(1)研究の概要
「脳科学は宗教を解明できるか」 芦名定道・杉岡良彦・藤田一照ら(春秋社)
まず、当書のタイトル「脳科学は宗教を解明できるか」について、少し問題があると思います。内容からから言って「脳科学は宗教体験を解明できるか」の方が適当でしょう。そのわけは、後述する、これらの研究に対する藤田一照さんによる批判とも関連があるからです。
ここで問題にされている宗教体験には見神体験(神や宇宙との一体感を感じたり、神や高級霊や低級霊の姿を見たり、声を聴いたり、感じたりする体験)や幽体離脱体験、瞑想状態などです。つまり、「脳科学は宗教を解明できるか」とは、「霊的体験を神経科学の言葉で理解できるか」という意味なのです。近年、脳科学の研究法は急速に発達し、MRI法、SPECK法、PET法などが実用化されています。それらの方法を一言で言いますと、脳の構造を見たり、特定部位の働きを見たりする方法です。ふつう、それによって、てんかんや統合失調症など、さまざまな脳の病気の診断をします。それらの技術が宗教体験についても応用され、研究が始まっているのです。
神秘体験と脳画像
ポール・ガール(「カルメル会の修道女の研究」2006、出典については当書を御参照下さい:筆者)らは、15名のカルメル会の修道女(23歳-64歳)を対象とし、以下の三つの課題の際に生じる脳内の活動をfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いて測定しました。すなわち、
1)目を閉じて、かって人生の中で最も強力に感じた神秘体験を思い出し、追体験する。2)目を閉じて、かって人生の中で最も強力に感じた他者との一体感を思い出し、追体験する。3)目を閉じる。
その結果、1)と2)の課題遂行時の比較では脳の6か所の領域に有意な活性化が見られた。具体的には、右内側眼窩前頭皮質の活性化は、楽しいという感情に関り、尾状核の活性化は喜びや無条件の愛に関わり、脳幹の活性化はオーガズム状態とも関り。自己の空間知覚に関わる上頭頂小葉の活性化は、自分より偉大な何かに自分が吸収されるという体験と関わることなどが示唆された(ここで問題は、脳の状態を測定しているのは神秘体験をしているその時ではないことです。著者もそれは認識しています)。
当書で紹介されている事例の他にも、
2)ペンシルバニア大学のアンドリュー・ニューバーグ(サム・パーニア「科学は臨死体験をどこまで説明できるか」三交社)は、深い瞑想状態や祈りの状態にある者の脳内の神経学的変化(PET画像などによってでしょう:筆者)を研究した。ニューバーグによると、深い祈りを込めた瞑想は、(脳の)上頭頂葉後部の活動を低下させ、血流を減少させていた。また瞑想者のメラトニンやセロトニン(神経伝達物質)濃度は上昇し、コルチゾールやアドレニン(ホルモン)濃度は低下していた。前者2つのホルモンはリラックス時には上昇し、後者2つはストレス負荷により上昇するので、この変化は理に適っているとした(以上、カッコ内は筆者の説明)。
瞑想と脳波
一方、平井富雄(東大医学部1955 註1)らが、修行年数20年以上になる曹洞宗の僧侶14名を対象に、座禅瞑想をしている時にどういう脳波が出るかを調べた。その結果、一般人が日常生活を送っている時出るのはいわゆるβ波で、目を閉じて平静な状態で出てくるのがα波とされている。α波が出ている時、人は心身ともにリラックスした状態にある。それよりも遅いのがθ波で、中程度の睡眠の時に現れる。平井らの実験によると僧侶らが座禅をしている時数分でα波が出てきて、時間がたつにつれて、なかにはθ波が出てくる僧侶もいた。一方、座禅をやったことのない人に同じように座禅をやらせてもβ波が出るだけであった。
註1 筆者が読んだのは、「自己催眠術 劣等感からの解放・6つの方法」(光文社カッパブックス文庫)ではなかったかと思います。とても感動しました。それ以来、α波は創造性と深い関係にあるとされ、脳波簡易測定装置や、「α波を出す機械」が市販されたりしました。
脳科学は宗教を解明できるか(2)藤田一照さんによる批判
藤田一照さんは共著者の一人ですが、このような研究に対して、・・・私はこの主題に関連する「学者」ではなく、一介の座禅修行者である・・・と断りつつも、かなり厳しい批判をしています(芦名定道・杉岡良彦・藤田一照ら 春秋社)。すなわち、
1)特殊な「宗教体験」をもって宗教を代表させるかのような主張がなされていること。そのような立場は宗教についてのきわめて偏頗な理解というべきである。
2)脳科学によって宗教が科学的に解明できるというという主張は脳科学の分限を逸脱したな妄想と言うべきである。
では藤田さんの考える宗教とはなにか?藤田さんが依拠している仏教思想は、大乗仏教の虚妄分別(こもうふんべつ)論です。虚妄分別論とは、人間の営みは基本的に能執(主観)と所執(客観)の二元的な対立の上に展開しているという考えです。つまり、人間が生きていくということは、他人やモノに対する執着の過程だということでしょう。
つまり藤田さんは(藤田さんの論調は少し複雑のように思われますので、筆者の責任において切り貼りをしました)、
・・・これまでの宗教科学が対象としてきた、見神体験(神を見たとか神の声を聴いたなどの体験)や悟りの体験によって真の宗教を把握することは原理的に不可能だ。仏教について言えば、仏法における真実は決してわれわれが直接に経験し得るものではない。経験成立以前の、しかも経験そのものを成り立たせているものだ・・・禅は悟りを得ることを目指すものと一般的に理解されているが、じつはそのような人間によって指向されるような悟りの体験とは、個人が勝手にそう思っているだけの虚妄分別の枠内の体験でしかない・・・脳科学が注目すべきものはもはや個人的「体験」と「脳」ではなない(「世界や身体をも巻き込んだ」の意味は後述します:筆者)・・・と言っています。
筆者のコメント:まず、藤田さんの言う「行為」とは何のことか?あまりに漠然としていますね。藤田さん自身が「浅学菲才の身である私にはわからない」と言っています。これだけ激しく批判をしておいて、自分でもわからないことは言わないでほしいです。「人間が目指す悟りなど利己主義、我執の延長でしかない」とも言っていますが、第一、藤田さんの言う「悟り」の定義がわかりません。それでは「行為」との差も考えようもないではありませんか。まず定義をはっきりさせるのが議論のイロハです。
さらに、藤田さんの論説には重大な自己矛盾があります。まず、藤田さんは「悟りを求めることなど虚妄分別論で言う二元対立行為だと言っています。そして、「特殊な体験とは何ものも求めることなく、身心を挙げて環境と一体になって行じられる無所得無所悟に正身端座する座禅こそ正しい修行だ・・・と言っていますが、それも「何かを求めて修行する」虚妄分別行為のはずです。
藤田さんはさらに、・・・脳科学の拠って立つ基盤そのものが抱える問題がある・・・と批判しています。すなわち、脳は脳だけで単独に存在し、機能しているのではなく、身体全体と密接につながり交流していなければならない。さらに身体が身体として生きて働くためには世界と密接につながり交流していなければならない・・・曹洞禅のキーワードの一つである「尽十方界真実人体(註2)」はまさにこの事実を指している・・・とすれば脳を身体から、世界から離してあたかも単独で特権的に働いているもののように取り扱っている脳科学は根本的にダメなのだ・・・と言っています。これが前述の、・・・脳科学が注目すべきものはもはや個人的「体験」と「脳」ではななく、世界や身体をも巻き込んだ「行為」でなければならない・・・の意味するところです。
しかし、これはまったく見当はずれの論難です。宗教体験研究は始まったばかりなのです。MRIやPETなどの新しい医科学の技術を使って初めて見神体験や瞑想を科学的に研究する端緒をつかんだことが尊いのです。藤田さんのようなことを言えば、現在急速に進歩をしている医科学や宇宙物理学も、初期の頃の研究はきわめて素朴なものだったのです。批判などいくらでもできたでしょう。藤田さんが自然科学について疎いのは教育学部出身だから、などというエクスキューズは通じません。藤田さんはいやしくも曹洞宗国際研究所長、つまり日本の禅を海外に紹介する重要な役です。道元が泣くでしょう
藤田さんは「おわりに」で・・・以上「宗教体験」に対する若干の批判と「脳科学的アプローチ」に対する若干の批判を一座禅修行者の立場から試みた・・・と言っています。まったく「これだけ徹底的に批判しておいてよく言うよ」ですね。
註2「尽十方界真実人体」の真の意味は、「このわれわれが生きる世界の姿や働きすべてが真実人体(仏の姿の顕現)だ」です。藤田さんは誤解しています。