志慶真文雄さんと浄土の教え(2‐6)弥陀の本願はフィクションです

志慶真文雄さんと浄土の教え(2)弥陀の本願はフィクションです(1)

 前回、「志慶真文雄さんは浄土思想を誤解しているのでは?」とお話しました。今回はその根拠について述べます。その前に、まず浄土思想の成り立ちについて簡単に触れます。それを知らなければ志慶真さんの考えのどこに疑問があるのかおわかりいただけないと思うからです。

 浄土思想
 法然を宗祖とする浄土宗の信者は公称600万人、親鸞を開祖とする浄土真宗は、本願寺派、大谷派合わせて信者1400万人と、浄土系教団はわが国最大の宗教教団です。ことに親鸞の弟子唯円(如信とも、覚如とも)による「歎異抄」の中の言葉、「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」は、広く日本人に知られていますね。なお、「歎異抄」ついては当ブログシリーズで検討しました。
 
 法然や親鸞の時代(平安時代末から鎌倉時代初期)は、相次いだ戦乱や天災や飢饉により、人々は大きな苦しみにあえいでいました。その状況は鴨長明の「方丈記」に活写されています。また仏教思想の「末法の世」が平安時代中期の1052年に始まるとされたのも民衆の不安を一層高めていたのです。これらの社会情勢から、法然や親鸞、栄西や道元、一遍や日蓮などによる新宗教が次々に生まれたことはよく知られています。宋へ渡って禅を学んだ道元も、同僚の中国修行僧から、「あなたはなぜここまで学びに着たのか」と聞かれ、はっきりと、「日本の民衆を救うためです」と答えています(慧奘「正法眼蔵随問記」講談社学術文庫)。

 阿弥陀信仰
 そんな社会情勢の中で法然により開かれた浄土宗や、親鸞による浄土真宗は、ひたすら阿弥陀仏様におすがりして現世の苦しみから逃れ、極楽へ往生することを願う、いわゆる他力の信仰です。釈迦以前のウパニシャッド哲学から、初期仏教、そして大乗仏教から、最後の禅に至るまで、すべてが自力による救済を目指していることを考えれば、法然の思想がいかに革新的だったかがおわかりいただけるでしょう。法然はやはり天才です。

 浄土教宗派の根本経典は「仏説無量寿経(以下無量寿経)」「仏説観無量寿経(以下観経)」「仏説阿弥陀経(以下阿弥陀経)」です。「阿弥陀経」には極楽浄土のすばらしさと、そこへ行きましょう」と書かれてあり、「観経」には、古代インドマガダ国のビンビサーラ王とイダイケ妃、アジャセ皇子の悲劇と、釈迦によって救われるエピソードが、そして「無量寿経」にはこれからお話する、弥陀の本願が書かれています。

 弥陀の本願
 とは、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩と呼ばれていた時に立てた「すべての衆生が救われないうちは、私は最高の悟りは得ない」との四十八の誓いです。
そしてその十八番目がわが国の浄土系宗派でとくに重要視されている、
 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法(設《も》し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽《しんぎょう》し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く(下線筆者)です。

筆者訳:たとえ私が悟りを得ることができたとしても、すべての人達が、まごころを持って、わが西方極楽世界に生まれたいと願い、あるいはそのような思いが十回も繰り返えされたときには、必ずやわが国に生まれます。しかし、それでも彼らがわが国に生まれなかったら、私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪(父殺し、母殺し、阿羅漢つまり聖者殺し、仏の体を傷つける者、教団を破壊する者)を犯す者と、仏法を謗(そし)る者は除く。

 じつは、この唯除五逆誹謗(正)法の一文が、これがその後の浄土思想にとって大きな問題となったのです。なぜなら、「すべての大衆を救う」と言っておきながら例外を設ければ、論理が自己矛盾しますね。

志慶真文雄さんと浄土の教え(3)弥陀の本願はフィクションです(2)

まず、五逆誹謗正法とは、
 五逆:父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢(初期仏教の最高の悟りに達した聖者。もはや学ぶことがないという意味)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることを言い、一つでも犯せば無間地獄に落ちると説かれています(五逆を主君・父・母・祖父・祖母を殺す罪とする説もあります)。
 誹謗正法:仏教の正しい教え(正法)を軽んじる言動や物品の所持等の行為。
などです。

しかし、前回お話したように、「すべての衆生を救う。ただ、五逆の罪と誹謗正法とを除く」の文章は明らかに自己矛盾があります。(後述するように、「五逆」の規定そのものがおかしいのです)。この例外規定が古くから浄土系の僧侶達、すなわち仏教の専門家すら悩ませてきました。なんとか矛盾を矛盾としてではなく、この主要な大乗経典を解釈したかったからです。そこで中国唐時代の僧善導(613-681唐代の浄土教の僧)は、「観経正宗分散善義(観経) 巻第四」において、大経(無量寿経)第十八願文から〈至心信楽欲生我国〉と〈唯除〉以下を除き、「称我名号」を加えて、

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚(問ひていはく、四十八願のなかの《第十八願の》ごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの「観経」の下品下生の中には、謗法を簡《えら》びて五逆を摂せるは、なんの意かあるや。

としました。つまり、唯除五逆謗法という例外項目を削除したのです。その理由を「質疑(質疑応答)」の形式で次のように述べています。簡約しますと、

問い:おたずねします。(大無量寿経)阿弥陀仏の四十八願のうち第十八願には、「ただ五逆と誹謗正法とを、救済の対象から除外する」としていますが、「観(無量寿)経下品下生」には、「謗法した者を除外して、五逆を犯した者は救済する」と言っているのはなぜでしょうか。

答え:お答えします。「第十八願」で、「謗法と五逆とを除く」と言っているのは、この二つの罪悪は重大であり、もしそれを犯せば地獄に落ちて未来永劫救われないのです。ですから、阿弥陀如来は「その罪を犯すと極楽往生できない」と抑止(おくし:してはいけないという警告)なさっているのであって、方便なのです。じつはそれらの人々も救済されないわけではないのです。

 要するに善導は「これは阿弥陀如来の警告に過ぎず、実際にこれらの罪を犯した人を救済するかどうかの問題ではない(から気にする必要なない)」と言っているのです(筆者には言い逃れとしか聞こえませんが)。この「功績」により、親鸞は「教行信証」の中で、善導を浄土思想の発展に貢献した七高僧の中の第五としています。

「日本仏教入門 基礎資料で読む」角川選書
「観経疏・散善義」(廣瀬杲著、神戸和麿訳注「曇鸞 浄土論註、善導 観経疏」中央公論社
〈大乗仏典中国・日本篇 第5巻〉

志慶真文雄さんと浄土の教え(4)弥陀の本願はフィクションです(3)

 熱心な浄土真宗の門徒であり、自宅の一部を開放してその教えを広める活動をされている志慶真文雄さんの、「無量寿経は宝の山です」という考えの反証として、このブログシリーズを始めました。
 じつは、筆者は「大無量寿経」がフィクションであることは論証の必要もないほど明白なことだと思っています。

さて、法然です。
 浄土宗の開祖である法然(1133 – 1212、源空とも、親鸞の「正信偈」にある七高僧のうち第七)は比叡山第一の学僧と言われた人です。しかしやがてそこを去り、京都東山の麓大谷に住んで「浄土の教え」を説きました。すなわち、法然は、前述の善導が撰述した「仏説観無量寿経(観経)」の注釈書である「観無量寿経疏」(以下「観経疏」)の中の、「一心に弥陀の名号を専念して」という文を重視し、ひたすら南無阿弥陀仏を唱える専修念仏を唱道しました。法然の主著「選択(せんちゃく)本願念仏集」にも「偏依善導」(ひとえに善導一師に依る)と明記してあります。

 じつは、法然のこの主著を読んでみても、重要な教えなどほとんど含まれていないことに気付きます。それでいいのです。法然は「ただ、南無阿弥陀仏とだけ唱えなさい」と言いたいだけなのですから。今まで述べてきましたように、仏教の大道は「自力による自らの救済」です。法然はその原理に逆らって「絶対他力」を説いたのです。よく、「法然が『ただ南無阿弥陀仏とだけ唱えなさい』と説いたのは、文字も読めず、高僧の説法を聞く機会もほとんどない当時の大衆にとっては、この簡単なお題目と唱える以外には救済される道はなかったからだ」と言われます。しかし、そうではなく、これこそ浄土の教えの根幹だからです。それを見抜いた法然はやはり天才としか言いようがありません。

唯除五逆謗法についての法然の受け止めかた
 法然は、その主著「選択本願念仏集」大橋俊雄校注(岩波文庫)において、「この問題は、善導が『観経疏』で示す『抑止門』ですでに解決している」と、納得しているのです。
さらに、
 ・・・「観経」の文疏を條するの刻(とき)、すこぶる霊瑞を感じ、しばしば聖化に預かれり。すでに聖の冥加を蒙って、しかも「疏」の科文を造る・・・
と。
つまり法然は、善導が「観経疏」の執筆中に、霊瑞を感じてその中で聖化(阿弥陀さまの御化導)を頂戴された。そしてお経のどこまでが正宗分(本文)で、どこからどこまでが序分であるかという科文(分類書)を作ったと言うのです。

筆者のコメント:法然に「霊瑞を感じてその中で聖化(阿弥陀さまの御化導)を頂戴された」と言われては、筆者の検証の範囲を超えます。浄土教では、法然は善導の生まれ変わりだとも言います。いわゆる「ひいきの引き倒し」のたぐいでしょう。

 いずれにしても、法然が、なぜ大乗仏教の根本経典の一つ「観経」そのものではなく、その解説書である善導の「観経疏」に依拠したかの理由はここにあるのです。つまり法然は、善導に従って五逆誹謗正法は意味のないことと考えてわざわざ省き、「ただ南無阿弥陀仏と唱えよ」としたのでしょう。いや、「そ知らぬ風を装って」、この例外項目を無視したのと考えられます。ここが親鸞とは大きく違うところなのです。それについて次回お話します。

志慶真文雄さんと浄土の教え(5)‐弥陀の本願はフィクションです(4)

 親鸞(1173 –1262)は「教行信証」の著者で、現在の信者数公称1400万人の、わが国最大の仏教宗派の開祖ですね。法然を文字通り唯一無二の師と仰ぎ、その衣鉢を継いだと、生涯にわたって述べています。弟子唯円の書いた(異説も)有名な「歎異抄」第二章にも、有名な言葉、

・・・地獄は一条住みかとかし(たとえ法然上人にだまされて地獄へ堕ちても、親鸞はなんの後悔もない:筆者訳)・・・
と言っています。

唯除五逆謗法についての親鸞の受け止めかた
  親鸞は、「教経信証」の冒頭で、
・・・わが宗旨は、「大無量寿経」をもっとも大切な聖典とする(筆者意訳)・・・

と言っています。つまり、親鸞が依拠したのは、法然のような「観経疏」ではなく、根本経典である「大無量寿経」へと戻っているのです。親鸞がなぜ「大無量寿経」にまで遡って依拠せざるを得なかったのかは、唯除五逆誹謗正法がどうしても気になって仕方がなかったのでしょう。まず、「尊号真像銘文」で、

・・・唯除五逆誹謗正法といふは、唯除といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ(罪人を嫌い)誹謗のおもきとが(重き咎)をし(知)らせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(下線筆者)・・・

としています。つまり、法然とおなじ「罪を犯したものは・・・」ではなく、「罪を犯せば・・・」との善導の抑止(おくし、警告)の考え方ですね。そして、「教行信証・行巻」の巻末にある「正信念仏偈」の中で「善導独明仏正意(善導、独り仏の正意を明かす)」と、法然上と同じように善導を讃歎しています。

 そしていよいよ「教行信証」です。こんどは、「観経」にある、アジャセ王の物語(註1)を引用し、最終的には五逆の大罪を犯した者も釈迦の教えにより救われるとしたのです。親鸞はまず、救いがたい三種の病、すなわちこの世で最も重く、治しがたく、死に至る病を説明しています。三種類の病とは、五逆、誹謗正法に加え、一闡提(信不具足、つまり仏法を信ぜず誹謗する者)の三つです。アジャセはこれらの三つの重い病に侵された象徴的な存在として描かれているのです。親鸞はこの三種類の重病を治すには、適切な治療を施す名医と良薬が必要であると言っています。その適切な治療を施す名医に当たるのが、よき指導者(釈迦のような指導者、善知識)であり、良薬にあたるのが、本人の「深い改悛の情」であると言っています。

 親鸞の困惑は、「教行信証・信巻」に、
 ・・・それ諸大衆に拠るに、難化の機を説けり。いま大経(大無量寿経:筆者)には「唯除五逆誹謗正法」と言ひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」と言(のたま)へり。観経(観無量寿経)には、五逆の往生を明かして謗法を説かず。涅槃経には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかが思量せむや・・・
筆者抄訳:・・・いったい、さまざまな大乗経典によると、そこには教え導くことの困難な人のことが説かれているが、いま「大無量寿経」では、「ただ五逆の罪を犯したものと、正しい教えを誹謗するものとは、救いの対象から除く」と言い、「観経(前述のように善導の「観経疏」はその注釈書)」には、五逆の人の往生を、明らかにしているけれども、教えを誹謗する人の救いは説かない。「涅槃経(大般涅槃経)では、救い難い人とその心の病について説いている。これらの真実の教えは、どのように伺ったものであろうか・・・
と述べていることからもわかります。つまり、「教行信証・信巻」は、まさに「唯除五逆誹謗正法」を説明するために書かれているのです。

註1アジャセ王の父殺し:アジャセ(アジャータシャトル)、前5世紀ごろのインドのマガダ国王。父のビンビサーラ王を殺し、母のイダイケ妃を追放して王位に付いたが、のちにその犯した罪におののき、苦しんだ。その後釈尊に救われ、仏教教団の保護者になった「王舎城の悲劇」と呼ばれる有名なエピソード)。

 そもそも五逆謗法がおかしいのです
しかし筆者は、これは明らかに法然の考えからの後退と考えています。おそらく親鸞は弥陀の本願、すなわち「一切衆生の救済」の趣旨から言って、「唯除五逆誹謗正法」との「矛盾」に困惑し、煩悶し、無視することができなかったのでしょう。「教経信証」はまさにその「矛盾」をみずから納得するために書かれたはずです。つまり、「観経」に書かれている、父親を殺した古代インドのアジャセ王でも釈尊による救われたことを例として、「五逆を犯した者も救われる」と説いたのです。
 しかし、そもそも、「大無量寿経」の、例外規定そのものがおかしいのです。「父や母を殺すのは重罪である」と言うのは、「兄弟ならいいのか」「他人ならいいのか」となってしまいますね。「阿羅漢(聖者)を傷付けること」も同様です。いかなる人を傷付けてもいけないのは当然でしょう。さらに、「仏教教団の和合を乱すこと」が最も重い罪なら、どのような不条理がその教団にあっても、一切不平を言ってはいけないことになります。「仏身を傷付けること」など後代の者達にとって不可能です。法然はさすがにそれをわかっており、さらりと受け流した。しかし、親鸞はそうはできなかったのでしょう。やはり法然の方が思想的には上だったと思います。

以上、「大無量寿経や観経などフィクションであり、ただ南無阿弥陀仏と唱えることこそ浄土の教えの本質だ(註2)」と理解した法然はやはり天才です。

註2じつはここにさらに深い意味があるのですが。のちほどお話します。

金子大栄「教行信証入門」(岩波文庫)
山折哲夫「教行信証を読む」(岩波新書)

弥陀の本願はフィクションです(6)まとめ

 熱心な浄土真宗の門徒であり、沖縄県うるま市で自宅の一部を開放してその教えを広める活動をされている志慶真文雄さんの、「無量寿経は宝の山です」という考えの反証として、このブログシリーズを始めました。「無量寿経」がフィクションであることは論証の必要もないほど明白です。法然の思想は別にあるのです。志慶真さんはフィクションから何を得ようとされるのでしょうか。志慶真さんが教えを広める活動をしていらっしゃるのは尊いことです。しかし、教えを広めるためには、経典類の科学的な検証が不可欠だと筆者は思います。

 「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」。これが法然の思想そのものです。しかし、その真意はもっと深いところにあると考えています。それは浄土宗系の僧侶でさえわかっていないと思います。東日本大震災の被災地のある僧侶が「葬式仏教のどこが悪い」と言ったのは「居直り」でしょう。法然の著作のどれを読んでも、「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」としか書いていないのです。この法然の真意を理解したのが親鸞です。ただ、「唯除五逆謗法」だけは気になってしかたがなく、「教行信証」を書いたのですが、「それは法然の思想からの後退だ」とお話しました。

 一方、「歎異抄」で、親鸞の教えのあまりの単純さに不安を抱き、「もっと重要な秘儀などがあるのでは」と、はるばる東国から十何か国を経て京の都まで尋ねて来た弟子に、「他になにもない」と親鸞が言ったのは当然でしょう。以前のブログで、「歎異抄は、出来の悪い弟子たちの心得違いを諭すための書であり、崇高な思想などない。日本人は早くその呪縛から逃れるべきだ」とお話したのは、この理由からです。現在でも「歎異抄」を「最高の書である」と尊重する人は多いのですが・・・。

 思想家小林秀雄が「日本仏教は衰退する」と言ったのはもう70年も前のことです。それは現在一層拍車が掛かっています。宗教者でも何でもない葬儀社が法事を代行していますね。以前、筆者は親しい友人の葬儀で、葬儀会館に雇われた僧侶の読経のあまりのいいかげんさに驚ろいたことがあります。第一、仏教に故人の供養の思想はありません。わが国の仏式の先祖供養は、古来の素朴な神式のものと仏教が習合したものなのです。筆者もけっして、仏式の葬儀を否定はしませんが。

 それどころか、近年では、ネット上、旦那寺でもなんでもない寺の僧侶を派遣するサービスさえあります。遺族はその料金表から適当なセットを選べばよいのです。さらに、子孫が遠方に移住して、寺と檀家との距離がますます開き、無縁仏が増えています。東京に巨大なお墓ビルが出来ました。全自動式で、カードを入れれば「わが家のお墓」が眼前に出てくるのには驚ろかされました。

 僧侶たちが少しでも早く本当の教えとは何かに気が付かないと、わが国の仏教は滅びます。あのキリスト教でさえ信者は減少しているのです。

 

生命は神が造られた(1)ー筆者の信仰の原点

生命は神が造られた(1)‐筆者の信仰の原点

 「生命の起源は何か」は、ギリシャの時代からの人間の永遠の疑問ですね。現在、唯物史観の立場から、次のようなさまざまな説があります。

 オパーリンの化学進化説:
 最初の生命発生以前に有機物が蓄積していたはずです。「原始地球の環境で無機物から有機物が合成され、有機物同士の反応によって生命が誕生した」とする仮説です。化学進化説と言います。

 生命の素材隕石由来説:
 宇宙から飛来する隕石の中には多くの有機物が含まれており、アミノ酸など生命を構成するものも見られると言います。さらに彗星中のチリにもアミノ酸が存在することも確認されています。これは地球上で汚染されたものであるという可能性が捨てきれませんでしたたが、NASAなどの研究チームが南極で採取した隕石を調べたところDNAの塩基であるアデニンとグアニン、ヒポキサンチンとキサンチンが見つかったため、この説を裏付けることとなりました。

 パンスペルミア仮説:
 「宇宙空間には生命の種が広がっている」「地球上の最初の生命は宇宙からやってきた」とする仮説です。あのDNA二重螺旋で有名なクリックなども支持していました。
 地球を水惑星とも呼ぶその水も隕石が持ってきたことは確実なようです。

 筆者は、生命科学の研究者として過ごして来ました。現代の自然科学はもちろん唯物思想に立っていますから、筆者もそういう立場で研究してきましたし、上記の生命の起源のさまざまな説について知っていました。オパーリンの「生命の起源」など、懐かしく思い出します。
 今でも宇宙物理学が好きで、関連のテレビ番組は欠かさずに見ています。それによりますと、私たち人類は上記のように「偶然の積み重ねで生まれた」とされています。しかし、筆者はその考えに疑問を持っています。前著でくわしく述べました(註1)が、そんな偶然は、たとえば1兆分の1の、1兆分の1の、また一兆分の1の確率でしか起こらないことなのです。つまり、ほとんど「ありえない」ことなのです。

 ごく最近、39光年先に地球型惑星が見つかり、「生命が存在するかもしれない」と話題になっています。しかし、たとえ生命が存在しようと、それはごく原始的な生命でしょう。そんなものなら、地球の奥深く、100℃以上の、酸素のない暗黒の世界にも居ます。人間のような高度の知性を持った生命体とは分けて考えなければなりません。数年前から世界の国々が連携して地球外知的生命体からの電波を探求する研究が行われています。そして、ロシアで早速「これは!」と思われる信号をキャッチしたと大々的に報道されました。しかし、結局それは地球起源の雑音でした。中国では昨年、直径500mもある電波望遠鏡が完成しました。地球外知的生命からの信号を捉えるためです。UFOは昔から私たちの興味の対象でした。「わかった。わかった。しかし地球のどこかに着陸したことがあるのか」。これがフェルミのパラドックスです(註2)。

 筆者は15年ほど前、多くの人々の協力を得て、ある酵素たんぱく質の遺伝子構造を突き止めることが出来ました。そのDNA構造を調べている時、突然、「生命は神によって造られた」との思いが湧き出たのです。その時は別に生命の起源などについて考えていたわけではありません。「ある日突然に」でした。その気持ちは今も変わりません。そうとしか思えないのです。生命というものが偶然の積み重ねで起こるとは考えられないのです。生命が地球上で化学進化の結果できようと、隕石によってもたらされようと、問題ではありません。それも含めて神の御業だと思うからです。
 人間宇宙論という説があります。「神は自分の偉大さを客観的に知りたいと、それを明らかにするであろう人間という知的生命体を作った」というものです。筆者には神の御心はわかりませんが、宇宙には、われわれ人間以外の知的生命はないだろうと考えています。その思いに基づいて著書の第2作をまとめました(註1)。

註1「続・禅を正しく、わかりやすく」(パレード社)
註2 フェルミのパラドックスとは、物理学者エンリコ・フェルミ(1901-1954、ノーベル物理学賞受賞者。原爆開発にも関わった。しかし、広島・長崎の惨状を知り、責任を感じて自死)の考えで、地球外生命の存在の可能性の高さと、そのような文明との接触の証拠が皆無である事実の間にある矛盾のことです。

五蘊と脳の働き-浅野孝雄さんの考え(1-3)

脳科学と仏教‐浅野孝雄さんの考え(1)

NHK「こころの時代」心はいかにして生まれるか‐脳科学と仏教の共鳴」より

 浅野孝雄さん(1943-、埼玉医科大学名誉教授)は、脳外科医師。幼少時から熱心な浄土真宗信者であるお母さんの信仰を目の当たりにし、お経を読まされ、講話も聴いた。内容には疑問を持ちながらも影響を受けて来た。専門の脳外科医として活躍するうちに、どうしても患者に意識とか心について話さなければならなくなった。そして自然に脳の働きと仏教思想との関連に興味を持つようになったと言います。そこで上記の自分の原風景をベースにして、まず自分の心を理解しようと、改めて仏教を勉強した。そして、浅野さんは「古代インド仏教と現代脳科学における心の発見」(産業図書)を著わしました。

 番組によると、浅野さんは、仏教の代表的思想である五蘊の考えと、脳のさまざまな働きには大きな共通性があることに気付いたと言います。
 すなわちブッダの考え、
 ・・・人間存在は炎のようなものだ・・・修行僧よすべては燃えている。貪欲の火によって。嫌悪の火によって。迷いの火によって燃えている誕生・老衰・憂い・悲しみ・苦痛悩み・悶えによって燃えているのだ・・・(「燃える火の教え」中村元訳 註1)

を引用しつつ、五蘊を脳の各領域のそれぞれの働きと次のように関連付けています。まず、
 ・・・五蘊とは炎のような人間の心を構成する五つの要素。これらが互いに影響を及ぼしながら一つの大きな炎を作り上げる。それが心だ・・・

と述べています。すなわち、浅野さんの五蘊の解釈は、

 (ふつう、人間の体や木や草など、形のあるものすべてを表しますが、浅野さんは、モノが外界にあるのではなく、人間が形成
し、知覚するもの。すなわち、意識に上って来る知覚の働きと解釈。つまり唯識的な考え:筆者)=脳の知覚領(以下同じ)
 (美味しいものは美味しい、不味いものはマズイ、痛いものは痛いという知覚が生じるに従って出てくる怨憎会苦や喜怒哀楽の感情。それに伴って生じる情動)=視床下部と脳幹
 (理性的、知性的働き。出来上がったイメージを組み合わせて一つのまとまった形にする)=頭頂葉
 (こうしたい、ああしたいと、自分の中で起こって来る欲望・衝動的欲求。無意識の中から上って来る人間のすべての感情・行動)→煩悩に結びつく=運動領
 (分別・思考・判断など、人間が論理的に施行する能力)=前頭葉

と解釈しています。そして、
 ・・・これらによって人間の高次脳機能を網羅。それらは大脳皮質の(上記の)それぞれの部分に分かれて存在。これらの精神活動が、それぞれ燃えている。これら五つの脳の領域が相互に刺激を与えあって心を生じる。これらのものが統合されなければ意識にはならない。これら五つの火が燃えて大きな炎になる。「それが心だ」とブッダは言った。火のように動的なもの。そのイメージそのものが自然のエネルギー、生命力であり、しかも動的に変化する形。ブッダが自然現象の炎にたとえたところに彼の天才性がある・・・
と言います。

 そして、浅野さんは、「これらの脳領域の働きが理性と情動を作る。そして両者のバランスを取ることが正しく生きること」と結論付けています。
しかし、筆者にはこれらの浅野博士の考えには疑問があります(次回に続きます)。

註1 「ブッダ伝」中村元 (角川ソフィア文庫)(「スッタニパータ」「サンユッタ・ニカーヤ」「ダンマパダ」「テーラガーター」「テーリーガーター」「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」などの原始仏典から重要なエピソードをブッダの生涯の歩みに合わせて年代順に紹介する構成になっています)。たとえば、 
 ・・・ガヤー山(伽耶山。象頭山)で修行を続ける弟子たちにブッダは「燃火の教え」を説いたと伝えられています。「比丘たちよ! われわれの心の中はすべてが燃えている。色が燃えている。眼が燃えている。耳が燃えている。音が燃えている。鼻が燃えている。舌が燃えている。味が燃えている。身体が燃えている。接触するものが燃えている。思考が燃えている。何によって燃えているのか。貪欲・瞋恚・愚痴の三毒、煩悩によって燃えているのだ。誤った三毒を除くならば、苦悩の原因は除かれる。正しい認識と正しい行動をすることによって、一切の束縛を解脱し、涅槃の境地に達することができる・・・

脳科学と仏教ー浅野孝雄さんの考え(2)

 前回、浅野孝雄さんの、「仏教の五蘊の思想を大脳のさまざまな部分の働きに対比させる」という考えには疑問があるとお話しました。以下筆者の考えについてお話します。

筆者の解釈では、
 色蘊  –  人間の体(眼や耳、皮膚などの感覚器官)と、認識する対象、すなわちモノ
 受蘊  -  見る、聞く、嗅ぐ、味わう、皮膚などで感覚したものをイメージとして形成する働き
 想蘊  - 「あれは〇〇だ」と分析し、識別する働き
 行蘊  - 「〇〇を取りたい」などの情動
 識蘊  – 「きれいな〇〇だ」などの価値判断する働き

となります(註2)。たとえば上記の〇〇がバラだとしますと、バラは色蘊、それを写した目の網膜上の画像が受蘊。「これはバラだ」と分析するのが想蘊。「きれいだ」と判断するのが識蘊。「取りたい」と思うのが行蘊です。

 つまり、受蘊で感覚したモノを想蘊が同定し、その内容を識蘊が識別。行蘊が「あれを取りたい」と思う。すなわち、筆者は「五蘊」とは、人間の認識作用だ(見て聞いて・・・判断し、行動する)と解釈しているのです。つまり、五蘊のそれぞれが縦につながってモノゴトを認識し、それに基づいて行動する仕組みを言っているのです。浅野さんの解釈とは違うことがおわかりいただけるでしょう。

 筆者の解釈を別の譬えで説明しますと、

 ここに人工知能(AI)を持ったロボットが階段を下りるという場面を想像してください。まず、ロボットにあるカメラ(人間の眼ですね)のセンサーが状況をとらえます(テレビ画面とお考え下さい。人間の網膜です)。これが五蘊のうちの受蘊です。しかし、それが階段であるか、平地であるかはわかりません。「なにかあるモノ」が写っているだけです。それが階段であることを識別するにはAIが持っている記憶の中から同じようなものがないかを識別して、「階段だ」と分析します。それが想蘊です。つぎに、ロボットのAIは、「このまま進むと危ない」と判断します。識蘊ですね。そして「注意して降りよう」とします。これが行蘊です。

 これに対し浅野孝雄さんは前述のように、「五蘊とは人間の脳の働きを構成する五つの要素であり、それらが相互に影響をおよぼしあって心を形成す」ると解釈しています。つまり、浅野さんの考えでは、「五蘊はそれぞれ対等な精神活動であり、それの相互作用によって心が形成される」と言うのでしょう。

 個々の五蘊について、浅野さんの考えと筆者の考えとをくわしく比較しますと、

1)受蘊について:浅野さんは、眼や耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官によるイメージの形成(筆者の言う受蘊)と、脳による「これは〇〇である」という分析(筆者の言う想蘊)、そして「きれいだ、きたない」などの感想とか好み、つまり判断(筆者の言う識蘊)を受蘊に混ぜて入れています。
2)想蘊について:浅野さんは「理性的、知性的働き」と解釈していますが、それは浅野さんの識蘊の解釈、すなわち、「分別・思考・判断など、人間が論理的に施行する能力」と同じです。つまり、両者をごっちゃにしています。

以上が、浅野さんの思想と筆者の考えとの違いの第一点です。

註2 五蘊について、浅野さんの理解とは異なる他の人の解釈もあります。たとえば、増谷文夫「阿含経典(1)」(ちくま学芸文庫)では、
 ・・・人間を分析して、肉体的要素と精神的要素に分け、精神的要素を四つに分った。ここに「色」というのは、その肉体的要素を指す言葉である。そして、その精神的要素については、さらにそれを分析してそれを四つの要素に分った。「受」というのは感官のいとなみ、すなわち、受動的感覚である。「想」というのは表象作用、つまり、感覚によってイメージを造成するいとなみである。また、「行」というのは、その表象にたいして、快もしくは不快を感じ、追求もしくは拒否の能動的意志の作用にうごく段階である。そして、最後に「識」とは意識、すなわち理性のいとなみがはたらく段階である・・・
とあります・・・

ちょっとわかりにくいところもありますが、「色」は別として、あとは筆者の解釈とほぼ同じように思われます。

脳科学と仏教‐浅野孝雄さんの考え(3)

 ここで、脳の部位と機能について、他の脳科学者の意見では、

 前頭葉(浅野さんの言うの部位):現在の行動によって生じる未来における結果の認知や、より良い行動の選択、許容され難い社会的応答の無効化と抑圧、物事の類似点や相違点の判断に関する能力と関係している。

 頭頂葉(浅野さんの言うの部位):外界の認識に関わる部分
 脳幹(浅野さんの言うの部位):大脳からでるすべての命令や、大脳に向かうすべての情報が通るところ
 感覚領(浅野さんの言うの部位):大脳皮質に存在し,感覚に関与している部分。皮膚感覚や深部感覚などの体性感覚野は大脳の中心後回に,聴覚野は側頭葉に,視覚野は後頭葉に,そして嗅覚野はその付近に,味覚野は体性感覚野と嗅覚野の中間にある。(つまり、浅野さんの言う脳の知覚領には聴覚野はなく、側頭葉にあるとこの人は言うのです:筆者)
 運動領(浅野さんの言うの部位):骨格を支配する脳幹と脊髄の運動神経細胞に神経信号送って運動を起させる
 ことほどさように、同じ脳科学者でも、脳の部位と働きについての解釈はかなり異なるのです。
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 浅野さんの思想に対する筆者の疑問の第二点は、浅野さんは五蘊という脳の各部位の神経活動を、ブッダの言葉である「炎のたとえ」に対比しているところです。すなわち浅野さんは、「心とは、五蘊それぞれが炎となって燃え、それらがダイナミックに変化して綜合されたものだ」と言うのです。しかしその対比はまちがっていると思います。なぜなら、ブッダは

 ・・・人間のさまざまな欲望は炎のように燃えている。それを鎮めることが心の平安である・・・

と言っているだけなのです。前回お話したように、浅野さんは結論として、「脳の機能を情動と理性に分けて、それらのバランスを取ることが大切だ」と言っています。しかし、炎となって燃えるのは情動であって、理性はクールなものです。けっして「燃えるもの」ではないはずです。つまり浅野さんは五蘊を脳の各部位の神経活動と結びつけた自分の考えを、都合よくブッダの「炎の思想」に結びつけただけだと思います。

 浅野さんの思想に対する筆者の疑問の第三点目は、浅野さんの言う「情動と理性のバランスの大切さ」についてです。これは、今を問わず、良識ある人間なら当然承知して身を処しているのであり、ブッダに言われるまでもないことですね。つまり宗教思想とは言えない、常識です。これに対し、五蘊を正しく解釈すれば、五蘊皆空という重要な仏教思想に結び付くのです。

 筆者は、浅野さんの言う「大脳の各部分の働きがダイナミックに変化して心を作る」という考えに疑問を呈しているのではありません。浅野の五蘊の解釈自体に問題があるのに、それらをと結び付けていることに疑問を呈しているのです。