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龍樹の「空」と禅の「空」とは異なる

龍樹の「空」と禅の「空」とは異なる(1)

 読者から質問がありました。かいつまんで言いますと、
 ・・・M師は臨済宗の著名な禅師です。M師やHさんが、禅の基本思想である色即是空の意味を、「あらゆるモノは変化し、他のモノと関係し合っているから実体はない、とする解釈はおかしい」との、あなた(筆者のこと)の指摘はちょっと納得できない・・・
というものです。
 たしかに、筆者の「空」の解釈と、M師やHさんの言っている「空」の意味はまったく違います。筆者も、両者がなぜこんなに違うのか、ずっと疑問でした。そこで、読者からの上記の質問を機に、改めてこの問題を考えてみました。その途中、ふと、その理由に思い当たりました。
 すなわち、M師やHさんは、龍樹(ナーガルジュナ)の「空思想」が、禅の「空思想」の基盤だと思ったのではないでしょうか。じつは、龍樹の「空思想」と、禅の「空思想」とはまったく別なのです。「般若経(初期バージョン)」が成立したのは紀元前後、龍樹は2世紀から3世紀頃の人、「般若心経」が成立したのは4世紀です(後期の「般若経」には、龍樹の「空思想」が色濃く入っていますが・・・)。そして、達磨大師が中国へ禅を伝えたのは6世紀です。その後、禅は唐時代(7世紀から10世紀)に大きく発展しました。
 そもそも、中国にはそれまでに、老荘思想など、「無」に関する独自の考え方がありました。そのため、龍樹の「空」思想もその線で受け止められたに違いありません。老荘思想は、道教の中心思想であり、中国人のモノの考え方に深く浸透していました。ちなみに老子は紀元前6世紀(?)の人、荘子は紀元前369?-286?の人です。つまり、中国へ「空」思想が伝えられた時、いわんやその後禅が発展したころには、中国人には「空」はまったく違った意味で受け取られたのでしょう。
 およそ、どんな思想でも根本理念が変化することなどありえないことですが、仏教ではそれが起こったのです。驚くべきことですね。以前お話したように、仏教がわかりにくい理由の一つは、その思想がどんどん拡大解釈されて行ったためだと思います。つまり、M師やHさん(なん度もやり玉に挙げて申しわけありません)は、龍樹の「空思想」でもって300年も後に発展した禅の「空思想」を解釈するという誤りを犯してしまったのではないかと思います。そもそも龍樹は、M師やHさんのように、「モノのあるなし」を言っているのではありません(龍樹の思想については別にくわしくお話します)。

 以前、筆者が後輩のIさんに、「仏教を知るには歴史的展開を知らなければなりません」と言ったのはこういうことです。
 
禅は「わかったか、わからないかの世界」だと言われます。したがって、100冊の本を書こうと、1000回の講演をしようと、わかった人が書いたものでなければ意味がないのです。

龍樹の「空」と禅の「空」とは異なる(2)

 このシリーズでは、表記の問題についてお話していますが、次に進む前に、筆者が例としている、M師やHさんの考えと龍樹の「空」思想の違いについてお話します。
 じつは、これらの人たちは、龍樹の「空」思想を完全に誤解しているのです(言うまでもなく、これらの人たちの解釈は、禅の空思想とも違います)。龍樹は、それ以前の上座部仏教徒、とくに「説一切有部(以下有部)」に対する批判として「中論」を書いたのです(龍樹の思想については次回以降お話します)。
 つまり、「龍樹」と「有部」の論争のポイントは、「ものごとの本性(原理、あり方)が、それ自体として存在するかどうか(自性の有無)」であって、「もの(般若心経で言う色シキ)の有る無しではない」のです。M師やHさんが「もの(色)などない」と言うものですから、筆者が「では、それらの人たちの頭をポカンとたたいてみてください。『痛いっ!』と言ったら、ものはあるじゃないかと言ってやればいい」と言うのはそのことです。
 M師たちはさすがに「空」は「無」とは違うことを承知していました。そこで、「無」でない「空」を説明するために、龍樹が「空」を説明した時と同じの、「すべてのものは他のものとの関係においてのみ成り立つ」という「縁起の法則」と、同じく釈迦の基本的教えとされて来た「すべてのものは変化する」との「無常」の法則を引っ張って来ざるを得なかったのでしょう。意識的にか、本当にそう思っていたのかは分かりませんが。つまり、この人たちは二重の誤りを犯していると思います。第一に龍樹の「空」の解釈についての誤りと、第二に「色即是空」を「ものには実体が無い」とした誤りです。

 ちなみに、鈴木大拙博士、澤木興道師、山田無文師、西嶋和夫師、中村元博士らは、このうち一番目の誤りを犯していると思います。
 
龍樹の「中論」はむつかしいのですが、よく読めばおのずとわかることなのです。私たちはよく勉強しなければなりません。

歎異抄の呪縛 

歎異抄の呪縛から早く脱するべきです(1)

 前にもお話しましたように、このシリーズでは決して禅だけに限るのではなく、他の仏教宗派から、キリスト教、スピリチュアリズムと、幅広く精神世界について考えていきたいと思っています。そうすることが禅を深く知るために不可欠だと思えるからです。そこで今回は、浄土系宗派について私見を述べさせていただきます。

 わが国の浄土系宗派は、栄西や道元が禅をわが国へ紹介する以前、すでに平安時代に盛んになりました。親鸞の言う「七高僧」の六番目、恵心僧都源信が有名です。次が法然、親鸞の師ですね。この二人が現代に至る浄土系思想の源流となった人たちです。親鸞の著書では「教行信証」がよく知られています。「歎異抄」は親鸞自身の著作ではなく、弟子の唯円(異説あり)が、親鸞の死後混乱した教えを正すために書かれた本です。

 「歎異抄」に関する本は、今でも五木寛之さんや、梅原猛さん、ひろさちやさん、山折哲雄さんなどにより、次々に出版されており、その人気の高さがしのばれます。しかし筆者は、「日本人は早く歎異抄の呪縛から逃れるべきだ」と考えています。今言いましたように、「歎異抄」は、著者唯円が師親鸞の死後、その教えを不肖の弟子たちが勝手に解釈し始めたのを「歎(なげ)いた」ものです。すなわち、
◎わざわざ十以上の国を超え、はるばる京の親鸞のもとに尋ねて来て、「念仏の他に浄土に往生する道があるのか」と尋ねる弟子、◎「すべての人が救われると言うのなら、何をしても許される」という「本願誇り」の弟子、◎文字の一つも知らずに念仏している人に向かって「おまえは阿弥陀仏の誓願の不可思議な働きを信じて念仏しているのか、それとも、(南無阿弥陀仏の)名号の不可思議な働き信じて念仏しているのか」と言って相手を脅かす弟子、◎弟子の取り合いをする者など、およそ親鸞の教えとはかけ離れた、自分勝手な拡大解釈をしている者たちを諭した「親鸞のお言葉」に過ぎないのです。
 さらに重要なことは、日本人は、よく知られた「◎善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」のパラドックスに「しびれ」ているにすぎないのです。「歎異抄」の第二条には、・・・自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願の働きを信じる心が欠けている(自力になる:筆者)。だから阿弥陀仏の本願(他力)に叶っていない」との親鸞の言葉の真意が明記されています。パラドックスでも何でもないのです。このように、「歎異抄」には、親鸞の教えを勝手に解釈している、出来の悪い弟子達を嘆く親鸞の言葉が書かれているだけであり、何ら新しい教えなど書かれてはいないのです。

 法然の天才性は、大衆に向かって「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」と説いたところにあるのです。比叡山第一の学生(がくしょう)と言われたほど、旧来の仏教書を読み解いていた法然が「南無阿弥陀仏」という言葉の重要さを見抜いた上での名号なのです。文字も書けず、教えを聞く機会もない当時の苦しむ民衆にたいする教えとしてこれ以上のものはないでしょう。親鸞のすばらしさは、彼自身も法然に劣らないほどの比叡山のすぐれた学生であったにもかかわらず、法然の教えを忠実に守ったことにあります。
 いかがでしょうか。これが「歎異抄」の実体なのです。上でお話しした多くの仏教解説者が言う「歎異抄の特別なありがたさ」などないのです。そんなものを読むより、ただ、心から「南無阿弥陀仏」と唱えることの方が、よほど法然や親鸞の教えを正しく受け取っていることになるのです。「日本人は早く『歎異抄』の呪縛から脱してください」と筆者が言っているのはこのことなのです。

歎異抄の呪縛から早く脱するべきです(2) 

 誤解しないでください。筆者は浄土系思想はすばらしい教えだと思っているのです。
禅も優れた思想なのですが、難解で、その教えを自分の血肉とし、いざという時の心の支えとするのは容易ではないのです。一方、法然の思想は、一見、簡単なのですが、それを心から信じることのできる人はごくわずかだと、筆者は思っています。つまり、浄土系思想も決して安易ではないのです。要するに、人間は自分に合ったものを選べばよいのでしょう。

 「弥陀の本願」について
 浄土教の根本経典である「仏説無量寿経」に説かれる、法蔵菩薩が仏に成るための修行に先立って立てた四十八の願のことで、その第十八願がとくに重要です。すなわち、
設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
 ・・・もし私が仏となるには、すべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国(極楽)に往生しようと願って、少なくとも十回、私の名(南無阿弥陀仏)を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるなら、私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする・・・
というものです。すなわち、ここに「南無阿弥陀仏と唱えなさい」の典拠があるのです。

 筆者は以前、金沢の人と話し、たまたまこの「弥陀の本願」に及んだことがあります。その人は「この話を事実だと信じている」と言うので、大変驚きました。高等教育を受け、社会の第一線で活躍中の人でしたから。
 前述のように、筆者は浄土系思想をすばらしいと思っていますが、もちろん「弥陀の誓願」など、単なる「お話(フィクション)」だと考えています。法然もそうだったに違いありません。それは、唯除五逆誹謗正法の取り扱い方から明らかです。じつはこの一文は、古来、浄土系宗派の大問題だったのです。すなわち、五逆とは、父殺し、母殺し、仏陀を傷付ける、徳の高い僧侶を殺す、僧の和合を乱す。謗法とは、仏の教えを誹謗することです。「これらの大罪を犯した者だけは救済の対象から除く(唯除)」と言うのです。それがどれほどおかしいかは明らかですね。殺していけないのは父母ばかりではありませんから。
 浄土系思想の先達たちは、さまざまな「へ理屈(と筆者には思えます)」を付けて、この矛盾を「説明」しています。しかし、法然だけは、サラリと受け流しているのです。それは法然の著作を読めばわかります。にもかかわらず、このエピソードを事実だと信じている人がいたので、驚いたのです(金沢は加賀一向一揆があったことなど、親鸞にゆかりの深いところですから、ご当地のその人は疑ってもみなかったのでしょう)。
 
 しかし、たとえ自分が信じる宗教でも、盲信がいけないことは明らかですね。それでは自分の尊厳をないがしろにすることになります。自分の尊厳をないがしろにした宗教など、あってはならないのです。筆者は、ちゃんと唯除五逆誹謗正法についての法然の考えを確かめており、なおかつ浄土系思想のすばらしさを確信しているのです(その理由については、別の機会にお話しさせていただきます)。

○○さんにとって神仏とは

このコーナーでは、筆者が主に作家のみなさんにとって神仏とはどういうものかについてお話します。そして最後には筆者にとっての神仏とはについても付け加えます。

(1)加賀乙彦さんにとって神仏とは

 加賀乙彦さん(1929-)は作家。精神科医時代に出会った死刑囚たちを描いた小説「宣告」では、当然、信仰の話にも及んだ。その時、遠藤周作に「神はいないと疑っているようでは、無免許運転のキリスト者だね」と言われ、「グチャット頭を殴られた感じで何も書けなくなった」。現在、17世紀に日本人として初めてエルサレムの地を踏んだ、ペトロ岐部の生涯について執筆中。58歳で受洗。「洗礼を受ける直前、非常に気持ちが楽になり、ふわふわ漂う感覚になった神秘体験をした」。
筆者は加賀さんの信仰について、いささか疑問を持っています。遠藤周作さんの言う通りだと思いますから。

 筆者は作家の瀬戸内寂聴さんの神仏に対する考え方と、それからかけ離れた行動には不可解な点があります。さらに、同じく作家の津村節子さんと夫の吉村昭さんの、墓に対する考え方についても疑問を持っています(それらについては後ほど改めて述べさせていただきます)。その津村節子さんは吉村昭さんが亡くなられた後、喪失感に悩み、友人の加賀乙彦さんに相談に行きました。

津村さんの質問に対する加賀さんの答え:

津村さん:(亡くなられた)奥様にあちらで会えると思っていらっしゃいますか?
加賀さん:会える
津村さん:あちらの世界があると思っていらっしゃる?私はどうしてもそうは思えない
     んですけれども
加賀さん:あるかどうかわからない。わからないけれども、あるということに賭けなさい。人は”無限”が何であるか知らないけれど、無限が存在することは知っているでしょう。それと同じで、「人は神が何であるかを知らないでも、神があるということは知ることができる。信仰によってわれわれは神の存在を知り、天国の至福においてその性質を知るであろう(パスカルの「パンセI」より)」と。けれども、キリスト者は自分たちの信仰を理由づけることはできません。理由づけることができない宗教を公然と信じている。

筆者のコメント:なんとも歯切れの悪い対話だと思います。加賀さんは、なんとかして神の存在を信じよう、「信じている」としているようです。「(あちらの世界が)あるということに賭けなさい」とは!信仰は賭けでしょうか。ちなみに、「無限がなんであるか知らないけれど、無限が存在することは知っている」ことと、「人は神がなんであるかを知らないでも、神があるということを信じることはできる」ことには、論理学的には何の関係もありません。

 以前お話したように、筆者は神の存在を心から信じています。長年、生命科学の研究に携わってきた筆者はある時、「生命は神によって造られたに違いない」とありありと実感しました。筆者の神秘体験については、のちほど改めてお話します。

<(2)志賀直哉にとって神仏とは(評価の定着した故人については敬称を省略します)

柳宗悦にある人が「白樺の仲間で誰がいちばん宗教的か」と尋ねたところ、「そりゃ志賀だ」と言下に答え、皆が驚いたと、伝記「志賀直哉」を書いた阿川裕之が伝えています。志賀は「無神論者」として知られていたからです。このことについて志賀自身は「僕は宗教の本も読まないし、そういう勉強はしたことがないが、心にそういう要求は若い時から持ってゐたかもしれない」と答えています。「そういう要求」という、志賀直哉(1883-1971)の宗教的心情は、「虫のようなものに対しても、その命をとても大切にした」だったとか。素朴ではありますが、心の根源的部分でしょう。ちなみに志賀は若いころ、キリスト教無教会派の内村鑑三に傾倒していました。一時期放蕩を尽くし、性病にもかかった志賀には、内村のような「品行方正にはとても付いて行けない」と、内村に告白して離れたそうです。しかし、キリスト教入信の痕跡は、作家として立った志賀に、ほとんど残っていなかった。後に、「宗教といふ木は私に挿し芽されていて何年という時を経ったけれども、遂に根を下ろしてはいなかったかもしれません」と述懐しています。ある評論家は、「(柳の言う志賀の宗教的感情は)志賀作品の底にひそむ民族的古層だろう」と評しています。あるいはそうかもしれません。
 
 今日お話しするのは、志賀の徹底した「迷信嫌い」についてです。

 志賀直哉は32歳の初夏、群馬県の鳥居峠へ一人で行った。峠の頂上付近に何体かの石仏が並んでいるのを見て、「この石像を足で蹴倒し、そばにあった夏蜜柑大の石を叩きつけた」と、帰ってきて妻の康子(さだこ)さんに言ったそうです。「何かのために感情が昂(たかぶ)っていたためだろう」と、阿川は推測しています。話はこれからです。

 翌年の7月長女が生まれてわずか56日で夭逝し、さらに2年後、長男も生後3か月で死んでしまった。志賀自身も6年後、坐骨神経痛を患って大変な苦しみが始まり、8か月も寝込んだと言います。しかも痛むのは、お地蔵さんを蹴倒した右の足首から腰にかけてだった。康子さんが「祟りではないか」と恐れ、「人に頼んで石地蔵を供養してもらいましょう」と言ったところ、志賀は「絶対にそれをやったらいかん。神経痛は何時かは治る。石仏の供養などすれば、家族のものが『供養したために治った』と思うに違いない」と答えた・・・有名な話です。ちなみにその後、志賀は山手線にはねられて瀕死の重傷を負い、転地に行った城崎温泉で書いたのが、名作「城の崎にて」です。

 こういうことに関心のある筆者には、地蔵さんを蹴倒すなど、体が震えるような恐ろしいこと、としか思えません。お地蔵さんは多くの場合、不慮の事故で亡くなった子供の供養のために建てた、親の切実な「想い」が籠っているのもなのです。人間の「想い」の宗教的・霊的意味については、またいつかお話します。

 読者の皆さんは、志賀の宗教心をどうお考えでしょう。

(3)津村節子さんにとって神仏とは

 以前のブログ「〇〇さんにとって神仏とは」の中で、作家の加賀乙彦さんにとっての神仏とはについてご紹介しました。そこでは、同じく作家の津村節子さんや夫君の故吉村昭の、墓についての考え方についても触れました。今回はその続きです(評価の定まっている故人については敬称を略します)。

 津村節子さんの、「愛する伴侶を失って」(集英社)での加賀乙彦さんとの対談から(津村さんの質問に対する加賀さんの回答については前回ご紹介しました):

 夫である吉村昭を亡くした津村節子さん(1928-)は、その深い喪失感から、四国遍路に出掛けた。仕事を抱えていたので、ジャンボタクシーで一番の霊山寺から二十九番国分にまで4泊5日。それでも気持ちの整理が付かず、思い余って作家仲間であり、クリスチャンでもある精神科医加賀乙彦さん(1929-)を訪れた。加賀さんもそれ以前、夫人を亡くされていたこともあったからだ。

 津村さんの言葉:「吉村は生前、先祖が代々住んできた静岡県富士市の旦那寺の住職と大喧嘩して、『死んでしまえば霊なんかない、焼いてしまえばカルシュウムなんだから、もう俺はあの寺には入らない』と言って寺と絶縁した。そして({しかし}ではないでしょうか:筆者)、セカンドハウスのある越後湯沢の町営墓地に墓を建てた」そして、『墓参りに来た人はそこで一緒に飲んでくれ』と言った。私(津村さん:筆者)も死んだら無になると思っている。私も湯沢へ墓参りに行っており、私も(吉村の遺志で)そこへ入ることになっている。家には位牌は無い。写真を飾って、毎朝デミタスカップでコーヒーを供えている」

 筆者のコメント:「死んでしまえば霊なんかない」と言っていた吉村昭が墓を建て、「墓参りに来てくれた人はそこで一緒に飲んでくれ」とは!しかも、津村さんも「私もそこへ入ることになっている」と。さらに、(次回お話しする)加賀乙彦さんとの対談で、「あちらの世界があるとはどうしても思えない」と言っている津村さんが、四国遍路に行くとは!しかもジャンボタクシーで4泊5日。ほとんど四国巡礼のまね事ではないでしょうか。筆者も四国巡礼には深い関心を持っていますが、長くて苦しい徒歩での旅を続ける間に、さまざまに考え、本当の自分に気付くのが、「正しいあり方」ではないでしょうか。したがって、ここでご紹介した吉村・津村ご夫妻は、建前と本音があまりにも違うと思いますが、読者の皆さんはいかがでしょうか。

(4)筆者にとって神仏とは

 読者から質問がありました。「あなた(筆者)にとって、神はどんなイメージですか」というものです。
 以前、このブログで、「生命は神が造られたとしか思えない」と書きました。40年に亘って生命科学の研究をしてきた筆者の実感です。今度の質問は、「それはわかったが、あなたにとって神とはエホバのような存在か」という意味でした。なるほど、神のイメージは人さまざまでしょう。エホバ、ヤハウエ、アッラー ・・・筆者にとって神とはそのような人格神ではありません。眼には見えないが、まぎれもなく実感する存在です。
 ある西洋のクリスチャンが、「『神はとは○○だ』と定義するのは間違だ。いかなる定義も神のみわざを限定することになるからだ」と言いました。その通りだと思います。

 よく、新興宗教の教祖などが、「神の姿を見た」とか、「神の声を聞いた」と言います。しかし、「神と人間の関係は、人間とウイルスとの関係のようなもので、両者の間は隔絶しており、神を見たり聞いたりすることなどあり得ない」と、ある人(かなり修行を積んだ霊能者です)書いていました。筆者も同感です。
 
 じつは、姿を見たり、声を聞いたりした「神」は、じつはもっと低位の存在、たとえばその人の守護霊や、あるいは過去生の自分自身であることがほとんどなのです。とくに注意しなければならないのは、神と称する狐狸の霊だったりすることさえあることです。確かにそれらの霊は、ある程度の霊能力を持っていますから、それを体感して「神とコンタクトできた」と大喜びする人もいます。しかし、それは大変危険なことで、低級霊を信じるということは、それらの眷属(部下)になることなのです。人間が狐狸の部下になるなど、誇りも何もあったものではありませんか。

 ときどき仏像彫刻や陶器製の神像を買ってきて拝む人がいます。また、どこかの土産物店で手に入れた大仏像などを次々に仏壇に収めている人もあります。それらも決してやってはならないのです。下手にそういうものを礼拝すると、「ここに入れば毎日拝んでもらえるわい」と仏像や神像に入ってくる低級霊もいるのです。

 神社や村の祠には、祟りを恐れて祀っているモノも少なくないのです。大宰府天満宮や、東京丸の内の将門塚など、その例です。菅原道真や平将門の怒りを鎮めるために祀っているのです。そのことも十分に考えた上で礼拝することをお薦めします。

 「触らぬ神に祟りなし」と言います。一般には「あの人はうるさいから近づかないでおこう」と解釈されています。しかし本当は、「下手に『神』を信仰すると、とんでもない障りがあることがある」という意味なのです。明治の大神道家本田親徳翁が言いました「最も確かな信心の対象は、産土神(自分の生まれた場所、あるいは、いま住んでいるところの神)だけだ」と。傾聴すべき言葉だと思います。

禅とはなんだろう

        中野禅塾 (2015/9/15)

禅とはなんだろう(1)

 ブログを読んでくださった方から、「もっと初心者の方にもわかりやすい記事を」とのアドバイスをいただきました。そこで、シリーズを一休みして、「なんのために禅を学ぶのか」についてお話しさせていただきます。もちろん、禅を学ぶ目的は人さまざまです。

 最初の著書「禅を正しく、わかりやすく」(株式会社パレード)にも書きましたように、筆者は6年ほど前、大変苦しい状況に陥りました。その時、是が非でも自分を支える思想を必要としました。「一度落ち込むと、負のスパイラルに入る」ことだけは感覚的に承知していたからです。筆者は昔から、さまざまな本を読んで「これはいいな」と思われる語句をノートに記録してきました。将来困った時、自分を支えるものになるだろうと考えたからです。6年前のその頃、2-3冊になったノートを必死になって読み返しました。しかし、残念ながら力にはなってくれませんでした。

 そこで、「禅を本格的に学び直そう」と決心しました。なぜ禅に思いが行ったのか、今ではよく思い出せません。たしかに何十年も前から禅に興味を持っていてたのですが、いろいろな本を読んでもどうもよく分からなかったのです。今振り返ると、どうも、それらの解説書を書いた人自身がよく分かっていなかったからだろうと思われます。そこで、解説書ではなく、自分自身で、原典である道元の「正法眼蔵」に取り組むことにしました。図書館で検索してみますと、橋田邦彦先生の「正法眼蔵釈意」(山喜房沸書林)が見つかりました。橋田先生は、元東京大学医学部生理学教授で、近衛内閣の文部大臣をされた人です。惜しくも終戦直後、戦犯にされるのを嫌って自死されました。橋田先生の「正法眼蔵釈意」は戦時中の出版で、紙質が悪く、破れかけているのを慎重にコピーしました。

 橋田先生の文章も筆者には非常に難しかったのですが、いかにも学者らしい、誠実な人柄が偲ばれ、同じ学者として共感が持てました。必死になって読み進みますと、やはり橋田先生こそ「本当に禅が分かった人だ」と思いました。橋田先生は、近・現代のいかなる僧侶や仏教解説者達の助けを借りることなく、独力で「正法眼蔵」の解釈に挑戦されました。先生の本を読みますと、「禅が分からない」と言う人達に、「君達は中学・高校・大学と何年も勉強して、医学のことが少し分かるようになったのではないか。2年や3年で禅が分かるはずがない」と言っておられたそうです。驚くべきことに、先生は当時、医学部のセミナーとして、毎週一回「正法眼蔵」についてお話しされていたそうです。

 全3冊を読み進んだ頃、いろいろな幸運も重なって、筆者は苦境を脱出することができました。今では、何か人生の「核」ができたように、心強く思っています。

 次回は、禅の精神を世界平和のために生かすための活動をしていらっしゃるベトナム出身のテイク・ナット・ハン師についてお話しさせていただきます。

禅とは何だろう(2)

テイクナットハン師の活動
テイクナットハン師(1926~)はベトナム出身の禅僧です。フランスとのインドシナ戦争、アメリカとの戦い、そして南北ベトナム戦争と、長い間「明日の命もわからない」渦中にあった人です。しかし常にどちらの勢力にも属さず、非暴力を訴え続けました。そのため、北ベトナムによる統一後も国を追われ、現在はフランスの農村にプラムビレッジ(すももの里)と呼ばれる修養の場を開きました。今では毎年、世界中から多くの人が修行とリトリート(自分を見つめ直す)を受けに訪れています。驚くべきことに、そこではイスラエルとパレスチナの人々も一堂に会しているのです。ハン師は「行動する仏教」運動を実践しています。

 あの東日本大震災の時、多くのわが国の仏教僧たちが現地を訪れ、被災者に対する誠実な傾聴活動を行ったことはよく知られています。しかし、そのほとんどが挫折したのです。ある有名寺院の布教教化委員であるエリート青年僧が、自分の無力さを感じ涙を流していたと、NHKテレビで放映されていました。僧達の気持ちが純粋であっただけに、見る者の胸を打ちました。筆者にはどうしてもわが国の仏教、ことに大乗仏教が衰退してしまったためと思わざるを得ません。

 これに対し、ハン師の「行動する仏教」は、具体的で、はるかに説得力があるように思えます。ハン師の実践は、いわゆる南伝仏教(註)の「気付き」を基本とします。国家同士、民族、異なる宗教、宗派、さまざまな組織、家族間であれ、まず対立する一方が、自らの怒りや恐怖をはっきりと認識し、その上で慈愛をもって相手の言い分に耳を傾けようと言うのです。お互い、長い恨みの歴史があり、不信や疑心暗鬼も生じているはずです。また、話し合いの途中でも思わず暴言を吐き、相手の話を途中で遮ることも必ずあるでしょう。しかし、まず自分の心を見つめ直し、怒りや不信の根に「気付こう」と言うのです。その上で、相手の言葉尻に捉われることなく、最後まで相手の話を聞き、共感できるところは共感しようと言うのです。これらのハン師の平和主義は、世界中の人々の共感を呼び、さまざまな国でリトリートを行い、アメリカ連邦議会や、フランスのユネスコにも招かれ、講演を行っています。
 ハン師の活動は、まさに禅の教えを世の中のために生かしている好例でしょう。

註 釈迦によって始められた仏教は、その後チベットや西域、中国、朝鮮、日本などに伝わりました。  北伝仏教と称します。一方、スリランカ、ミャンマー、タイなどに伝わったものを南伝仏教と
  言います。北伝仏教が、いわゆる大乗仏教であるのに対し、南伝仏教は初期仏教の影響を色濃く 
  残しています。ハン師の言う「気付き」は南伝仏教で重視される修法です。ちなみにインドで
  はその後、仏教は衰退し、ヒンズー教が主流を占めています。

禅とは何だろう(3)

 禅は東洋独特のモノゴトの観かたです。西洋の哲学や科学の特徴は、モノゴトを区別し、分析し、比較することにあります。筆者も長年生命科学の研究をして来ましたから、それがよくわかります。この思考方法が科学研究の基本として使われてきたたため、皆さんご存知のすばらしい医療技術や工業技術の発展をもたらしました。

 しかし、一方、このモノゴトの見かたが政治や経済の哲学としても使われたため、国家や宗教間の深刻な対立を生み出しました。第二次大戦中のドイツは、「異教徒」としてユダヤ人の大量虐殺を行いましたし、現在では、キリスト教徒とイスラム教徒の対立は激しさを増す一方です。しかし、キリスト教とユダヤ教やイスラム教は、歴史的に言って、ごく近い教えなのです。しかもイラン、シリア、イラクやアフガニスタンなどの人びとの間の対立は、同じイスラム教のシーア派とスンニ派同士の争いなのです。私たち日本人には信じられないことですね。

 宗教派閥の間ばかりではありません。社会主義系のロシアや中国と、自由主義系のアメリカやイギリス、フランス、ドイツなどとの争いは、朝鮮半島やベトナム、さらには中東での代理戦争から、経済問題にまで及んでいます。これらはすべて西洋的モノゴトの考え方、つまり区別と分析と比較に基づくものです。今、世界では、投機が経済を引っ張り回し、円やドル、ユーロなどのわずかな変動で、さまざまな国の経済が浮沈しています。マネーゲームですね。そのため、真面目なモノづくりや貿易活動など、あっという間に吹っ飛んでしまうことが、日常的に繰り返されています。わずか7年前のリーマンショックが世界経済を激震しました。しかし最近、アメリカの金利値上げが現実になってみると、もう、リーマンショックの震源地だったアメリカで、マンションや住宅などの不動産投機が盛んになっているのです。「人間は歴史を教訓とする」など、まったくの誤りですね。
 政治や経済問題ばかりではありません。この考えは日本にも深く浸透し、会社間の競争が激化し、過労死や、うつ病患者を増やしています。さらに受験戦争をとおして、子供たちの心を大きく蝕んでいます。人びとは心休まるときがないのです。

 世界の心ある人たちには、世界はもうどうしようもないところまで来ていると思えるのです。

 これに対し、そもそも禅には対立や、比較して優劣を評価する思想がまったくないのです。また、人間同士はもちろん、人間と自然とは一体なのです。禅ではよく、「父母未生以前の自己如何」と言います。「父や母すら生まれる前のお前はどうか」という意味です。つまり、他人との比較というような、相対的な自分というものを離れた、絶対・普遍的な本来の自分を考えなさい」というわけですね。いかにこれまでの西洋的モノゴトの見かたと違うか、よくお分かりでしょう。そのため、この東洋独自の思想のすばらしさに気付いた西洋の有識者たちは、今こぞって、禅に強い関心を持つようになっているのです。禅の目的は、穏やかで、心豊かな人生を送るためのものなのです。

 禅こそ、世界を救う大きなカギなのです。

禅はなぜわかりにくいのか

   中野禅塾だより (2015/8/15)

禅はなぜわかりにくいのか(1)

 禅はなぜむつかしいのか・・・。仏教はなぜ分かりにくいのか、と言い換えてもいいと思います。筆者は、その理由の一つとして、仏教があまりにも拡大されてしまったこと、その歴史的展開をごっちゃにしていることが原因だと考えています。たとえば、中野禅塾だよりNo.2(2/1)でお話した、「空」についての、現代の有名な禅師や仏教解説者であるM師やHさんの解釈:
  ・・・あらゆるものは空であるから実体はない。それはあらゆるものは常に変化し、一瞬たりとも同じものではない。そしてすべてのものは関わりあっている。だから苦しみや不安などの実体はない・・・(M師)
  ・・・空とはうつろ、ふくれたもので中がない状態をいう。そこからこの世の一切のものには固定的、実体的な我や自性などはない。この世の一切の現象は、因(直接の原因)と縁(間接)の原因が和合して消滅をくり返す。したがってどんなものにも固定的な実体がないというのが、空のとらえかたである・・・(Hさん)

を見ればわかります。両者とも、仏教の根本理念とされる「無常」「縁起」「無我」「苦」を使って解釈していますね。じつはそれらすら、釈迦が説いた法かどうかは分からないのです。釈迦が悟りを開いて最初に説いた法を「初転法輪」と言いますが、仏教に関する本のどれにも、

 ・・・このとき説かれた教えは、中道と、その実践法たる八正道、苦集滅道の四諦、四諦の完成にいたる三転十二行相、であったとされる・・・
とあります(八正道とか四諦、三転十二行相の意味は、それぞれ調べてください)。このように仏教には数字がさまざま出て来て、分かりにくさの原因となっています。じつは数字をやたらに使いたがるのはインドの人々の性癖なのです。そんなものに振り回されてはいけません。初転法輪がどのようなものであったのかも、今ではよく分からないのです。
 釈迦没後長い間、その教えはもっぱら口伝で伝えられました。100-200年くらい経って、いわゆる部派仏教徒達によって文書としてまとめられました。いわゆる阿含(あごん)経典類です。さらに100-200年経った紀元前後から、それらが整理され、拡大されて成立したのが「般若経(初期)」「維摩経」「法華経」「浄土三部経」などの大乗経典類です。紀元2世紀頃のインドの人、龍樹(ナーガールジュナ)が「空」の理論を打ち立て、仏教のその後の方向性を決めたのは有名な話です。
 仏教の経典類はこのような歴史的変遷を経ているのです。キリスト教がイエスの死後わずか30年で確立されたことと大きな違いですね。にもかかわらず、現代の仏教各宗派が、自らの根本経典を「これこそ釈迦が悟りの後最初に説かれた教えである」とか、「最後に説かれたもっとも重要な法である」などと言っています。本当に困ったことです。
 膨大な仏教経典類を読破し、「それらはだんだん積み上げられたものである」と、世界で初めて洞察して整理したのが、江戸中期の大阪の私学校の学者富永仲基で、わずか31歳で夭折した大天才です。今では「大乗経典類は釈迦の教えとは無関係である」ことは定説になっています(大乗非仏説)。
 このように、複雑な仏教経典類も、もつれた糸をほぐすように読み解いていけば、だんだん分かってくるのです。

禅はなぜわかりにくいのか(2)

 前回、仏教はなぜわかりにくいのかの理由について書きました。それは釈迦の死後、つぎつぎに教えが拡大解釈されていったためです。たとえば「大般若経」を取り上げても、紀元前後に成立した第一バージョンから、あの玄奘三蔵(7世紀の人)のバージョンまで3つもあるのです。「釈迦の本当の教えは何だったのか」は、真摯な仏教徒なら誰でも知りたいところでしょう。その意味で、大乗仏教の経典類には、筆者は批判的です。ただ、否定はしません。インドには哲学的な国民性があり、釈迦は傑出した人でしたが、決して奇跡の人ではないからです。その以前も、以後にも優れた哲学者がたくさんおり、大乗経典は、深い思索の結果生まれた、新しい仏教の教えと言ってもいいからです。

 それでも釈迦の教えそのものを知りたいのが多くの人々の願いでしょう。前回お話した、部派仏教の各部派では、釈迦の教えにもっとも近いとされる、スッタニパータや、ダンマパダ、ウダーナヴァルガなどをそれぞれ根本経典としています。スッタニパータは「ブッダのことば」、ダンマパダ、ウダーナヴァルガは「真理の言葉 感興のことば」として中村元博士によって翻訳され、岩波書店から出されています。中村博士(1912-99)は、筆者が最も尊敬する仏教学者で、パーリ語、サンスクリット語など、インドの古語や文化に精通し、その卓越した知識と語学力により、上記の経典や、大乗仏典を翻訳、解説されました。中村博士の翻訳によるスッタニパータやダンマパダ、ウダーナヴァルガは、大乗経典類とは異なり、短い話言葉で書かれており、釈迦の教えがその後ずっと口伝で伝えられたことが彷彿とされます。それでも筆者は、それらは釈迦の教えの一部にすぎないか、脚色されたものとみなしています。

 前回お話ししたように、現在、釈迦の教えのエッセンスは、「苦」「縁起」「無常」「無我」だとされており、近現代のわが国の仏教解説者達は、それらをキーワードとして仏教経典類を解釈しています。しかし、それが大きな誤りの原因であることはすでにお話しました。釈迦の悟りの内容について、筆者は「すべての苦しみには原因がある。それにこだわることが苦しみとなっている」だと思います。「因果の法」ですね。しかしその後、とくに大乗仏教徒によって「縁起」になり、「因縁起」と拡大解釈されていったのだと思います。この「拡大(増広と言います)」こそ、曲者なのです。「空」の解釈でお話したM師やHさんは、有名な人達ですが、いずれもその轍を踏んでいるのです。
 このことを念頭に置いて、さまざまな解説書を読むと、現代の仏教解説者の誤りがだんだん見えてきます。