1)道元禅師の〈正法眼蔵〉から文言を抜き出して編集されたとされる経典。明治23年に大内青巒居士を中心とする「曹洞宗扶宗会」がまとめたもの。曹洞宗の寺院や家庭ででよく読誦されています。以下各章の概略は、曹洞宗近畿管区教化センターHP (https://www.soto-kinki.net/sp/okyo/list_shushogi.php)のものを引用させていただきました。
第1章 総序 仏教の基本的な教えが述べられ、仏教の人生観、世界観が説かれている。無常・因果・業・三世の教え(註1)を中心に、人生のあり方を解き明かし、自己反省と発心求道をすすめている。
第2章 懺悔滅罪 自らが(の?)行いに対する懺悔についてその意義が示され、真心をもって懺悔すれば清らかな身となり、仏の道がひらけると説いている。
第3章 受戒入位 仏法僧の三宝に帰依することが悟りを得る道であり、その実践として三聚浄戒(註2)、十重禁戒(註3)を受けて(受戒して)仏の位に入ることを説いている。
第4章 発願利生 他の人の幸せを願い、行なうことが仏の道であるとし、その具体的な実践行として布施、愛語、同事(菩薩が、悟りを求める人が衆生を導くために、衆生に近づいて、苦楽をともにし、事を同じくすること:筆者 )、利行(りぎょう。菩薩が、さとりに導く手だてとして衆生に利益を与えること:同)の教えを説いている。
第5章 行持報恩 この世に生をうけて、仏の教えにめぐり会えたことを感謝し、この恩に報いるために、仏を敬い、自らをも敬い日々懸命に生きることが仏の姿であると説いている。
註1 人間の現世のありさまは過去世に原因があり、未来世のありさまは現世の行いに原因があるとする考え。ただし釈迦の思想であるかどうか疑問とされる。
註2 大乗仏教の菩薩が受け,守る3種の戒。
1仏の定めた戒を守って悪を防ぐ摂律儀(しょうりつぎ)戒,
2自己のために進んで善を行う摂善法(しょうぜんぼう)戒,
3世の人を教え導き,利他に尽くす摂衆生(しょうしゅじょう)戒
註3
出家・在家の菩薩が必ず守るべき十種の戒
1殺戒 – 生き物を殺さない盗戒 – 盗みを働かない
2盗戒 – 盗みを働かない
3婬戒 – 出家者は性交渉をもたず、在家は不倫をしない
4妄語戒 – 嘘を言わない
5 酤酒戒 – 酒を売らない
6 説四衆過戒 -菩薩、比丘、比丘尼の犯した罪を吹聴しない
7 自讚毀他戒 – 自分を誉めて他人をそしりけなさない
8 慳惜加毀戒 – 人に与えることについて惜しまない
9 瞋心不受悔戒 – 他人から謝罪を受けたらそれを受け入れ、怒りの心によって許さないということをしない
10 謗三宝戒 – 仏・法・僧の三宝をそしらない
2)今回は総序の部分だけについてお話します。(太字は原文。以下同じ)
生(しょう)を明(あき)らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、ただ生死すなわち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣(ね)ごうべきもなし、この時とき初めて生死を離るる分(ぶん)あり唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。
筆者訳(以下同じ):生きるとは何か、死ぬとは何か、この疑問を明らかにすることは、仏教の教えを信じる者にとって一番大切な問題である。この問題を仏の視点で正しく見ることが出来たら、生きる死ぬという問題に迷うことはない。ただ、生死は涅槃(さとり)であると気づく事が出来たら、死を忌み嫌う事も、さとりとして願うこともない。これを人生にとって一番大切な問題として究め尽くさなければならない。
筆者のコメント:〈生死は涅槃(さとり)である〉良い言葉ですね。一生とはそのまま修行の場だと言っているのですね。
人身(にんしん)得ること難し。仏法値(お)うこと希なり、いま我等宿善の助くるに依りて、已(すで)に受け難き人身を受けたるのみに非(あら)ず、遭い難き仏法に値い奉つれり、生死の中の善生、最勝の生(しょう)なるべし。最勝の善身を徒(いたず)らにして露命を無常の風に任すること勿なかれ。
訳:人間として生まれる事は難しい。また仏さまの教えに出逢うことは稀である。今、私たちは無数の縁に助けられて、人間として生まれ、さらに仏さまの教えにも巡り逢う事ができた。このかけがえない人生をいたずらに露のように無常の風に任せて散らしてはいけない。
筆者のコメント:〈
人身(にんしん)得ること難し〉とは、「人間は輪廻転生するもので、他の動物にも生まれかわることがある。今、人間として生まれてこれたことは、この世の生を修行の場とすることができるチャンスをいただいた」という意味でしょう。親鸞の言葉にもあります。
無常憑(たの)み難し、知露命いかなる道の草にか落ちん、身(み)已(すで)に私に非(あ)らず、命は光陰に移されて暫(しばらく)も停め難し、紅顔いづくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし。熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽(たちまち)にいたるときは、国王大臣親昵従僕妻子珍宝にすぐる無し、唯独(ただひとり)黄泉に趣(おもむ)くのみなり、己(おのれ)に随い行くは只是(ただこれ)善悪業等のみなり。
訳:無常であるこの世界はあてにならず、この露のような命は、いつ、どこの道の草の上に落ちて消えてしまうかわからない。私だと思い込んでいるこの身体は私のものではなく、命は常に変化し一刻も同じではない。若々しかったあの面影はどこへいってしまったのか、尋ねようとしてもその跡はない。よくよく思い返してみると、もう出逢う事が出来ない事ばかりだ。死の訪れを感じた時には、国王や大臣、親しい人々、使用人や妻や子供、価値ある財宝も助けてくれない。ただ一人であの世へ旅立って行かなくてはならないのだ。あの世へ旅立つ自分に付いてくるものは、自分の行った善い行いと悪い行いだけだ。
筆者のコメント:明らかに「人間は輪廻転生するもので、現在の生は過去の業(善行と悪行)の結果であり、未来の生は現世の業の結果である」と言っています(三世の教え)。
今の世に因果を知らず、業報(ごっぽう)を明きらめず、三世を知らず善悪(ぜんなく)を弁(わきまえ)えざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理歴然(れきねん)として私(わたくし)なし、造悪の者ものは堕ち、修善の者ものは陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)も違わざるなり、若(も)し因果亡虚(ぼうじん)なからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
訳:今この世に因果の法則を知らず、自らの行動の報いを考えず、過去・現在・未来を知らず、善悪の行いをわきまえない誤った見解の者たちと行動を共にしてはいけない。私が今このように存在しているのは、自ら行った善悪の原因と結果の繰り返しによって存在しているのだ。悪を行うものは堕落し、善を行うものは進歩してゆく。微塵も疑いようがない。もしこの因果の法則が誤りであれば、諸々優れた先人たちが世にお生まれになる事もなければ、達磨大師がインドから中国へ教えを伝える事もない。
筆者のコメント:前段と同じ趣旨ですね。
善悪(ぜんなく)の報に三時あり、一者(ひとつには)順現報受、二者(ふたつには)順次生受、三者(みつには)順後次受、これを三時という、仏祖の道を修習(しゅじゅう)するには、その最初よりこの三時の業報(ごっぽう)の理(ことわり)を効(なら)い験(あきら)むるなり、爾(しか)あらざれば多く錯(あや)まりて邪見に堕つるなり。ただ邪見に堕るのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。
訳:善悪の影響が現れるのには三つの時がある。一つはすぐ現われる時、二つは次の代で現われる時、三つは次の次の代で現われる時だ。仏の教えを学んでいくには、この三つの時を考え、自ら納得しなくてはならない。そうでないと誤った見解に落ちることになる。それだけでなく大きく道を踏み外し、長い苦しみの道を歩む事になりかねない。
筆者のコメント:同上です。
当(まさ)に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、徒(いたずら)に邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん。惜しからざらめや、悪を造(つく)りながら悪に非ずと思い、悪の報(むくい)あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。
訳:まさに知るべきだ。今生きている私はただ一つだということだ。いたずらに誤った見解に落ちて、虚しく悪い行いの報いを受けるのは本当に惜しい事だ。悪い行いをしても悪行だとは思わず、悪の報いなど受けないと誤った考えを持ったとしても、その報いを受けないはずはない。
筆者のコメント:いかがでしょうか。輪廻転生とか、業(ごう)の問題とか、釈迦仏教とはかなり違った思想ですね。むしろそれ以前のヴェーダ信仰に近いものでしょう。とても良い言葉ですが、率直に言って〈修証義〉は、〈正法眼蔵〉のエッセンスなどではありません。浄土宗の〈正信偈〉とほとんど同じで、仏教を学ぶ者の一般的な心得としか言えません。一歩下がっても、仏前で何か唱えなければならいないお経の一つです。こんなことをしていれば日本仏教が衰退するのは当然でしょう。まだしも〈正信偈〉の方には〈南無阿弥陀仏〉という、言霊(ことだま)があり、唱える意味もあろうかというものです。