- 1)立花隆さんは「人間とは何か」について強い興味を持った人でした。その一つが「死後の世界はあるか」で、究極の疑問は「神は存在されるか」だったと思います。立花さんがそれらを解決する糸口として精力的に取材をしたのは「臨死体験」でした。関連した著作には「臨死体験」(文芸春秋)「脳死」(中公文庫)「死は怖くない」(文春文庫)「宇宙からの帰還」(同)などがあります。立花さんについてはすでに以前のブログでもお話しました。今回は死後の世界があるかどうかについて筆者の体験に基づく反論です。
立花さんは「それは僕にとっては解決済みの議論だ」と言っています。その意味は、「死後の世界があるかどうかは、個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするかどうかの問題ではない」と言うのです。立花さんが哲学科で学んだことの中で一番大きな影響を受けた、ドイツの哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉「語りえぬものについては沈黙せねばならぬ」を引用しています。
立花さんは、改めてお話する必要もないほど真摯な探求者ですから、納得できない人たちに対する批判は激烈です、たとえば、
・・・・最近日本で評判を集めている東大医学部付属病院救急部の矢作直樹氏(註1)のような例です。最近彼は週刊誌で(註1)、TVの怪しげな番組に出まくって霊の世界がどうしたこうしたと語りまくる江原啓之なる現代の霊媒師のごとき男と対談して「死後の世界は絶対にある」と意気投合していましたが、これが現代の東大教授かと口あんぐりでした。ああいう非理性的な怪しげな世界にのめりこめないと「死ぬのが怖くない」世界に入れないのかというと、決してそうではありません・・・」(以上「死はこわくない」文芸春秋)、「生、死、神秘体験 対話篇」(講談社学術文庫)。
筆者のコメント
まず、筆者も矢作さんや江原さんのお名前は知っています。ただ、著作を読んだり、テレビ番組を視聴したことはほとんどありません。やはり「?」と感じるところが多いからです。それにしても、「立花さんそこまで言うか?」ですね。霊的世界を考えることが、非理性的で怪しげかどうか。それについても後ほどお話します。
註1 立花さんが強く批判した元東京大学病院救命救急センターの矢作教授と、江原啓之さんの対談は筆者も読みました(「週刊現代」 56 (32), 176-179, 2014-09-20講談社)。江原さんが多くの霊的体験を持つことはよく知られている通りでしょう。それに対し、矢作さんは、そのような体験は皆無のようです。ただ、命が旦夕に迫った患者の「お迎え現象(註2)をよく見た」に過ぎないようです。立花さんに痛烈に批判されても仕方がないと思います。
註2死が近づいたころ患者が見る「母がすぐそこに座っていた」というような幻影。
死後の世界はあるか―立花隆さんに対する反論(2)
結論から先にお話します。
眼に見えない世界があるかどうかは、体験したことがあるかどうかに懸っています。さらに、体験したことがないのに体験者を批判する資格はありません。
立花さんが「個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正しい答えを出そうとするかどうかの問題ではない」と言っているのは誤りです。筆者は霊の存在を何度も体感しています。それらはたんなる情念の問題ではなく、明白な生理的変化を伴うものです。したがって現在では実測可能なものなのです。血圧や脳波、心電図の変化のように、です。それらのデータを詳細に集めて検討すれば、おのずと死後の世界について知る手掛かりが得られるはずでしょう。筆者は今からでもその研究をスタートできます。機会はいつでも作れます。協力者と測定器具が必要ですが。
これらの現象を科学として研究するにはいくつかの課題があります。科学的に証明されるためには、条件さえ整えれば誰でも同じ結果を得られること、でしょう。その難しさが立花さんをして「情念の世界だ」と言わせたのだと思います。しかし、筆者の計画に従えばいつでも立証できるのです。
ただ、筆者は心霊現象や神霊現象を体験したのであって、死後の世界があるかどうかとは別の問題です。それでも立花さんが熱心に求めたそれらの体験はしたのですから、一歩を踏み込んだことは間違いありません。死後の世界があることが多くの人に納得されれば、人間の死生観は根本的に変わるでしょう。ちょうど、宇宙に知的生命体がいることが確実となれば、私たち人類の人生観が180度変化するのと同じように。人が死を恐れるのは、死後の世界などなく、この自分という意識が無になってしまうことを恐れるからでしょう。
立花さんは臨死体験を手掛かりにし、死後の世界の存在の有無についてアメリカやカナダ各地の大学研究所を精力的に取材しました。中でもカナダのパイケル・パージンガー教授らが「脳に弱い電流を流すと臨死体験ができる」と言う研究所を訪れて実際に被検者になったほどです。「何も感じなかった」そうですが・・・。しかしそれだけで「卒業した」と言うのは早計なのです。海の底を調べるのに山に登るようなものです。筆者はまったく偶然の機会から、別の道へ入りました。そこでは最初から神秘体験をし、その後、いやと言うほど多くの心霊体験をしました。ある神道系教団で霊感修行をしたことがきっかけです(別に霊能を開発したいと考えて入ったのではありません。そこではたまたまそういう修行をやっていたのです)そこでは霊の存在など日常会話でした。
死後の世界はあるか―立花隆さんに対する反論(3)
キリスト教では「人体は魂の入れ物」と考えています。そうすれば「死ねば魂は肉体から離れる」のは、ごく自然な論理の帰結でしょう。そして、魂イコール意識というのも素朴な考えでしょう。
意識がどこから来るのかは、神経科学の立場からも心理学的にも重要な課題です。とくにアメリカでは多くの大学できちんとした研究が行われています。ある研究者は「脳の働きは神経のネットワークの活動による。脳が作られてから神経ネットワークの形成がだんだん複雑になっていき、ある段階を越えると意識が生じる」と言います。つまり、意識はあくまで脳内の生物現象だと言うのですね。ウスコンシン大学ジュリオ・トノーニ教授は、睡眠時と覚醒時の脳の活動の差を調べたところ、眠っている時になくて、起きている時にあった脳の神経活動は、情報と情報をつなぐ「つながり」だったとか(「意識はいつ生まれるのか」亜記書房)。「嬉しい(感情)、まぶしい(感覚)、誕生日(記憶)、食べる(行動)などのつながりであり、これらを線でつないでいくと蜘蛛の巣のようになった。生物が進化していくと複雑性が増す。その複雑性がある限度を越えると意識が生まれる。犬や猫にも意識がある。鳥や昆虫になるとそのレベルが小さくなっていく。逆に、生物だけでなく、ロボット、インターネットなどの無生物でも意識を持ちうる」と言っています。立花さんは「もしこの考えが体だしいと証明されれば、人が死ねば脳のネットワークのつながりが消え、心も消えることになる」と(「死はこわくない」文芸春秋)。傾聴すべき考えですね。ただ一連のこの考えには大きな飛躍があると思います。
一方、意識には顕在意識と、神につながる「魂」の意識があるという考えもあります。ふだんは顕在意識が主ですが、「創造的活動をするときに「パッ」とひらめくのは、魂(そして神)とつながったため」だと言うのです。筆者もこの考えです。「モーツアルトの音楽は神のメッセージである」とはあの小澤征爾さんの言葉です。
立花さんは、なんとか心霊体験や神秘体験について知りたいと、宗教学者の山折哲雄さん、荒俣宏さん、遠藤周作さん、京都大学総合人間学部のカール・ベッカーさんなどとも対談しましたが、結局、その誰からも心霊体験談を聞くことはできませんでした(「生、死、神秘体験 対話篇」講談社学術文庫)。
死後の世界はあるか―立花隆さんに対する反論(4)臨死体験(その1)
死は怖くない(1)
立花さんがNHKと作った「臨死体験 人は死ぬ時何を見るか」(1991)や、「臨死体験(註1) 死ぬ時心はどうなるのか」(2014)を見た人や、著書「臨死体験」(文春文庫)を読んだ人から大きな反響があったと言います。中には直接立花さんを呼び止めて「ありがとうございました」と声をかけられた高齢の女性が何人もいたとか。NHKスペシャル「臨死体験 死ぬ時心はどうなるのか」では、まず、当時アメリカで最も注目を集めている神経外科医のエベン・アレクサンダー氏の臨死体験について紹介されました。アレクサンダー氏は、「プルーフ・オブ・ヘヴン(天国は実在する)–脳神経外科医が見た死後の世界」の中で、自身が2008年に脳脊髄膜炎によって昏睡状態に陥った際に遭遇した体外離脱と臨死体験から、「意識が脳とは独立して存在するものであり、死後には完璧な輝きを放つ永遠の世界が待ち受けている」と言っています(註2)。
註1一旦死にかけて、蘇生した人の20%が言っている臨死の体験。気が付いたら自分は体から抜け出して、嘆き悲しんでいる親族や、医師、看護師たちを上から見下ろしていた(体外離脱)。その後暗いトンネルを抜けてまばゆい光に包まれた世界へ移動して、美しい花畑で家族や友人に会ったり、超越的な存在(神)に出会ったりする。
註2 アレクサンダー氏はこの体験について世界中の教会、病院、医学大学院、学術シンポジウム等で講演を行い、大変な反響を呼びました。筆者も読みましたが説得力があります。しかし、アレクサンダー氏のこの意見ついては批判も少なくありません。自身は重度の細菌性髄膜炎の結果として昏睡状態に入り、その時点で脳の活動はほぼ停止していたと主張していますが、担当医の証言では、アレグザンダー氏が陥った昏睡は医学的な処置として人工的にもたらされた昏睡状態であり、処置の時点では幻覚状態にあったものの意識は持っていた」と言っています。
死後の世界はあるか― 立花隆さんへの反論(5)
死は怖くない(2)
立花さんは、「死はこわくない」理由として、「夢の世界に入っていくのに近い経験だから」と言っています。その根拠として、ミシガン大学のジモ・ボルジガン博士の研究を挙げています(註3)。それによるとネズミの脳に電極を埋め込み、薬物注射によって心停止させても、数十秒間は微細な脳波が続いていたこと。さらに、ネズミを生かしたまま脳の各部からごく少量の液体を取り出して分析してみると、神経伝達物資の一つ、セロトニンの放出が増加していたことなどです。セロトニンは人間が快感を感じるときに働くドーパミン神経の調節に預かっています。ボルジガン博士は、「これらに現象こそ臨死体験を起こしている脳の活動の反映ではないか」と言っています。この研究成果のすばらしさは、初めて臨死体験を実験研究する確かな道を開いたことでしょう。立花さんはこれらの事実やさまざまな人の体験から、「人間には死を怖くないようにするため、幸せな臨死体験するためのDNAが組み込まれているのではないか」と結論しています。つまり、「臨死体験とは、死後の世界を垣間見たのではなく、脳の活動の一つである」と言うのです。とても興味深い考え方であり、立花さんのように「それを聞いて安心した」という人々も多かったのです。ちなみに立花さんの死生観は「哲学的&科学的世界観に基づく無宗教派です」と言っています。
以前のブログでお話した、遠藤周作さんの臨終の様子を、遠藤夫人が「とても安らかで嬉しそうな表情になった」と言っているのを思い出しました。それも死ぬ間際の幸せ体験ではないかと思います。よく「アッ死ぬ!と思ったとき、過去の人生が走馬灯のごとく思い出された」という話を聞きますが、臨死体験の一つにもそれがあります。ただ、違うのは、そういう時には別に心停止は起こっていないという点です。
註3 Proc. Nat. Acad. Sci. 110 14432 (2013).ネットで検索できます。ただし、脳内セロトニンの上昇に関する論文はまだ出ていないようです。
筆者のコメント:以上、ジモ・ボルジギン博士らのグループの業績は、確かに「臨死体験は神秘体験か、あるいは、たんなる脳の働きに過ぎないか」を明らかにするための新たな道を切り開いたと、脳疾患のメカニズムを研究していた筆者も思います。ただ、これだけの研究成果ではこの問題を決着して「死はこわくない」と言うにはあまりにも不十分です。そこは立花さんは科学者ではないからでしょう。筆者から見れば、立花さんが厳しく批判した元東京大学救急医療センター長の矢作直樹氏や江原啓之さんと「どっちもどっち」でしょう。江原さんは「霊が見える人」で、そのことを「死後の世界が存在すること」の根拠とし、それを以て「死はこわくない」と矢作さんと共感しているのです。彼らの考えにも一定の説得力があるのです。
死後の世界はあるか―立花隆さんに対する反論(6)
「死後の世界があることが分かったらあなたの死に対する恐れは小さくなりますか」という質問が聞こえてくるようです。そこであらためて思考実験してみました。その結論は「私自身の死生観にはほとんど影響ないでしょう」です。前回、「霊が〈存在〉することは確信していますが、それが死後の世界とどうつながるのかとは別問題です」とお話しました。昔、俳優の丹波哲郎さんが「死後の世界がある」と盛んに言い、映画まで作りましたが、あれはまあ「お話」です。
ちゃんとした科学者なら、「死後の世界に入ってみたら、それがどんなものであろうとそのまま受け入れる」と答えるはずです。「では死んだら無になると知ったら怖くはありませんか」と聞かれても、「まったくありません」と。心配したって仕方のないことは心配しないのです。「死後の世界などない」という人の中には「死んでしまえば意識もなくなるのだから、恐怖を感じることもない」という人がいます。妙に納得できる考えですね。「極楽や天国へ行くために、生きているうちに善行を積み重ねなければならない」ということを言う人は多いです。しかし、そんなこととは関係なく、人にやさしい言葉をかけ、親切にし、奉仕することは、人間としての当然の務めです。
「あなたの死生観は何ですか」と切り口上で筆者に聞いた人があります。「その時になってみなければわからない」と答えました。天下の名僧が臨終のとき、弟子たちが期待を込めて「なにかお言葉を」と聞きました。「死にとうない!」。耳を疑ってもう一度聞いても「死にとうない」と。長年、神の恩寵について説いてきた女性識者が、いざ自分がガンだとわかると、「神はヒットラーだ」と叫んだという話があります。その一方、末期ガンの知人を見舞に行くと、あまりの平静さに驚いた友人がいます。「敬虔なクリスチャンとはそういうものか」と。