小林秀雄さんの心霊体験

 優れた批評家の小林秀雄(1902-1983)さんが〈眼に見えない世界〉についても理解を持っていることは以前にもお話しました。小林さんの「柳田邦男の民俗学は〈眼に見えない世界〉があることを根本に置いている」との考えは卓見でしょう。柳田博士自身、少年時代に「あの時ピーッというヒヨドリの声が聞こえなかったら気が狂っていただろう」という深刻な心霊体験をしています(柳田邦男の〈故郷七十年〉PHP文庫)。

 小林さんは自身の霊的体験についても語っています。小林さんの〈眼に見えない世界〉に関する見解がよくわかりますので紹介します(〈人生について〉中公文庫p220)。

・・・・母が死んだ数日後のある日(小林さんが45歳の頃)、妙な体験をした。誰にも話したくなかった・・・・尤も妙な気分が続いてやり切れず・・・・今は、ただ簡単に事実を記する・・・・仏に上げるロウソクを切らしたので買いに出かけた・・・・(鎌倉の)家の前の道に沿うて小川が流れていた。もう夕暮れであった。門を出ると、行く手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見かけるのだが、その年は初めてみる蛍だった。今まで見たこともない大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私はもうその考えから逃れることができなかった・・・・私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異なって実によく光るとか、そんなことは少しも考えはしなかった・・・・何もかも当たり前であった。したがって当たり前だったことを当たり前に正直に書けば、「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」と書くことになる・・・・ゆるい傾斜の道は、やがて左に折れる。曲がり角の手前で、蛍は見えなくなった・・・・その時後ろの方から、あわただしい足音がして、男の子が二人、何やら大声でわめきながら、私を追い越し、踏切への道を駆けて行った・・・・私が踏切に達した時、横木を上げて番小屋に入ろうとする踏切番と、駆けてきた子供二人とが大声で言い合いをしていた。踏切番は笑いながら手を振っていた。子供は口々に、『本当だ、本当だ火の玉が飛んで行ったんだと』言っていた。私は何だ、そうだったのか、と思った。私はは何の驚きも感じなかった・・・・以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基づいていて、曲筆はないのである。妙な気持ちになったのは後のことだ。妙な気持ちは、事実のいたづらな反省によって生じたのであって、事実の直接な経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈などしていないと答えるより仕方がない。寝ぼけないでよく観察し給え。童話が日常の生活に直結しているのは、人間の常態ではないか。何もかもが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう・・・・

 いかがでしょうか。小林さんは〈眼に見えない世界〉が実在することを、はっきりと述べているのですね。・・・・この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈などしていないと答えるより仕方がない・・・・ここが重要です。つまり、「あまりに当たり前すぎて(霊的現象だと)判断する必要すらない」ということでしょう。しかし、筆者は、判断をさらに進めて「霊的現象の意義」について考えを進めて欲しいのです。批評するのが批評家だと思いますが。

西田哲学と禅(3)

  第二編第二章<意識現象が唯一の実在である>(p71)では、

 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのいうのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない」と言っています。つまり、「モノ自体などない」と言うのです。カントも「モノなど経験的に実在するに過ぎない」と言っています。西田はさらに「純粋経験(直接経験)では主観客観の区別を没している」と言っています。当然そうなるでしょう。

筆者のコメント:ここに重大な疑義があります。西田博士の「純粋経験以外にはモノはない」と言う論法によれば、「宇宙には人間が経験していなければモノはない」ことになります。それは絶対におかしいですね。「人類がまだ見たことがない(聞いたことがない)モノなどいくらもあります。「宇宙」と言わなくてもこの地球上にも人類がまだ行ったことのない秘境もあります。これからも探検家が訪れ、科学者達が開発した機器でまだ見ぬモノがあることがわかっくるのは間違いありません。

 これが筆者の言う西田哲学の根本的欠陥です。いかがでしょうか。

 これに対して禅ではモノが存在することを(しき)の概念で示しました。そして「空と色は一如である」と言っているのです。一如とはなんなのか。不一不異とも言います。「同じではないし、別でもない」・・・・それが心の底からわかるのが「悟り」なのです。

西田哲学と禅(2)

   西田哲学と神の問題は、とても興味あるところです。西田博士は、

・・・・我々が自然と名付けておる所の者も、精神と言っておる所の者も、まったく種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由って起こる区別である。自然を深く理解せば、その根底において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、即ち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。而してこの唯一実在はかって言った様に、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一である。一言にて言えば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない。実在の根底が直ちに神である。主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一したものが神である・・・・実在の根底には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度宗教の根本義である様にアートマンとブラハマンとは同一である。神は宇宙の大精神である・・・・(第二編第十章実在としての神〈善の研究〉岩波文庫p128)・・・・

と言っています。要するに

 「真の実在とは純粋経験である。とすれば神とは人間の純粋経験だ」と言うのですね。言い方を変えれば、「神が創り給うたモノ(宇宙)など無い。あるのは人間の純粋経験のみだ」と言うのです。そうとしか言いようはないでしょう。「西田哲学の純粋経験は禅の空思想と同じだ」と言いました。しかし、「西田哲学には根元的な問題があり、禅思想はそれを越える」と思います。