筆者が「禅を正しく理解するには仏(神)の視点から見ることが大切だ」と言いましたら、読者のお一人から「納得できない」とのコメントがありました。筆者は「あらゆる宗教は根底に神(仏)を置いている」と思っています。そこで今回は、もう一つの例証を述べます。
宮沢賢治が法華経に強く惹かれ、その作品にも法華経の精神が滲み出ていることはよく知られています。臨終(37歳)に当たって父親から「何か言い残すことはないか」とき聞かれると賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください。『私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますように』ということを書いておいてください」と遺言しました (「兄のトランク」宮沢清六 筑摩書房刊 1991)。
「法華経・常不軽菩薩品第二十」に常不軽(じょうふきょう)菩薩の話が出ています。常不軽菩薩は、出会った誰に対しても、
・・・私はあなたを心から尊敬し、決して軽蔑しません。あなた方は菩薩道を行じさえすれば、やがて必ず仏となることのできる尊い御身であります」と言って礼拝しました。短気の者は馬鹿にされたと思って罵り、また中には杖で打ちかかる人、石や瓦を投げつける人もありました。しかし、この菩薩は決して腹を立てず、怒らず逆らわず、遠く離れて拝み続けたおかげで、遂に六根清浄を得て成仏し、広く法華経を説いて迫害した人々まで全て成仏せしめた・・・
「あらゆる人は仏になれる」と言っているのですね。言うまでもなく法華経の根底には仏(神)があるのです。当然でしょう。
賢治は「雨ニモマケズ」の中で、
・・・ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノトキハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ
・・・
と歌っています。「デクノボー」こそ、賢治が理想とする常不軽菩薩なのです。
筆者のブログを熱心に読んでいただいている読者のお一人は、「神や仏、霊魂の存在を信じろと言われても・・・」と。そのとおりでしょう。新宗教や新々宗教の中には、ずいぶん怪しげな「神」もありますから、それを信じろと言われたら躊躇するのが当然です。
作家の志賀直哉は、とある山道に並んだ石仏を蹴倒したとか。その後、子供を次々に亡くし、自身も電車にはねられ大ケガをしました。心配した夫人が「石仏に謝り、供養したら」と言ったところ、志賀は「そんなことをして悪いことが止まったら、それを信じることになるから」と拒否したとか・・・。
筆者は誰がどう思うと、どんなことをしようと関知しません。逆に、「生命は神によって造られた」と直感した筆者は幸せだと思っています。