2)筆者と岩村さんとの対話を興味を持って読んでいただいている方がいらっしゃいますので、その後の展開をご紹介します。たしかに筆者のモノローグより岩村さんとの対話の方が他の読者の皆さんにもわかりやすいかもしれません。岩村さんは臨済宗妙心寺派のしかるべき位置にいた方で、現在は岐阜県の徳林寺住職です。
ちなみに直近の岩村さんのコメントは「塾長は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」でした。
岩村さん:「華厳經」の毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)を全宇宙の主宰者のように説いている仏教書があります。しかし、毘廬遮那仏は如來の等正覚(最高の悟り:筆者)の智慧を象徴しているので、全宇宙の主宰者ではありません。「華厳経」の「毘廬遮那仏」が無限で悠久な宇宙の主宰者だと誤解されそうな経文を探してみました。
・・・如來の等正覺は寂然として恒(つね)に動ぜず、而して能く普(あまね)く身を現じ十方界に遍滿す。譬えば虚空界の如く不生にして亦(また)不滅なり。諸佛の法は是の如く畢竟生滅無し(實叉難陀譯「大方廣佛華嚴經」巻23 T10-122b)・・・。
筆者:岩村さんは「毘廬遮那仏は最高神などではなく、如來の等正覚の智慧の象徴だ」とおっしゃっていますね。よろしいですか。毘廬遮那仏(大日如来)を全宇宙の主宰者とするのは真言密教の基本的理念です。岩村さんが住職をしていらっしゃる徳林寺は真言宗です。いいんでしょうか。後ろから撃たれますよ。
岩村さん:「仏陀」は「真実に目覚めた人、悟った人」を意味していて、飽くまで智慧がある「人」です。だから、塾長が言うような「神」と同一視すべきでは無いと思います 。
筆者:釈迦=仏と考えたことは一度もありません。筆者が言う仏とは、全知全能の神と同義です。ブログを読んでいただければわかります。たしかに釈迦のブッダから仏という言葉が来ていますが・・・。定義の問題です。ついでですが、筆者の定義する神は、八百万の神々(例えば瀬織津姫の神)とはちがいます。
岩村さん:「華嚴經」の編纂者達が意図したかどうかは判りませんが、その後「涅槃經」で「仏身」が「梵(ブラーフマン)」、「仏性」が「我(アートマン)」に見えるように編纂される契機を提供したことは確かでしょう。「華嚴經」の毘廬遮那佛は「如來の等正覺(註1)」のシンボルであることを承知して欲しいと思います。
筆者:岩村さんのおっしゃる「涅槃經で仏身が梵(ブラーフマン)、仏性が我(アートマン)に見えるように編纂される契機を提供した」には驚きます。梵(ブラーフマン)と我(アートマン)は釈迦以前の(以後も)ヴェーダ信仰(ウパニシャッド哲学)の概念であり、仏教思想とはまったく別です。「涅槃經」の編者が採用するはずがありません。これではもうどうしようもありません。岩村さんはよく仏教を勉強していらっしゃる方だと思いますが・・・。筆者の言う「インド哲学の歴史的展開を知るべきだ」とは、このことです。
3)前回、岩村さんは「毘盧遮那仏は宇宙の主宰者(神)ではない」と言っており、
岩村さん:「華厳経」の毘廬遮那仏が無限で悠久な宇宙の主宰者だと誤解されそうな経文を探してみました。それは、
・・・如來の等正覺(最高の悟り:筆者)は寂然として恒に動ぜず、而して能く普(あまね)く身を現じ十方界に遍滿す。譬(たと)えば虚空界の如く不生にして亦不滅なり。諸佛の法は是の如く畢竟(ひっきょう)生滅無し(實叉難陀譯「大方廣佛華嚴經」巻23)・・・です。
岩村さん:「虚空」は無為法(註2)であり、成住壊空(註3、生じ、そして滅する)を繰り返している宇宙がある場所のような概念で、有爲法(註2)全体の様(さま)を表す「空」とは全く異なります。「般若心經」において「不生不滅」は、「無心・無分別・無戯(け)論」を意味し、「不垢不淨、不増不減」と共に「空」の相を言い表す句です。しかし、「華嚴經」における「不生不滅」は「常恒不変(生まれたり滅んだりすることがない絶対的存在)」を意味し、「虚空」の相を言い表す句として用いられています。
前記の経文から「等正覺」の三文字を除くと、毘廬遮那佛が「虚空」のように「全宇宙を内包しているモノ」のように見えます・・・「不生不滅」には全く異なる解釈があり、「空」と「虚空」とは全く異なる概念であることを承知し、「華嚴經」の毘廬遮那佛は「如來の等正覺」のシンボルであることを承知して欲しいと思います。
筆者のコメント:1)前記のように岩村さんは「毘盧遮那仏は最高の悟りの内容である」と考えています。そして「華厳経の毘廬遮那仏が無限で悠久な宇宙の主宰者だと誤解されそうな経文を探してみました」と言っています。しかし、「誤解されそうな経文」ではありません。なぜなら岩村さんは、毘盧遮那仏が宇宙の主宰神であることと、最高の悟りの内容であることとは少しも矛盾しないことを理解していないのです。両者はなんら区別する概念ではありません。つまり、岩村さんは「神(仏)とは」を正しく理解していないのです。これはとても重要なことです。
つづいて岩村さんは「般若心經で言う不生不滅は、無心・無分別・無戯(け)論を意味し、不垢不淨、不増不減と共に「空」の相を言い表す句である。これに対し華嚴經における不生不滅は常恒不変(生まれたり滅んだりすることがない絶対的存在)を意味する」と言っています。
しかし、この解釈もまったくの的外れです。第一に、般若心經で言う不生不滅は、「無心・無分別・無戯(け)論」を指すのではありません。何度もお話しているように、筆者の言う「空」とは、一瞬の体験であり、それゆえ、不生不滅・不垢不淨・不増不減なのです。
さらに、岩村さんの言う「空」とは、長阿含経の「成住壊空(註3)」の「空劫」を指しているのでしょう。「空劫」とは、世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間のことで、「成住壊空」の一部です。これに対し、華嚴經における「空」とは常恒不変、すなわち虚空が絶対不変であることを表す言葉です。両者はまったく異なる概念であり、岩村さんはそれらを混同しているのです。ことほどさように、「空」という概念は、さまざまな経典でそれぞれ違った意味で使われているのです。
註2仏教における無為とは、特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅の存在のこと。逆に、さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象を有為(うい)と言います。また、涅槃のことを無為ということもあります。
註3 長阿含経の概念。世界の成立から破滅に至る時の経過を四つに大別したもの。成劫(じょうこう。生成し)・住劫(続き)・壊劫(えこう。滅する)・空劫。
4)対話は続きます。
岩村さん:塾長の「神」についての論述から連想するのは、西田幾多郎著「善の研究」第二編第十章「実在としての神」の下記の記述です。
・・・宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。…。実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。………。実在の根柢には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度宗教の根本義である様にアートマンとブラハマンとは同一である。神は宇宙の大精神である・・・
岩村:「善の研究」第二編第二章は、「意識現象(直接経験の事実)が唯一の実在である」と記述されているので、上記の「実在」も「意識現象(直接経験の事実)」を指しています。後にそれは、「絶対無の場所」と言い換えられますが、指している事実が変わったとは思えません。
上記の西田博士の提言を「等正覺」内容の表明として見れば何も問題が無いのですが、実在している筈の宇宙や自然や人間社会に立脚すると納得することはできません。
原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・「善の研究」の用語で「諸法は実相である」を解くと、「各自の即今・此処の意識現象(諸法)は現に在る事実(実相:直接経験の事実)である」と、言えます。
筆者:前回もお話したように、岩村さんは毘盧遮那仏が宇宙の主宰神(造物主)であることと、最高の悟りの内容であることとは少しも矛盾しないことを理解していないのです。何度もお話しているように、西田博士の考えは、まさに筆者の言う「空(くう)」思想と同じですね。つまり、・・・見た(聞いた、嗅いだ、味わった、触った)体験(西田博士の言う意識現象・直接経験)こそ真の実在である。そこにはモノという対象も、「私」という主観もない(西田:主観客観の区別を没し)のです。西田幾多郎が鈴木大拙博士の金沢時代からの親友で、「お互いに影響を受けた(鈴木)」ことはよく知られています。すなわち、西田博士の「直接経験」が「空」と同じでも何ら疑問はありません。西田博士は「このモノゴトの観かたは宇宙原理そのものである」と言っているのです。筆者の「神」と何ら異なるところはありません(註4)。
岩村さんはさらに、
・・・原爆とそれによる死傷者、新型コロナウィルスとそれによる感染者や死者について問うのも、高いところから「神」のように観ているだけでは無く、「人」としての見方に戻って衆生済度の道を問う為です・・・決して、この災禍を「仏の姿の現れ」とは言わない筈です・・・
筆者:岩村さんは「神が実在されるなら、なぜこれらの人類の災厄を黙って見ているのか」つまり、「神も仏もあるものか」と言っているのです。宗教者にあるまじき発言ですね。原爆もコロナ禍もまぎれもなく「仏の姿の表われ」なのです。岩村さんは神(仏)についての基本的なことがわかっていません。
神は造物主であると同時に、宇宙原理そのものなのです。西田博士もそう考えています。すなわち、西田博士は、
・・・神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う」と書いています(「善の研究」第四編宗教第二章宗教の本質)。
筆者:「神」は人間を超えながら、同時に私たちの心に内在する。それが西田の「神」の理解です。「……神は我らを助け、我らを保護するというのでは未だ真の宗教ではない。「神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ、我らが神に帰するのはその本に帰するのである」(同前)とも西田は書いています。当然でしょう。造物主であると同時に宇宙原理そのものなのです。
註4 禅の「空」もモノゴトの観かたです。上記のようにそれは西田博士の思想や、カントやヘーゲル、フィヒテなどのおドイツ観念論哲学とも相通じるところがあります。つまり「色即是空」ですね。しかし、禅のすばらしさは、「空即是色」も説いているところにあります。
5)この岩村さんとの対話シリーズを通じて、今さらながら禅はわかったか、わからないかの世界だと思いました。岩村さんとは面識はありません。ネットで調べますと、岩村さんは臨済宗妙心寺派のしかるべき位置にいた方のようです。禅だけではく、仏教の古典から西田哲学もよく勉強していらっしゃいます(恐らく現在の真言宗徳林寺で、法話や座禅会も開いていらっしゃるでしょう)。「高校生の頃から禅に興味を持っていた」とのことですから、60年以上のキャリアだと思います。
しかし、残念ですが、岩村さんの知識はすべてピント外れだと思います。岩村さんは「塾長(筆者のこと)は神や仏に取り憑かれています。眼を覚まして真人間に戻って下さるよう切に願っています」と言っていますが、すべての宗教にはその根底に神(仏)をおいているのです。仏教が例外であるはずがありません。大日如来は宇宙の主催神ですし、浄土宗の言う阿弥陀如来も間違いなく「仏(神)」です。道元も正法眼蔵ではっきりと「仏の元へ投げ入れて・・・」と言っています。法華経の常不軽菩薩の言う「あなたは仏になれる人です」の「仏」とは何なのか、悟りとは「仏と一体化する」でなければ何なのか。これでも仏教の根底にはすべて「仏(神)などない」と言うのでしょうか。
岩村さんは「自分の宗教家としての人生全部を否定された」と思っていらっしゃるかもしれません。そのいらだちが、「神に取り憑かれた塾長と議論した私が愚かでした」などの感情的発言になったのでしょう。しかし、岩村さんは今からやり直しても遅くはないのです。そう思えるかどうかが岩村さんの真価では?
「正法眼蔵・心不可得」に、徳山宣鑑(とくさん・せんかん780-865)の話が出てきます。徳山は広く仏教を学んで律にも精通し、とくに金剛経の研究では群を抜いていたが、彼が生きた時代、南中国で禅宗が盛んになってきた。ところが理論仏教を極めた学僧徳山にとって、禅が標榜する「直指人心、見性成仏。教外別伝、不立文字」の教えは、まったく納得できないものであった。そこで彼は外道を降伏(ごうぶく)しようと、金剛経の注釈書を車に積んで南方へ向けて出発した。しかし、途中の茶店の老婆に言われた言葉がわからなかった。徳山はすぐにその足で、近くに住む竜潭祟信(りゅうたんそうしん)禅師を訪ね、弟子入りした・・・。
次に、「正法眼蔵・渓声山色」の巻には香厳(きょうげん)智閑(?~898)の悟りの契機について紹介されています。
・・・香厳は、大潙(だいい)大円禅師の道場で学んでいた時、「おまえは博識だが、経書の中から覚えたことではなく、父母がまだ生まれない(父母未生)以前のことについて、私に一言いってみなさい」と言われた。しかし彼の知識では何も答えることができず、遂に年来集めた書を燃やし、「絵に描いた餅では飢えを満たせない。私はもう今生に仏法を悟ることを望まない。ただ行粥飯僧(修行僧の食事係)として務めよう」と。しかし、さらに何年たっても悟ることはできず、そこも辞め、「ただ、旧師大證國師の墓守として生きよう」と決心し、師の蹤跡をたづねて武當山に入った。そこである日、道を掃いていると、かわらが飛び散って竹に当たり、「カーン」と響くのを聞いて、からっと仏道を悟った・・・。有名な香厳撃竹のエピソードです。
この二つのエピソードはいずれも「禅はいくら知識があろうと、わかったか、わからないかの世界だ」と言っていますね。徳山も香厳も「わからないのは私が未熟だから」と、あくまでも謙虚さを失わなかったため悟りに達したのです。