岩村宗康さんとの対話-禅と神(その6)

 〈正法眼蔵・心不可得〉に、徳山宣鑑(とくさん・せんかん780-865)の話が出てきます。徳山は広く仏教を学んで律にも精通し、とくに金剛経の研究では群を抜いていたが、彼が生きた時代、南中国で禅宗が盛んになってきた。ところが理論仏教を極めた学僧徳山にとって、禅が標榜する〈直指人心、見性成仏。教外別伝、不立文字〉の教えは、まったく納得できないものであった。そこで彼は外道を降伏(ごうぶく)しようと、金剛経の注釈書を車に積んで南方へ向けて出発した。しかし、途中の茶店の老婆に言われた言葉がわからなかった。徳山はすぐにその足で、近くに住む竜潭祟信(りゅうたんそうしん)禅師を訪ね、弟子入りした・・・。

 次に、〈正法眼蔵・渓声山色〉の巻には香厳(きょうげん)智閑(?~898)の悟りの契機について紹介されています。香厳は、大潙(だいい)大円禅師の道場で学んでいた時、「おまえは博識だが、経書の中から覚えたことではなく、父母がまだ生まれない(父母未生)以前のことについて、私に一言いってみなさい」と言われた。しかし彼の知識では何も答えることができず、遂に年来集めた書を燃やし、「絵に描いた餅では飢えを満たせない。私はもう今生に仏法を悟ることを望まない。ただ行粥飯僧(修行僧の食事係)として務めよう」と。しかし、さらに何年たっても悟ることはできず、そこも辞め、「ただ、旧師大證國師の墓守として生きよう」と決心し、師の蹤跡をたづねて武當山に入った。そこである日、道を掃いていると、かわらが飛び散って竹に当たり、「カーン」と響くのを聞いて、からっと仏道を悟った・・・。有名な香厳撃竹のエピソードです。

 この二つのエピソードはいずれも「禅はいくら知識があろうと、わかったか、わからないかの世界だ」と言っていますね。徳山も香厳も「わからないのは私が未熟だから」と、あくまでも謙虚さを失わなかったため悟りに達したのです。

わかるということ

 筆者に送られてきた岩村さんの膨大な書簡を読んで筆者が感じたのは「この人はわかるということがわかっていない」と思いました。一つの例があります。筆者の大学院指導生の一人に地方大学出身の人がいました。筆者の研究室では、学生が入学するとすぐに英語の論文を読むトレーニングをします。ところが彼の場合、どうもいつも答えのピントがずれているのです。下手な和訳ばかりするのです。ある時、「ハッ」とその理由がわかりました。彼は自分の和訳が正しいかどうかがわからないのです。筆者にもわからないことはたくさんあります。しかし、筆者には「わからないことはわかる」のです。おそらく岩村さんはわかるということがわかっていないのでしょう。

 禅の議論は、武士が刀を抜いて戦うのと同じ、文字通り真剣勝負です。

岩村宗康さんとの対話-禅と神(その5)

 対話は続きます。

岩村さん:塾長の「神」についての論述から連想するのは、西田幾多郎著「善の研究」第二編第十章「実在としての神」の下記の記述です。

 ・・・・宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである・・・・実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。………。実在の根柢には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度宗教の根本義である様にアートマンとブラハマンとは同一である。神は宇宙の大精神である・・・・「善の研究」第二編第二章は、「意識現象(直接経験の事実)が唯一の実在である」と記述されているので、上記の「実在」も「意識現象(直接経験の事実)」を指しています。後にそれは、「絶対無の場所」と言い換えられますが、指している事実が変わったとは思えません。
 上記の西田博士の提言を「等正覺」内容の表明として見れば何も問題が無いのですが、実在している筈の宇宙や自然や人間社会に立脚すると納得することはできません。
 原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・「善の研究」の用語で『諸法は実相である』を解くと、「各自の即今・此処の意識現象(諸法)は現に在る事実(実相:直接経験の事実)である」と、言えます。

筆者:前回もお話したように、岩村さんは禅の要諦である色即是空・空即是色を理解していらっしゃいません。つまり岩村さんは、西田博士は、宇宙・自然(モノ)も実在するという禅の色(しき)については言及していないことをわかっていないと思います。それゆえ、「西田博士の〈純粋経験思想〉では、宇宙・自然が説明できない」と、もどかしさを感じていらっしゃるのでしょう。

 つまり、西田博士は「直接経験こそが真の実在である」と言っているのであり、筆者の言う禅の〈空(くう)〉と同じで、モノゴトの観かたです。岩村さんはその〈実在〉の意味と、宇宙や自然(モノですね)が〈実在〉していることと混同していらっしゃるようです。西田博士はモノは実在するという、禅の〈色〉に該当する概念までは言及されていないからです。禅ではいずれも実在することに変わりはない。つまり「空(くう)と色(しき)は一如である」と言っているのです。空(体験)は実在であり、色(モノ)も実在し、両者は一如である・・・・これこそ禅の要諦であると筆者は考えます。このモノゴトの観かたを完全に体得することが、等正覚なのです。

 西田博士は「このモノゴトの観かたは宇宙原理そのものである」と言っています。しかしそれでは片手落ちなのです。西田博士の考えを突き抜けて「宇宙・自然(モノ)も実在する・・・・色即是空・空即是色、この禅の思想こそ宇宙原理だ」と筆者は考えます。

岩村さんはさらに、

・・・・原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・・決して、この災禍を「仏の姿の現れ」とは言わない筈です・・・・

筆者:岩村さんは「神が実在されるなら、なぜこれらの人類の災厄を黙って見ているのか」つまり、「神も仏もあるものか」とおっしゃりたいのでしょう。宗教者にあるまじき発言ですね。原爆もコロナ禍もまぎれもなく「仏の姿の表われ」なのです。神は人間のすることを見守るだけで、手を下さないのです。神の摂理に反することなら早くそれに気づき、神の心を取り戻すのを待っていらっしゃるのです。これが筆者の考える〈神とは〉です。岩村さんは神(仏)についての基本的なことがわかっていないと思います。

 たしかに西田博士の言う〈純粋経験〉は宇宙原理につながるものでしょう。禅の空思想(空観)も同じです。しかし、それを宇宙原理そのものだと言っては飛躍がありすぎだと思います。

 しかし、残念ですが、岩村さんの知識の多くはピント外れだと思います。岩村さんの最後の言葉、は「塾長(筆者のこと)は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。

 筆者が禅と神を結び付けたこと、つまり、「悟りとは仏と一体化すること」への(感情的)反論でしょう。しかし、すべての宗教はその根底に神(仏)をおいているのです。仏教が例外であるはずがありません。大日如来は宇宙の主催神ですし、浄土宗の言う阿弥陀如来も間違いなく「仏(神)」です。〈道元も正法眼蔵・生死巻〉ではっきりと「(生死の問題は)仏の家へ投げ入れて仏の方から行われ、それに従い持て行く・・・」と言っています。〈法華経〉で常不軽菩薩の言う「あなたは仏になれる人です」の「仏」とは何なのか、悟りとは「仏と一体化する」でなければ何なのか。これでも仏教の根底にはすべて「仏(神)などない」と言うのでしょうか。

 要するに、岩村さんは筆者が禅を神と結びつけたことに違和感を感じるのでしょう。筆者は、岩村さんを初め、何人かの臨済宗の師家、曹洞宗の西嶋和夫さんやその師・澤木興道さんの著書など、さまざま読みました。その結果、「これでは日本の禅宗は滅びる」と思っています。彼らは旧来の禅にドップリ浸かり、師から弟子へ同じ誤りが伝えられ、マンネリ化した法話をしているのでしょう。「日本の禅をこんなにしたのはだれか」。

 これに対し筆者は、禅と神(仏)を結び付けることがそのブレイクスルーなると思うのです。じつはこのことは臨済宗の宗祖臨済も、あの道元も気付いているのです。いかなる宗教思想の根底に仏(神)があるのは当然です。注意深く読めばわかることなのです。岩村さんは「自分の宗教家としての人生全部を否定された」と思っていらっしゃるかもしれません。そのいらだちが、「神に取り憑かれた塾長と議論した私が愚かでした」などの感情的発言になったのでしょう。筆者は別に気にしていません。学問の論争に感情など入り込む余地などまったくないからです。岩村さんとの対話は筆者の考えを映す鏡でした。鏡に映すことによって考えを整理することができました。また岩村さんや他の方々と議論することが望まれます。

岩村宗康さんとの対話-禅と神(その4)

岩村さん:〈虚空〉は無為法(註1)であり、成住壊空(じょうじゅうえくう。註2、生じ、そして滅する)を繰り返している宇宙がある場所のような概念で、有爲法(註1)全体の様(さま)を表す〈空〉とは全く異なります。〈般若心經〉において〈不生不滅〉は、〈無心・無分別・無戯(け)論〉を意味し、〈不垢不淨、不増不減〉と共に〈空〉の相を言い表す句です。しかし、〈華嚴經〉における〈不生不滅〉は〈常恒不変(生まれたり滅んだりすることがない絶対的存在)〉を意味し、「虚空」の相を言い表す句として用いられています。
 前記の経文から〈等正覺〉の三文字を除くと、毘廬遮那佛が〈虚空〉のように〈全宇宙を内包しているモノ〉のように見えます・・・〈不生不滅〉には全く異なる解釈があり、〈空〉と〈虚空〉とは全く異なる概念であることを承知し、〈華嚴經〉の毘廬遮那佛は〈如來の等正覺〉のシンボルであることを承知して欲しいと思います。

筆者のコメント:1)ここでも岩村さんは「毘盧遮那仏は最高の悟りの内容である」と考えています。しかし、自身がどうも気になるので「華厳経の毘廬遮那仏が無限で悠久な宇宙の主宰者だと誤解されそうな経文を探してみた」のでしょう。しかし、「誤解されそうな経文」ではありません。なぜなら毘盧遮那仏が宇宙の主宰神であることと、最高の悟りの内容であることとは少しも矛盾しないのです。両者はなんら区別する概念ではありません。悟りとはそういうものなのです。つまり、岩村さんは「仏(神)とは」を正しく理解していないのです。これはとても重要なことです。

 2)つづいて岩村さんは「般若心經で言う不生不滅は、無心・無分別・無戯(け)論を意味し、不垢不淨、不増不減と共に「空」の相を言い表す句である。これに対し華嚴經における不生不滅は常恒不変(生まれたり滅んだりすることがない絶対的存在)を意味する」と言っています。

 しかし、この解釈もまったくの的外れだと思いますす。〈般若心經〉で言う不生不滅は、〈無心・無分別・無戯(け)論〉を指すのではありません。何度も話しているように、筆者の言う〈空〉とは、モノゴトの観かた、一瞬の体験であり、それだからこそ、不生不滅・不垢不淨・不増不減なのです。

 3)さらに、岩村さんの言う〈空〉とは、初期仏教〈長阿含経〉の〈成住壊空〉の〈空劫〉を指しているのでしょう。「空劫」とは、世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間のことで、「成住壊空」の一部です。これに対し、大乗経典の華嚴經における〈空〉とは常恒不変、すなわち虚空が絶対不変であることを表す言葉です。両者は異なる概念であり、岩村さんは初期仏教と大乗経典というまったく別の概念を混同しているのでしょう。ことほどさように、〈空〉という概念は、さまざまな経典でそれぞれ違った意味で使われているのです。筆者がここで一貫して話題にしているは、もちろん禅の空思想です。

註1 無為とは、特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅の存在のこと。逆に、さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象を有為(うい)と言います。また、涅槃のことを無為ということもあります。

註2 〈長阿含経〉は初期仏教・法蔵部の概念。世界の成立から破滅に至る時の経過を四つに大別したもの。成劫(じょうこう。生成し)・住劫(続き)・壊劫(えこう。滅する)・空劫。

岩村宗康さんとの対話-禅と神(その3)

 道元や臨済がそれぞれの思想の根底に仏(神)を置いていることの例証はすでにブログで述べました。

 岩村さんは次のようにも言っています。

・・・・現成公案底が〈既成の事実〉だからこそ「水空を行く魚鳥は、水を究めず空を究めざれども、処を得て行履(あんり)自ずから現成公案し、道を得て行履自ずから現成公案である(この言葉も〈正法眼蔵・現成公案編〉にあります:筆者)」と言い得ると思います。「体験して初めて現成する」と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう。その挙げ句が「眼横鼻直」だと思います。殆どの人は、魚や鳥と同じように処と道に迷ったことがないから「既成の事実」に気付かず〈眼横鼻直〉も知らないと思います・・・・

 岩村さんは、現成公案とは諸法実相(自然界のありさまはそのまま仏の姿だ)とおっしゃりたいのでしょう。仏教の一般的な考えです。しかし道元はちがうのです。そこが凡百の仏教者とは異なるのです。くりかえしますが、道元は、

・・・・すべてのものはあるべきようにある(公案)、しかし、見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて、つまり体験して)初めてモノとして現れる(現成する)・・・・と言っています。つまり、〈諸法実相〉とは公案として〈あるべきようにある〉のでが、〈見て初めて現れ(現成する)〉、つまり、あるにはあるのだが見なければ無いと同じだ」と言っているのです。

 ちなみに〈眼横鼻直〉とは道元が好んで使う言葉で、「禅はあたりまえのことを言っている」と言う意味です。真理とは畢竟、あたりまえのことなのです。

 しかし、道元の「水空を行く魚鳥うんぬん」の一節もやはり「体験が重要である(モノは見て初めて現れる)」と言っているのです。「鳥が空という体験の外へ出れば、魚が水という体験の世界を出てしまえば死ぬ」とは、「すべてのモノは体験の枠の外には出ない」と言っているのです。これを〈空(くう)〉と言うのです。

 改めて道元のこの文章を読んでみますと筆者は新鮮な感動を憶えます。道元は、じつに巧みに答えそのものを書かず、ヒントを挙げているのです。わかる人にしかわからないように表現しているのです。〈正法眼蔵〉は修行を積んだ上級者向けに書かれているのです。多くの「引っ掛け」がちりばめられています。岩村さんは、まさにそれに引っかかっています。岩村さんが「『体験して初めて現成する』と自覚するのは、仏道を学び解脱涅槃を指向する者(処と道に迷った人)だけでしょう」と言うのには唖然とします。色即是空・空即是色のモノゴトの観かたが体得できることを悟道と言うのです。そしてすべての人間がそれを目指すべきだと言っているのです。

 公案集を読めば、唐や宋師代の師と修行僧たちの未知のための真摯でひたむきな姿勢がよくわかります。〈香厳撃竹〉の故事を読んでください。 岩村さん、「神になってしまった塾長に逆らった愚かな人間の間違いがハッキリしました」などと感情的になってどうするのですか。

岩村宗康さんとの対話-禅と神(その1,その2)

その1)数年前、筆者のブログについて岩村宗康さんと充実した対話をしました。その内容は筆者の基本的考えを〈くっきり〉とさせるものでした。すでにその記録を〈岩村宗康さんとの対話〉として、ブログにアップしましたが、他の読者からの反響もあり、いま読み返してみると少し表現にわかりにくいところがありました。そこで今回、表現を少し変えて再録させていただきます。

きっかけは、道元の〈正法眼蔵・現成公案〉について、岩村さんと筆者との解釈の違いでした。岩村さんは臨済宗のしかるべき位置にいた人であり(現在は真言宗の寺の住職)、高校生時代から禅に親しんでいるとか。禅の古典にも通暁している人のようです。)

 岩村さんは〈現成公案〉を〈既成の事実〉すなわち、仏の真理はすでに目の前に現れている(諸法実相)と解釈しています。これに対し筆者は「現成公案編は色即是空・空即是色を説いている、すなわち、すべてのものはあるべきようにある(公案している)、しかし、見て(聞いて、嗅いで、味わって、触れて、つまり体験して)初めてモノとして現れる(現成する)」と解釈しています。これこそが「現成公案編は正法眼蔵のハイライトである」と言われるゆえんでしょう。それがわからなければ〈正法眼蔵〉はわからず、禅はわからないのです。

岩村さん:広島と長崎に落とされた原爆による死者は50万人を超えたと言われています。塾長が言う〈禅の空〉には原爆は含まれるのですか。原爆による死者も含まれるのですか。
過去の出来事で済まさず、即今に置き換えてお答え下さい。塾長が言う〈神〉が造ったモノでは無い〈原爆〉と、それによる〈神〉に責任が無さそうな〈死者〉の問題です。

筆者:筆者の禅と神を結び付ける考えに対する岩村さんの反論です。つまり、「原爆も神の御業ですか(そんなはずはないでしょう!)」と言っているのです。それに対する筆者の回答は、「もちろん、ウランもプルトニウム原子も神の御業で作られました。核爆発も神の法に従って起きます。しかし、核兵器の製造は神の御業ではありません。ただ、その神の法を人間が悪用しているのです。神は手を出されません・・・」でした。岩村さんは「神とは」という根源的な問題がわかっていないようです。

岩村さん:塾長は、モノゴトの見かたを観かたに変わるのが〈禅の空(くう)〉だと説いているので、広島長崎に投下された原爆自体やそれによって亡くなった人々自体が〈空〉だと言うはずが有りません。空観は分別や戯論(けろん)からの離脱を通過しないと如実知見という智慧(般若)にならないことも塾長は承知していると思います。
 しかし、私には「梵(ブラーフマン)(と)我(アートマン)(の)一如体験を悟りとみなす説」「神仏同体説」「宇宙第一原因としての神、物質や生命の創造者としての神、その御心の計画説」などは「戯(け)論」としか思えないし、「如実知見」とも思えないのです。つまり、塾長の上記のような所説は、〈般若空観〉とは無縁な〈戯論〉に見え、塾長の言う〈禅の空(くう)〉が歪んで見えるのです。確かに、自然現象は神秘的です。特に生命現象は本当に神秘的です。だからと言って、その神秘性を〈神〉で済まそうとするのは性急過ぎると思います。先生のお仲間の生命科学者達やその後継者達が必ず解明してくれると思っています。今は兎に角「神秘で不思議なコト」は「神秘で不思議なあるがまま」にして置きませんか (以上括弧内は筆者の追加です)。

筆者:まず、「梵(ブラーフマン)と我(アートマン)の一如体験を悟りとみなす説」について。この思想は、インドのウパニシャッド哲学(ヴェーダ信仰)です。ブログでも書きましたように、ブッダの思想は、それ以前のインドのウパニシャッド哲学のアンチテーゼ(対立命題)として生まれました。つまり、ブッダの考えも一つの思想に過ぎないなのです。筆者は禅に傾倒しながら、この部分はウパニシャッド哲学に与しているのです。ここが道元の流れを汲みながら、道元の考えとは別の考えを持っているのです。

 次に「神仏同体説」について。〈仏〉の定義にはさまざまなものがあります。「ブッダのこと(仏=ブツ)」とする考えもあります。一方、大日如来(真言密教)や毘盧遮那仏(華厳経)は明らかに全知全能の存在を指しています。筆者が仏と言う場合はもちろん後者のことです。「神仏同体説」を戯論とおっしゃるのは仏教家ですからでしょう。しかし、戯論も何も「神は仏の仮の姿」というのが日本仏教の共通認識です(本地垂迹ほんじすいじゃく説ですね)。さらに岩村さんは「宇宙第一原因としての神、物質や生命の創造者としての神、その御心の計画説」などは戯論としか思えない」と言っていらっしゃいますが、岩村さんのおっしゃる〈諸法実相(自然は仏の姿)〉で言う〈仏〉は明らかに宇宙の創造者です。それを神と言ってどうしていけないのでしょう。岩村さんこそ自己矛盾していらっしゃいませんか。

岩村さん:確かに、自然現象は神秘的です。特に生命現象は本当に神秘的です。だからと言って、その神秘性を「神」で済まそうとするのは性急過ぎると思います。先生のお仲間の生命科学者達やその後継者達が必ず解明してくれると思っています。今は兎に角「神秘で不思議なコト」は「神秘で不思議なあるがままにして置きませんか」と言っています。

筆者:よろしいですか。筆者は40年以上、生命科学の研究者として生きて、長年「生命」に触れてきました。さらに、43歳から10年間神道系の教団に属し、数々の神秘体験をしました。これら二つの体験とそこから得られた感性に基づいて考えを述べているのです。岩村さんとは比較できないでしょう。筆者がある日突然「生命は神によって造られた」と直感したことについて、読者の滝川哲さんが、「デフォルト・モード・ネットワーク現象でしょう。デフォルト・モード、すなわち、何もしていない状態の時、人間には知性・能力・思考等を超えた〈気づき〉が起こる」と言っています。つまり、筆者の「生命は神よって作られた」との直感が「それだ」とおっしゃっているのです。「神秘で不思議なコトは神秘で不思議なあるがままにして置きませんか」とは!滝川さんは「あなたが神の実在を直感できたことは、得難い体験です」と言っているのです。岩村さんの意見とは違う人もいらっしゃるのです。

その2)

 筆者と岩村さんとの対話を興味を持って読んでいただいている方がいらっしゃいますので、その後の展開をご紹介します。たしかに筆者のモノローグより岩村さんとの対話の方が他の読者の皆さんにもわかりやすいかもしれません。岩村さんは臨済宗妙心寺派のしかるべき位置にいた方で、現在は岐阜県の徳林寺住職です。

 ちなみに直近の岩村さんのコメントは「塾長は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。

岩村さん:「華厳經」の毘廬遮那仏を全宇宙の主宰者のように説いている仏教書があります。しかし、毘廬遮那仏は如來の等正覚(最高の悟り:筆者註)の智慧を象徴しているので、全宇宙の主宰者ではありません・・・「華厳経」の「毘廬遮那仏」が無限で悠久な宇宙の主宰者だと誤解されそうな経文を探してみました。

・・・如來の等正覺は寂然として恒に動ぜず、而して能く普く身を現じ十方界に遍滿す。譬えば虚空界の如く不生にして亦不滅なり。諸佛の法は是の如く畢竟生滅無し。
 實叉難陀譯「大方廣佛華嚴經」巻23(T10-122b)・・・。

筆者:岩村さんは「毘廬遮那仏は最高神などではなく、如來の等正覚の智慧を象徴だ」とおっしゃっていますね。よろしいですか。毘廬遮那仏(大日如来)を全宇宙の主宰者とするのは真言密教の基本的理念です。岩村さんが住職をしていらっしゃる徳林寺は真言宗です。いいんでしょうか。後ろから撃たれますよ。


岩村さん:「仏陀」は「真実に目覚めた人、悟った人」を意味していて、飽くまで智慧がある「人」です。だから、塾長が言うような「神」と同一視すべきでは無いと思います。

筆者は釈迦=仏と考えたことは一度もありません。筆者が言う仏とは、(全知全能の)神と同義です。ブログを読んでいただければわかります。たしかに釈迦のブッダから仏という言葉が来ていますが・・・。定義の問題です。ついでですが、筆者の定義する神は、八百万の神々(例えば瀬織津姫の神)とはちがいます。

岩村さん:「華嚴經」の編纂者達が意図したかどうかは判りませんが、その後「涅槃經」で「仏身」が「梵(ブラーフマン)」、「仏性」が「我(アートマン)」に見えるように編纂される契機を提供したことは確かでしょう。「華嚴經」の毘廬遮那佛は「如來の等正覺(註1)」のシンボルであることを承知して欲しいと思います。

筆者:岩村さんのおっしゃる・・・「涅槃經」で「仏身」が「梵(ブラーフマン)」、「仏性」が「我(アートマン)」に見えるように編纂される契機を提供した・・・

には驚きます。「梵(ブラーフマン)」と「我(アートマン)」は釈迦以前の(以後も)ヴェーダ信仰(ウパニシャッド哲学)の概念であり、仏教思想とはまったく別です。「涅槃經」の編者が採用するはずがありません。もうムチャクチャです。岩村さんはよく仏教を勉強していらっしゃる方だと思いますが・・・。筆者の言う「インド哲学の歴史的展開を知るべきだ」とは、このことです。