岩村宗康さんとの対話-禅と神(その4)

岩村さん:〈虚空〉は無為法(註1)であり、成住壊空(じょうじゅうえくう。註2、生じ、そして滅する)を繰り返している宇宙がある場所のような概念で、有爲法(註1)全体の様(さま)を表す〈空〉とは全く異なります。〈般若心經〉において〈不生不滅〉は、〈無心・無分別・無戯(け)論〉を意味し、〈不垢不淨、不増不減〉と共に〈空〉の相を言い表す句です。しかし、〈華嚴經〉における〈不生不滅〉は〈常恒不変(生まれたり滅んだりすることがない絶対的存在)〉を意味し、「虚空」の相を言い表す句として用いられています。
 前記の経文から〈等正覺〉の三文字を除くと、毘廬遮那佛が〈虚空〉のように〈全宇宙を内包しているモノ〉のように見えます・・・〈不生不滅〉には全く異なる解釈があり、〈空〉と〈虚空〉とは全く異なる概念であることを承知し、〈華嚴經〉の毘廬遮那佛は〈如來の等正覺〉のシンボルであることを承知して欲しいと思います。

筆者のコメント:1)ここでも岩村さんは「毘盧遮那仏は最高の悟りの内容である」と考えています。しかし、自身がどうも気になるので「華厳経の毘廬遮那仏が無限で悠久な宇宙の主宰者だと誤解されそうな経文を探してみた」のでしょう。しかし、「誤解されそうな経文」ではありません。なぜなら毘盧遮那仏が宇宙の主宰神であることと、最高の悟りの内容であることとは少しも矛盾しないのです。両者はなんら区別する概念ではありません。悟りとはそういうものなのです。つまり、岩村さんは「仏(神)とは」を正しく理解していないのです。これはとても重要なことです。

 2)つづいて岩村さんは「般若心經で言う不生不滅は、無心・無分別・無戯(け)論を意味し、不垢不淨、不増不減と共に「空」の相を言い表す句である。これに対し華嚴經における不生不滅は常恒不変(生まれたり滅んだりすることがない絶対的存在)を意味する」と言っています。

 しかし、この解釈もまったくの的外れだと思いますす。〈般若心經〉で言う不生不滅は、〈無心・無分別・無戯(け)論〉を指すのではありません。何度も話しているように、筆者の言う〈空〉とは、モノゴトの観かた、一瞬の体験であり、それだからこそ、不生不滅・不垢不淨・不増不減なのです。

 3)さらに、岩村さんの言う〈空〉とは、初期仏教〈長阿含経〉の〈成住壊空〉の〈空劫〉を指しているのでしょう。「空劫」とは、世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間のことで、「成住壊空」の一部です。これに対し、大乗経典の華嚴經における〈空〉とは常恒不変、すなわち虚空が絶対不変であることを表す言葉です。両者は異なる概念であり、岩村さんは初期仏教と大乗経典というまったく別の概念を混同しているのでしょう。ことほどさように、〈空〉という概念は、さまざまな経典でそれぞれ違った意味で使われているのです。筆者がここで一貫して話題にしているは、もちろん禅の空思想です。

註1 無為とは、特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅の存在のこと。逆に、さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象を有為(うい)と言います。また、涅槃のことを無為ということもあります。

註2 〈長阿含経〉は初期仏教・法蔵部の概念。世界の成立から破滅に至る時の経過を四つに大別したもの。成劫(じょうこう。生成し)・住劫(続き)・壊劫(えこう。滅する)・空劫。

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