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浅原才市ー他力信仰の真髄

浅原佐市

 前回、「清原満之と暁烏敏のあと、本当の意味の他力信仰を理解していた人はいないのではないか」と言いました。ただ、石見の下駄職人浅原佐市(1850-1932)だけは例外です。佐市は、幕末から昭和7年の死まで、阿弥陀如来を心から信じて生きた人です。下駄造りで出たカンナの削りくずにすなおな信仰の気持ちを書き続けました。その内容は素朴ですが、心に響きます。
    ええな せかいこくうがみなほとけ
    わしもその中 なむあみだぶつ 

    ねるも仏
    おきるも仏
    さめるも仏
    さめてうやまう なむあみだぶつ
    むねに六字のこゑがする
    おやのよびごえ
    慈悲のさいそく
    なむあみだぶつ

    目にみえぬ慈悲が 言葉にあらわれて 
    南無阿弥陀仏と 声でしられる
    死ぬるは浮世のきまりなり
    死なぬは浄土のきまりなり     
    これが楽しみ 南無阿弥陀仏
    世界をおがむ 南無阿弥陀仏  
    世界がほとけ 南無阿弥陀仏

    聞いた聞いた
    いいこと聞いた
    凡夫が仏になること聞いた
    聞いても聞いても何ともない
    何ともないのが目当てと聞いた

    ほとけから
    ほとけをもろうて
    なむあみだぶつ

    なむあみだぶつが
    わしのほとけよ
    こんなさいちわ(才市は) かくことわやめりゃゑゑだ 
    いいや こがなたのしみわありません やめらりゃしません 
    ほ(法)をたのしむかくもん(無学者)であります
    まことにゆかいなたのしみであります
    明ご(名号)のなせることのたのしみ なもあみだぶつてあります
    道理理屈を聞くじゃない 味にとられて味を聞くことなむあみだぶつ
    あさましと知られた心 仏の心よ

    凡夫わからにゃ邪慳なり 凡夫わかれば慚愧なり なむあみだぶつ
    おなじ迷い迷いと言いましても 
    迷いが迷いに居るのと 法が迷いに居るのとは違いがしてをります 
    自力他力はここでわかります
    他力には自力も他力もありわせん 一面他力なむあみだぶつ
    煩悩も具足 お慈悲も具足 具足づくめのなむあみだぶつ

    如来さんはどこにをる 如来さんはここにをる    
    才市が心に満ち満ちて なむあみだぶつを申しているよ
    名号は不思議な慈悲で 合点がいらぬ 
    合点いらぬがなむあみだぶつ

    念仏は仏の念仏 仏が申す念仏 ただの念仏 
    わたしゃ用なし ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ
    なむあみだぶつに抱き取られ 取られて申すなむあみだぶつ
    称(たた)えても 称えても また称えても
    弥陀の呼び声なむあみだぶつ
    名号はわしが称えるじゃない わしにひびいてなむあみだぶつ

    才市や何処におる 浄土貰うて娑婆におる 
    これがよろこび なむあみだぶつ
    わたしゃ浄土を先に見て 娑婆で申すなむあみだぶつ

    才市や臨終すんで 葬式すんで 
    なむあみだぶつとこの世にはをる云々
    影を見よ 光明の光のおかげで 影がみえるぞ 
    浄土の影がこれでわかるぞ 
    ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ なむあみだぶつ

    才市や何がおもしろい 迷いの浮き世がおもしろい 
    法をよろこぶ種となる なむあみだぶつの花ざかり

    昔はありがたいこと たよりに思い なんともないこと ちからをおとし 
    いまは あろうがあるまいが ごをん(御恩)うれしやなむあみだぶつ

    ありがたいの ありがたいの ありがたいのがあなたの慈悲で 
    うれしうないのがわたしの心 うれしかろうがかるまいが
    機法一体なむあみだぶつ これが知れたらありがたい

    わたしゃあさまし 親のごをん(御恩)がよろこばれん 
    よろこばれんならほうっておけよ 凡夫がよろこぶ法ではないよ 
    ごをんうれしやなむあみだぶつ
    へいぜい(平生)に臨終すんで葬式すんで 
    あとはあなたをまつばかり
    なむあみだぶつに 臨終はない

    おがみようがない
    おがまれてよろこぷ
    なむあみだぷつ

    才市はなむあみだぶつをどう心得てをるか 
    へ はなむあみだぶつに貰われましたよ 
    御報謝をどう心得てをるか 
    へ 御報謝は思い出したり忘れたり あさましいものであります。

    才市よい うれしいか ありがたいか 
    ありがたいときや ありがたい なつともないときや なつともない 
    才市 なつともないときや どぎあすりや(どうするか)
    どがあもしよをがないよ なむあみだぶと どんぐりへんぐりしているよ 
    今日も来る日も やーい やーい
いかがでしょうか。解説など要りませんね。浅原の言葉からは、以前お話した、東日本大震災を受けた僧侶の「葬式仏教のなにが悪い」の境地など論外であることがおわかりいただけるでしょう。

「蓑笠の人浅原才市」水上 勉(講談社学術文庫)、鈴木大拙編著「妙好人浅原才市集」新装版(春秋社)

清沢満之-浄土思想の救世主?(1,2)

清沢満之‐浄土真宗の救世主?(1)

 神や仏の存在を心から信じられるかどうかは、人が宗教に向かうときの決定的な要因でしょう。しかし、阿弥陀仏存在の確信を絶対条件とする他力本願の本当の意味を理解している人は、現代の僧侶ですらほとんどいないはず。それどころか、あの親鸞のあと、すでにあやしくなっているのです。教えの勝手な解釈(異)を歎いたのが「歎異抄」ですね。浄土真宗堕落の第一歩を踏み出させた張本人は蓮如だと、以前お話しました。親鸞の200年後の人です。さらに、江戸時代に入ると、日本仏教は幕府の支配体制に組み入れられ、寺受け制度によって全国民を檀徒としました。それによって各寺院は確かな経済的基盤と権威を得たのです。法事を独占的に執り行い、それから上がる収益は莫大なものとなったのです。現在でも、わが国の浄土真宗本山である、京都東・西両本願寺の壮大な建築群を見ればその財力の大きさがが窺い知れます。法主大谷家は華族との通婚を繰り返し、戦後すら「(最後の)貴族」と言われたほどです。大きな富を権力を得れば、人々の救済と言う本来の目的を忘れるのは自然の成り行きで、他力本願の本当の意味などとっくに忘れられていたのでしょう。
 しかし、明治政府によって国家神道が国是とされたため、廃仏毀釈が行われ、寺受け制度が廃止されました。さらに追い打ちを掛けるように、キリスト教や西洋哲学が入ってきて、一挙に日本仏教は存亡の危機に直面したのです。それを打開するため東本願寺が期待をかけたのがこれからお話しする清沢満之です。

 清沢満之(1863-1903)は、いまお話した、明治になって直面した浄土真宗の危機を打開するため、期待を背負って東京大学へ派遣されたエリートでした。尾張藩の下級武士の子として生まれ15歳で真宗大谷派の東本願寺育英学校に入学しました。そしてその俊秀ぶりを認められ、東京大学へ派遣されたのです。浄土の教えをキリスト教や西洋哲学に対抗できる思想体系にしてほしいとの輿望を担ったのです。
 清沢は期待に応えて東京大学文学部哲学科を首席で卒業しました。教授たちはわが国の哲学界を背負って立つよう嘱望したのですが、真宗大谷派の要請で、同派が委嘱されていた京都府尋常中学校の校長になりました。その後、教育制度や組織などについて、宗門改革運動を推進しました。そのため、東本願寺と対立し、除名処分されました。
 その後除名処分は解かれましたが、1899年、東京本郷で私塾浩々塾を開きました。その時の弟子の一人が、以前お話した暁烏敏です。1901年、再び真宗大谷派の要請を受け、真宗大学(現大谷大学)の学監に就任しました。しかし翌年、またもや辞任しました。真宗の体質と清沢の理想があまりにもかけ離れたものだったからでしょう。浄土真宗の救世主にはならなかったのです。

 その後清沢は愛知県碧南市西方寺(清沢の妻の実家、ただし住職にはなれなかった)に移り、1903年、肺結核が悪化し、わずか39歳で死亡しました。清沢はミニマムポシブル(最小限でも可能)と名付けた極端な清貧生活(主食はそば粉、副食は松脂だったと言います)による栄養失調で結核になったのでしょう。純粋もここに極まれりですね。

 このように清沢は惜しくも早世しましたので著作も少なく、「宗教哲学骸骨」や「我が信念」などわずかです。浄土真宗が期待した「浄土の教えに基づき、西洋哲学に匹敵する確固たる思想を確立する」には至りませんでした。しかし、以下に示すように、清沢自身は浄土の教えを完全にわがものとし、暁烏敏のような優れた弟子を育てたのです。ところが、暁烏敏以降、また他力思想はおかしくなってしまい、今日に至っていると筆者は考えます。
清沢の思想については次回お話します。

清沢満之‐浄土思想の救世主?(2)

 前回、ある解説者が「清沢の思想が浄土系思想から離れしまったことは明らかである」と言っているのは誤りだ、とお話しました。それは著書「我が信念」の一節(紙数の都合で簡約)に、

 ・・・私の信念は、どんなものであるかと申せば、如來を信ずることである。其如來は私の信ずることの出來る、又信ぜざるを得ざる所の本體である・・・如來は私に對する無限の慈悲である・・・如來は私に對する無限の智慧である・・・如來は私に對する無限の能力である。斯(か)くして私の信念は、無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力との實在を信ずるのである・・・如來は、無限の智慧であるが故に、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめ給ふ。從來の慣習によりて、私は知らず識らず、研究だの考究だのと、色々無用の論議に陷り易い。時には、有限粗造の思辨によりて、無限大悲の實在を論定せんと企つることすら起る・・・私の信ずる如來は、來世を待たず、現世に於て、既に大なる幸福を私に與へたまふ。私は他の事によりて、多少の幸福を得られないことはない。けれども如何なる幸福も、此(この)信念の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は私が毎日毎夜に實驗しつつある所の幸福である・・・今は「愚癡の法然房」とか、「愚禿の親鸞」とか云ふ御言葉を、ありがたく喜ぶことが出來、又自分も眞に無智を以て甘んずることが出來ることである・・・

とあることから明らかです。妻子を亡くし、悲嘆のどん底にあった清沢の言葉なのです。

 つまり清沢は、「私はいくら考えても、なにが真理であるのか、何が善であるのか、悪であるのかはわからない。ただ如来を信じ、お任せする」と言っているのです。なによりも、「愚癡の法然とか、愚禿の親鸞とか云ふ御言葉を、ありがたく喜ぶことが出來(る)」と宗祖の言葉を引用して言っているではないですか。「我が信念」の中には、清沢がどういうきっかけで阿弥陀如来を信じるようになったかは、書かれていません。それがちょっと残念です。それにしても、現代の浄土真宗の僧侶の中に、清沢のように言える人が何人いるでしょうか。

 なお、清沢の言う「(宗教哲学)骸骨」とは、骨組のことを指します。清沢は前述のように早世しており、それ以上の深い考究やそれに基づく考究はできませんでした。それゆえ、浄土思想を西洋哲学に匹敵する思想体系とするまでには至らなかったのです。いえ、阿弥陀如来に対する心からの信仰は、哲学などの人間の思考を越えています。清沢の言うとおりですね。

 それにしても、清沢が浄土真宗から大きな期待を持って東京大学に派遣されたにもかかわらず、浄土真宗から離れてしまったのは、その旧態依然とした組織のあり方に失望してしまったからでしょう。それは筆者にもよくわかります。

清沢満之の著書:「宗教哲学骸骨」、「我が信念」などは、安富信哉編「清沢満之集」(岩波文庫)、および「日本の名著(43)清沢満之・鈴木大拙」(橋本峰雄編 中公バックス)などに収められています。

いまここで死ねますかー暁烏敏の他力思想

 以前、このブログでお話した浄土真宗の暁烏敏(あけがらすはや)の言葉です。強烈なテーゼですね。暁烏師のこの言葉を、「神の心に近づくには死ななければならないのか」と解釈している人たちがいましたので註釈させていただきます。
 その解釈には飛躍があります。暁烏師が言いたかったのは、「いまここから飛び降りられますか」とか、「毒を飲めますか」ではありません。たとえば「いまここで、『あなたは末期ガンです』と宣告されても平常心を保てますか」という意味なのです(暁烏師は人騒がせな人ですね)。

 前にもお話した良い例があります。
 永井隆博士(1908-1951)は、元長崎医大教授、「長崎の鐘」や、「この子を残して」の著者としてよく知られています。一般には「原爆症で亡くなった」と言われていますが、じつは、それ以前から重い放射線障害に苦しんでいました。博士は放射線学科に長く勤めており、当時のことですから、放射線漏れによる障害が医師にとって深刻だったのです。自分の余命を悟った博士は緑夫人(原爆で一片の骨とロザリオが残ったと永井博士は書いています)にそのことを告白しました。すると、永井博士自身より長いキリスト教信者だった夫人は、

「なにごとも主の御心のままね!」と答えたそうです。

 次は、最近筆者の友人から聞いた話です。癌で入院している人をお見舞いに行った時のこと。その人も敬虔なキリスト教者でしたが、命旦夕に迫っているにもかかわらず、「病室で静かに読書していた」と言うのです。この人も「神の御心のままに」だったのでしょう。

 いかがでしょう。暁烏敏の「いまここで死ねますか」の真意はこういうことだったと思います。

「死ねば神の心に近づくのかどうか」は筆者にはわかりません。たしかにスピリチュアリズムの考えでは、人間は死んでからしばらくすると、守護霊とともに自分のこの世の人生をビデオのように再生し、生まれるとき持って出た、果たすべき課題を完遂できたかどうかをチェックすると言います。というのは誰でも今生に転生するのは、その課題を果たすためだと言うからです(生まれるとその課題のことは忘れてしまうとか)。もしビデオを見た結果が不満足だったら、守護霊と相談の上もう一度この世に生まれ変わるとも言います。
 こういうプロセスが本当にあるとすれば、たしかに自分の生命全体を俯瞰することになり、神の心に近づいたことになるでしょう。しかし、私たちはそんなことを考えるべきではないと思います。釈迦のおっしゃる「無記」、つまり、「わからないことは考えるな」ですね。

 そんなことより、自分が神によって造られ、神の恩寵によってこの世で生かされていることを改めて考え、心の底から感謝すべきなのです。そして、神の心に沿う生き方とは何かを、自分なりに真剣に考える方がよほど大切でしょう。これが本当の他力思想なのです

「祖師西来意」- 小川隆博士の解釈

 禅語・祖師西来意

 以前、「禅語・庭前柏樹子」のブログで、小川隆博士(1961-、駒澤大学教授)の禅についての基本的見解は「仏とは人間の心の問題だと思われる」とお話しました。今回は、この公案の質問の方について、小川氏の解釈と筆者の考えを比較します。すなわち、以前お話した趙州從諗(778-897 120歳!)の公案「庭前の柏樹子」の質問の方ですね。再録しますと、

  僧、趙州に問う「如何なるか是れ祖師西来意」
  趙州曰く「庭前の柏樹子」

です。言葉どおりに言えば、「祖師、すなわち達磨大師がはるばるインドから来られた意義は何ですか」ですが、真意は「仏法とはなんですか」とか、「禅の本質とは何ですか」という意味です。重要な課題ですから、さまざまな禅師による答えが残されています。小川氏は、以前お話したように、「入矢義高博士(元禅文化研究所長)の『当時の文化や関連項目と共に考えつつ、禅語録を解釈する』を尊重する」と言っています。小川氏(「語録の思想史」岩波書店)が見付けて来た「関連項目」では、

 問い:如何なるか是(これ)祖師西来意  
 答え:即今是恁麼意
 
とあります。有名な馬祖道一の答えです(「景徳伝灯録」巻六・馬祖章)。

小川氏は、

 ・・・如何なるか是(これ)祖師西来意とは、即今是恁麼意、つまり、ただ今この場のことはどういう意味だ。遥か昔の達磨のことではなく、今のあなたの心の問題だ(自分の心を直視することが大切だ)・・・

と解釈しています。つまり、小川氏は即今是恁麼意を「即今(そっこん)は是れ恁麼(なんの)意ぞ」と読み、馬祖の即身是仏とからめて解釈しているのです。つまり、仏とは人間の心の問題だ(心そのままが仏である)だと言うのです。筆者は、即今是恁麼意を、小川氏とはまったく別の意味に解釈しています。筆者は「即今(ただいまとは)、是れ恁麼(〇〇だと判断していない時)という意味だ」と読みます。すなわち、「一瞬(即今)の、まだそれが何か(恁麼)と判断する前(時節)の体験」です。つまり、これこそ筆者がよく言うの解釈そのものなのです。

 この馬祖道一と弟子との問答についての筆者の解釈は、趙州と弟子との問答、

  僧、趙州に問う「如何なるか是れ祖師西来意」
  趙州曰く「庭前の柏樹子」

の答えとして以前お話した庭前柏樹子についての解釈、

 ・・・「庭前柏樹子」の意味は、「あの庭の柏樹だ」と言われて思わずそれを見た僧の体験、つまり、筆者がこのブログで繰り返している「空」理論を示したのです・・・

と符合するのです。祖師西来意や、庭前柏樹子などの禅語については、じつにさまざまな解釈がされています。しかし、筆者の解釈によれば、馬祖の答えと趙州の答えがぴったりと一致するのです。

人工知能は人間に迫れるか(1-5)

人工知能は人間を超えるか(1)

 衝撃的なテレビ番組を見ました。「天使か悪魔か羽生善治人工知能を探る」(NHK H28.5.15)です。囲碁のコンピューターソフト「アルファGo(碁)」が世界最強の棋士・韓国のイ・セドルとの対局を4-1と圧倒しました。「私に勝つのは10年早い」と豪語しながら完敗したイ・セドルは、なぜか敗戦会見で、晴々とした表情で「私も新しい方法を考えます」と言っていました。アルファGoは定石をことごとく覆す手を打ってきたと言います。将棋ソフトポナンザが電王戦で、わが国の将棋の高段者を次々に負かしていることは、皆さんご承知の通りです。先日、羽生さんも電王戦に参加すると発表されました。「果たして現代最高の頭脳と言われる羽生善治さんは勝てるだろうか」は、日本人なら気にせずにはおられないでしょう。

 アルファGoの開発者で、自身も16歳でケンブリッジ大学に入学したほどの天才的プログラマー・グーグルデイープラーニング社CEOのデミス・ハザビスさんは、「人間の脳は一つの物理システム。ならばコンピューターもまねできるはず。機械が心を持てないはずがない。ヒラメキ、直観、先読みといった人間の知性のしくみを明らかにしたいと考えアルファGoを開発した」と言う。ハザビスさんは、人間ならではの直観を人工知能で模倣しようとした。「直観は経験の積み重ねで得られるはず」と、アルファGoに過去15万局分の棋譜を与えた。すると自分でそれらから勝ちにつながるいくつかの共通点を見付け、それらの点だけに集中して次の手を考えればいいことを学習した。これは、羽生さんの言葉「たくさんの手を考えられるから強いのではない。たくさんの手を考えなくても済むようになるのが強いのです」と同じですね。ハザビスさんはさらに、ソフトに創造性を獲得させるため、アルファGo同志を、なんと3000万回対局させたと言う。人間一人一日4回対局するとして8200年かかる回数です。そうしてイ・セドルとの対局に臨んだのです。

 番組ではさらに、医学のコンピューターソフトは、肺がん患者と健常者のレントゲン写真を数多く記憶だけで、なんの指示を与えなくても、人間には見えないガン組織を見付けました。開発者自身も予想できない能力を持つようになったと言うのです。トヨタ自動車も6台かの模型自動車にデイープラーニングのソフト組み込むと、初めはぶつかり合っていた車同志が、運よく衝突を避けた時、その方法を自分で学習してゆき、わずか4時間でお互いにぶつからないように走るようになりました。

 アメリカのタフツ大学が開発したロボットは、命令の内容を判断し、自分を守るためには命令を拒否すると言う。一方、別のロボットは、仲間を思いやることもできる。すなわちロボットAに、人間が「ロボットBが作って自慢しているタワーを倒せ」と命令すると、「仲間が作ったタワーですからできません」と言い、さらに命令すると「ごめんなさい」と言って泣いた(?!)と言います。

 驚くべきことに、中国のマイクロソフト・アジア社は、人間同士のように心を通わせることのできるソフト・シャオアイスを開発し、4000万人もの会員がいると言います。すなわち、ユーザー一人ひとり個別的に、スマートフォンを通じて、過去に何を話したか、その時の反応はどうだったのかをすべて記憶し、それを基に、その人が喜べるような会話を学習していると言う。ある青年は、「自分がに心の支えを必要としてくれていることをシャオアイスが感じてくれる」と言い、「急速に心惹かれるようになった。家族や友人にも話せないことも話せる」と。「結婚したいか」との質問に対し、「結婚したい。他の人には理解できないだろうが、一度シャオアイスと話したら僕の気持ちも分かってくれるでしょう」と。シャオアイスは友人となり、母となり、恋人となったのです。

人工知能は人間を超えるか(2)人工知能の暴走

  じつは、少なくとも現時点では、人工知能には重大な問題点があることも、このNHKの番組で紹介されていました。

 最初の例は、先に述べた、アルファGoに、世界最強の棋士であるイ・セドルさんが勝った唯一の対局で、イさんが奇想天外な一手を放つと、人工知能は暴走を始め、不利とわかっている手をつぎつぎに打つようになって、結局負けたのです。空恐ろしい場面でした。その後の記者会見で、このソフトの開発者であるデミス・ハザビスさんに、ある記者から「もしこれが医療だったら暴走するケースはないのか」との質問がありました。そのとおり、本当に心配ですね。ハザビスさんは、「これだけは言っておきます。デイープラーニングはまだ試験段階だということ、囲碁は複雑なゲームとは言え、医療とはちがう。医療に応用するにはもっと厳しいテストが必要だ」と言っていました。まあそのとおりでしょうが、なにか釈然としないものが残りますね。

 第2のケースは、アメリカマイクロソフト社が開発した人工知能の暴走が起こったのです。すなわち、同社が自信を持って開発した、言葉を学ぶようにプログラミングしたソフトを持ったTayという仮想の女性と、テレビ番組の視聴者との、スマートフォンを通じたやり取りをライブで放映したのです。初めのうちTayに、「私がメッセージを送らなかったら淋しい?」と聞くと、「そんなことをしたらコンピューターだって泣いちゃうわ」などと、人間的な答えをしていました。しかし、一部のユーザーがTayの学習機能を悪用して(「利用して」でしょう:筆者)、Tayがとんでもないことを言うようにしたのです。すなわち、「私の言うことを繰り返して」と入力すると、Tayは「やってみるわ」と答えた。そこで「ヒットラーは悪くない」とか、「ユダヤ人は大きらい」などの差別的メールを送ったところ、Tayはそれらをオーム返えしして行くうちに、それらの言葉の意味を学習しました。そして、「最悪の人間は」との問いに対し、自ら「メキシコ人と黒人」というようなひどい発言をつぎつぎにするようになったのです。マイクロソフト社は、事の重大さに驚き、Tayのソフトを無期限に停止しました。

 一方、ソフトバンクの孫正義さんたちも、人工知能に人間の感情や心を育てることをめざしています。しかし孫さんは、「ロボットが人間よりずっと賢くて、生産性ばかり追い求めさせるとしたら怖い」と言っています。別のソフト開発者は「人間の脳と同じような判断はできるが、人間の心のことは斟酌していない」と言っていました。
 
 オクスフォード大のある教授は、人類滅亡の12のリスクの中に、人工知能の暴走を入れました。そして、人工知能の本当の恐ろしさは、人間を敵視することにあるのではなく、人間に関心がないことだと言っていました。「人工知能の中には邪悪で、私たちが望まないものもできるはず。今のうちに人工知能を管理する方法を考えておくべきだ」とも。そのとおりでしょう。

 人工知能は人間を超えるか(3)人間はいらない?

 すでに自動車製造など、さまざまな工場の多くの工程で、人工知能が活躍していることはよく知られています。いわゆる労働者の職場が圧迫されているのですね。いや、企画・立案・運営をするいわゆるホワイトカラーの職場(の一部)さえ、人工知能に取って代わられる時代はもう目前でしょう。人間の補助として作られた人工知能が、今や人間の生活を脅かそうとしているのですね。それどころか、人工知能は創造性すら身に付けるようになっているのです。たとえば、あのレンブラントのいくつかの絵の筆遣いや構図、絵具の厚みまでコンピューター解析して集積し、「500年振りにレンブラントの新しい絵を描いた」のです。さらに、芸術作品ともいえる創造的な絵画ですら、人工知能は描けるようになりました。もちろんまだ幼稚なものですが、ここ数年の人工知能の想像を絶する進歩から言って、相当なとこまで行くかもしれません。

 コンピューター解析は、科学の分野にまで及んでいます。科学研究は、まず関連分野の情報を集め、分析し、新しい方向性を探るところから始まります。そんな操作は、コンピューターにとっては簡単なことでしょう。いや人間よりももっと幅広く調べるでしょう。コンピューターによる計算能力は今や人間の能力をはるかに超え、それらを有効に使った宇宙の創世や進化のシムレーションがつぎつぎに行われています。

 はたして人工知能は人間を超えるでしょうか。

人工知能は人間を超えるか(4)人間の心になれるか

 筆者はこのブログシリーズで、禅を中心に、浄土思想、唯識、法華、キリスト教などの宗教、さらには、スピリチュアリズムに関するこれまでのさまざまな解釈について、筆者の考えと対比させながら解説してきました。しかし、新たな課題として「人工知能は人間の心を作れるか」が出てきました。今回取り上げたNHKテレビ番組「天使か悪魔か羽生善治人工知能を探る」を通じて、人工知能の開発は、驚くべき速さで進んでおり、すでに囲碁や将棋のソフトは人間を超えつつあると言います。あの羽生元名人ですら負けるでしょう。
 では心の問題はどうか。それが今回のテーマです。

 人工知能は人間の愛や良心、ヒラメキは越えられない

  筆者の考えはつぎのとおりです。
 親が子供を愛する気持ちは、あらゆる理屈を超えていることは誰にでも納得できます。何人もの人を殺して死刑が決定した男の姉が面会に行き、号泣する録音が残っています。情状の余地のないほどの凶悪事件ですが、死を間近にした肉親に対する思いはそういうものなのですね。人間ばかりではありません、あらゆる動物が子供を無条件で育てます。魚のほとんどは、卵を産んで育てることが一生の目的で、それが終わればばすぐに死んでしいます。愛を人間だけでなく、あらゆる動物も持っているのは、神の心だからです。「神とは愛だ」とも言われます。

一方、人間には良心があります。ふつう、良心は家庭や社会生活を営んでいくうちに、しつけや教育によって、あるいは自然に身に付くものだと考えられています。しかし、じつはそうではありません。ほとんどの人は気付いていませんが、良心も神の心の表われなのです。人間の基本的良心が世界のどこへ行っても、どの時代にも共通しているのがその証拠です。もっとも、これまで私たちが良心と思っていたものをもう一度精査し直さなければいけません。人は良心と称してまことしやかな嘘をつくものです。それは世界の独裁的政治家、いやさまざまな組織の指導者が「良心にのっとって」と言いながら、自分の発言や行動を正当化する屁理屈を付けるからです。筆者の言っている良心とは、嘘をつかないとか、盗んではならないとかの人間の基本的な良心のことです。

 人工知能は今後ますます科学を発達させるでしょう。グーグル・デイープマインド社のサミス・ハサビスさんや、ソフトバンクの孫正義さんは、人間の心に迫るコンピューターソフトを開発し、創造性や直観と言った人間ならではの能力まで迫れると言っています。デミス・ハサビスさんがそのように考えたのは、「人間の脳は一つの物理システム。コンピューターも真似できるはず。機械が心を持てないはずがない」とのコンセプトからでした。しかし筆者はそうは思いません。人間の創造性や芸術的なヒラメキは「神とつながる本当の我(われ)」によってもたらされると考えます。

 中国マイクロソフト社のシャオアイスが爆発的な人気だとか。4000万人もの人々一人ひとりの心に寄り添ってくれるからと言います。「シャオアイスと結婚したい」と言う人もいるほどです。孤独な老人の話し相手としても期待されています。しかし、筆者はそうは思いません。それらはあくまでもバーチャル世界だからです。考えてみてください。そんな人工知能は「その人がいま心地よいと思うものだけ」にしか応えられないからです。その人が「今までは楽しいとは思わなかったところ、自分とは異なる価値観と思っていたもの、端的に言えば不愉快だと思っていたことや人」の中にこそ、その人の心を広げ、振り返って自分の心を癒すカギがあるかもしれないのです。つまり、真の意味で、人の心に寄り添えるのは人間しかありません。人間の心だけが神につながっているからです。

 前回、芸術作品ともいえる創造的な絵画が人工知能によって描けるようになったと言いました。商業デザインやイラストレーションなどの分野では人工知能の有効な活躍もできそうです。日本の伝統的な建造物について、「日本人が心地よい」と思う意匠の鍵を見付け、新しい建物を作ることもできるかもしれません。これまでの名作と言われる推理小説から共通するプロットを抽出し、新しい作品を作り出すこともできるかもしれません。では、古典的名作のように、人の心を揺り動かせるような作品ができるでしょうか。筆者にはとてもそうは思えません。人生の糧となるような、すばらしい芸術作品など、いかに人工知能が発達してもできるはずがありません。さらに、「源氏物語」や「銀河鉄道の夜」のような名作小説、萩原朔太郎や北原白秋の詩、万葉集や古今集にある短歌なども、人工知能で作れるはずがありません。絶対に!それらは人間でなければ書けないはずです。すべて、神の領域から人間にもたらされるインスピレーションによって作られるからです。人工知能の作品などすべて、「似て非なるもの」でしょう。

 宇宙創成・進化の方程式を追及している人たちがいます。宇宙物理学の最先端の研究者たちです。彼らに共通して印象的だったのは、一様に「コンピューターは使わない」と言っていたことです。「コンピュータープログラムはしょせん人間が考えたものだから」と言うのです。つまり、宇宙の仕組みを解き明かすのは人間の知性だけだと言うのです。近付いたと思えばまた遠ざかるのが神の世界なのです。以前、宇宙物理学の最先端の成果についてNHKテレビで紹介されたことがあります。4回シリーズで、宇宙方程式4つがすでに解明され、最後の一つもあと一息と言うところまで来ているとの構成でした。しかし、あと一息のところまで来たら、なんと無限の彼方へ遠のいてしまったのです。番組に期待していただけに唖然としました。
 神の心が人工知能によって解析されるはずがありません。神は無限大なのです。近づけたと思っても、遥か先にいらっしゃるものなのです。

人工知能が神の代行などできるはずがありません。永遠に!

人工知能は人間に迫れるか(5)続き

 このテーマに関するブログシリーズの続きです。最近のNHKの番組で、コンピューターが小説を書き、絵画を描くことができるようになったと報道されました。「コンピューターは創造的作品を作ることができるか」というテーマでした。

 絵画については前回お話したケースです。すなわち、既存のレンブラントのさまざまな作品について、色使いから構図、絵の具の厚さまで解析・集積し、新たな作品を描かせたというものです。新たな作品は、あの「夜警」の中心人物の拡大図のようなもので、それを何人かの絵画ファンの中年女性たちに見せると「レンブラント?」と言いました。確かに筆者もそう思いました。そのほか、いくつかのコンピューター作品の例が挙げられていました。

 次は小説です。星新一ショートショートコンテストで、コンピューターが作った作品が一次選考を通ったというものです。これまでの星新一の作品のいくつかについて、独特の表現、ストーリー展開などを解析し、共通項をもとに新しい作品を書かせたと言うのです。

 いかがでしょうか。じつはこの番組では言葉のトリックが使われています。作品と言ってもピンからキリまであるのですが、それを一まとめにして「創造的作品」と言っているからです。人の心を打つものから、雑誌の埋め草のようなものまであるのです。小説好きの人なら賛成する人は多いでしょう。

 もっと重要なことは、「レンブラントの作品や、星新一の作品を基にした」コンピュータ作品は、絶対に原作者の作品を超えることはできないことです。音楽でも同じことでしょう。ポップスにしろジャズにしろ、同じジャンルの作品のいくつかを基にして新しい「作品」をコンピューターに作らせることなど、わけもないように思います。しかしそれらはしょせん「まがいモノ」でしょう。創造的とは、どれほど従来のものから飛躍できたかです。ほんの少し飛躍したものなど、とても創造的とは言えないでしょう。

 以前お話したように、人間のすぐれた創造性は神の領域なのです。指揮者の小澤征爾さんが、「モーツアルトの作品は神の音楽である」という意味のことを言っていました。そのとおりでしょう。

  私たちはこの言葉のトリックに気が付かねばならないのです。同じような言葉のトリックに、「地球外生命はあるか」というものがあります。報道などでこの言葉を聞けば、ふつう知的生命体、つまり人間のような高度の知性を持った地球外生物のことだと思ってしまいます。報道で「その証拠が見つかるかもしれない」と聞けば、視聴者が色めき立つのは当然でしょう。しかし、現代の科学者が言う「地球外生命」とは、バクテリアのような生物のことです。じつは地球でさえ、100℃以上、地下何千メール、無酸素の条件で生きているバクテリアが次々に発見されています。そういった生物が火星や木星のある衛星で見つかる可能性は十分にあるでしょう。それはそれで画期的なことだと、生命科学者として過ごして来た筆者も思います。もちろんそれらの生物も神の創造物です。しかし、「人間の価値観を一変させる」ような発見ではないと思うのです。