小林秀雄さんの心霊体験(2‐3)

 今回はあのユリ・ゲラー騒動(註1)についての小林さんの感想についてお話します。

註1 ユリ・ゲラーは1974年を皮切りに、公式・非公式に何度か来日。さまざまなテレビ番組に登場してスプーン曲げや、テレビの画面を通じて念力を送ることで止まっていた時計を動かすといったパフォーマンスで日本での超能力ブームの火付け役となった。しかし、しかし、巧妙なトリックを使ったインチキだという指摘も多い。次の小林さんのコメントは、それに対する反論です(註2)。

 すなわち、小林さんは〈人生について〉中公文庫p230および〈考えるヒント〉文春文庫p7の中で、

・・・・これを扱うテレビや新聞や雑誌を見てみますと、ふしぎを不思議と受け取る素直な心が、何と少ないかに驚く。これに対し嘲笑的態度を取るか、スポーツでも見て面白がるのと同じ態度を取るか、どちらかでしょう。念力というようなものに対してどういう態度を取るのが良いかという問題を考える人は、きわめて少ないのではないかと思う。今日の知識人達にとって、己の頭脳によって理解できない声は、皆調子が外れているのです。その点で、かれらは根柢的な反省を欠いている、と言っていいでしょう・・・・・私は念力とはテレパシーのことは学生の頃からよく知っており、頭から否定する考えはありませんでした・・・・

筆者のコメント:まったく同感です。小林さんは前記のように「母が人魂になった」という実体験もしています。一方、作家の菊池寛さんが、講演旅行で止まった四国の旅館で幽霊に苦しめられたという体験も紹介しています(〈人生について〉中公文庫)。しかし、菊地さん自身も小林さんも「そんなことは珍しくもないことだ」と、思索をそこで止めているのが残念です。、それらの体験をきっかけに「死んだらあの世に行くのか」とか、「生まれ変わりはあるのか」などの、私たちにとっては重大な疑問にまで思索を勧めて欲しかったのです。

註2 作家の椎名誠さんは、なんにでも興味を持つ人ですが、あるスプーン曲げ少年の〈作品〉を実見し、「インチキにしては、こんなにスプーンやフォークをギュルギュルと曲げられないだろう」と言っています。

小林秀雄さんの心霊体験(2‐2)

 前回、すぐれた思想家の小林秀雄(1902-1983)さんが、眼に見えない世界についてどう考えているかを、「(小林さんの)お母さんが人魂になって飛んだ話」を例にしてお話しました。筆者の以前のブログでは、小林さんが民俗学者柳田邦男さんの心霊体験(異次元へ行きかけた話)や、第一次大戦で死んだ夫の戦死の状況を夢でアリアリと見た妻の話などをについて、どう受け止めているかもご紹介しました。小林さんはそれらを綜合して、「心霊現象など当たり前のことだ」と言っています。つまり、「その妻は自分の体験を話したのであって、学者たちはそれが正しかったかどうかの問題にすり替えたのだ。それが近代合理主義の欠陥だ」と言うのです。筆者の責任で付け加えますと、「(テレパシーは)95%はまちがっていても、正しい5%を無視する」からいけないのです。ここなのです。「5%は正しくても95%間違って入れば、そようなの現象は無い」・・・・これが近代科学の考え方ですが、それが違うのです。

 未確認飛行物体(UFO)についても同様です。NASAは、「95%は既知の物体として説明できる。しかし、どうしても説明できないものが5%残る」と言っていますね。むかし、テレビ番組で「そんなことは絶対にない」と言っていた早稲田大学教授や俳優の顔が目に浮かびます。

 まったく同感です。それに加えて筆者の考えをお話します。筆者はある神道系教団に入って霊能開発修行を受けた結果、「いやというほど」心霊体験をしました。神霊が憑依すると、神経が高ぶり、独特の「しんどさ」が襲いました。除霊する方法も教えていただきましたが、それが追い付かないほどでした。そのとき、「この独特の身体的変化をよく記憶しておこう」と思いました。そのため、今でもアリアリと思い出せます。

 こういう話を聞いたとき、よく人は「科学的に正しくないことは信じない」と言います。しかし、彼らのほとんどは科学者ではありません。それに対し筆者は科学者です。その筆者が眼に見えない世界が実在することをはっきりと体感しているのです。

座禅で悟りに至ることができるか

 只管打座(ひたすらざぜんせよ)は道元の有名な言葉ですね。元はその師如浄の禅風であり、さらには宏智に至ります。ところが「座禅で悟りに至った者はいない」と言う人もあります。怖い言葉ですね。それについて思い出されるのは、年間1800時間座禅をすることで有名な兵庫県の安泰寺で修行した、キルギス出身のボクダン・ドルゴポロフさん(当時24歳。モスクワ大学で素粒子物理学を学んだ人)のことです。ボグダンさんは、「誰からも答えを得られない問いを抱え、答えを与えてくれる人や場所を求めていた。仏教や座禅に興味があり、そこに答えがありそうな気がした。1年に1800時間も座禅する安泰寺を知ってここへ来た。さらに畑作りや食事作りにも気づきがあります・・・・安泰寺でどんな時でも安心できる教えを学びました・・・・(NHK〈心の時代 天地いっぱいを生きる〉より)。

 しかしボクダンさんは、結局、安泰寺での修行に失望したのです。ボクダンさんは、自主的に澤木興道師の著作を読んでいました。只管打座では不十分だったと感じたからでしょう。しかしそれでも「ここでは答えが見つからなかった。あと3年やってもどうなるか。10年やればもう抜けられなくなる」と1年で下山したのです。

 深刻な問題ですね。筆者はこの話を聞いてすぐに、「第一、座禅はうまく行っていたのかな」と思いました。じつは座禅は「ただ座るだけ」ではダメなのです。座禅の方法については多くの人が解説しています(ネットで調べれば載っています)。しかし筆者がそれら一つ一つを実践してもどうもうまく行かなかったのです。数十年にわたって色々やってみた結果ようやくわかったことは、やみくもに座ることなど論外であることです。つまり、

 1)座禅の意味をよくわかること。

 2)座禅のときどこへ意識を持って行くか。

が重要だと思います。安泰寺での修行の様子をテレビの特集番組で見ましたが、どうも筆者の言う上記の二点がちゃんと行われているかが少し不安でした。

補記:安泰寺では座禅以外の問答などは一切行われていないようでした。問答は、臨済宗の各寺をはじめ永平寺などの曹洞宗で普通に行われている修行です。ただ、NHKテレビを通して筆者が見た永平寺での問答は、かなり形式的だったのが気になりました(NHK特集 大禅問答 法戦〜若き雲水たちの永平寺)。

小林秀雄さんの心霊体験(2-1)

 優れた批評家の小林秀雄(1902-1983)さんが〈眼に見えない世界〉についても理解を持っていることは以前にもお話しました。小林さんの「柳田邦男の民俗学は〈眼に見えない世界〉があることを根本に置いている」との考えは卓見でしょう。柳田博士自身、少年時代に「あの時ピーッというヒヨドリの声が聞こえなかったら気が狂っていただろう」という深刻な心霊体験をしています(柳田邦男の〈故郷七十年〉PHP文庫)。

 小林さんは自身の霊的体験についても語っています。小林さんの〈眼に見えない世界〉に関する見解がよくわかりますので紹介します(〈人生について〉中公文庫p220)。

・・・・母が死んだ数日後のある日(小林さんが45歳の頃)、妙な体験をした。誰にも話したくなかった・・・・尤も妙な気分が続いてやり切れず・・・・今は、ただ簡単に事実を記する・・・・仏に上げるロウソクを切らしたので買いに出かけた・・・・(鎌倉の)家の前の道に沿うて小川が流れていた。もう夕暮れであった。門を出ると、行く手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見かけるのだが、その年は初めてみる蛍だった。今まで見たこともない大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私はもうその考えから逃れることができなかった・・・・私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異なって実によく光るとか、そんなことは少しも考えはしなかった・・・・何もかも当たり前であった。したがって当たり前だったことを当たり前に正直に書けば、「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」と書くことになる・・・・ゆるい傾斜の道は、やがて左に折れる。曲がり角の手前で、蛍は見えなくなった・・・・その時後ろの方から、あわただしい足音がして、男の子が二人、何やら大声でわめきながら、私を追い越し、踏切への道を駆けて行った・・・・私が踏切に達した時、横木を上げて番小屋に入ろうとする踏切番と、駆けてきた子供二人とが大声で言い合いをしていた。踏切番は笑いながら手を振っていた。子供は口々に、『本当だ、本当だ火の玉が飛んで行ったんだと』言っていた。私は何だ、そうだったのか、と思った。私はは何の驚きも感じなかった・・・・以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基づいていて、曲筆はないのである。妙な気持ちになったのは後のことだ。妙な気持ちは、事実のいたづらな反省によって生じたのであって、事実の直接な経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈などしていないと答えるより仕方がない。寝ぼけないでよく観察し給え。童話が日常の生活に直結しているのは、人間の常態ではないか。何もかもが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう・・・・

 いかがでしょうか。小林さんは〈眼に見えない世界〉が実在することを、はっきりと述べているのですね。・・・・この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈などしていないと答えるより仕方がない・・・・ここが重要です。つまり、「あまりに当たり前すぎて(霊的現象だと)判断する必要すらない」ということでしょう。しかし、筆者は、判断をさらに進めて「霊的現象の意義」について考えを進めて欲しいのです。批評するのが批評家だと思いますが。

西田哲学と禅(3)

  第二編第二章<意識現象が唯一の実在である>(p71)では、

 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのいうのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない」と言っています。つまり、「モノ自体などない」と言うのです。カントも「モノなど経験的に実在するに過ぎない」と言っています。西田はさらに「純粋経験(直接経験)では主観客観の区別を没している」と言っています。当然そうなるでしょう。

筆者のコメント:ここに重大な疑義があります。西田博士の「純粋経験以外にはモノはない」と言う論法によれば、「宇宙には人間が経験していなければモノはない」ことになります。それは絶対におかしいですね。「人類がまだ見たことがない(聞いたことがない)モノなどいくらもあります。「宇宙」と言わなくてもこの地球上にも人類がまだ行ったことのない秘境もあります。これからも探検家が訪れ、科学者達が開発した機器でまだ見ぬモノがあることがわかっくるのは間違いありません。

 これが筆者の言う西田哲学の根本的欠陥です。いかがでしょうか。

 これに対して禅ではモノが存在することを(しき)の概念で示しました。そして「空と色は一如である」と言っているのです。一如とはなんなのか。不一不異とも言います。「同じではないし、別でもない」・・・・それが心の底からわかるのが「悟り」なのです。