中野禅塾だより (2015/6/1)
「色即是空 空即是色」(1)
前回、「空とはモノゴトを見る(聞く、嗅ぐ、味わう、触るなどの五感で感じる)一瞬の体験だ」と
お話しました。つまり、従来の、「私があってモノを見る」という唯物的見かたとはまったく異なる、物(モノ)と事(コト、現象)の観かたです。これまでのほとんどの僧侶や宗教学者は、この文言を「モノという実体はない」と解釈してきました。これは大きな誤りです。
じつは、色即是空だけでは不十分なのです。空即是色と続けて初めて一つの思想になるのです。ここがきわめて大切です。その正しい意味は「モノがあって私が見るという見かたも、モノやコトを体験するという観かたも、両方正しい」ということなのです。道元も主著「正法眼蔵」の現成公案編で、
・・・色すなわち私達の五感で感知できる自然や物質はそのまま存在する。それは事実の一面である。もう一つの面が「体験」であり、空でなのだ。空は空でそのまま存在する。色と空は「不一不異」であり、「一如」である・・・
とはっきり言っています(以上、筆者訳)。
ある近代の有名な禅師は、
・・・「色即是空」について、色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる……(中略)……空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、という主張(下線筆者)・・・
と述べています。こんな解釈(とくに下線部分)をしていては、一生かかっても禅は理解できないでしょう。そもそも絶対の無とはどいう意味でしょう。おそらくこの人は空の意味がわからず、「無のようでもあるが、無と言ってはおかしいし・・・」との苦しまぎれの説明をしたのでしょう。
道元が言っている「不一不異」とか、「一如」は禅ではとても大切な概念です。同一なんかではありません。「同じではなく、別でもない」とは、一見、おかしな表現ですが、この概念をよく表わしています。心理学のテストで使われる「ルビンの盃」の絵があります。その絵の黒い部分を見ると盃に見えますが、バックの白い部分を見ると二人の人が向き合っているように見えます。このように、同じものでも視点を変えると別のものに見える。でもやっぱり同じものなのです。「不一不異」とは、たとえばこういうことを言うのです。色即是空で「空が実在である」ことを示し、一方で、空即是色、つまり「色も実在である」と言っているのです。是も、前述の禅師の言う、
・・・(即)是は、主語と客語をつなぐisに当たる・・・
は誤りで、色と空が「一如」だということを示すキーワードなのです。さらに重要なことは、同じ禅師の、
・・・空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして・・・
の解釈は大きな間違いであることがお分かりいただけるでしょう。前述のように、「色は空である」だけでは不十分で、「空は色である」とも言わなければ、この大切なフレーズは成り立たないのです。
さらに、「色即是空」の即をすなわちと訳している人がいますが、まったくの誤りです。「即座」の即なのです。即座には深い意味があるのです。色と言いながら、即座にそれを否定して空と言っているのです。このように一瞬たりとも概念を固定しないのが、禅の重要な思想なのです。
色即是空・空即是色(2)
前回、
・・・色即是空 空即是色 の正しい意味は、「モノがあって私が見るという見かたも、モノやコトを体験するという観かたも、両方正しい」ということなのです・・・
とお話ししました。
今までほとんどの禅師も仏教学者も、この言葉を「モノという実体はない(だからこだわるな)」と説いてきました。そんな解釈で納得できるはずがありません。なぜなら、「あなたの体の実体はありません」と言われても、「ゴツン」とたたかれれば痛いからです。モノが実在することのなによりの証拠ですね。
そもそも、空を「実体が無い」と解釈すること自体が間違いなのです。実体があるとかないとかの問題ではなく、モノゴトを観るという体験という観かたもある、というのが正しい意味なのです。さらに、「禅の基本は空の思想だ」というのも誤りです。よく知られているように、空の思想は紀元2-3世紀頃、インドのナーガルジュナ(龍樹)が確立しました。釈迦以来の仏教の大成者と言われている人です。しかし、禅の基本思想は空ではありません。色即是空 空即是色なのです。両者を一まとめにして一つの思想なのです。空の思想と禅は、基本的には別の思想なのです。空(体験)も色(モノ)も両方とも実体として認める。それが禅の思想なのです。いずれのモノゴトの見かたも正しい、しかしどちらにもこだわってはいけない、と言うのです。ある近代の禅師は、「空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界以外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張・・・」と言っています。こんな解釈をしていては、何十年経っても禅はわかりません。
禅の初祖と言われる、あの達磨大師(ボーデイダルマ)がインドから中国へ来たのは、紀元5世紀の末のことです。つまり、ナーガールジュナの300年も後の人です。300年も後に同じ思想を持ち出してくるはずがないじゃないですか。ちなみに、有名な鳩摩羅什(クマラージヴァ、インド出身ですが西域の人)が般若心経を漢訳したのが5世紀初めです。しかし、中国ではなななかその教えは浸透せず、達磨大師の出現を待たねばならなかったのでしょう。あの玄奘三蔵訳(異論もあります)が出たのは7世紀半ばで、禅の隆盛は9世紀以降、唐の時代です。
近・現代の禅師や仏教学者が犯してきた上記の誤解釈が、これまでどれほど、まじめに禅を学ぼうとする人々を混乱させてきたか分かりません。道元の「正法眼蔵」や「永平元(道元)禅師語録」、公案集である「無門関」「碧巌録(従容録と重なる部分も多い)」「臨済録」などの原典をよく読めばすぐ分かることなのです。禅を正しく理解するには、仏教の歴史を学ぶことも大切です。それはまた後ほどお話しします。
色即是空(3)
今回は、「般若心経」の中心テーマである「色即是空」について、近・現代の禅師や、仏教研究家の解釈を示します。いずれも有名な人達ですから、ネットでお調べください。
鈴木大拙博士(1870-1966)
鈴木博士は、禅を初めて欧米に紹介した人です。筆者の知る限り、日本語で書かれた「般若心経」の鈴木博士の解説はありませんので、英文そのままを示しますと、
・・・form is here emptiness, emptiness is form; form is no other than emptiness, emptiness is no other than form・・・
筆者訳:形あるものは空っぽである。空っぽなものは形あるものである。形あるものは空っぽ以外の何ものでもない。空っぽなものは形あるものである以外の何ものでもない。
山田無文師(1900-1988)
・・・肉体は虚無を離れない。虚無は肉体を離れない。肉体はそのまま虚無であり、
虚無はそのまま肉体である。感覚や想念や意欲や或いは自我というような精神作用もまた
その通りである・・・
筆者はこの文を読むと頭を抱えてしまいます。
中村元博士(1912-1999)
・・・物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない・・・
中村博士は東大名誉教授。筆者がもっとも尊敬する仏教学者ですが・・・。
西嶋和夫師(1919-2014)
・・・色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる。したがって色即是空とは物質世界は現象であって、有でもなければ無でもない、の意、いわば唯心的な主張。空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界意外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張・・・
なぜこれらの著名な方々と、筆者の解釈とはあまりにも違うのでしょうか。禅は、「わかったか、わからないかの世界」だと言います。前にお話したように、「色即是空」とは、「モノゴトの見かたには二通りある」と言っているのです。「空」は、この人たちの言うような特定の概念ではないと思います。そこがわからないと禅はわかりません。
(紹介した各禅師、仏教研究家の引用文献はすべて把握していますが、字数の都合上省略させていただきました)
色即是空(4)
西嶋和夫師(1919-2014)の解釈をもう一度例に挙げて、筆者の解釈との違いを説明させていただきます。他人の考えを批判するのは心苦しいのですが、両者を比較する方が、違いが鮮明になり、分かりやすいと考えてのことです。
西嶋師は、東京大学法学部卒、大蔵省、日本証券金融勤務を経て、1973年に永平寺東京別院の丹羽廉芳師(元永平寺管主)の下で出家。その後、嗣法(後継者になること)。あの澤木興道師の弟子筋に当たります(法名「愚道」は、師の名前にちなんだものでしょう)。西嶋師は、道元の「正法眼蔵」や、龍樹の「中論」の日本語訳出。わが国内外で講演活動を行うなど、近代の代表的な禅師でした。その西嶋師の「色即是空」の解釈が、
・・・色は感覚によってとらえられる物質世界。空は有でもなく無でもない絶対の無。「是」は主語と客語が同一であることを示す述語。英語のisに当たる。したがって色即是空とは物質世界は現象であって、有でもなければ無でもない、の意、いわば唯心的な主張。空即是色とは色即是空の主語と客語を反対にして、有でもなく無でもない、空とは物質世界意外にこれを求めないという主張。いわば唯物論的立場からの主張・・・
です。この解釈では、肝心なところが欠けています。まず、「色即、空即・・」の「即」は重要な意味を持っているのです。説明しなければなりません。ちなみに「即」は「すなわち」ではありません。即座の「即」です。さらに、「是」は主語と客語が同一であることを示す述語とありますが、「同一」ではありません。「一如」、あるいは「不一不異」です。これらの言葉には禅独特の深い意味があり、それがわからなければ「禅がわかった」とは言えないのです。
つづく「空即是色」も、西嶋師が言うような「(色即是空の)主語と述語を反対にして」というような、単なる文章上のスタイルではありません。とても大切な理由があるのです。さらに、前回も指摘したように「空は有でもなく無でもない絶対の無」とはどういうことでしょう。「有でも無でもなければ」別の言葉を考えねばなりませんので、やむを得ず「絶対無」としたのでしょう。もちろん「有無を超越した」でも説明になっていません。「色即是空」が唯心論的立場で、「空即是色」が唯物論的立場とは!それも説明が必要でしょう。つまり、西嶋師の「色即是空・空即是色」の解釈は誤りだとしか言えないのです。
筆者の解釈は、次回以降にお話していきますが、要するに、「色即是空・空即是色」とは、モノゴトのみかたの問題なのです。「モノの有る無し」でも、「モノには実体が有るか無いか」の問題でもないのです。
真の意味は、モノゴトのみかたには、「見かた」と「観かた」の二つがあり、「見たモノと観たモノを一如とする」ことが、モノゴトの真実の姿を知るために必要だと言うのです。これこそ東洋的モノゴトのみかたの真骨頂なのです(「見かた」と「観かた」は筆者が便宜上作った言葉です。後で説明します)。