(3)筆者の感想
従来、筆者は聖書にはすばらしい教えがたくさんあると思っていました。たとえば、
あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイによる福音書 6:34)
人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くの裁きで、自分も裁かれ、あなたがたの量るその秤で、自分にも量り与えられるであろう」(同 7:1-2)
汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて(ヨハネによる福音書 8:1‐11)
・・・今読んでもすばらしいですね。しかし、これらはすべて新約聖書、すなわちイエス・キリストの言葉なのです。これに対し旧約聖書は、それ以前のイスラエルの人々の人生訓です。つまり、前者は「神の言葉」であり、後者はいわば「知恵」に過ぎません。事実、「コヘレトの言葉」は「知恵の書」と言われています。どちらが人の魂を揺り動かすか、言うまでもないでしょう。
小友さんが「空(くう)=束の間」と解釈したのはたしかに一つの見識だと思います。「それゆえこの世を神からの賜りものとして楽しもう」となり、前記のパラドックスも解消されるようです。ただ、小友さん自身も「あえてそう解釈した」と言っているように、やはりこの解釈にはかなり無理があります。やはりコヘレトが「風のように空だ」と言うのを「風のように儚(はかな)い」と取る方が、「風のように束の間だ」と解釈するより自然でしょう。
「コヘレトの言葉」についての上記二つの解釈を公平に見て、やはり「空」を「空しい」と考えるのが自然だと思います。と言いますのもヘブライ語「ヘベル」の本来の意味は「息とか蒸気」ですから、わが国の多くの神父さんが「この世は空しい、神の存在を考えなけば・・・」と解釈しているのも納得できます。
すでにお話したように、小友さんの学説は、同じ旧約聖書にある「ダニエル書」と「コヘレトの言葉」との比較においてなされています。しかし、考えてみますと、「ダニエル書」で述べられている黙示思想(この世には終末がある)は何の根拠もない「伝説(註4)」に過ぎません。それゆえ「伝説」についてあれこれ言うことなど、本来意味のないことなのです。10歩下がってその意義を認めたとしても、たんなる「聖書学」の範囲内のことで、およそ後世の人たちが範とする価値はないと思います。言うなれば「古事記」を研究するのは「古事記学」として結構ですが、そこから「人生の教え」を導き出すのは牽強付会(こじつけ)というものでしょう。また、小友さんは「黙示思想が五島勉の『ノストラダムスの大予言は』や、オーム真理教の『ハルマゲドン』として復活した」と言っていますが、そんなものを信じたのはごく一部の日本人に過ぎません。大部分の日本人は醒めていました。ことほどさように、旧約聖書を「人びとへの教え」として研究する学者がいるのには驚きです。筆者はかねてから、聖書学者は聖書を唯一無二のものとして、そこから一歩も出ないのを不思議に思っていました.。
註4 「限られた予言者のみに与えられた神の秘密の開示」と言われていますが、真実かどうか怪しいですね。新興宗教によるある「神の啓示」と同じだと思います。
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ここで最初にお話した読者のメッセージ「NHKこころの時代のコヘレトの言葉で、小友さんが『空』『空』と言っています」に戻ります。これまでお話したことから、小友さんが番組内で「空(くう)」「空(くう)」と言ったのは、少し言い過ぎでしょう。私たちはどうしても禅の「空(くう)」を連想しますから。小友さん自身も「禅の空とは関係ない」と言っています。