なぜ禅を学ぶのか(2)‐村上光照禅師の思想と実践(1)
現代人の多くが禅に興味を持っていると思います。しかし、禅について知れば知るほど「なぜそこまで『悟り』にこだわるのか」との疑問を持つ人も少なくないでしょう。筆者も長年坐禅・瞑想を続けていますが、このテーマに関する明快な回答はできません。ただ、あの良寛さんや、今からお話しする村上光照師の生き方を見れば、「すばらしいものだろう」と想像はできます。
村上光照師(1932-)は、おそらくわが国近・現代の最高の禅師だと思います。名古屋大学理学部で素粒子物理学を学んでいる途中で禅の世界に入り、澤木興道師(註1)に感銘したと言います。そこで、澤木師を身近に接したいと、京都大学大学院へ進み、湯川秀樹博士の元で素粒子物理学を研究しました。しかし、母親の期待に反して大学教授への道を自ら閉ざし、禅僧となった人です。どの寺にも定住することなく(師の言葉によれば「呼ばれればどこへでも」)、わずか数人の弟子と修行生活を送っていらっしゃいます(註2)。筆者がテレビで拝見したのは、 伊豆半島の山奥の寺時代と、静岡県川根町の離農した農家を借りて修行中の村上師です。村上師たちの坐禅は毎日7回、5時間にも及ぶと言います。テレビで坐禅の様子を見て衝撃を受けました。結跏趺坐で前かがみになって眼を炯々と開けていらっしました。
村上師たちはもっぱら托鉢での生活の糧を得ています。玄米と大豆を炊いたものに、八百屋でもらった青菜の切れ端にゴマを掛けて菜としていると。あるとき村上師を偶然見かけた人が「弟子一人と、町の噴水の水(!)を飲みながらフランスパンをかじっていた」と報告しています。村上師にとっては、噴水の水はばい菌も汚くも危険でもないのでしょう。
現代の良寛さん
村上師はそのまま学究生活を進歩めば、いずれしかるべき大学の教授になり、優れた研究成果を次つぎに挙げ、有望な教え子たちを育てる人になったでしょう。映画を見、多くの小説を読み、音楽や絵画を楽しむ生活を送ることもできたでしょう。恋をして結婚して家庭を持ち、かわいい子供たちと楽しい家庭を作っることももちろん可能だったはず。それは多くの人にとってごく普通の生き方ですね。しかし村上師はそれらのすべてを捨て、修行ひとすじの人生を送ってこられたのです。まさに現代の良寛さんでしょう。備中玉島圓通寺での厳しい修行を終え、国仙師から最高の印可(免許状)を得た良寛さんは、ちゃんとした寺の住職になって、後進を育成するチャンスはいくらでもあったはずです。村上師や良寛さんにとって、禅にはそれら普通の人が考える生き方に優る意義があったのでしょう。
村上師の思想は上記のような行動として現れています。しかし、筆者にはとうてい真似ができません。目標というより遥か雲の上の人です。それでも村上師の思想の根本を知りたいと思うのは人情でしょう。筆者が村上師の言葉から知り得たところについては次回お話します。
註1 澤木興道師(1880-1965)は昭和を代表する禅師。村上師と同じように「一処不在」「只管打座(ひたすら坐禅する)」の生活を送った。村上師の他にも、弟子丸泰仙、内山興正、酒井得元、西嶋和夫など、多くの禅師を育てた。
註2 近年では日本各地ばかりでなくヨーロッパでの坐禅指導をされています。
村上光照師の思想と実践(2)
前回お話したように、村上師の生き方の根本を知りたい筆者ですが、NHK「心の時代」で次のようにおっしゃっていましたのからその一端を伺えます(以下筆者一部簡約)。
・・・ここ山奥で坐禅していれば、「あの人は山奥にいて、何も関係ないわ」と言うかも知れません。それは人間の目で見て物理的に離れているだけでして、魂の世界は、一人一人の魂の中心に直結していくわけです。人間ばっかりじゃないですよ。植物だって、動物だって、いのちあるものはすべて抱き留めて・・・世の中に老後悩んでいる人がもしいるのだったら、それと同じように私も悩みます。食えなくて、悩んでいる人が地球の上にどっかにあったら、私はその人と同じになって悩みます。それはもう当然なんです。出家というのは世界中全部道場ですから。それで、私と別のものは一つも存在していないわけなんです・・・地理的に山奥に住んで涼しい顔して無責任な生活をすることかと思うと、そうじゃないんです。静かな心で俗世間の波立ちを鏡に映すような世界を歩かせて頂いているわけです・・・
村上師は毒蛇にも心を通じることができ、「あっちへ行ってくれ」と言えば村上師を避けて通るそうです。
村上師は、典型的な自力信仰とされている禅の衣鉢を継ぐ人ですが、禅に少しもこだわることなく、
・・・自力というのは自分の尻尾の周りだけしか照らせないんです。それが自力です。お他力というのは天上界を照らすと一緒に地上のあらゆるものに平等に照らす。それを頂いていく作法を「大乗」とか、「お他力」とか言います。現にその通りになっていくんです。宗教的事実というのは、一回我を離れる、というか、自分の先入観にとらわれないでいると、もう既に煌々(こうこう)と照っている世界なんです。はっきりとそういうしるしが人々に顕れます・・・
と、大乗仏教にも造詣が深い。さらに、キリストの言葉も自在に引用していらっしゃいます。以前のブログで紹介しましたように、道元も「正法眼蔵・生死巻」の中で、
・・・仏のいへ(家)になげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる・・・
と言っています。立派な「他力」ですね。
筆者のコメント:筆者も村上師の考えと同感です。このブログシリーズは「禅塾」と名乗りながら、他力系の浄土思想や華厳、唯識、さらにはキリスト教や神道、そしてスピリチュアリズムについても筆者が体験し、学んできたことをお話しています。筆者が長く生命科学の研究を続けていた経験から、自分の専門分野だけを学んでいても、幅広く関連分野について学ばなければ専門分野自体をよく知ることが出来ないと実感していたからです。仕事を続けながら禅を学び、かなりの境地に達した人が、仕事を投げ打って禅寺に入ったことを知っています。一方、良寛さんやこの村上光照師のように一般的な禅の世界から抜け出て、独自の道を歩む人もいます。筆者は上記の理由から、むしろそういう人たちの生き方を善しとしています。
村上光照禅師の思想と実践(3)
村上師はテイクナット・ハン師とは対照的な禅の生活をしている
村上師の禅師としての活動は、あのハン師とはまったく対照的です。すなわち、村上師は、いわゆる南伝仏教の伝統にのっとり、自分自身のための禅道を歩んでこられた。じつは良寛禅師もそのような生活を目指した人なのですが、途中で考え方を変え、あのような自由気まま(?)な人生を送った人です。その結果、当時からすでに心酔している人が多く、越後の大庄屋解良栄重(けらよししげ)や阿部定珍(さだよし)、最晩年の弟子貞心尼、それどころか、村の老爺から子供たちに至るまでの多くの人に敬愛されました。しかしそれはあくまでも「結果」に過ぎないと思います。あくまで良寛さんは自分本位に生きた人だと思います。北川フラムさんのように、良寛さんは越後へ帰ってから大衆を済度したという人もあります。しかし筆者はそういう気持ちはまったくなかったと考えます。あくまで結果として、現代に至るまで多くの人の心を癒し、勇気付けてきたのだろうと思うのです。
村上師は禅語「前後裁断(ぜんごさいだん)」と、「非思量」を、それぞれ、
・・・坐禅している時間は、人生がそこで無くなって、仏さまの時間に変わる。「この人間の世界の中に仏法があると思うなよ。また、仏法の中に人間の世界があると思うなよ」(道元の言葉を引用)。「前後裁断」と言うんです・・・
・・・「非思量」というのは、要するに、〈こういう人の世界で起こる、「考えられる」とか、「考えられん」とか、「ある」とか、「無い」とかじゃない。もう一つ、別世界の仏界から人の世界に届く。人でありながら、仏界のことがこの世に起こる〉。これを「非思量」という。「大矛盾」といいますか、〈あり得ないことが起こる〉。禅というのは面白い。みんなに分かり易く公案というのがありまして、非思量の世界を、「全てが燃える。真っ赤な炎の中で、真っ白な清らかな蓮の花が咲くんだ」という。これ「非思量」を譬えていうんです・・・
と言っていらっしゃいます。「前後裁断」「非思量」は重要な禅語ですが、いずれも筆者の解釈とは異なります。くわしくは、前著「正・続 禅を正しくわかりやすく」「禅を生活に生かす」(いずれも株式会社パレード)をご参照いただけば幸いです。
村上師には著書や短歌・漢詩など、諸相の一端を知る材料は一切無く、わずかにテレビでのインタービューでその人となりを知るのみです。いずれほとんど痕跡も残さずに消えてゆく人つもりの人なのでしょう。しかし、ハン師や良寛さんとあまりにも対照的な村上光照師の生き方ついて、誰もとやかく言う筋はないことは当然です。それにしても、もう少しご自分の考えを残してほしいのですが・・・。
人さまざまであってよいと思います。それでも、ハン師の世界的な貢献には頭が下がります。