山川宗玄師「無門関」(8)

9)第四十三則 首山竹箆

 原文:

 首山和尚、竹箆(しっぺい)を拈じて衆に示して云く「汝等諸人、若し喚(よ)んで竹箆と作(な)さば則ち触(ふ)る。喚んで竹箆と作さざれば則ち背(そむ)く。汝諸人、且く道え、喚んで甚麼(なん)とか作さん

 現代語訳:首山和尚は竹箆を取り出して修行僧達に示して云った「お前達、もしこれを竹箆と喚(よ)べば名前に捉われることになる。竹箆と喚ばなければ名前を否定することになる。さあ、お前達、これを何と喚ぶか言ってみよ」。

山川師の解釈:もしこれを竹箆と呼べば物の名前によって心が乱される。どっちがいいとか、長いとか、太いとか、悩まなくてもいいことに悩まされてしまう・・・・ではそれは

単なる名前で、その物自身を示すものでないから黙っていればどうなるか、これは否定です。そうすると一体どう呼んだら良いか。無だ、空である。そうしたら現実問題なにもおきてこない・・・・

筆者の感想:そうではないのです。これは禅の要諦、(くう)を説いているのです。もちろん山川師の言う〈空〉とは別の意味ですが。

・・・・・・

 もういいでしょう。山川師の〈無門関二十則の提唱〉について検討しました。すべて誤りだと思います。

 山川宗玄師は、NHK〈こころの時代〉でも紹介され、上記のように現在、岐阜県美濃加茂市の正眼僧堂で修行僧を指導し、ニューヨークの臨済宗寺院でも法話をするなど、現代のもっとも著名な禅師の一人でしょう。にもかかわらず〈無門関〉についての解釈には大きな疑問があるのです。

 よくわかってない師匠が修行僧に教え、その修行僧がまた次世代の修行僧を教え・・・・これが近・現代の禅宗の系譜だと思うのです。「Scrap and Buildしなければ滅びる」と言う筆者の意図がお分かりいただけるでしょうか。

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