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三界唯一心‐ そもそも三界の解釈がまちがっている(1、2)

三界唯一心‐ そもそも三界の解釈がまちがっている(1)

 「正法眼蔵」には第四十一・三界唯心巻があります。道元が三界唯一心・心外無別法について触れた部分です。三界とは、ためしにネットで調べてみますと、

・・・仏教の世界観で、生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域を、(1)欲界、(2)色界、(3)無色界の3種に分類したものを三界といいます(註1)。
(1)欲界はもっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む領域です。
ここには地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6種の生存領域(六趣、六道)があり、欲界の神々(天)を六欲天といいます。
(2)色界は前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな領域をいいます。絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名で呼ばれています。
(3)無色界は最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界です。ここの最高処を有頂天(非想非非想処)と称します(註2)・・・

こういう説明は多いのですが、まずこの解釈に問題があるのです。そこで、そこからお話します。三界と言うのは世界とか空間ではなく、心の状態のことなのです。ついでに言いますと、六道という言葉についても同じような誤った解釈があるのです。六道と言うのは、やはり、世界とか空間ではなく、心の状態のことなのです。ここをはっきりさせないと道元の思想はわかりません。

註1 釈迦はこの三界や六道での輪廻から解脱しているとされています。
註2 以前のブログで「地獄極楽思想は日本独自のものだ」とお話しました。
源信(942‐1017)が仏典類をよく調べて「往生要集」を書いたと言います。
地獄極楽思想は、この三界とか六道を誤解したものでしょう。

 三界や六道を、上記の引用「生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域(空間)としてしまうと、当然、輪廻転生と言う概念に至りますね。しかし、そもそも釈迦が輪廻転生について話すはずがありません。
 以前のブログで「そもそも釈迦仏教は、それ以前のヴェーダ信仰の対立命題として始まった」とお話しました。インドでは古くから輪廻思想がありました。しかし、それは、カースト制度という厳しい身分制度の理論的根拠となっていたのです。たとえば上位のバラモン(宗教者)やクシャトリア(武士)階級の人間は、死後も高い世界に至り、また生まれ変わるときにバラモンやクシャトリアになる。一方、バイシャ(一般市民)は上位の天空界へは行けない。さらにスードラ層は輪廻のサイクルからも外れていると言うのですから。
 「それはおかしい」と言ったのが釈迦なのです。釈迦が輪廻転生説を口にするはずがありませんね。そんなものは、明らかに後代付け加えられたものです。さらに、釈迦は「死んだ後はどうなるかなど、よくわからないことについては話題にするな」と言ったのです。無記と言います。インドの大衆から熱烈な歓迎を受けたのはこのためなのです(註3)。釈迦の思想をたどっていきますと、あくまで現実に即したものであり、大乗経典類のような観念的なものとは異なることがよくわかります。

註3 その後仏教がインドから駆逐されてしまった理由の一つもここにあるのです。すなわち、現代に続くインドの根強い身分制度の恩恵を受けている「上流階級」の人間が、釈迦仏教を排斥したのは当然でしょう。ちなみにもう一つの理由が、インド人には国民性ともいうべき強い現世利益志向があるのでしょう。これらの理由にマッチしたのが、今に続くヒンズー教なのです。
もちろん釈迦仏教には現世利益思想などまったくありません。

 前置きが長くなってしまいました。次回、本題の三界唯一心・心外無別法についてお話します。

三界唯一心‐ そもそも三界の解釈がまちがっている(2)

 前回お話したように、「正法眼蔵」には第四十一・三界唯心巻があります。道元が三界唯一心について触れた部分です。

この言葉は、もともと「華厳経・十地品」、とくに八十華厳の「三界所有、唯是一心」に由来するもので、心外無別法と対句として使われることが多いです。しかし、この重要な言葉にも誤った解釈が少なくありません。たとえば、

 「曹洞宗東海管区教化センターHP」では、道元の「正法眼蔵・三界唯心」の解説として、

 ・・・全宇宙のあらゆる現象は唯一心の現れだしたものであり、全存在は実在性のないものであるということであります・・・(中略)・・・私たちが認識し存在していると感じている世界は所詮私たちの心が、有る無しと認識しているにすぎないのであり、私たちの心を離れては存在するものではないのであります・・・

と解釈しています。これでは唯識思想と同じになってしまいます。唯識思想については以前このブログでもお話しましたが、要するに
 ・・・この世界のすべてのモノゴトは縁起、つまり関係性の上で現象しており、それを人が認識しているだけである。心の外に事物的存在はない ・・・
という思想であり、以下にお話するように、道元の思想とは違うのです。
 
 前回、「三界とか六道輪廻の思想が、死後の空間などではなく、心のあり方の問題だ」とお話しました。道元はこの前提に従って「正法眼蔵・三界唯心」を述べているのです(註1)。道元はまず、

 釈迦大師道(い)わく「三界は唯、一心にして、心の外に別法無し。心・仏、及び衆生、是の三は、差別無し。一句の道著は一代の挙力(こりき)なり、一代の挙力は尽力の全挙(ぜんこ)なり。

 三界とはただ一つの心である。心のほかにまた別の法はない。心も、仏も、衆生も別のものではない。この一句は、釈迦が一代の総力をあげてなされたものであり、三界唯心とは、釈迦のさとりのすべてである・・・

と言っています。つまり道元は、「三界、すなわち世の中のできごと、つまり、お金や人間の問題についての苦しみは、みな自分の心が見ている世界、物質世界を唯一絶対と考えて、こだわっているから生じるのだ」と言っているのです。
 そしてさらに、三界唯一心の思想は唯識説とは異なることを、

 三界は全界なり、三界はすなはち心といふにあらず

とはっきり述べています。けっして物質的世界の存在を否定しているのではないのです。「あなたが見ている世界は、別の人が見ている世界とは異なり、唯一絶対ではありません。正しいモノゴトの観かたで世界を見ることが大切です」と言っているのです。まさに、釈迦が一代を掛けて達した知恵ですね。

註1そもそも「華厳経」の唯心説自体、唯識説とは異なり 四大種(万物の構成要素とされる、地、水、日、風の四つの元素と、それらによって構成される物質)の存在を認め、それが認識されうるのは心の虚妄分別によると説かれています。

禅の要諦‐今日だけを生きる(1,2)

禅の要諦‐今日だけを生きる(1)

 本年初場所で稀勢の里関が初優勝した時のインタビューの、「今までの道は辛くて長くて大変だったでしょう。どんな気持ちで耐えてきましたか」の問いに対し、「一日一番の気持ちでやってきました。これからもそうして行きます」と言っていたのがとても印象的でしたね。

 今回のテーマは、禅に関するシリーズのまとめとして、もっと後でお話しする予定でした。しかし、現在ガン闘病中の人や、寝たきり老人の介護、認知症の連れ合いや、重い病気の家族の世話など、過酷な状況にあって、先の見えない日々を送っている人がたくさんいます。また大震災や不慮の事故で、かけがえのない肉親を失って取り返しのつかない日々を送っている人もいます。また長い間の引きこもりという、ともすれば家族からもわかってもらえない、つらい人生を送っている人も少なくないと言います。

 このブログシリーズでは、「禅の心を、少しでも苦しんでいる人たちにお伝えできれば」と考えています。もちろん筆者が禅についてわかったことはごくわずかです。しかし、大乗仏教に、「自未得度先度他(たとえ自分が未熟でも、まず他の人を助ける)」という基本的な立場があります。その言葉を拠り処にして発信続けています。
 いま述べた人たちの苦しみは、筆者のこれまでの体験とは比較にならないほど大きいと思います。それでもなんとかエールを送りたいと思っているのです。それらの人たちの多くは筆者のブログシリーズなど読んだことはないと思いますし、今でもそんな心の余裕もないでしょう。しかし、誰かがこれを読んで下さって、友人達にも伝わるかもしれません。

 相撲の世界では、昨日の失敗を引きずっても、明日の不安を思っても、絶対に今日勝つことはできないでしょう。稀勢の里の上記の言葉こそ、勝負の世界を生きている人が必死に学んだ教訓でしょう。その経験に基づいた言葉が「一日一番」なのだと思います。

 元横綱で相撲協会理事長だった北の湖さんが、現役時代のインタビューで「ピカッ」と光ることを言っていました。優勝した場所のすぐあとで、アナウンサーの「序盤に2敗された時は『今場所は優勝はダメだ』と思いましたか」と質問に対し、「いやそんなことはありません。一番一番懸命にやろうと思っていました」。「では終盤になって他の力士の負けが込んできたときは『これは行けるかもしれない』と思いましたか」と問うのに応えて、やはり、「いえそんなことはありません。一番一番に全力を尽くすだけだと思っていました」。そして北の湖さんは見事に優勝したのです。

 いかがでしょうか、北の湖さんや稀勢の里さんのような勝負に生きている人の言葉がこれなのです。比叡山の千日回峰行を生涯に2度も達成した酒井雄哉師に「一日一生」という著書があります。すさまじいばかりの苦行を乗り切った人です。北の海さんや稀勢の里さんの言葉と同じですね。だれも助けてくれない、自分一人で耐えなければならない人たちが、はからずも到達した境地なのでしょう。

 じつは、これこそ禅の要諦なのです。禅にもまったく同じ思想があるのです。禅は先人たちが数百年にわたって学んで到達した真理・・・正しいモノゴトの観かたなのです。けっして単なる「はげまし」や叱責などではないはずです。

禅の要諦‐今日だけを生きる(2)

 「空思想」とは、「私がいてモノを見る」という、これまでのモノの見かたとは異なり、「私がモノを見るという体験こそが真実だ」とくり返しお話してきました。「モノを見る」という体験は一瞬です。良いとか悪いとか、きれいだとか汚いという価値の判断は入り込む余地はありません。まずここが大切な点です。そして、体験は一瞬ですから、「限りなくゼロに近い一瞬の連続が人生だ」とも言います。
 「そんなことを言われても」と言う人は多いでしょう。当然です。私たちは物心ついた時からずっと、「私がいてモノを見る」という「モノゴトの見かた」に馴らされてきましたからです。モノゴトの見かたを切り替えればいいのです。簡単ではありません。ある程度の訓練は必要でしょう。それが修行なのです。

 しかし、世の中には「私がいてモノを見るというモノゴトの見かたは真実ではないのではないか」と気が付いた人もいるのです。ドイツのE.カントやわが国の西田幾多郎などです。西田は旧制高校生の頃からそんな疑問を持ち続けていたそうです。それが有名な「善の研究」になって結実しました。カントも西田も後に哲学者になりました。やはり彼らは非凡なのでしょう。
 
 筆者は30年ほど前、大きな問題に直面し、「いったいこれからどうなるのだろう」と不安に駆られた時期があります。次々に心配な要素が出てくるのです。その時相談した恩師から、「目の前の事態を一つ一つ対処して行けばいいのです」と言っていただき、心が休まったことがあります。そしてそのとおりだったのです。心配したことの多くが杞憂でした。そんなことは起きなかったのです。そして数年後、問題は見事に解決しました。それ以降も問題が起きるたび、いつもそれを信条として解決してきました。

 じつは、筆者が以前読んだD.カーネギーの「道は開ける」(創元社)にも同じようなことが書いてありました。苦しくてどうしたらいいのかわからず、ニッチもサッチも行かなくなった人たちへのアドバイスです。カーネギー自身の経験から導き出した人生訓なのです。カーネギーのアドバイスの主旨は「現在と、苦しかった過去、不安でたまらない未来との間にバリアーを作って不安の元を遮断し、今日だけを生きる」でした。どんなにつらい過去があっても、どんなに不安な未来があろうとも、「今日は生きている」と言うのです。「少なくとも今は間違いなく生きている」のですから。名言ですね。

 禅でも同じことを言っているのです。両者は別々に発想されたものでしょう。しかし、まちがいなく、人間が生きて行く上の大切な智慧なのです。

霊的世界はある(その6,7)

霊的世界はある(その6)

 加山雄三さんの体験

 「神秘世界のことを目の前で見せてくれたら信仰する」と言う人は少なくありません。その気持ちはわからないでもありませんが、じつは神の世界への道とは正反対の態度なのです。キリスト教では、「叩けよさらば開かれん」という言葉があります。この言葉には深い意味があるのですが、信者の中にもその意味がよくわかっていない人が多いのです。長い間生きて行く問題で苦しんだ挙句、この言葉の真意がわかって回心した人を知っています。その詳しいお話しはいずれします。
 筆者の古い教え子の一人も「神秘世界のことを目の前で見せてくれたら信仰する」の一人でした。卒業後10年ほどしてから、ふらりと筆者の研究室を訪れ、ニコニコしながら「手かざしで果物が傷まなくなるのを見せてくれ」と言います。筆者が以前、なにか神秘現象について、その人に話したことがあったのでしょう。たしかに「手かざし」で病気を治したりする新興宗教の一派があったようですが、筆者には関わりがありません。しばらく雑談をして帰りましたが、何か様子が気にかかり、数ヶ月後、実家へ電話をしてみました。聞くと、事業に失敗して今は行方不明だとか。あの時のニコニコ顔の裏には深刻な事情があり、「神を信じたいがその証拠が欲しい」と、筆者を訪れたのでしょう。もっとゆっくりと話を聞いてあげていたらと悔やまれました。

加山さんの神秘体験(1)

 このブログシリーズでは、「閑話休題」という形で、この重要な問題について、少しでも多くの人々の切実な願いに応えらればと、さまざまな神秘体験についてお話してきました。そのさい、「できるだけ客観的に」と、筆者自身の体験(たくさんあります)は避けて、ちゃんとした新聞やテレビの真面目な報道について紹介してきました。今回は、加山雄三さんの体験談についてお話します。

 加山雄三さんはご存知のように、俳優で歌手で、明るい都会的センスを持った人ですね。加山さんがある日のテレビで、昔こんな体験をしたと言っていました。友人達と田舎へ行った時のこと、裏山の木立の中に小さな祠があった。ふと見ると祠の扉付近から一筋の光がスーッと前に向かって差しているのを見つけたのです。驚いて騒ぎ、祠の中をのぞいても、後ろへも回ってみても、別に何にも仕掛けはなかったそうです。それどころか後ろの板壁の間からは向こう側にいる仲間たちの姿がチラチラ動いているのが見えた ・・・。
と、加山さんはあの調子で、別に「すごい体験をした」などというのではなく、サバサバと語っていました。

 加山さんの神秘体験(2)

 加山さんはあるテレビ番組で自分が見た予知夢の話をしていました。

・・・ある時奇妙な夢を見た。夢の中で友人と電話で、海で消息を絶った仲間の安否について話している内容だったそうです。このときなぜか、「あいつは救出されたようだよ」と答えてしまった。
 その夢から三週間後、現実にその友人と電話で、遭難した仲間の安否について話していた。「夢の場面と同じだなあ」と思っていたところ、目の前のテレビで仲間が救出されたという臨時ニュースが流れたそうです。そのため思わず「あいつは救出されたようだよ」と言ってしまった。なんと、セリフまで夢と同じだった・・・。

加山さんは霊的に敏感な人のようです。

霊的世界はある(その7)

 前回もお話したように、「神(仏)が実在する証拠を見せてくれたら信仰する」と言う人は少なくありません。信仰とは正反対の気持ちですが、話を進めます。繰り返しますが、筆者は10年間神道系教団に属し、「霊感修行」をしました。40代から50代にかけてのことです。その間にさまざまな霊的現象を見聞きし、自分でも体験しました。もちろんそのことは職場でも、家族にも一切話しませんでした。そんなことをすれば研究者としての資質が疑われたはずです。

 筆者は、「霊が実在する」ことを確信しています。今回は、そのうちの一つをご紹介します。それは15年くらい前、筆者が国際学会でベルギーへ行った時のことです。現地でのツアーバスで、九州のある大学の先生と隣席になりました。ご専門は神経内科で、長年大学病院で診療に当たった来られた人です。たまたま「拒食症」のことに話が及びますと、ある興味ある症例について話してくださいました。ちなみに極端な食事制限を続けると、脳の中の食欲中枢がマヒして、体の要求量のはるかに下でも『これだけでいいのだ』と適応してしまうことがわかっています。

 その患者さんは食事の時、食器に直接口を突けて、そう、まるで犬や猫のように食べるというのです。先生は不思議に思って「どうしてそんなことをするのか」と聞いてみました。すると、「私の中にもう一人の『私』がいて、普通に茶碗と箸を持って食べようとすると、ビシッと止められるのです。ですから食べようという姿勢をその何者かに悟られないようにしてるのです」と答えたとか。どうも、食事を拒否することを続けていると、何者かが「この人間は死ぬのだ」と考えて、体の中に入ってくるらしいのです。そして「死なしてやろう」と思うらしいのです。それが何者かは、患者自身にも先生にも筆者にもわかりません。

  もう一つ、このブログでもお話しましたが、筆者が目の前で聞いた話をご紹介します。筆者が所属していた神道系教団の若い女性会員が、ある時友人を連れて来ました。「どうも様子がおかしい」と言うのです。教祖が話を聞いていますと、「〇〇ちゃんがいない。〇ち〇ゃんがいない」としきりに言うのです。霊視しますと、その人には心中した娘の霊が憑いており、「〇〇ちゃん」とはその相手の男のことで、向こうの世界で別かれわかれになってしまったと言うのです。大切なのは、これからお話しすることです。

 相談に来た若い女性は看護師をしていましたが、いわゆるホスピス病棟担当でした。ホスピス病棟とは、ガンの末期患者など、もう治る見込みのない人たちの世話をする場所です。その看護師さんは「治る見込みがあってこそ、看護師としてやりがいが出るのであり、ホスピス病棟担当になってすっかり希望を失ってしまった」と言うのです。まことにもっともなことですね。つまりその人は自分を見失ってしまったのです。そうするとその隙に他人の霊が入り込んでしまったのです。これは、人間というものを考えるのにとても重要なことです。このことはまず、肉体と本体(筆者の言う本当の我は別々であることを示します。そして自分を見失ってしまうと他の霊的存在が入ってしまうということです。
どうか読者の皆さんもよく記憶しておいてください。

 元女子大学生が「殺してみたかったから殺した」という異常な事件の公判が始まりました。名古屋大学理学部生でしたから相当優秀だったはずです。その人が起こしたのが猟奇的事件であることもショックですが、大切なことが見落とされています。彼女はいわゆる発達障害で、自分を見失ってしまっていた。そこへ邪霊が入り込んだに違いないのです。それを除く方法はあります。そこを考えなければ、この事件の真の解決はありません。

 

禅の空思想は龍樹の空思想とは異なる(1-3)

禅の空思想と龍樹の空思想とは異なる(1)

 以前のブログで禅の空思想と龍樹の空思想とは異なるとお話しました。それに対してある読者から「龍樹の空と禅の空は同義。何か深い配慮が龍樹の空と禅の空が違うと言わしめるなら検証の要あり。空は所詮譬喩であって、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦、因果応報の六概念下で理解される物柄であると信ずる」とのコメントがありました。言葉足らずのところがあったかも知れませんし、重要な課題ですからもう一度お話します。

 龍樹(ナーガールジュナ、AD100‐200頃のインドの人)は、空思想を初めて体系化した人で、その影響は大きく、仏教中興の人とも言われています。龍樹の主張は、それまでの部派仏教の一会派説一切有部の思想に対する反論として展開されました。
 釈迦の死後100年ほど経つと、仏教は上座部と大衆部に根本分裂し、さらに上座部は多くの部派に分かれました。その中でも最大会派であった説一切有部は、この世界を成り立たせている一切の法(=原理 ダルマ)が過去・現在・未来の三世にわたって実在するとすると考えます。そして原理に支配されたモノが現在の一瞬間にのみ存在し、消滅する。しかし、それぞれのダルマそのものは、未来から現在をへて過去にいたって常に存在し続ける(三世実有・法体恒有、つまり自性がある)と言うのです。説一切有部は「自性が有る」の意味です。

 ちょっとわかりにくいと思いますので、釈迦仏教以前からあったヴェーダ信仰を引用して説明します。釈迦仏教はヴェーダ信仰の対立命題として成立したものですから、筆者のこの言い回しはおかしいのですが、まあお聞きください。そのヴェーダ信仰では、人間には個我(アートマン)というものが内在し、肉体が滅びても残ること、それが転生してまた新しい肉体を得てこの世に現れる。その現世で心のあり方を向上させるのを繰り返すことによって、ついには神(梵、ブラーフマン)と一体化する」とする考えです。つまりヴェーダ信仰では「個我も梵もそれ自身で存在する」と言うのです。「それ自身で存在する」を説一切有部では「自性がある」と表現しました。

 ここで慧眼の読者はおわかりでしょうが、この頃までに釈迦仏教は分裂を重ね、釈迦の思想はどこかへ行ってしまったのです。もちろん部派の中には、説一切有部の考えは釈迦の思想から外れるものとして、他の部派から厳しく批判されました。ただ、説一切有部は勢力も大きかったですから、その思想を打ち破るのは大変だったのです。そんな状況の中で現われたのが龍樹でした。

龍樹の空理論

 龍樹は釈迦の教えの中でも中心的だと思われていた縁起の法(註1)を援用して、反論しました。すなわち、あらゆる法(原理)とそれに基づいて生起したモノやコトは必ず他の法(原理)に依存している。つまり、それ自身で存在する法やモノゴトなどない(自性などない、無自性)と言うのです。そしてそれが「空」だと主張するのです。龍樹のこの考えは多くの支持を得て、やがて大乗仏教が発展するきっかけになりました。大乗仏教はインドだけでなく、チベット、西域、中国、朝鮮、そして現在の日本へと続いている大きな思想体系ですから、龍樹が仏教の中興の人と言われるのがおわかりいただけるでしょう。

註1じつは縁起の法は、釈迦の思想が拡大解釈されたものだと筆者は考えております。釈迦の思想がその後1000年以上にわたって拡大、整理(増広と言います)され続けて来たことがキリスト教などとは大きく異なる特徴です。この問題についてはいずれまとめてお話します。

禅の空理論

 一方、筆者がくりかえしお話しているように、禅の空理論では、「私たちがモノを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触れる)という体験こそが真の実在」なのです。つまり説一切有部や龍樹の言う「法(原理)やモノに自性があるかないか」とはまったく別の問題、つまりモノゴトの観かたなのです。
 筆者は龍樹の「中論」(中村元「龍樹」講談社学術文庫)を読んでいて、禅の空思想と龍樹の空思想とは異なることに気付きました。
 読者の皆さん、上記のような批判をされる前に、筆者のブログシリーズ全体をよくお読みください。

禅の空思想は龍樹の空思想とは異なる(2)

 龍樹の思想の問題点

 龍樹は釈迦の縁起の法を援用して、部派仏教の一つ、説一切有部の「法(そっしてそれに支配されて現われたモノ)にはそれ自体で成り立つ自性がある」を否定し、「すべては縁によって成り立っているのであり、自性などない(つまり無自性)、それがすなわち空なのだ」と言いました。この考えは、以降の大乗仏教の発展の大きな礎になり、これが仏教中興の祖と言われるゆえんです。

 しかし筆者は、下記のように、縁起の法は釈迦の思想を拡大解釈したものだと考えています。仏教を大乗経典類から初期仏教の思想(パーリ仏典)へと遡って行くと、だんだん釈迦自身がおっしゃったことがボンヤリして来るのを感じます。ヤフー知恵袋というコーナーがあるのをご存知でしょうか。だれかが「〇〇について教えてください」と投稿しますと、「われこそは」という人たちが回答を書き、その中で質問者が「なるほど」と思った回答を「ベストアンサー」とするものです。以前、「般若心経の作者はだれですか」という質問があった時「それは釈迦です」という回答が「ベストアンサー」とされているのを見て、筆者は吹き出しそうになりました。結論から先に言いますと、漢訳者は鳩摩羅什(AD344-413 インドの人)であることはわかっていますが、作者はわかっていないのです。
 ことほどさように、仏教思想は釈迦以後、原始仏教→部派仏教→大乗仏教と変化して行くうちに、次々と新たな解釈と追加が加えられたのです。これが仏教がわかりにくいことの最大の原因だと、筆者は考えています。

 「一体各教典の前後関係はどうなっているのだろう」と、まじめな僧侶・研究者ならだれでも考える疑問でしょう。各教典を読み比べてみますと、お互いに矛盾する内容があるからです。鳩摩羅什の弟子慧観(中国南北朝時代の人)は、釈迦が悟りを開いてから亡くなるまでの45年間を5つの時期に分け、
  1)鹿野園で四諦転法輪を説いた
  2)各所で大品般若経を説いた
  3)各所で維摩経・梵天思益経を説いた
  4)霊鷲山で法華経を説いた
  5)沙羅双樹林で大般涅槃経を説いた
としました。「五時(五つの時期)の教判」と言います。仏教の各宗派がそれぞれ、「最初に説かれた法に依拠しているから我が宗派は正しい」とか、「最後に説かれた最高の法である正しい」と言っていることが、仏教を知る上での大きな問題なのです。

 「しかし、いくらなんでもそれはおかしい」と考えた人も多かったのですが、この問題に初めて科学的分析を加えたのが、江戸時代中期の学者富永仲基(1715‐1746)です。富永は大阪の大商人たちが作った私立の学問所・懐徳堂出身の学者で、わずか32歳で早世しましたが、明治の東洋史学者内藤湖南が「大天才」と呼んだ人でした。本当にすごい人です。富永は主著「出定後悟」の中で、「仏教思想(全部で4500巻以上ある)は、古いものがだんだんと批判され、積み重なって変質して行った」との考え(加上説)を提出しました。この思想をもって「大乗経典は、釈迦の思想とはまったく異なる」と言ったのは作家の司馬遼太郎ですが、それはちょっと言い過ぎだと筆者は思います。「積み重なって変質して来た」が正しいと思います。大乗経典類の中でも釈迦の思想の痕跡は残っていると思います。
 このように、大乗経典類→部派仏教→釈迦の思想と遡っていきますと、釈迦の思想そのものがどんなものかがよくわからなくなってしまうのです。このことを頭に刻むことが仏教を学ぶ上で大切なことだと思います。

 さて、龍樹が援用したのは釈迦の「縁起の法」だと一般には言われていますが、釈迦の本当の思想は「因果の法」だと筆者は解釈しています。つまり、「あらゆる苦しみには原因(因)がある。そのことに気付き、それにこだわるのをやめなさい」という、素朴な生活の知恵だったのだと思うのです。それが因果の法→因縁果の法→縁起の法と拡大解釈されていったのでしょう。因縁果の法とは、たとえば、いま爆弾が破裂したとします(因)。その被害の大きさ(果)は、たまたまその人が物陰に居たかどうか(縁)で決まる、というわけです。龍樹が援用したのは「あらゆる原理やモノは、他の要因によって決まる」ですが、それは釈迦の因果の法を拡大解釈したものだということがおわかりいただけるでしょう。

 龍樹の誤り?

 「龍樹が説一切有部の思想を批判するのに使った縁起の法には限界があった」と筆者は思います。なぜなら、縁起の法は神という絶対者の存在さえ認めないからです。「あらゆる宗教はそのバックグラウンドとして神(=仏)を持っているのは論理的必然である」と以前お話しました。もちろん仏教は宗教の一つです。

 禅の空思想は龍樹の空思想とは異なる(3)

 禅は般若経典の流れとは異なる思想 

 筆者はこのブログシリーズで、「龍樹の空と禅の空は無関係である」とお話しましています。その理由にはもう一つあります。禅の初祖達磨大師(5世紀後半から6世紀前半の人)が、南インドのある国の王子として生まれ(註1)、中国南北朝の宋の時代(520年頃)に中国にやって来たとされています。「景徳傳燈録」(代々の禅師たちの言葉をまとめた書)によれば、達磨大師は釈迦から数えて28代目です。
 
 そもそも、中国へ仏教が伝来したのは紀元1世紀とずいぶん古いことでした。そして龍樹(インドの人)が「空」思想を体系化したのは紀元2‐3世紀で、その後の大乗仏教の発展のキッカケになったと言われています。「祖師西来意(祖師達磨大師がはるばる西から中国へやって来た意味は何ですか)」は、よく知られた禅の公案ですが、歴史的事実でもあるのです。つまり、達磨は中国の仏教界へ横から割り込んできた人なのです。ちなみにあの玄奘三蔵(602-664)が般若系経典をまとめて「大般若経」と名付けたのは、達磨大師が中国へ来てから100年も後のことですし、わが国の弘法大師空海が密教を中国からもたらしたのは806年です。これらの経緯から考えて、禅は中国仏教界とは別の思想体系であると言った方がいいと思います。

 最初に達磨を迎えた梁の武帝(464‐549)との次のやり取りは有名です。

 武帝:私は即位以来、多くの寺を建立したり、写経をさせたり、たくさんの僧侶を得
    度させてきたが、どんな功徳があるでしょうか。
 達磨:なにもない。
 武帝:なぜですか。
 達磨:そんなことは煩悩の種を作っているだけだ。
 ・・・・・・
 武帝:仏法の根本義とはなんでしょうか。
 達磨:カラリとして聖なるものはなにもない。
 武帝:私の前にいるあなたとは何者でしょうか。
 達磨:そんなことは知らない。

 とやり取りし、達磨は「これはだめだ」と、武帝の元を去ったそうです。

註1 ペルシャ人との説もあります。

 そして禅は唐時代になって、慧能(六祖638-713)、南嶽懐譲、馬祖道一、百丈懐海、黄檗希運、臨済義玄などのすぐれた禅師たちが輩出して隆盛を極めました。

 色即是空・空即是色は、よく知られた般若心経にある言葉です。「般若心経は禅の要諦である」との考えには異論はないようです。その観点に立って禅の空思想を考えてみれば、文字通り(シキ、モノゴト)と対句として用いられています。龍樹の考えでは、独立したモノなどもともと存在しないのですから、禅のようにと対句になるはずはありません。このことからも、禅の空思想が龍樹の空思想とは別ものであることがおわかりいただけるでしょう。
 色即是空・空即是色については、次回改めてお話します。
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 今回の投稿者の「空は所詮譬喩であって、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦、因果応報の六概念下で理解される物柄であると信ずる」とのコメントは・・・・。

神の心を忘れた戦争行為(1,2)

神を忘れた戦争行為(1)

 先日、4夜にわたって、NHK特集「東京裁判」が放映されました。NHKが8年間、裁判を担当したアメリカ、中国、イギリス、フランス、オランダ、ソ連、ニュージーランド、オーストラリア、インド、フィリピン、カナダの判事たちが残した日記や書簡などを詳細に調査し、それらに基づいてドラマ仕立てにしたものです。文字通り力作で、深い感銘を受けました。

 起訴された28人の戦犯容疑者について、キーナン検事たちや、清瀬などの弁護人とのやり取り、証人たちの証言などが適宜盛り込んてありましたが、11人の判事たち同士の激しい議論が中心でした。
 罪状は1)平和に対する罪(侵略罪 註1)、2)人道に対する罪(註2)、そして3)戦争犯罪(軍紀に反した行為)の罪に分かれ、それぞれについて有罪か無罪かを審理するものでした。まず念頭に置かねばならないのは、これらの判事や裁判長の人選を含め、マッカーサー元帥の意向が強く働いていた点です。ただ、マッカーサー元帥は、審議の内容については、直接介入していたわけではないようでした。

 判事たちの間でいちばん意見が分かれたのは、これらの被告たちが1)の平和に対する罪(侵略罪)に該当するかどうかについてでした。「該当しない」との意見は、オランダのレーリング判事と、インドのパル判事でした。あとの9人はすべて「該当する」でした。レーリング判事とパル判事の「該当しない」の理由は、それは「事後法」だというものでした。「事後法」とは「罪の不遡及」とも言い、「当時それらの行為を禁止する法律がなければ、無罪である」という、法学の大原則です。たとえば、最近わが国でもIT関連のさまざまな犯罪行為が増えてきましたが、将来、重大な問題となると思われる行為について、次々に法律が制定されていることから分かります。つまり、同じ行為についても、その法律が成立する以前の案件については、遡って訴追してはならないのです。
 レーリングやパルの主張に対して、残りの9か国は「侵略を禁止したパリ不戦条約があるじゃないか」と反論しました(註1)。

 東京裁判の判決の前に、旧ドイツの戦犯についてのニュルンベルグ裁判があり、すでに刑は決定していました。ドイツが始めた戦争も、日本が始めた戦争も、外国への侵略がきっかけでしたから、当然、「侵略罪」が成立しそうです。しかし、ここに重大な問題が出てきます。それらの侵略行為は、それ以前に行われたロシア帝国による近隣諸国の占領、イギリス、フランス、ベルギーなどによるインドやアフリカ諸国の植民地化は、ドイツや日本の行為となんら変わるところがないからです。東京裁判における外国人弁護士が「私は、広島長崎への原爆投下を指令した人間を名指すことができる」と言ったのには説得力がありますね。

 「事後法」は、「一事不再理の原則(一度確定した無罪判決については、後で覆されない)とともに法律の大原則ですから、レーリング判事やパル判事の主張はまったく正当なのです。「事後法」になることを十分承知していた他の判事たちが、それでも強硬に「有罪」を主張したのは、ニュルンベルグ裁判の判決を覆してはいけないという大前提とともに、日本が始めた戦争により、中国やフィリピンの非戦闘員の死者があまりにも多かったためです。ちなみに、第2次世界大戦による死者総数6500万人の内、4000万人が非戦闘員、つまり一般市民だったという事実を斟酌しならないからでした。それは断じて戦争による犯罪、つまり上記2)や3)の戦争犯罪に該当するとは言えません。たとえばドイツによるユダヤ人の虐殺は600万人と言われていますが、ヒットラーの「アーリア人純血主義」と言う狂気の思想によるものです。決して戦争犯罪とは言えませんね。それでもあまりの犠牲者の多さに、たとえ原則を捻じ曲げてでも、ドイツの戦争犯罪人を罪に問わねばならなかったのでしょう。

註1 1928年に制定された不戦条約ですが、いわゆるザル法で、イギリスやアメリカは「国境の外で、国益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではない」との驚くべき留保を行いました。

註2 ドイツがユダヤ人に行ったホロコーストのように、一民族を根絶やしにする戦争行為。ニュルンベルグ裁判で「制定」された、明らかな事後法でした。たとえそうであっても、ドイツの蛮行を何がなんでも裁きたかったのでしょう。筆者もよく理解できます。それが実際に日本の戦犯に適用されました。
 たしかに、日本についても同様で、中国やフィリピン判事の主張する「犠牲者一千万人以上」はとても無視することはできませんね。

神の心を忘れた戦争行為(2)

 わが国でも、「東京裁判は勝者による一方的なものだ」と言う人が今もよくいます。さらに「広田弘毅元首相などは、強引に有罪とされた」と言う人が当時からいました。
 筆者がこれらの「東京裁判シリーズ」を懸命になって視聴し、学習した感想は、「東京裁判は決して勝者による一方的なものだと決めつけてはいけない」でした。もちろん、広田弘毅が死刑になったことについては気の毒に思います。それでも「連合国の検事や判事たちは、かなり正当な判決をした」と思うのです。ではなぜ筆者がそう考えるのか。それは別の理由からです。

 すなわち、この番組は前述のように力作ですが、重要な視点が抜けているように思います。それは、日本やドイツの自国民の犠牲者のことです。太平洋戦争による日本の犠牲者は軍人が250万人、一般人80万人と言われます(ちなみにドイツの戦死者325万人、一般人335万人)。

 日本はなぜ、あんなに無謀で悲惨な戦争を起こしてしまったのか。筆者はその理由を30年以上にわたって調べてきました。読んだ資料は100冊を下らないでしょう。絶対に戦争責任者を突き止めなければなりません。そういう意味で東京裁判の意義はとても大きいのです。裁判開始の頃、ウエッブ裁判長は「半年くらいで決着するだろう」と言っていました。しかし、実際には2年半もかかったのです。「どうしてそんなに長引くのですか」という記者の質問に、「あまりにも調査する資料が多いからだ」と答えていました。
 
 もし、「東京裁判は連合軍による勝者の裁判」と言うのなら、戦争を引き起こした人間たちをだれが裁けたのでしょう。亡くなった兵士の大部分すら一般市民だったのです。兵士たちはもちろん、一般大衆は戦争を引き起こした人間も、あんなに悲惨な結果に終わった理由もほとんどわからずに死んだのでしょう。戦死者の4割は餓死でした。残りの6割の内3割は、「極限的な栄養失調によるマラリヤや赤痢などの感染による死」と言います。さらに、残された遺族たちの苦しみや悲しみの大きさは、想像もできません。それはドイツとて同じでしょう。初めはヒトラーに煽られた興奮状態だった出でしょう。しかし、結果は合わせて700万人の兵士と市民の犠牲者だったのです。ああいうことは日本人やドイツ人の体質も原因の一つかもしれません。両国の戦争の責任者を、なにがなんでも突き止めて、二度と起きないようにしなければなりません。

 では連合国ではなくて、当時のわが国やドイツのだれが戦争責任を追及できたでしょうか。あの状況では、まったく不可能だったとしか言いようがありません。膨大な資料の収集、2年半もかけた徹底的な審理によって、戦争犯罪の全貌がわかったのです。私たちは連合国の関係者に感謝しなければならないのです。もし時機を逸していたら、あんなことはできるはずがありません。「勝者による裁判」などと、どうして言えるのでしょうか。
 
 柳条湖事件をひき起こした石原莞爾、インパール作戦の首謀者牟田口廉也中将、「最後の一機で私も突入する」と言って実行しなかった陸軍の特攻作戦の最高責任者の菅原道大中将や、「最後の一機で敵前逃亡した」富永恭次各中将など当然重罪にすべきでした「潜行三千里」で連合軍の訴追を免れた辻正信など論外でしょう。海外でろくな裁判も受けずに処刑されたBC級先般は1000人以上(5000人以上とも)と言われています。

 これが東京裁判に関する筆者の思いです。
 戦争に至る経過や推移を見ていますと、当時の軍人はもちろん、政治家や一般国民に至るまで、神の心などまったく忘れた狂騒状態だったとしか言いようがありません。日本人はともかく、ドイツ人はみんな敬虔なキリスト教信者だったはずです。