これらが互いに影響を及ぼしながら一つの大きな炎を作り上げる。それが心だ・・・

と述べています。すなわち、浅野さんの五蘊の解釈は、

 (ふつう、人間の体や木や草など、形のあるものすべてを表しますが、浅野さんは、モノが外界にあるのではなく、人間が形成
し、知覚するもの。すなわち、意識に上って来る知覚の働きと解釈。つまり唯識的な考え:筆者)=脳の知覚領(以下同じ)
 (美味しいものは美味しい、不味いものはマズイ、痛いものは痛いという知覚が生じるに従って出てくる怨憎会苦や喜怒哀楽の感情。それに伴って生じる情動)=視床下部と脳幹
 (理性的、知性的働き。出来上がったイメージを組み合わせて一つのまとまった形にする)=頭頂葉
 (こうしたい、ああしたいと、自分の中で起こって来る欲望・衝動的欲求。無意識の中から上って来る人間のすべての感情・行動)→煩悩に結びつく=運動領
 (分別・思考・判断など、人間が論理的に施行する能力)=前頭葉

と解釈しています。そして、
 ・・・これらによって人間の高次脳機能を網羅。それらは大脳皮質の(上記の)それぞれの部分に分かれて存在。これらの精神活動が、それぞれ燃えている。これら五つの脳の領域が相互に刺激を与えあって心を生じる。これらのものが統合されなければ意識にはならない。これら五つの火が燃えて大きな炎になる。「それが心だ」とブッダは言った。火のように動的なもの。そのイメージそのものが自然のエネルギー、生命力であり、しかも動的に変化する形。ブッダが自然現象の炎にたとえたところに彼の天才性がある・・・
と言います。

 そして、浅野さんは、「これらの脳領域の働きが理性と情動を作る。そして両者のバランスを取ることが正しく生きること」と結論付けています。
しかし、筆者にはこれらの浅野博士の考えには疑問があります(次回に続きます)。

註1 「ブッダ伝」中村元 (角川ソフィア文庫)(「スッタニパータ」「サンユッタ・ニカーヤ」「ダンマパダ」「テーラガーター」「テーリーガーター」「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」などの原始仏典から重要なエピソードをブッダの生涯の歩みに合わせて年代順に紹介する構成になっています)。たとえば、 
 ・・・ガヤー山(伽耶山。象頭山)で修行を続ける弟子たちにブッダは「燃火の教え」を説いたと伝えられています。「比丘たちよ! われわれの心の中はすべてが燃えている。色が燃えている。眼が燃えている。耳が燃えている。音が燃えている。鼻が燃えている。舌が燃えている。味が燃えている。身体が燃えている。接触するものが燃えている。思考が燃えている。何によって燃えているのか。貪欲・瞋恚・愚痴の三毒、煩悩によって燃えているのだ。誤った三毒を除くならば、苦悩の原因は除かれる。正しい認識と正しい行動をすることによって、一切の束縛を解脱し、涅槃の境地に達することができる・・・

脳科学と仏教ー浅野孝雄さんの考え(2)

 前回、浅野孝雄さんの、「仏教の五蘊の思想を大脳のさまざまな部分の働きに対比させる」という考えには疑問があるとお話しました。以下筆者の考えについてお話します。

筆者の解釈では、
 色蘊  –  人間の体(眼や耳、皮膚などの感覚器官)と、認識する対象、すなわちモノ
 受蘊  -  見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚などで感覚したものをイメージとして形成する働き
 想蘊  - 「あれは〇〇だ」と分析し、識別する働き
 行蘊  - 「〇〇を取りたい」などの情動
 識蘊  – 「きれいな〇〇だ」などの価値判断する働き

となります(註2)。たとえば上記の〇〇がバラだとしますと、バラは色蘊、それを写した目の網膜上の画像が受蘊。「これはバラだ」と分析するのが想蘊。「きれいだ」と判断するのが識蘊。「取りたい」と思うのが行蘊です。

 つまり、受蘊で感覚したモノを想蘊が同定し、その内容を識蘊が識別。行蘊が「あれを取りたい」と思う。すなわち、筆者は「五蘊」とは、人間の認識作用だ(見て聞いて・・・判断し、行動する)と解釈しているのです。つまり、五蘊のそれぞれが縦につながってモノゴトを認識し、それに基づいて行動する仕組みを言っているのです。浅野さんの解釈とは違うことがおわかりいただけるでしょう。

 筆者の解釈を別の譬えで説明しますと、

 ここに人工知能(AI)を持ったロボットが階段を下りるという場面を想像してください。まず、ロボットにあるカメラ(人間の眼ですね)のセンサーが状況をとらえます(テレビ画面とお考え下さい。人間の網膜です)。これが五蘊のうちの受蘊です。しかし、それが階段であるか、平地であるかはわかりません。「なにかあるモノ」が写っているだけです。それが階段であることを識別するにはAIが持っている記憶の中から同じようなものがないかを識別して、「階段だ」と分析します。それが想蘊です。つぎに、ロボットのAIは、「このまま進むと危ない」と判断します。識蘊ですね。そして「注意して降りよう」とします。これが行蘊です。

 これに対し浅野孝雄さんは前述のように、「五蘊とは人間の脳の働きを構成する五つの要素であり、それらが相互に影響をおよぼしあって心を形成す」ると解釈しています。つまり、浅野さんの考えでは、「五蘊はそれぞれ対等な精神活動であり、それの相互作用によって心が形成される」と言うのでしょう。

 個々の五蘊について、浅野さんの考えと筆者の考えとをくわしく比較しますと、

1)受蘊について:浅野さんは、眼や耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官によるイメージの形成(筆者の言う受蘊)と、脳による「これは〇〇である」という分析(筆者の言う想蘊)、そして「きれいだ、きたない」などの感想とか好み、つまり判断(筆者の言う識蘊)を受蘊に混ぜて入れています。
2)想蘊について:浅野さんは「理性的、知性的働き」と解釈していますが、それは浅野さんの識蘊の解釈、すなわち、「分別・思考・判断など、人間が論理的に施行する能力」と同じです。つまり、両者をごっちゃにしています。

以上が、浅野さんの思想と筆者の考えとの違いの第一点です。

註2 五蘊について、浅野さんの理解とは異なる他の人の解釈もあります。たとえば、増谷文夫「阿含経典(1)」(ちくま学芸文庫)では、
 ・・・人間を分析して、肉体的要素と精神的要素に分け、精神的要素を四つに分った。ここに「色」というのは、その肉体的要素を指す言葉である。そして、その精神的要素については、さらにそれを分析してそれを四つの要素に分った。「受」というのは感官のいとなみ、すなわち、受動的感覚である。「想」というのは表象作用、つまり、感覚によってイメージを造成するいとなみである。また、「行」というのは、その表象にたいして、快もしくは不快を感じ、追求もしくは拒否の能動的意志の作用にうごく段階である。そして、最後に「識」とは意識、すなわち理性のいとなみがはたらく段階である・・・
とあります・・・

ちょっとわかりにくいところもありますが、「色」は別として、あとは筆者の解釈とほぼ同じように思われます。

脳科学と仏教‐浅野孝雄さんの考え(3)

 ここで、脳の部位と機能について、他の脳科学者の意見では、

 前頭葉(浅野さんの言うの部位):現在の行動によって生じる未来における結果の認知や、より良い行動の選択、許容され難い社会的応答の無効化と抑圧、物事の類似点や相違点の判断に関する能力と関係している。

 頭頂葉(浅野さんの言うの部位):外界の認識に関わる部分
 脳幹(浅野さんの言うの部位):大脳からでるすべての命令や、大脳に向かうすべての情報が通るところ
 感覚領(浅野さんの言うの部位):大脳皮質に存在し,感覚に関与している部分。皮膚感覚や深部感覚などの体性感覚野は大脳の中心後回に,聴覚野は側頭葉に,視覚野は後頭葉に,そして嗅覚野はその付近に,味覚野は体性感覚野と嗅覚野の中間にある。(つまり、浅野さんの言う脳の知覚領には聴覚野はなく、側頭葉にあるとこの人は言うのです:筆者)
 運動領(浅野さんの言うの部位):骨格を支配する脳幹と脊髄の運動神経細胞に神経信号送って運動を起させる
 ことほどさように、同じ脳科学者でも、脳の部位と働きについての解釈はかなり異なるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 浅野さんの思想に対する筆者の疑問の第二点は、浅野さんは五蘊という脳の各部位の神経活動を、ブッダの言葉である「炎のたとえ」に対比しているところです。すなわち浅野さんは、「心とは、五蘊それぞれが炎となって燃え、それらがダイナミックに変化して綜合されたものだ」と言うのです。しかしその対比はまちがっていると思います。なぜなら、ブッダは

 ・・・人間のさまざまな欲望は炎のように燃えている。それを鎮めることが心の平安である・・・

と言っているだけなのです。前回お話したように、浅野さんは結論として、「脳の機能を情動と理性に分けて、それらのバランスを取ることが大切だ」と言っています。しかし、炎となって燃えるのは情動であって、理性はクールなものです。けっして「燃えるもの」ではないはずです。つまり浅野さんは五蘊を脳の各部位の神経活動と結びつけた自分の考えを、都合よくブッダの「炎の思想」に結びつけただけだと思います。

 浅野さんの思想に対する筆者の疑問の第三点目は、浅野さんの言う「情動と理性のバランスの大切さ」についてです。これは、今を問わず、良識ある人間なら当然承知して身を処しているのであり、ブッダに言われるまでもないことですね。つまり宗教思想とは言えない、常識です。これに対し、五蘊を正しく解釈すれば、五蘊皆空という重要な仏教思想に結び付くのです。

 筆者は、浅野さんの言う「大脳の各部分の働きがダイナミックに変化して心を作る」という考えに疑問を呈しているのではありません。浅野の五蘊の解釈自体に問題があるのに、それらをと結び付けていることに疑問を呈しているのです。
 

四国遍路のシーズン

四国遍路のシーズン

 いよいよ春が近づき、遍路のシーズンになります。志す人は毎年20万人にも及ぶとか。1200キロ(1450キロとも)を歩き通す人もいれば、バスツアー、自転車や車で巡る人もいるそうですが、一番多いのは、シーズンごとに10か所くらい歩いて回り、次の回にはそこまで電車で行って、そこから始め・・・という人もいる由。筆者の友人にも四国遍路をした人たちがいます。中には八十八ヶ所所だけでなく、別格二十ヶ所、さらには西国三十三ヶ所巡礼も結願し、最後の高野山や谷汲山へお礼参りもした人もいます。巡礼者たちは、各札所ごとに般若心経や不動明王の真言を唱え、印をいただいて、参拝の証とすると聞きます。
 巡礼の動機は、亡き親族の供養から、新しい自分を見付けるきっかけを見つけるためなど、人さまざまなようです。

 最近、その友人の一人とお話しました。筆者のブログを読んでいただいていることもあり、「四国遍路をどう思うか」との質問も、話の流れで出ました。筆者がこのブログシリーズで、日本仏教に対して厳しい目を持っていることを承知の上での質問でしょう。もちろん筆者は「尊いことだ」と思っています。筆者は以前から四国遍路に興味を持ち、テレビの体験番組から、ドラマまでほとんど見ていると思います。

 弘法大師開祖の高野山のご本尊については、ネットで調べてもよくわかりません。高野山と言っても金剛峯寺をはじめとする各寺院の集合体ゆえでしょう(金剛峯寺の御本尊は薬師如来とあります)。高野山は日本古代神道系の山岳信仰と習合していることが、不動明王をも崇めている理由でしょう。四国八十八か所寺では弘法大師その人を御本尊としていると聞きます。
 崇める対象がさまざまであることは、キリスト教やイスラム教徒から見れば「驚くべきこと」でしょう。筆者にも当惑するところがないではありません。ただ、本来、空海が尊重したのは、大日如来、つまり、宇宙の最高神ですから、空海を拝んでも結局は大日如来に帰依することになり、問題はないでしょう。しかも、筆者が四国遍路を「尊いことだ」と考えるのは別の観点からです。

 筆者には遍路を続けている人の心の変化に興味があります。以下は、体験者の言葉や、テレビ番組の内容に、筆者の感想を加えたものです。
 まず、最初の数日は歩きながら、それまでの人生の苦しかったこと、悲しかったことを次からつぎへと思い出すのでしょう。自分への嫌悪感、思い通りにならない世間に対する不満を繰り返すこともあるかもしれません。しかし、何日か経つと足は痛く、疲れも重なって来るし、単調な景色にも見飽きて、だんだん何も考えなくなり、ただひたすら歩くだけになるでしょう。
 巡礼をしていると、各地の住民たちから接待を受けることはよく知られています。報謝そのものが巡礼したとことになるからだと言います。そして、各札所で真剣に参拝しているうちに、おのずと、「自分一人の力で巡礼を続けているのではない」ことを知るのでしょう。つまり、「歩いている自分」から、「歩かせていただいている自分」に気付くのだと思います。つまり、苦しんだり悲しんだりしている「内向きの自分の目」から「生かされている」という、「外から自分を見つめる」との、思考の逆転が起こるのだと思います。
 これこそ、四国遍路の最大の収穫でしょう。これらのことに気付けるかどうか、それが成功するかどうかとの分かれ目でしょう。一回でわかる人もいれば、100回以上回る人もいます。しかし、10回巡錫しようと100ぺん回っても気付かなくても、それはそれでいいのだと思うのです。

志慶真文雄さんと浄土の教え(1)

志慶真文雄さんと浄土の教え(1)

 志慶真さんは沖縄県うるま市で小児科医院を開くかたわら、二階に聞法(もんぼう)道場をつくり、仏教講演会、仏教読書会などを開催していらっしゃいます。聞法とは、おもに浄土真宗で使われる言葉で、仏教の教えを聞くことです。
 志慶真さんは 「十歳のある日、夜空の星を見ながら、自分がいずれこの地上から消えてしまうという恐怖感とむなしさに襲われた。その日を境に生きていくのがつらくなり、誰か助けてくれという悲鳴をあげながら過ごしてきた」と言います。そして大学時代、「歎異抄」に関する聞法を通して、浄土真宗に出会ったのです。以後二十年にわたってそれを続け、沖縄に帰って開業し、「まなざし仏教塾」を開きました。現在は、ビハーラ医療団(註1)にも属し、「仏教の基盤に立った医療活動をしていきたい」と言っておられます。
 筆者が志慶真さんのことを知ったのは、2014年11月のNHK教育テレビ「こころの時代」でした。経歴も、テレビ映像から伺えるお人柄も誠実そのものの人で、深い印象を受けました。
 しかし、筆者には、そのおっしゃっていることで心に響くところはまったくないのです。浄土の教えを深く学んだ結果、どんなところに感銘したのか、視聴者に何を伝えたいのかが読み取れないのです。たとえば、

tannisho.a.la9.jp/seishi_wo_koerumichi_ge.html
http://manazasi-letter.com/index.php?2014%C7%AF(%CA%BF%C0%AE26%C7%AF)

をお読みください。ふしぎな気がします。誠実に生き、ひたむきに仏教の教えを学び、広めようとしている人を批判するのは大きなためらいがありますが、やはり見過ごすことはできません。ビハーラ医療団についても、その趣旨はあくまでも終末期のカウンセリングであって、けっして志慶真さんのおっしゃるような「仏教精神に基づく医療活動」ではないはずです(註1)。

 志慶真さんがテレビで「仏説無量寿経は宝の山です」とおっしゃっていましたのには驚きました。「仏説無量寿経」については、以前、このブログシリーズでお話しましたように、弥陀の四十八願という、「阿弥陀仏がすべての人を救うために立てた誓い」が書いてあります。しかし、そのエピソードがすべてフィクションであることは考えるまでもないでしょう。フィクションから何を学ぶというのでしょうか。さすがに浄土真宗当局の中にも「事実だ」と言うことに不安があるようで、「釈迦のようなすぐれた人が深い瞑想の結果感得したことだ」と註釈を付けています。しかし、これは宗教でよく見られる「逃げの論法」なのです。そう言われてしまえば議論は終わってしまうからです。

 筆者は、志慶真さんは法然の思想を誤解されていると思うのです。法然の著作をよく読めば、法然自身、「仏説無量寿経」の内容など重視してないことは明白なのです。法然や親鸞は、そんなものを飛び越えて、一気に他力本願の思想を理解したのです。筆者がそう考えた理由についてはのちほど改めてお話します。志慶真さんは他の宗教にも目を向けるべきだったと思います。
 今、わが国の仏教が滅びつつあるのはだれの目にも明らかです。志慶真さんのような浄土の教えの理解では、その衰退を止めようがないと思うのです。志慶真さんも読者の皆さんも、筆者のこの提言を虚心に受け止めていただくことを祈っています。

註1 ヒバーラ医療団とは、ネットで検索しますと、浄土真宗の教えを学び、ビハーラ(仏教ホスピス)運動を推進する医療関係者・ビハーラ関係者のネットワーク組織。1998年7月に内田桂太(岩手県立磐井病院院長、田畑正久(東国東国保総合病院院長)、田代俊孝同朋大学教授の呼びかけで発会。全国組織で会員は多くが医師などの医療関係者であり、同時に僧籍を持つ。毎年、各地で「仏教と医療を考える研修会」を開催。とあります。

佐野洋子さんの死生観(1,2)

佐野洋子さんの死生観(1)

 絵本作家でエッセイストの佐野洋子さん(1938‐2010)の大人の絵本(挿絵は北村裕花)のことは、NHK番組「ヨーコさんの言葉」で知りました。単行本「ヨーコさんの言葉 それが何ぼのことだ」(講談社)になり、早速読みました。その中にとても感動的な一章があり、ご紹介します(少し多くの部分を引用させていただきますが、本の売れ行きにマイナスでなく、プラスになることを願っています)。

フツーに死ぬ

 医者はレントゲン写真をビューアーにはさんで、
 少し沈痛な面持ちをしていた
 「ガンですね。一週間かもう少しもつか」
 フネ(愛猫:筆者註)を連れて帰った。
 フネはじっとめをつぶって 置いたままの姿勢だった。
 そばに水を置いてスーパーに行った。
 一番高いかんずめを十個買った。
 白身の魚のあまりのうまさに、
 パクパク食べてガンがだまされるかもしれん。
 レバーなんぞペロペロ食べたら、もしかしたら ガンも負けるかもしれん。
 高いったって安いものだ。
 しかし奇跡は起こらないだろうとも思う。
 小さな皿にスプーン一さじをとり分けて
 フネの鼻さきに持って行った。
 匂いをかいでフネは一さじ分を食べた。
 私は勇んでもう一さじを入れた。
 フネは口を閉じたまま私の目を見た。
 「ねえ、食べな」と私は言った。
 フネは私の目を見ながら
 舌を出して白身を一回だけなめた。
 私の声に一生懸命こたえようとしている。
 お前こんないい子だったのか、知らんかった。
 ガンだガンだと大さわぎしないで、ただじっと静かにしている。
 なんと偉いものだろう。
 時々そっと目を開くと、
 遠く孤独な目をして、またそっと目を閉じる。
 静かな諦念がその目にあった。
 一週間、私はドキドキハラハラ浮わついていたのに、
 フネは部屋の隅で、ただただ 
 静かに同じ姿勢で、かすかに腹を波打たせているだけだった。
 見るたびに、偉いなー、人間はダメだなー、と感心した。
 二週間過ぎると、風呂場のタイルにうずくまるようになった。
 熱があって 冷たい所に行きたいのか、暗いところで 邪魔されたくないのか。
 ちょうど一月たった。 フネは部屋の隅にいた。クエッと変な声がした。
 ふり返ると少し足を動かしている。
 ああ、びっくりした、死んだかと思ったよ。
二秒もたたないうちに、またクエッと声がして、フネは死んだ。
全然びっくりしなかった。
私はフネを見るたびに、人間がガンになる動転ぶりと比べた。
この小さな生き物の、
生き物の宿命である死を
そのまま受け入れている目に
ひるんだ。
その静寂さの前に恥じた。
私がフネだったら、わめいて
うめいて、その苦痛を呪うに違いなかった。
私はフネのように、死にたいと思った。
人間は月まで出かけることが出来ても、
フネのようには死ねない。
フネはフツーに死んだ。

感動的なお話しですね。しかし、これはウソだと思います。犬や猫など、人間以外の生き物には死の不安はないと筆者は考えます。危険を避ける本能はあると思いますが。ウソと言って悪ければ文学です。文学では人を救うことはできません。猫の死生観と言うより佐野さん自身の死生観でしょう。佐野さんはたしかにきっぱりとした人生観をお持ちの方です。それについては次回お話します。

佐野洋子さんの死生観(2)

 筆者の年齢になりますと、友人達が集まったとき、よく死生観の話が出ます。同年代の人たちの訃報が次つぎに来ますし、わが身にも色々不具合が出てくるからでしょう。中には「僕はもういつ死んでも後悔はない」と言う人がいます。しかし筆者は心の中で即座に「ウソだ」と思います。もちろんニコニコと聞いていますが・・・。そのときになってみなければわからないと思うからです。高名な禅師仙厓が死の間際に「死にとうない」と言って弟子たちを驚かせた有名な話があります。

 友人の一人がガンの生検を受けたときの気持を話してくれました。「検査結果は来週お話しますので、家族の方と一緒に来てください」と看護婦さんに言われたとき、「いや一人で大丈夫ですと言った。たとえガンと宣告されても絶対に動揺などしないとの自信があったからだ」と。「それでもぜひ」と言われて、「まあ、相手の立場もあるだろうから」と、次の週に奥さんを連れて行ったそうです。「結果は白だったけど、ひょっとしたら自分一人で行ってガン宣告を受けたら、帰りの電車ではどうだったかなー」と言っていました。そのへんが正直なところでしょう。

 じつは佐野さん御自身が乳ガンになり、7年後に亡くなられました。

 佐野さんは「死ぬ気まんまん」(光文社)で、
 ・・・「何よりも命が大事だというのはおかしい。私は闘病記が大嫌いだ。それからガンと壮絶な闘いをする人も大嫌いだ」と。そしてガンの脳への転移を医師から告げられると、「これで老後の心配がなくなった」。ガンが大腿骨にまで転移して痛いので、這うように病院に行ってもタバコは止めなかった。病院はもちろん禁煙だから帰りのタクシーで吸負うと思っていたが、タクシーも禁煙だったため、病院帰りに新車のジャガーを買った。車にさえ乗れば右足は動くから、自分の車でたばこを吸うためにである・・・「余命はあと2年です」と言われた時「これで老後の心配な無くなった」。「2年間の治療費はどれぐらいになりますか」と聞くと、「一千万円くらいでしょう」と言われ、「それくらいの値段のジャガーを買った」・・・
 これらの言葉はそのまま佐野さんの心を表わしたものだと思います。佐野さんは最後に骨髄にまでガンが転移して、「あまりの痛さにパジャマのひもを柱に縛り付けた。そうしなければ2階まで這い上がって行ってベランダから谷へ身を投げるかもしれないから」だ。そういう自分さえ客観的に眺めていた人なのです。まったくすごい人です。
 それは、いくつかの著作を読めばわかります。ちなみに「最後に『クエッ』と言って死んだのは愛猫のフネではなく、2年間寝たきりだったお父さんでした。

 ある、筆者の著書に関連して開いていただいた集まりで、「あなたの死生観は何ですか」と聞かれたことがあります。批判的な響きがありましたので、適当に答えておきました。しかし、親友にさえ言わないことを初対面の人間に言うはずがありません。筆者の心の奥底の問題ですし、第一、そのときになってみなければわからないからです。
 よく言われることですが、ガンが宣告された人はまず、「そんなはずがない」と、いろいろな別の病院へ行く。検査が進んで、だんだん本物のガンだとわかると、「神も仏もあるものか」「どうして私だけが」と怒る。次に「あと10年生かして下さい」というように神と取引する。さまざまな本を読んだり、新興宗教を尋ねたりする。そしていよいよダメだとなると、うつになり、最後に静かな諦めが来るそうです。(EC・ロス「死ぬ瞬間」読売新聞社)。ただ、前述の佐野洋子さんは、「私にはそういうのがぜんぜん当てはまらない」と言う。
  作家であり、僧侶でもある瀬戸内寂聴さんが、病気で激しい痛みが続いた時、「神も仏もあるものか」とテレビで公言したことがあります。驚いたNHKの渡辺あゆみアナウンサーが「でもあなたは僧侶ですし、仏教の教えについての講演や本もたくさん出していらっしゃるではないですか」と聞くと、「私は小説家ですから」と切り返していました。ことほどさように、筆者は小説家の死生観など信じていません。そのことは、吉村昭や津村節子さんを例として、以前に書きました。
 一方、佐野洋子さんの人間観は、これらの人とは次元が違うようです。「死ぬというのは当然のことだ。みんな仲よく元気に死にましょう」と言うのですから。
佐野さんは言います。
 ・・・どんなに冷静沈着な人でも、頭で考えることと気持ちの底の底は自分でもわからないのだ。
 その時にならないとわからないのだ。
 奥さんも医者もわからなかったのだ。
患者の言葉の向こう側の言葉でないものは、その時が来ないとわからない。
理性や言葉は圧倒的な現実の前に、そんなに強くないのだ・・・

筆者もまったく同感です。

臨床宗教師について(2)その不安

臨床宗教師について(2)その不安

 筆者は、ときどき「臨床宗教師になりたいと思います。研修はどんなものか教えてください」というメールをいただきます。先日、ご返事したものをご紹介しますと、

 ・・・メール拝読しました。臨床宗教師研修は、東北大学、龍谷大学、高野山大学、大谷大学などで開催されています。東北大学だけが年に何回か、いわゆる短期研修の形で行われています。あとの大学では大学院の課程として行われていますので、入学しなければなりません。あなたのご希望によれば東北大学のコースが適当と思われます。全国臨床宗教師協会事務局(連絡先:)へお問い合わせください。そのほかにキリスト教系のグリーフケア(悲嘆)アドバイザー研修制度、および上智大学グリーフケア人材養成講座があります。これらも大学院のコースではありませんので、あなたのご希望に沿うと思われます(連絡先:)
 
 臨床宗教師とは、終末期の患者さんの死の恐怖を軽くするためのカウンセリングです。キリスト教ではチャンプレン、仏教ではビハーラ僧とも呼びます。とても重要な役目で、筆者もますます発展していただきたいと思っています。ただ、筆者には、次の点でまだまだ大きな不安があります。

 第一に「お金はだれが出すか」です。上記のメールの方は現在介護士として働いておられるそうで、臨床宗教師になっても、当然生活が保障されなければならないでしょう。キリスト教系の団体では、古くから信者の金銭的奉仕の精神が広く行き渡っていますから、それによる援助の可能性は高いでしょう。一方、仏教系ではどうでしょうか。筆者の知るかぎり、ビハーラ僧を制度として雇い、給料を出している病院はただ一つです。上記の東北大学の臨床宗教師研修制度の修了生は2016年までに約140名ですが、担当の先生に直接聞いたところ、大部分の人は給料をいただけるような組織には属していないとのことです。つまり、すでにどこかの寺院の住職として生活の保障をされている人以外は、活動するとすればボランテイアとしてなのです。筆者が知っている数少ない終末カウンセリングの成功例は、僧侶として生活の基盤を持っている人と、キリスト教系大学の先生です。
 そもそも、心という重要な問題について、原理的に短期研修では無理ではないでしょうか。たしかに研修が終わった後も何回かフォローアップ研修が行われていますが、それでも、どうしても付け焼刃になってしまうような気がします。

 一方、介護士制度は、ご存知のように、国民が一定額の介護保険料を出し、それに基づく国の正式な制度です。現在、私たちは医療保険とともに介護保険料を払っています。とくに後期高齢者保険料は高額です。関係機関では、将来、臨床宗教師が国の正式な資格となることを目指しているいるとのことです。しかし、それが認められたとしても、国民が「終末期カウンセリング保険」制度まで受け入れるかどうかです。そもそも介護活動は、食事を作ったりや買い物など、一日も欠かすことのできない実務です。それゆえ、国民のだれもが納得しやすいでしょう。一方、終末期カウンセリングは、さまざまな人の心の問題だけなのです。そういういわばソフトのサービスに対して国民は保険料を払わおうとするでしょうか。つまり、はたして制度として納得するかどうかです。 いわんや個人的に謝礼を払える人などごくわずかでしょう

 第二に、講師の側、つまり、今のわが国の仏教僧たちには終末期カウンセリングの実務経験はほとんどないはずです。当ブログシリーズで何度も取り上げてきましたように、その宗教的素養についても不安があります。東日本大震災のあと、わが国の代表的仏教宗派から多くの僧侶が現地に派遣され、遺族の声に耳を傾けよう(傾聴)としました。しかし、「全く無力だった」と涙ながらに挫折を告白していた、見るからに誠実そうな僧侶もいたことを知らねばなりません。仮設住宅の扉に「傾聴お断り」の張り紙をされたところもありました。「ビハーラ僧は病院へ来るな」という声もあるのです。たしかに、葬式のイメージのある僧衣を着て、死の予感におびえる人たちの病棟を歩き回られたら、たまったものではないでしょう。研修を受けて終末期の患者さんのところへ何度か行っても、結局最後まで宗教的なことは何も話せず、ただ、よもやま話だけをして終わった僧侶もいます。

 日本人の大部分は仏教徒ですが、事実上は無宗教であることはよく言われていますね。いったい、いままで無宗教だった人に、はたしてカウンセリングができるのかどうか危ぶまれるのです。上記の東北大学の研修では、仏教の僧侶のみならずキリスト教の神父(牧師)さんや神道の宮司さんも講師となっています。形の上でも仏教徒であった人、キリスト教徒、無宗教の人たちも対象になることを想定しているからでしょう。しかし、多様な終末期患者に対して掛け持ちで(そうしない金銭的な保証が得られない)カウンセリングなどできるのでしょうか。ある終末期の患者さんが「今まで宗教など信じていなかったのに、この期に及んで宗教的カウンセリングを受けるのは・・・」と正直に言っていました。

 もちろん筆者は、これからの臨床宗教師やチャプレンの活躍を心から願っています。そして上で紹介した「臨床宗教師になりたい」と言う人たちに「情報提供などについて、できる限りお役に立ちたい」と返事しました。しかし、ブログを読んでいただいたことが臨床宗教師になりたいとのきっかけになったとすれば、筆者にも責任が生じます。上記の筆者の感想をお考えの上、すでにこれらの研修を修了した人たちの意見も聞いてから参加を決断されることをお勧めします。