それでも生きて行く-新聞投書から

 以下は毎日新聞の記事「女の気持ち」(2023/4/20)です。とても良いと思いましたのでご紹介します。三重県四日市市の松尾紀子さん(53)の「たった一年の闘病で夫が逝ってしまった」から始まります。

・・・・闘病中は、どんな結末が待っていても絶対後悔しないよう、日々を精いっぱい過ごしてきた。でも夫が逝ってから心に浮かぶのは、してあげられなかったこと、投げつけてしまった言葉・・・・・結局、後悔ばかりだ(中略)残された者はやらなければならないことが山積みだ。私と子供たちは悲しみのスイッチを切って、目の前のことを淡々と、ときには笑いさえしながら片づけてきた。弔問に来た友人たちが言う「元気そうでよかった」。(中略)私は正社員として働くようになり。長期の出張もちゅうちょなく引き受けるようになった。でも悲しみはいつも心の浅いところにあって、簡単に顔を出す。電車に乗っているとき、ニンジンを刻んでいるとき、パソコンに向かっているとき。私はふいに泣きそうになる。夫に会いたい。きっと、悲しみが消えることはない。少しずつ心の深いところに沈んでいってくれるのを待ちながら、ずっと抱えて生きて行くのだろう。風になって私たちのそばにいてくれる、なんて思えない。天国から今年の桜を見ている、わけがない。夫は死んでしまった。それでも、私たちは夫のいないこの世界を、今日も生きていく・・・・。

 いかがでしょうか。松尾さんの素直な気持ちがすがすがしいですね。筆者がとくに注目したのが太字の部分です。まず、どなたも秋川雅史さんの「千の風になって」を意識するでしょう。かなりヒットしましたから、多くの人たちがメロデイーを口ずさむことができると思います。しかし最初から筆者は「どこかおかしい」と感じていました。筆者が学んできた霊魂の居場所とはちがうからです。さらに、「天国から桜を見ている」は、多くの人が思い付き、親を亡くした子供などに言う言葉だと思います。しかし、それもたんなる空想であって、人の心に響く言葉ではないと思います。筆者は僧侶の説教をなんども聞いたことがありますが、ほとんど類型的なものばかりでした。その場では「なるほど」と思っても、会場の外に出たら忘れてしまうものだったのです。とくに浄土系の宗派など、南無阿弥陀仏と唱える以外の思想などありません。筆者がこのブログシリーズを書いておりますのは、余計なことで膨れ上がってしまった仏教を本来の姿に戻すことを願ってのことです。

 ことほどさように、これらの言葉は、現実にご主人を、そしてお父さんを亡くした子供さんたちにとって、安易な思い込みに過ぎないことが分かります。〈少しずつ心の深いところに沈んでいってくれる〉ことを願ってやみません。

修証義‐1,2)

1)道元禅師の〈正法眼蔵〉から文言を抜き出して編集されたとされる経典。明治23年に大内青巒居士を中心とする「曹洞宗扶宗会」がまとめたもの。曹洞宗の寺院や家庭ででよく読誦されています。以下各章の概略は、曹洞宗近畿管区教化センターHP (https://www.soto-kinki.net/sp/okyo/list_shushogi.php)のものを引用させていただきました。

第1章 総序 仏教の基本的な教えが述べられ、仏教の人生観、世界観が説かれている。無常・因果・業・三世の教え(註1)を中心に、人生のあり方を解き明かし、自己反省と発心求道をすすめている。

第2章 懺悔滅罪 自らが(の?)行いに対する懺悔についてその意義が示され、真心をもって懺悔すれば清らかな身となり、仏の道がひらけると説いている。

第3章 受戒入位 仏法僧の三宝に帰依することが悟りを得る道であり、その実践として三聚浄戒(註2)、十重禁戒(註3)を受けて(受戒して)仏の位に入ることを説いている。

第4章 発願利生 他の人の幸せを願い、行なうことが仏の道であるとし、その具体的な実践行として布施、愛語、同事(菩薩が、悟りを求める人が衆生を導くために、衆生に近づいて、苦楽をともにし、事を同じくすること:筆者 )、利行(りぎょう。菩薩が、さとりに導く手だてとして衆生に利益を与えること:同)の教えを説いている。

第5章 行持報恩 この世に生をうけて、仏の教えにめぐり会えたことを感謝し、この恩に報いるために、仏を敬い、自らをも敬い日々懸命に生きることが仏の姿であると説いている。

註1 人間の現世のありさまは過去世に原因があり、未来世のありさまは現世の行いに原因があるとする考え。ただし釈迦の思想であるかどうか疑問とされる。

註2  大乗仏教の菩薩が受け,守る3種の戒。

 1仏の定めた戒を守って悪を防ぐ摂律儀(しょうりつぎ)戒,

 2自己のために進んで善を行う摂善法(しょうぜんぼう)戒,

 3世の人を教え導き,利他に尽くす摂衆生(しょうしゅじょう)戒

註3 出家・在家の菩薩が必ず守るべき十種の戒

 1殺戒 – 生き物を殺さない盗戒 – 盗みを働かない

 2盗戒 – 盗みを働かない

 3婬戒 – 出家者は性交渉をもたず、在家は不倫をしない

 4妄語戒 – 嘘を言わない

 5 酤酒戒 – 酒を売らない 

 6 説四衆過戒 -菩薩、比丘、比丘尼の犯した罪を吹聴しない

 7 自讚毀他戒 – 自分を誉めて他人をそしりけなさない

 8 慳惜加毀戒 – 人に与えることについて惜しまない

 9 瞋心不受悔戒 – 他人から謝罪を受けたらそれを受け入れ、怒りの心によって許さないということをしない

10 謗三宝戒 – 仏・法・僧の三宝をそしらない

2)今回は総序の部分だけについてお話します。(太字は原文。以下同じ)

 しょうを明あき死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、ただ生死すなわち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭べきもなく、涅槃として欣ごうべきもなし、この時とき初めて生死を離るる分ぶんあり唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。

筆者訳(以下同じ):生きるとは何か、死ぬとは何か、この疑問を明らかにすることは、仏教の教えを信じる者にとって一番大切な問題である。この問題を仏の視点で正しく見ることが出来たら、生きる死ぬという問題に迷うことはない。ただ、生死は涅槃(さとり)であると気づく事が出来たら、死を忌み嫌う事も、さとりとして願うこともない。これを人生にとって一番大切な問題として究め尽くさなければならない。

筆者のコメント:〈生死は涅槃(さとり)である〉良い言葉ですね。一生とはそのまま修行の場だと言っているのですね。

 人身(にんしん)得ること難し仏法値(お)うこと希なり、いま我等宿善の助くるに依りて、已(すで)に受け難人身を受けたるのみに非あらず、遭い難き仏法に値い奉つれり、生死の中の善生、最勝の生(しょう)なるべし最勝の善身を徒いたずらにして露命を無常の風に任すること勿なかれ。

訳:人間として生まれる事は難しい。また仏さまの教えに出逢うことは稀である。今、私たちは無数の縁に助けられて、人間として生まれ、さらに仏さまの教えにも巡り逢う事ができた。このかけがえない人生をいたずらに露のように無常の風に任せて散らしてはいけない。

筆者のコメント:〈 人身(にんしん)得ること難し〉とは、「人間は輪廻転生するもので、他の動物にも生まれかわることがある。今、人間として生まれてこれたことは、この世の生を修行の場とすることができるチャンスをいただいた」という意味でしょう。親鸞の言葉にもあります。

 無常憑たのみ難し、知露命いかなる道の草にか落ちん、身(み)(すで)に私に非らず、命は光陰に移されて暫しばらくも停め難し、紅顔いづくへか去りにしんとするに蹤跡しょうせきなしつらつら観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽たちまちにいたるときは国王大臣親昵従僕子珍宝る無し、唯独ただひとり黄泉に趣おもむくのみなりおのれ)に随い行くは只是ただこれ善悪業等のみなり。

訳:無常であるこの世界はあてにならず、この露のような命は、いつ、どこの道の草の上に落ちて消えてしまうかわからない。私だと思い込んでいるこの身体は私のものではなく、命は常に変化し一刻も同じではない。若々しかったあの面影はどこへいってしまったのか、尋ねようとしてもその跡はない。よくよく思い返してみると、もう出逢う事が出来ない事ばかりだ。死の訪れを感じた時には、国王や大臣、親しい人々、使用人や妻や子供、価値ある財宝も助けてくれない。ただ一人であの世へ旅立って行かなくてはならないのだ。あの世へ旅立つ自分に付いてくるものは、自分の行った善い行いと悪い行いだけだ。

筆者のコメント:明らかに「人間は輪廻転生するもので、現在の生は過去の業(善行と悪行)の結果であり、未来の生は現世の業の結果である」と言っています(三世の教え)。

 今の世に因果を知らず、業報ごっぽうを明らめず、三世を知らず善悪ぜんなくを弁(わきまえ)えざる邪見の党侶ともがらには群すべからず、大凡おおよそ因果の道理歴然れきねんとして私(わたくし)なし、造悪の者ものは堕ち、修善の者ものは陞のぼる、毫釐ごうりわざるなり、若し因果亡虚ぼうじんからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。

訳:今この世に因果の法則を知らず、自らの行動の報いを考えず、過去・現在・未来を知らず、善悪の行いをわきまえない誤った見解の者たちと行動を共にしてはいけない。私が今このように存在しているのは、自ら行った善悪の原因と結果の繰り返しによって存在しているのだ。悪を行うものは堕落し、善を行うものは進歩してゆく。微塵も疑いようがない。もしこの因果の法則が誤りであれば、諸々優れた先人たちが世にお生まれになる事もなければ、達磨大師がインドから中国へ教えを伝える事もない。

筆者のコメント:前段と同じ趣旨ですね。

 善悪ぜんなくの報に三時あり、一者ひとつには順現報受、二者ふたつには順次生受、三者みつには順後次受、これを三時という、仏祖の道を修習しゅじゅうするには、その最初よりこの三時の業報ごっぽうの理(ことわり)を効ならい験あきらむるなり、爾しかあらざれば多く錯あやまりて邪見に堕つるなり。ただ邪見に堕るのみに非ず、悪道に堕て長時の苦を受く。

訳:善悪の影響が現れるのには三つの時がある。一つはすぐ現われる時、二つは次の代で現われる時、三つは次の次の代で現われる時だ。仏の教えを学んでいくには、この三つの時を考え、自ら納得しなくてはならない。そうでないと誤った見解に落ちることになる。それだけでなく大きく道を踏み外し、長い苦しみの道を歩む事になりかねない。

筆者のコメント:同上です。

 まさに知るべし今の我身二つ無し三つ無し、徒いたずらに邪見に堕ちて虚く悪業を感得せん惜しからざらめや、悪を造つくりながら悪に非ずと思い、悪の報(むくい)あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。

訳:まさに知るべきだ。今生きている私はただ一つだということだ。いたずらに誤った見解に落ちて、虚しく悪い行いの報いを受けるのは本当に惜しい事だ。悪い行いをしても悪行だとは思わず、悪の報いなど受けないと誤った考えを持ったとしても、その報いを受けないはずはない。

筆者のコメント:いかがでしょうか。輪廻転生とか、業(ごう)の問題とか、釈迦仏教とはかなり違った思想ですね。むしろそれ以前のヴェーダ信仰に近いものでしょう。とても良い言葉ですが、率直に言って〈修証義〉は、〈正法眼蔵〉のエッセンスなどではありません。浄土宗の〈正信偈〉とほとんど同じで、仏教を学ぶ者の一般的な心得としか言えません。一歩下がっても、仏前で何か唱えなければならいないお経の一つです。こんなことをしていれば日本仏教が衰退するのは当然でしょう。まだしも〈正信偈〉の方には〈南無阿弥陀仏〉という、言霊(ことだま)があり、唱える意味もあろうかというものです。

 

正信偈‐1,2)

 1)正信偈(正信念仏偈は、親鸞の著書教行信証の「行巻」の末尾に所収の偈文で、真宗の要義大綱を七言60行120句の偈文にまとめたものです。同じ親鸞撰述の三帖和讃とともに、本願寺第8世蓮如によって、僧俗の間で朝暮の勤行として読誦するよう制定され、現在も行われています。浄土真宗の門徒である筆者の家では法事のたびに唱えます。それにしても、蓮如がこのお経を発明して良かったと思います。法事のさい、皆でただ南無阿弥陀仏と唱えるだけでは間が持てませんし、阿弥陀経は長すぎます。

 内容としては、大きく二つの部分によって構成され、〈総讃〉の2句に続く前半は、〈依経段〉と言われ〈仏説無量寿経仏説〉に依って明らかにされています。浄土往生の正因は信心であり、念仏は報恩行であることを説明し讃嘆しています。後半の部分は〈依釈段〉と言われ、インド・中国・日本でこの教えを正しく伝えた七高僧の業績・徳を讃嘆しています(Wikipediaより)。

 正信偈 原文と現代語訳(真宗大谷派明順寺HP https://mjj.or.jpより)

帰命無量寿如来 南無不可思議光
生きとし生けるものを喚(よ)び覚(さ)ましてやまない無量寿如来に帰命し、思いはかれない智慧のみ光に帰依(きえ)いたします。

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
その昔、あなた(阿弥陀)が法蔵菩薩として道をもとめておられたとき、世自在王仏という師におつかえし、

覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
あらゆるみ仏の世界の成り立つ原因と、その国土の人間と天人の善し悪しのすがたをみきわめて、

建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
すべての人の依りどころとなる淨(きよ)らかなる国土を建てようと、この上なく素晴らしい願いを打ち立てられ、みな共に目覚めようとの、またとない誓いをおこされました。

五劫思惟之摂受 重誓名聲聞十方
五劫という長い時をかけ、思索を深める中から根本の願いを選び取って、み名(名号)にあらわされ、重ねて誓われました。どうかこのみ名とそのいわれがよく聞かれ、あまねく十方の世界にひびきわたりますように、と。

普放無量無辺光 無碍無対光炎王
あなたの名は、この世界の至るところにあまねく光を放ち、はかりなく、果てしなく、さまたげなく、比べるものなく、炎のように燃えて、

清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
清浄(しょうじょう)な、身心に満ちるよろこびとなり、真の智慧を輝かせ、絶えることなく、思いや言葉でたたえ尽くせない光が、

超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
日月よりも明るく、世界のすみずみまで照らします。すべてのいのちが、その光の恩恵をこうむっています。

本願名号正定業 至心信楽願為因
この南無阿弥陀仏の名号こそ真実の言葉となって人が生きて往く道を正しく定めるはたらきをします。み名に込められた、真実に目覚ませようとのお心が、私たちのいのちの根源にはたらきかけ、呼び覚ますのです。

(以下、紙面の都合により割愛。明順寺HPをお読みください)

 いかがでしょうか。それにしてもすべてが詩文であることに驚かされます。親鸞は詩人でもあったのですね。筆者は20年ほど前、この〈正信偈〉の意味を調べて愕然としました。〈教え〉などまったく書かれて無いからです。つまり、私たち門徒は長年、意味のない文言を唱えてきたのです。文字通り「お経のように」。ただ一ヶ所、法然の思想の核心部分南無阿弥陀仏と何度も唱えることだけはホッとしていますが。ちなみに浄土系思想の基本経典は〈無量寿経〉の他に、〈観無量寿経〉と〈阿弥陀経〉があります。〈無量寿経〉には「弥陀の四十八願」が書かれていますが、すでにブログでお話したように、内容は架空の〈お話〉です。さらに、〈観無量寿経〉と〈阿弥陀経〉にも〈教え〉などまったく書かれていません。それにしても、法然は偉大です。これらの〈お話〉から、その本質をくみ取り、釈迦仏教とは別の思想を打ち立てたのですから。ただ惜しむらくは、法然と親鸞以降、その教えを正しく理解している人は僧俗ともにいません。今、しきりに〈仏教離れ〉が言われていますが、当然でしょう。

2) そこで今回は、中国浄土教(註1)から法然の思想に至る浄土教の歴史が書かれた部分についてお話します。

・・・・印度西天之論家 中夏日域之高僧
はるか西方、印度の論主(龍樹・天親)、中国・日本の高僧(中国―曇鸞・道綽・善導、日本―源信・源空)がたは、

顕大聖興世正意 明如来本誓応機
釈尊がこの世にお生まれになった真意を表し、阿弥陀の根本の誓いが、人間そのものに応える救いであることを明らかにされました・・・・。

文中の印度西天の論家とは、

 龍樹は「十住毘婆沙論」の著者。それまで議論が分かれていた〈空(くう)〉思想を〈縁起〉として説明した。仏教の〈中興の人〉と言われています。
 天親(世親とも)は「浄土論」の著者。浄土往生の方法として〈五念門(註1)〉を説いています。

次に中夏日域之高僧とは、

中国人の曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、善導と日本人の源信と法然(源空)のこと。

 曇鸞(生没年不明)とは、中国南北朝時代の僧で、中国浄土教、すなわち他力思想の開祖です。主に無量寿経の注釈をしました。

 道綽(562-645)とは、唐代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧侶。浄土教を専ら弘めたのは道綽と下記の善導ら。

 善導とは、〈無量寿経〉の問題点〈唯除五逆謗法についての矛盾〉をともかくも説明した人。法然が拠り所としています。筆者のブログをお読みください。

 源信(942‐1017)とは、極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、わが国の浄土教の基礎を創る。地獄極楽思想という釈迦も驚く考えを創出しました。紫式部や清少納言の著作にも出てきます。もちろん法然にも大きな影響を与えました。

 法然(源空1133‐1212))は、浄土思想を確立した人で、「ただ南無阿弥陀仏と唱えなさい」と説きました。以前のブログに書きましたように、釈迦の思想にはない画期的な考えです。

註1阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く大乗仏教の一派。

註2阿弥陀仏を礼拝する礼拝門、阿彌陀の功徳を賛美する讚歎門、一心に極楽浄土に往生しようと願う作願門、阿彌陀仏や観音、勢至および浄土の荘厳などを観察する観察門、自分の功徳を衆生にほどこし、ともにそろって成仏しようと願う回向門の五つ。


あなたの悩み、本当の悩み?

  1リットルの涙

  木藤亜也さん(1962-1988)は、脊髄小脳変性病という、体を動かす働きをする小脳が萎縮してゆく難病に見まわれ、26歳という若さで亡くなりました。高校に入学する頃から病状が現われ出し、病気と闘いながら通学します。しかし、病勢は止まらず、途中で養護学校に転校を余儀なくされ、遂にはベッドで寝たきりの生活の中で日記を書き綴りました。絶望的な状況でも冷静に自分を見つめ、希望を捨てずに生きた感動的な文章が書かれています「1リットルの涙」(幻冬舎文庫)。

その一節、

………

過去を思い出すと涙が出てきて困る

現実があまりにも残酷できびし過ぎて

夢さえ与えてくれない

将来を想像すると、また別の涙が流れる
………
お母さん、わたしのような醜い者が、この世に生きていてもよいのでしょうか。
わたしの中の、キラッと光るものをお母さんなら、きっと見つけてくれると思います。
………
若さがない、張りがない、生きがいがない、目標がない……
あるのは衰えていく体だけだ。
何で生きてなきゃあならんかと思う。反面、生きたいと思う。
………
我慢すれば、すむことでしょうか。
一年前は立っていたのです。話もできたし、笑うこともできたのです。
それなのに、歯ぎしりしても、まゆをしかめてふんばっても、もう歩けないのです。
涙をこらえて
「お母さん、もう歩けない。ものにつかまっても、立つことができなくなりました」
………
後十年したら……、考えるのがとてもこわい。
でも今を懸命に生きるしかないのだ。
生きていくことだけで、精いっぱいのわたし。
………

これを読んだ男子高校生は・・・・いじめられ、死のうと思っていたが、生きる決意をした・・・・と。

あとはぜひこの本を買って読んでください。

 今、筆者の周囲にも受験に失敗し、希望校へ入れなかった人がいます。本人はもちろん、両親にとってもつらいことでしょう。一方、長年人生を共にしてきた奥さんを突然亡くした友人もいます。慰める言葉もありません。そのほか、重い病気や人間関係で悩んでいる人たちのことも知っています。しかし、そんな悩みなど、木藤さんのこの本を読めば吹っ飛んでしまうのではないでしょうか。それを願って紹介させていただきました。