読者の時永様から次のようなコメントがありました。
1)初めてコメントしたします。
時間をかけて投稿は現在まで全て読ませていただきましたが、この記事が”空”について一番明快に論じておられるようで、あえてここで質問させていただきたいと思います。
私は大竹晋さんの『悟り体験を読む』を読んでから、空思想や瞑想について考える様になりました。これまでも色即是空空即是色と言った言葉はもちろん聞いたことはありますが、空とは何かについて、どの解説を読んでもピンと来ず、正直何を言っているのかわからない状態でした。これはいわゆる修行が足りないからかなぁとは思いつつ、大学で哲学を少し齧ったこともあり、愚鈍ながら自分なりに神や宇宙の存在を思考し続けてきました。その上で、塾長のおっしゃる、空とは哲学的な観念というより、ものの観かたのことだとの指摘は、綺麗に腑に落ちた感じがします。
そして浅学な自分なりに咀嚼しますと、
色とは、『物質世界で自らも体躯をまとって五感を使い、日常的な喜怒哀楽を感じ、様々な欲望を充足し、生存に必要な食扶持を稼ぐための仕事や、瑣末で事務的な事まで遂行する』、これらは同時瞬時に、空として、『一切を自己の真我アートマンが主体として経験し、味わっている』ということと一体であり、不可分である。ということになるのかなと考えたりしています。そしてそれらをきちんと味わうには、”前後裁断”つまり過去は過ぎ去り未来は未だ来ず、ゆえに今の今の今に集中するということができる方が良いのだろうかと思えます。こう考えますと、例えばコーヒーを飲むのでも、たとえ過去に何杯これからも何杯飲もうとも、本来この宇宙でこの私が今味わうこのコーヒーの味の経験は一回きりなんだなと思い至ります。そしてこの考えを延長しますと、禅語にあります一期一会とか喫茶喫飯であるとかが良くわかる気がします。また密教の17清浄句も、その理由が良くわかる気がします。
そしてまた塾長は、道元等はヴェーダの見地に戻ったのだ、とおっしゃっていますが、私の一番好きな公案である古帆未掛の頌に”法塵もまた掃除せよ”とあったり、また一休宗純が、『釈迦といういたずら者が世に出ておほくの人をまよはするかな』と詠んだりしているのも、この辺のことなのかなと考察しています。そもそも”空”とは何がカラなのかと考えますと、いわば色の見方をする自分をカラにしてしまえば、自己の中の神が、これまた神の顕現である森羅万象と向き合っている状態となり、そこで主体と客体は無くなるのかもしれません。この一元的な世界は確かにヴェーダ的だと感じます。
以上、これまでの塾長の記事に関しまして、非才な私のコメントを述べさせていただきましたが、さて目下、塾長に質問いたしたく思っておりますのは、座禅するということが、どの様に空の見方が出来る、あるいは気付ける、実感できるという心の持ちかたに繋がっていくのか、ということです。三昧にすぐに入れる様な集中力があれば、前後裁断の見方は容易いのでしょうか?見性したいという欲もまた厄介で集中力を減らすものであり、ただでさえ煩悩まみれな自分は座禅しても甚だ途方にくれる有様で、また開悟は経験した者にしかわからない世界かとは思いますが、ヒントをいただければ幸いです・・・・。
2)筆者の感想:時永様のコメントを読ませていただき、「ついにこういう人が現れたか」と感動しています。他の皆さんにも参考になると思いますのでご紹介させていただきます。なお、時永様の引用語句から、そうとう深く禅を学んでいらっしゃることがわかります。まず、ご質問に対する私の考えからお話させていただきます。ご質問の内容は、次の二つに分かれると思います。
・・・1)座禅するということが、どの様に空の見方が出来る、あるいは気付ける、実感できるという心の持ちかたに繋がっていくのか。三昧にすぐに入れる様な集中力があれば、前後裁断の見方は容易いのでしょうか?見性したいという欲もまた厄介で集中力を減らすものであり、ただでさえ煩悩まみれな自分は座禅しても甚だ途方にくれる有様で・・・
2)開悟は経験した者にしかわからない世界かとは思いますが、ヒントをいただければ幸いです。
1)について:座禅瞑想(以下座禅)することは、「空」の見方を実感できる心の持ち方に繋がって行けると思います。しかし、おっしゃるように座禅はとても難しいのです。私も色々試してみて「これなら」と思える座禅法を会得するのに40年かかりました。このように、座禅から悟りに至るのは至難の業だと思います。もちろん今も続けていますが・・・。しかし、ご安心ください。じつは別の道があるのです。私が偶然見つけました。それが「空とは何かをわかること」です。学ぶことですね。仏教で「教行一如」というのはこのことでしょう。座禅は「行」、学ぶことは「教」です。子供が座禅しても価値はありません。第一、座禅の意味すらわからないはず。「教え」の大切さです。
2)について:開悟は経験した者にしかわからない世界と私も思います。私が悟りに達したかどうかはわかりません。ただ、「ふしぎなこと」を体験しました(註1)。高野山には虚空蔵求聞持法という厳しい修行があります。それを「成し遂げた」と思っても、「ふしぎなこと」が起こらなければ始めからやり直さなければなりません。悟りは何段階もあると思います。私も「ふしぎなこと」を体験しましたので、その第一段階には達したのかもしれません。これがヒントです。
註1「ふしぎなこと」の内容については、拙著「禅を正しくわかりやすく」(パレード出版)に書きました。
3)筆者の感想:時永様が「色とは、『物質世界で自らも体躯をまとって五感を使い、日常的な喜怒哀楽を感じ、様々な欲望を充足し、生存に必要な食扶持を稼ぐための仕事や、瑣末で事務的な事まで遂行する』、これらは同時瞬時に、空として、『一切を自己の真我アートマンが主体として経験し、味わっている』ということと一体であり、不可分である。ということになるのかなと考えたりしています」と理解されたのは正しく、重要なブレイクスルーがあったと思います。ただ、それがわかったことで「ふしぎなこと」が起ったかどうかが問題なのです。私と時永様の境地に差があるかどうかはわかりません。もしあるとすれば、私はこれまで「悟りに達したい」というより、「ただ知りたい」とだけ願って禅を学んできました。そこが少し違うのかもしれません。研究者として生きてきましたが、研究者とはそういうものだと思います。
時永様のコメントは続きます。
・・・そしてまた塾長は、「道元等はヴェーダの見地に戻ったのだ」とおっしゃっていますが、私の一番好きな公案である古帆未掛の頌に”法塵もまた掃除せよ”とあったり、また一休宗純が、『釈迦といういたずら者が世に出ておほくの人をまよはするかな』と詠んだりしているのも、この辺のことなのかなと考察しています・・・
筆者の感想:道元がヴェーダの見地に戻ったかどうかはわかりません。ただ、「仏(神)」という概念を入れていることは間違いありません。「正法眼蔵」をよく読めばわかります。釈迦仏教にはないヴェーダの思想ですね。唐代以来の禅者にもなかったことです。臨済は「赤肉団上一無位の真人あり」と言っていますね。明らかにヴェーダで言う「個我」です。
一休さんの上記の歌はふつう「お釈迦さんがお生まれになって仏法を説かれたが、そのためにかえって多くの人がわいわいがやがや騒いで迷っていることよ」と解釈されています。しかし私は、まさに時永様がおっしゃっているように、「釈迦が私たちの正しい道を誤らせた」と言いたいのです。それが肝心のインドから仏教が駆逐されてしまった理由の一つだと思います。ただ、それを明言すれば、多くの仏教関係者から反発を受けるはず。それが煩わしいので黙っていたのです。仏教は、たしかにすばらしい思想「禅」を生み出しました。その意味では偉大です。しかし、負の遺産も多いと思います。これまで多くの僧侶や仏教研究家が怠惰だったからと思います。私も時永様と同じように、「悟りとは何か」を知りたいと、さまざまな本を読みました。しかし、どれを読んでも「腑に落ちなかった」のです。現代日本仏教が葬式仏教に堕したこと、東日本大震災の被災者を救援しようとしてもまったく無意味だったことも負の遺産の結果だと思っています。薬師寺の布教委員の僧侶が「無力だった」と涙を流していましたが、まだ救われます。